今の上司は理屈を尊重するし民主的なタイプだ。メンツとか感情とか興味が満足される方向ではなく、筋が通っている方向を選択しようとするし、当事者の合意を形成しようとするタイプなので、やりやすいと思っている。(自力で理論構築して組織を作るぞ、マネジメントするぞといった、より大きな範囲にまでは至らないところが少し不満とは言え、それは私には見えない何か諸条件によって実行できないだけかもしれない。)
だけどこの前、職場のあるおじさんが「課長に報告すると難癖つけられてひっくり返されたりする。もっと自由にやらせてほしい」というようなことを言ってて、自分の印象とは真逆なのでびっくりした。そう見える人もいるのかと納得しながら、あそこまで自由にやらせるし難癖つけないタイプの人でも部下に陰でこう言われちゃうのかと思うと絶望ってかんじした。
職場でグループ改善活動みたいなのをやってる。1年間の活動で、半年ごとに部全体での発表がある。上期の半分が過ぎたので、この辺でまとめて、ここまでの成果とこれからの方針や予定を課長に報告しないといけないと思うと言った。建前方向から言っても、10人弱の労働者が1年間、結構な時間を使って何かしようというのだから、それは使用者である課長に何をどうするつもりなのか了解を得てなきゃ筋が通らないだろうし、実態方向から言っても、半年ごとの発表は最終的に課長の承認が得られないと通らないのだから今のうちに話を通しておけば、ぎりぎりになってダメ出しされてやり直すよりダメージが少ない。
※ちなみにこうした建前方向、実態方向、という感覚は↓が元になってる。
会社のなかの筋を知る - やしお
その時に、おじさんの「報告するとひっくり返されたりして嫌だ」という愚痴が聞かれた。
たしかに「後からひっくり返される」ということはある。
例えば家に帰ってみると、「ぼくね、ホットケーキ焼いたよ!」って満面の笑みで子供が出てくるとする。食卓にはホットケーキがほかほかしてる。でも台所はむちゃくちゃになっている。夕食前だ。ご飯前にお菓子を食べたらダメって約束してた。それに今から夕食の準備をするのに台所を片付けなきゃいけない。子供はぴっかぴかに笑ってる。どう、一人でこんなにできたよ! と得意げだ。うーん……
これが子供相手なら自尊心を傷つけないことを最優先して、「こんなに上手にできるなんてすごい!」ってよーしよしして一緒に食べるかもしれない。その後で、こういうところもできるようになるともっとサイコーだ、っていう話をするかもしれない。
でも大人だったら? 「課長、ホットケーキを焼きました!」って報告にくる。「なぜ?」と聞いたら「お腹がすいていた」という課題があったためだという。「夕食前だけど、大丈夫ですか?」と聞くと「え?」という。不安になって「夕食前にはお菓子類は食べないという内部ルールに対しては解決しましたか?」、「これから夕食の支度が始まるので台所装置を空けておかないとまずいと思うけど、きちんと片付けは済みましたか?」と念のため確認していったらボロボロだった。「でもお腹がすいていたんですよ!」という。
だったらやる前に相談して下さい。「お腹がすいていた」という課題に対して取り得る手段はまだいろいろありますよ。とにかくもう夕飯前なのでホットケーキを食べるのは中止して下さい。そんな指示をする。
本人は(せっかく俺がこんなに苦労してホットケーキを作ったのに、それを今更食べるなって言うんだから!)という不満をため込んで、「課長は後からひっくり返す、もっと自由にやらせてほしい!」という印象になるんだとしたら、あんまりにも上司かわいそうじゃね?
あるいは、「お腹すいたんでホットケーキ作って食べます」という話に最初はOKしたかもしれない。でも後から実は別の部署があのホットケーキミックスを明後日に使用する予定だったと判明する。それで「ホットケーキは作らないで」と言う。「うちの課長、最初は作っていいって行ったくせに、後からやめろって言うんだからもう!」という印象になる。
より広い範囲で状況を確認したら最適手じゃなかったから否定したとか、情報が増えたりして条件が変わったから導かれる結論も変わったとか、それなりに合理性がある話でも、その合理性が見えなければ「上司にひっくり返された」という形だけしか見えない。納得できない顔をして「上司がダメって言うから」とあきらめて受け入れる。広い範囲で見てみると上司の方がより正しくなっていても、広い範囲で見られなければ「お腹すいてるのになんで!?」ってなる。
かわいそうなあたしの上司。
だとしたら上司が「どうしてそういう判断になるのか」という理屈を、きちんと丁寧に説明して相手が納得できるようにすればいい。というのは正しいと思うけれど、「理屈上、正しく結論を導けること」と「それを他人が理解できる形で説明できること」にはかなりの距離があるという事実を忘れてるから気軽にそういうことが言える。考えることというのは、大量の省略の上に成り立っているけれど、その省略を説明するのが大変なのだ。
例えば将棋のプロ棋士は全ての組合せを考えているわけじゃない。「この方向はない」と「知っている」ものについては捨てて、可能性のある方向性についてだけリソースを割いて検討している。「この形に入っちゃうと確実にこっちが死ぬ」と研究済みで既知の定跡・手筋については検討を省略する。あるいは完全に検討済みでなくても、経験や知識の積層から、可能性が低そうな気がする手は捨てる。そんなことをほとんど無意識にやっている。
他人がわかるレベルで理屈を説明するというのは、一体自分が何を無意識に省略しているのかを改めて把握し直さないといけない。またその省略した部分の正しさを改めて説明しないといけない。しかしこの自分が捨てているものを把握し直すというのが案外難しいのだ。もう一度広く根っこに立ち返って自分の理屈を見返さないとわからない。「結論を導けること」ができる人でも、「その結論の位置づけを一から説明すること」ができるとは限らない。(時間がかかるしめんどくさくてやってられない、ってこともあるだろうし。)
別に上司が説明してくれなくても、こっちでぱらぱらと出てくる結論や条件から逆算して、理論体系を構築してその無謬性や妥当性を判断できればそれでいい。だけどそれができない人にとっては、「後からひっくり返してもう!」って見えてしまう。
たしかにおかしな理屈や気まぐれでひっくり返しちゃうタイプの人もいるけど、そうでなくちゃんと正しい理屈でひっくり返してる人まで、そうやって一緒くたに嫌われてるんだなと思うと、あたし哀しくなっちゃってさ。
ところでおかしなひっくり返し方をする上司って、たいがい理屈はなんか正しいけど、全体で見るとおかしなことを言ってる、みたいな感じの方が多い気がする。(理屈がむちゃくちゃだとさすがに上司になるのが難しい。)無謬性については問題ないけど、妥当性がおかしいというパターン。以前↓
「間違っている」という指摘の位置づけ - やしお
で正しさには無謬性と妥当性があるという話を書いた。無謬性が確保されていなければ「間違っています」と言えるのでまだ楽だけど、無謬性は確保できているけど妥当性に欠けている時は「あなたの話は確かに(ある範囲では)正しいかもしれませんが、もっと広く見た時に最適になっていません」っていう指摘になるからすごくしんどい。
「あの、確かにそうなんですが、でもそうではなくてですね」「はあ? そうだってお前も認めたんだろ。だったらそうしろ」ってなる。「局所的には合ってる」を否定するのはものすごく体力を消耗する。こういう上司はかわいそうじゃないよ。控えめに言って棒でたたいたほうがいい。