やしお

ふつうの会社員の日記です。

柄谷行人『柄谷行人インタヴューズ2002-2013』

http://bookmeter.com/cmt/50057304

フロイトの「抑圧されたものの回帰」がどんな力で起こるのかようやく腑に落ちた気がした。あるシステムが別のシステムに抑圧されて移行する。その後生じるシステムへの異議申し立て、批評が抑圧されたものを回帰させる力になる。異議申し立てをする当人が意識的だろうとなかろうと、現行システムへの批評なのだから自然にそうなる。但し抑圧を解消させる以上かつてのシステムその物ではない=高次の回復になる。普遍宗教は現行システムへの異議として発生するから、互酬性が資本主義の後で回復される際には普遍宗教の形で出てくるだろう、って感じ。


 現状、交換様式Cが支配的なシステムの世の中になっている。そのあと交換様式Aが高次で回復され、それが交換様式Dである。という話が柄谷行人の『世界史の構造』をはじめ、その後の著作でも繰り返し語られていく。この「高次で回復される」というのが今までよくわからなかったの。そこでいつもフロイトの「抑圧されたものの回帰」というはなしが援用される。抑圧されたものは必ず後から戻ってくる、しかもそれは何か神による至上命令みたいな形で戻ってくる、と柄谷行人は語るけど、それがいったいどういうことなのかうまくイメージできなかった。本書でその辺があっちこっちで何度も語られていて、その中でようやくイメージが多少できるようになってきた。たぶんまだちゃんとしてないから、自分の中で今後も修正されてくるんだろうけど。


 何かしら現行システムがあってそれに対するカウンター=批評が絶えず出てくる。現行システムがある別のシステムを抑圧した上で成立したようなものであるなら、そのカウンターはちょうどその被抑圧物の回帰という形になってくる。
 その批評をしている当人の意識とはあまり関係がない。別に本人には被抑圧物を回復させようという自意識がなくても、どうしたって、それが妥当性のある批評であればあるほど、その現行システムが抑圧しているなにかを嗅ぎとることになるのだから、自然と被抑圧物の回復に帰結していく。神からの至上命令のような形で強制されてくるというのは、どうしたってシステムに対して妥当性と無謬性を備えた批評を真摯にやれば、「もうそれはそうとしか思われない」ようなあり方に入っていくので、それはもはや「どうしてそうするのか?」という問いに対して「とにかくそうだから」もしくは「神がそう命じるから」という言い方になってくる、ということかもしれない。
 それから批評とは言語による表現に限らない。なにか運動や実践がそのまま現行システムの批評を意味していることもある。もはや本人の意識としては、批評をしているというつもりすらなく、たんに今の世の中だと生きづらいので、もう少し生きやすいようにしている、くらいの気持ちしかないかもしれない。
 また被抑圧物を回復するといっても、それは被抑圧物そのものをそっくりそのまま復活させるということにはならない。仮にそうしようとしたところで、当然それは、現行システムによって再度抑圧されるだけに終わるはずだ。それだから、現行システムに対抗できるようなものとして回復される。それが「高次の回復」と呼ばれるものだ。
 そして、現行システムに対する批評や実践、運動というのはまさに普遍宗教の始まりの点そのものだ。ブッダにしろキリストにしろ老子にしろ、別に新しい宗教を打ち立てようという意識を持っていた人たちではない。ただ現行システムを批判して、新しいあり方を説いていただけだ。その後で別の人達によって宗教という形でまとめられた。それで「抑圧されたものの回帰」、「高次の回復」は、普遍宗教として現れる、という認識。