やしお

ふつうの会社員の日記です。

定年後の世界の体験版

 会社の夏休みで9連休だった。今回は地元にも帰らず、旅行もしなかった。(電車にも乗ってない。バスで映画館に行ったくらい。)
 このまま独身で家族もなくて退職したらどんな生活なんだろうと以前から気になっていたので少しでも体験してみようと思って。だいぶいろいろわかった。およそ想像どおりだったけど実感としてわかったのがよかった。

  • 朝一でその日にやることを書き出して、そのリストをチェックしていった。ほとんど職場と変わらない。今回に限らず特にイベントのない休日はだいたいそうしている。昔は「予定に縛られずに過ごすことが休日だ」という思い込みがあったけれど最近は、予定を決めてこなす方が、だらだらiPad見てたら一日終わって自己嫌悪で苦しくなるよりずっと精神衛生にいいということに気づいた。結局、意味(目的)という制度に縛られて逃れることは難しいからだ。
  • そのやり方で読書、英語のお勉強、映画を見る、筋トレといったことはふだんより多くできて満足。
  • 一方で書き物がふだんよりあまり進まなかった。いつもは通勤中とか退勤後にマックでとか人のいる中で他事のできない環境で支えていたのが、家のPCだとついマインスイーパやブラウザに手が伸びたりする。集中しているときは関係ないけどそうでないと難しい。他事のできない作業用のアカウントを作ったらそこそこ改善できた。
  • 就寝・起床時間が不安定なのが体によくない。意図しない昼寝→眠くないので寝るのが遅くなる→でも勝手に7時に目が覚める→眠たくて活動が悪くなる→昼寝→……のパターンで壊れていく。何時に起きる、どこそこ(マックとかコメダとか)に移動する、帰宅する、1時間だけ昼寝といったルーチンを、例えば夕方前くらいまで固定しないとかなり難しいと思った。
  • 9日間で友人に二人会った。時々他人と話をしないとちょっと変な感じになる。でもツイッターとかブログとかでなんとなく「他人が自分の話を聞いてくれてる」っていう気にさせてくれるのはとても精神衛生にいい。これがなくて独身独居で地域住民との繋がりもなく友人もないのならとてもしんどいだろうなと思った。インターネットに救済されている。
  • もし定年を迎えた後にこんな風に過ごせたら最高だと思った。でもこれは当たり前に成立することでは全然ない。健康であること、会って話せる友人が少しはいること、経済的な不安がないこと、といった条件が揃っていないと成り立たない。自分が定年を迎える30年後(そのころは40年後かもしれない)まで会社が何事もなく存在しているなんてまるで信じられない。せいぜい今からできる範囲で準備するしかない。
  • 普段は職場で、大小いろんな目的を他人と共有して物事を進めたりこなしたりしている。そういうゲームはすごく気持ちいいものだったんだなと、一旦消した生活をしてみて気付いた。細かく刺激的だったんだ。何か具体的な問題をどう解決しようか考えてそれを具現化させたりするのを小さく繰り返していくのは、例えば歩いたり軽い運動をして気持ちいいみたいな感じで気持ちいいことだったんだと思った。定年延長する人の気が実感として理解できた気がした。
  • 今仕事もせず一人で暮らしている母親はどんな感じなんだろうと改めて思った。もう死んでしまったけど、一人で暮らしてた父親はどうだったんだろうと思った。嘘でもいいから(というより嘘と本当の区別がない、主観的な選択でしかない)やることを見いだして毎日の自分を納得させていかないと厳しいと思った。


 なんかね、こういう話をすると(意識高いやつだなあ)って嫌な顔する人いるからあんまし喋らないようにしてる。
 人は何をしても、何をしなくてもいいはずだ。「人生には目的があるはずだ」なんて思い込んでるだけだ、疑いもしないでわかったような口をきくな。「意識高い系」への不快さってこんな感じかと思う。そこはその通りだ。ただ、現実的にどうしても無視できない条件が他にあるということを見落としている。
 「<この自分には価値がある>と思いたがること」(=自尊心を満たすこと)から逃れるのはかなり難しい。ひょっとしたら仏教(密教?)の修行とかで何とかなるかもしれないけど、そこに賭けるだけの確信も現実的な時間もない。だったらこれを所与の条件として受け入れて組み立てることを考える。
 「自尊心を満たす」というのは結構難しい。「俺はすごいぞ!」と自分一人で言ったところで、他人からの承認もなく、自分自身がそれを信じられずに不安になる。その不安を解消させるために、むやみにアピールを繰り返したり、他人を貶めて自分の優位をなんとか確認しようとする(嫌韓とかブコメとか)。そんな自分を見つけてますます惨めになる。そうならないようにするにはどうすればいいのか。他人が十分に肯定できるレベルで、自分自身が十分に納得できるレベルで、実体的に自己の出力の水準を上げないといけない。少なくとも自分が水準を上げつつあると自分で思えないといけない。出力の水準を上げるためには入力の水準をどうしても上げないといけない……
 そんな流れで、「勉強しよう」「目的に向かってちょっとずつ進もう」という「意識高い人」っぽいことになっている。箇条書きの中で「結局、意味(目的)という制度に縛られて逃れることは難しい」とか、「嘘でもいいから(というより嘘と本当の区別がない、主観的な選択でしかない)やることを見いだして毎日の自分を納得させていかないと厳しい」とかいうのはその辺のことを言っている。そうするのが当然だからと思い込んでそうしてるわけじゃなくて、ある条件下でもう切実にそうせざるを得ないからそうしている。
 あの一日だらだらしてしまって夜になってから「あー、今日何もやってない」って自己嫌悪になるあの感じが、人生全体の規模で50歳、60歳、70歳なんかに襲ってくるのだとしたら耐えられない、という恐怖に突き動かされて、毎日こつこつやってるんだろうという気がしている。