やしお

ふつうの会社員の日記です。

学生ストーカーつらすぎる

 今学生に戻りたいかって言われたら、もう絶対お断りだよ。こんなにSNSが普及してるの見ると、想像するだけでもう絶対に耐えられない。ライトなストーカーを製造するあの環境に、学生だった頃の自分が巻き込まれてたら、もうひとたまりもなかったと思う。


 フェイスブックツイッター、ラインでみんな楽しそうに遊んでる様子を文章や写真で見せてくる。好きな子がいたらどうしたって、(どうしてるのかな)と思って見てしまう。クラスの、サークルの、バイトの、塾の、いろんな知ってる人や知らない人とその子が楽しそうにしている。そこに自分はいないという現実を突きつけられながらむなしく見続けるんだよ。
 もし10時間、20時間としばらく何も投稿がなかったとしたら? その間、(どうしてるんだろ)ともやもやしながら何度もアクセスして更新ボタンを押すんだろうか。途絶える前の投稿を何度も読み返して何かヒントがないかを探したりする。そして一緒にいそうな相手のアカウントも見に行ってまたヒントを探す。勝手に悪い想像をめぐらせて苦しくなる。
 案外みんな自撮りをアップしなかったりする。それで周辺の友人のアカウントもクローリングしていく。好きな子が楽しそうな写真を見つければつらい気持ちになるとわかっているのに、ないことを期待しながら真剣に探していく。それは別に片想いの相手に限らず「親友」とかでも同じだろう。
 あるいはお出かけしていて写真も出しているのに、誰と行ったのかをかたくなに隠しているなんてこともある。思わせぶりに「今日は記念日」とだけ書いて、何の記念日だか明言しない。こうしてまたあてどもない想像で苦しめられる。
 では一方でもっとあからさまになっていればどうか。ツイッターにはカップル共同アカウントなんかもある。むりむり。だって好きな子が別の人といちゃついてんのダイレクトに見せられるんでしょ。セックスの気配をどうしようもなく感じ取って。どうやって耐えるっていうの。


 SNS疲れなんて散々テレビでも言われてきた。でもあまりちゃんと考えてなかったので、あらためて真剣に想像してみたらちょっと耐えられないくらいつらい世界だと思った。もうライトなストーカーを標準的に産出するような土壌があってそこに生きざるを得ないのならあんまりだ。彼らがそんな世界にいるんだとしたらもう、神様、あんまりだ。
 一年ほど前に書いたこれを思い出して、軽く読み返してみた。
  ストーカーへ続く道を、入り口で引き返す - やしお
 ここでは「ストーカーは悪意や快楽から意識的にそういう行為を選択しているのではない。相手の感情を確かめたい不安を、間接的な証拠集めで埋めようとしてますます不安になる蟻地獄の中で、這い出そうともがくことがストーキングという行為なのだ」といったようなことを書いていた。この「間接的な証拠集め」を低コスト低リスクでできる環境が今は整えられている。別に法律に抵触しなくても、物理的な労力をかけなくても、手を伸ばせばすぐそこにもうある。そうしてライトなストーカーに、本人も自覚しないまま既になってしまう。
 10年前の自分を考えると、もっと一方的に現実に振り回されていた。現実を自分でアレンジできるはずだという確信も、またそのために事態を丁寧に分析できる能力も、今と比べればあまりに非力で現実に振り回されていた。今なら優先順位を決めて大事のために小事を捨てる、精神衛生に悪いならそんなものは辞める、という割り切り方ができるかもしれないことの多くも、当時は所与の、固定的な条件として見なして捨てられずにいただろうと思う。もしそんな自分が、SNSがこんなにあられもなくはびこる環境に放り込まれたら耐えられない。かつてのmixiの「足あとがついちゃう」という抑止力もない。


 といったことを書きながら、これって「そんな環境はなかった」を土台にした上で、「その環境が追加されたらつらいだろうな」という言い方をしている。「ないこと」を前提とした物言いであって、「最初から当たり前のものとしてある」という前提を据えて構築した想像にはなっていない。なるほど、これがおっさんの視点かと腑に落ちた。最初からそれが当然視されて疑いようもなく存在している世界においては、はるかに上手く適応して、適度な距離を保つすべをみんなとっくに身につけているのかもしれないし、ある種の適応の後ではそもそもそんなところは問題ではなく別の箇所でもっと齟齬が起きていたりするかもしれない。
 かえって無防備なおっさんおばさんがふいに若い人のそうした世界に巻き込まれると、簡単にライトなストーカーに嵌って抜け出せなくなったりするかもしれない。大学教員が学生に振り回されるやつみたいな。