やしお

ふつうの会社員の日記です。

大西巨人『神聖喜劇(四)』

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物語の推進、キャラクターの補強、背景の構築に、その過剰さでかえって献身しない引用が、無視できない分量で本作を占めていく。解説で作中の時間、特に引用による停滞が語られて嬉しかったけどまだ不十分だ。その時間への機能面で片付けきれない過剰さ。引用の意味内容を掬い上げてこの「テクスト的な現実」がこの小説とどう関係を取り結ぶかを語る言説を見たことがない。宙に浮いていると断言しようとすれば作中人物との血縁知縁が邪魔をし、作品と結びつけようとすると諸要素を拒絶するように存在して、語るのが極めて困難で本当に魅力的なんだ。


 特に幕末期・明治初期の国文学者がたくさん引用されていくけど、物語を進めないし、「そういうことを知ってるタイプの人」と作中人物のキャラ付けをするにはあまりに引用が多すぎるし、時代背景を構築するといっても作中の時代とは隔たってるし、だからこの引用は作品と直接関係ない、せいぜい時間を停滞させたりするのに機能しているだけだ、と片付けようとすると、でも実際に東堂太郎の父や祖父、生源寺の父や祖父、あるいは彼らの親戚、知人とかとの関係性が語られたりもして、それにそもそも、確かに意味を持った何事かが語られていて(局所的には当然何を言っているのかは明白だ)、それが紛れもなく作品を現に構成しているという事実が突きつけられてくるので、どっちとも付けずに、語るのがすごく難しいんだよ。確かに書かれている、でもどうしてそれがここに現にこう書かれているのかがわからない。語ろうとするとすぐ嘘になってしまう。この小説が捕まえようとするとするする逃げていっちゃう。そういう感覚を抱かせてくれると(ああ、本当にいい小説だなあ)って思えるよ。


 これ教養小説っぽい面もあって、東堂太郎が反抗しようというのは最初っからそうだったわけじゃなくて、1ヶ月かけて色々な出来事や思考を通じて、もうそうせざるを得ないという形で決心させてくる。もともとはそういうのを捨てましょう、「兵士になること」というここでいったんゲートをくぐって死者になりましょう、みたいな感じの認識でいたのに、どうもそこは捨てることが自分には許されていないらしい、といわば至上命令として自身に働いていると自覚されていく。ゲートをくぐるなんてまるで机上の空論、現実はそんなのなくて全く連続なんだ、みたいな自覚。それでこの小説を「主人公がルールを盾に反抗していく小説」と思っちゃうとそこが消えてしまう。


 野砲の教練のシーン、ほとんど何やってんのかわかんない。事細かに装置の名称や配置、各員の動作が説明されていくんだけど、実はそれによってかえってわからないという。それでも、何かが達成されると(この巻だと大前田によって無茶な指定をされて、でも東堂が運も手伝って寸分たがわず合わせる場面)やっぱり気持ちいい。
 ここの「わからない」というのはもう少しきちんと言うと、せいぜい「視覚的イメージを構築しづらい」という程度の意味しかない。それだから、「視覚的イメージを読者が構築できるように言葉が組織されていなければならない」というテーゼ(か思い込み)を捨ててみれば、別にこれでいいんじゃないか、この方がむしろ言葉のシーケンシャルな連なりっていう小説の基本的な性質が生々しく出てきて魅力的なんじゃないかという気がしてくる。
 今まで自分の価値観だと、基本的には読み手にイメージを喚起させていく大きな方針(一般法)が横たわっていて、しかし他の優先事項ややりたいこと(特別法)がある場合はそちらを優先する、その特別法に抵触しない範囲で最大限イメージしやすく言葉を組織した方がいい、と何となく思ってたけど、ちょっとそうじゃないかもね、そうじゃない方がいいかもねと改めて思った。


神聖喜劇〈第4巻〉 (光文社文庫)

神聖喜劇〈第4巻〉 (光文社文庫)