やしお

ふつうの会社員の日記です。

友人に金貸しちゃダメってこと 2

 友達にお金を貸しちゃダメって話は誰もが言う。だけど、その仕組みをきちんと説明してくれた人はこれまでいなかった。仕組みをちゃんとわかってる人が少ないんじゃないか。「お金のトラブルになっちゃうと友情が壊れちゃうからね」って、そんな理解じゃぜんぜん浅いんだよ。そうじゃない。「お金のトラブルになっちゃうと」じゃない、そんな途中からの話じゃなくて、もう第一手目からこの終局が導かれてるんだよ。
 これね。ようやく私理解しました。友人にお金を貸してすんなり返ってこないって事態が構造的に不可避だってこと、二人目を経験してみてもうすっかり理解しました。


返済をせまると怒る

 お金貸した友達の二人ともが、そろって判を押したように、返済をお願いすると怒りだしたんだよ。こっち側から見るとほとんど逆ギレとしか映らないこの全く同じ反応を、全く別人が示したんだ。あ、これは何か共通の構造があるんだと思った。
 で、二人目の人が「返済意思がない相手に要求するなら納得ですが、返済意思はあるのであまりにしつこいと恐喝です。」と私に書いてよこしてきたのを見て、ああ、やっぱりそうかと思った。
 一人目のときに、このブログでこんなこと書いたんだったってことを思い出した。

 督促されると怒る。「ちゃんと払うってば」と苛立ちを露にする。これは借金を重ねる人に広く共通する特徴なのではないかと(サンプル数1なのに)思っている。
 一瞬、貸し手としては(どうして借りている方が怒るのかな)と面食らうが、これはこう考えれば容易に理解できる。
 彼にとって督促は、支払う意思を疑われたものと感じて反発している。特に支払いが迫っているとき、遅れているとき、しかし払えるあてがないとき、当人にとって気が重く、罪悪感を覚え、苦痛を感じている。その状態で督促されると、「どうして自分は苦しんでいるのに、なお責められなければいけないのか」という被害意識をほとんど自覚なしに感じてしまう。それが苛立ち・反発として表出する。

友人に金を貸す話 - やしお


 うん。サンプル数1で推定してたことがまるっきりサンプル2でも当てはまっていたよ、と10ヶ月前の自分に言いたい。まさかサンプル数が2になるなんて現実を、あのときは想像もしていなかった自分に言いたい。
 そのサンプル1で推定していたことが、サンプル2ではっきり相手からの言明を見て確信できました。


返済の意思+計画がセットで必要なのに

 そして同じ記事で続けて、こう書いていた。

 恐らく、借金を重ねないタイプの人はそんなとき、そうした感情的な反発をあまり見せないのではないか。そんな人にとって督促は、返済の主観的な意思を問われているのではなく、返済の客観的な計画を問われているのだと感じている。それだから、払う・払えないにかかわらず、具体的で実効性のあるプランとして提示し、相手を納得させようとするのではないか。

(同前)


 二人目に「あまりにしつこいと恐喝です。」と不穏当なことを書かれていたのは、実はここに由来する。
 私の側には、「借金を支払う意思については私にとってどうでもいいことで、あなたが実際に返済するのかどうかが問題なのだ」という認識がある。「あなたの内面ではなく、あなたの言動が大切なのだ(他人から見えない内面より、他人から見える言動の方が決定的に重要だ)」という認識だ。だから、私は「返済の具体的で実効性のあるプラン」がお互いの合意を得て確定されるまでは、せめて予定だけでも決まるまでは、相手のリアクションを求め続けることになる。
 しかし「返済意思があること」だけを示せば終わりという認識の相手にしてみたら「どうして俺はちゃんと返すって言ってるのにしつこく聞いてくるんだ」という見え方になる。私がその意思を疑い続けているだけにしか見えない。もう少し踏み込んで言うとこれは、「言動は意思によって自動的に導かれるものだ」という認識が底に横たわっている。
 この齟齬があるせいで、相手は返事をしてくれないし、こっちは聞き続けるし、という地獄みたいな状態になる。


内面と言動の、主従関係に対する意識の差

 しかもこの認識の齟齬はもっと根本的にたいへんなんだよ。
 「内面は関係なく、言動が大事」という認識の人にとっては、内面と言動は分離されている。だから言動が批判されたとしても、それは内面(その人そのもの)への批判をただちに意味するわけではない、と考えている。(感情的にはそこまで割り切れてなくても、意識的にはそういう見方ができる。)だから私にとっては、「金かえして」とお願いすることと、「あなたのことを嫌っているわけではない」ということは、全く矛盾せずに同時に成立する。単に借金返済はお互いにとって解決すべき課題というだけで、別に相手を責めたり敵対的な感情を持つ必要もないし、むしろそれは全く有害だと思っている。
 ところが「言動は意思によって自動的に導かれるものだ」という認識の人にとっては、そうならない。「金返せ」と言われたら「意思を疑われている」と思うし、「こいつは俺を責めている」と感じられてしまう。課題の処理と、感情の問題が、不可分になっている。
 たぶん2つのタイプにばっさり分かれるっていうより、そういう傾向があるんだろうってだけだけどね。感情と言動がどのくらい独立していると認識しているかの違いがある。


 もう少し正確に言うと、感情⇒言動 という一方通行で影響を及ぼしているという認識なのか、感情⇔言動 という双方向的に影響を及ぼしあうものだという認識なのかの違いだ。これ、前者の認識だと、「もう感情がこうなんだから仕方ないだろ」ということになって言動のコントロール範囲が狭くなる。一方で、後者の認識、言動は感情から影響を受けるだけでなく逆に感情に影響を与えるという認識だと、「じゃあ言動を変えることで感情もコントロールするか」となって範囲が広く取れる。


 そういえばお金を借りるときも、「こういうのは口座振り込みじゃなくて直接手渡しじゃないと申し訳ないから」と奇妙に二人とも同じことを言っていたのをふと思い出した。そのときは(えっなんで?)と思いながら「いや、お互い口座に振り込む方が楽だからそうさせてよ」と何度か言ってようやく了承してもらった。(どうして貸す方にわざわざ面倒をかけさせようとするんだろ)と思いながらただそのときは不思議に思ってただけだった。この辺も感情優位か言動優位かの認識の差が表れているのかもしれない。


支出のコントロールができないタイプ

 私から見て二人とも、どうしても支出がコントロールできていないように見えた。二人とも貯金はほとんどないそうだ。収入に対して支出が多すぎるようだった。これも感情優位の認識から考えれば納得がいくように思える。
 感情によって言動が規定されるのは当然だ、という認識からすると、「自分がこうしたいと思う」という欲望はそのまま正当化される。この欲望は「自然」とか「本能」だから仕方がないのだという諦念がある。
 そんなことをもし本人に言えば「そんなことないよ。ちゃんと出費をコントロールしているよ」と反論すると思う。もちろん収入の範囲内でバランスを取ろうとはしているけれど、いつも手元にあるお金の目いっぱいを使っちゃうから貯金もないんだ。どうしても彼らは、「言動から感情を逆にコントロールできる」と見なしている人たちと比べると、最後の最後で「しょうがないよね、だって欲しいんだから」という方向へ流れる傾向が強いんだ。
 いや、こつこつやろうと思って、実際にこつこつ始める。だけどどうしても、その「こつこつ」が欲望を無理やり抑圧した形でしかやれない。それだから長く続けることができない。嫌なことを楽しいことに変えるってことに慣れてない。
 自分の欲望なんてほとんど信じてない、簡単に消えたり現れたりするし自分で操作することだってできると思ってる人、言動を出発点にして感情に折り合いがつけられるのに慣れた人に比べると、最後に欲望に流されるってことがずっと多い。


絶対に、お金を貸すとダメになる構造

 友達にお金を貸す/返してもらうという構造を考えると、ほとんど不可避的にカタストロフィを帰結してしまう。


 「友達に借金を頼むタイプの人」というのは、貯金がない人だ。何か突発的な(それはそれとして本人に非のない)出費が発生したときに、それを吸収できるバッファ=貯金がないから、その突発的な出費を借金で埋めざるを得なくなる。
 そして貯金ができないというのはとりもなおさず、返済も難しいということだ。こつこつ貯金することと、こつこつ返済することは、全く同じ行為だからだ。自分で自分の内面・感情・欲望をコントロールして、手元にあるお金から毎月機械的に一定額を取り分けていくことができない。それにそもそも貯金がないのだから、また別の突発的な出費が発生したらアウトだ。計画的に返すということが難しい。


 そして「友達に借金を頼まれるタイプの人」というのは、貯金がある人だ。突発的な出費で自分の生活が揺らがない程度にバッファを準備しているから、困っている友人に貸すことができる。こつこつ貯金できるというのは、自分の感情や欲望はコントロール可能だという確信が根本にあるからじゃないか。(よほど親から莫大な資産を受け継いだとかじゃなければ。)
 そしてそういうタイプの人の方が、今の社会だとどちらかというとそもそも収入も多い傾向にあるんじゃないだろうか。感情や欲望はコントロール可能だ、という確信があると、大きな目標に向かってこつこつ何かをしようと実行することがしやすい。それだと今の社会だと学力を上げたり収入の多い職業についたりなんだりするのに有利なんじゃないか。(そういう面で有利、ということとその人の魅力がどうかというのは自ずと別の話だ。)


 そんなわけで、「友達に借金を頼まれるタイプの人」が、「友達に借金を頼むタイプの人」にお金を貸すと、もう川の流れのように自然に、そして返済が滞るようになる。そうなると返済を督促することになる。
 そしたらあの光景だよ。あの悲しむべき光景が訪れるんだよ。
 返済を迫られて、借りた方の人は「返済の意思」を疑われたと思って怒り出すんだ。でも貸した方の人は「返済の意思」だけ見せられてもダメで、「返済の計画」を決めなきゃぜんぜん不十分だから、「そうじゃないよ、返済計画が必要なんだよ」とお願いすることになる。だけど借りた方は、「意思から自動的に行為が導かれる」と確信している人なのだから「返済計画もないとダメ」ということがついに感覚的に納得できない。


「返してよ」
「返すって言ってんじゃんか」
「だから具体的に返す予定を約束してくれなきゃダメだってば」
「はあ? こっちは返すってちゃんと言ってんのになんで信用してくれないんだよ」
「信用してないとかじゃなくて、どうやって返してくのか計画がいるんだって」
「だからそれが信用してないってことでしょ」
……


 もう想像するだけで悲しくなる。
 いや、私自身は上のようなやり取りをしたってわけじゃない。だけど2人経験してみて、こうやって内在的な論理をあれこれ想像してみると、ごく自然にこうした場面が導かれる。
 どういうタイプの人が友人にお金を借りるのか/貸すのか、という出発点から考えてみると、もう最初っからこの悲しい場面に向かって歩みを進めているようにしか見えない。


やっぱ友達にお金を貸しちゃいけない

 ヤフー知恵袋とかで、友人関係の金のトラブルの相談で、「お金を貸すあなたも悪いんです」とか分かった風な口を利くボケどもが何人も連なってるのとか見るとお前らは本当に何も分かっちゃいないなと腹が立ってくる。全員並べてハリセンで叩いた方がいいです。友人がだよ。俺にとって好きな人がだよ。目の前で困ってんだよ。しかもそれを助ける能力が十分に自分にあったら、それで、助けないなんてことができるのか? それを本当に自分で経験したことがないからそういうことが平気な顔して言えるんだよ、ああいう連中は。ここまで書いたような、その友人同士のタイプがもたらす構造についても、まるで真剣に考えたこともないくせに、単に「友達にお金を貸すな」とお母さんにでも昔聞いたことをそのまま口から垂れ流して自分は高みの見物でいい気になっている恥知らずな連中。


 さて、そうは言っても、お金を貸したらカタストロフィが自動的にやってくる。だけどこの目の前の愛すべき友人に貸さないってこともできない。じゃあどうするんだ。
 もうあげるしかないんだよ。最初から、お金をあげちゃうんだ。気にしなくていい額を。
 誰だって、人にお金を貸す時には「まあ最悪これくらいならバックれられても、諦めがつく額だな」と思って渡してる。自分の生活が困るような額なんて全然貸してない。だけど、実際に返してくれないってことがわかると、その金額が惜しいとかじゃなくて、二人でした約束はきちんと果たしてほしい(それかきちんと二人で約束を更改したい)、勝手に反故にされっぱなしなんて嫌だ、という気持ちが残って、どうしても返済計画を迫らずにはいられないのだ。
 相手がもういちばん最初っから「どうしても返せそうにない。これから先返すあてもない。自分はこういうタイプの人間で、今まで努力したけどどうしてもお金をコントロールできそうにない。どうしよう」なんて相談してくれれば、こっちだって一緒にぽろぽろ泣きながら、じゃあ貸してたそのお金はあげようって楽に言えるのにな。(もともとたいした額じゃないし。)
 だけど、「返す気はあるのにしつこく言うな!」なんて言われちゃったらどうしようもない。


 だから、最初っからあげちゃうんだよ。貸しちゃだめなんだ。
 たったそれだけのことが、2人も経験してみなきゃわかんなかったんだよ。おれは。


今でもべつに嫌いじゃないんだ

 きっと、仮に本人がこれを読んだとしたら、「俺のことを批判している」という風に見えるだろう。だけどこれはたんに、「そういう構造があるっぽい」というだけの話に過ぎない。
 「ある人が(あなたが)そういう構造の中にいる」ということは、なにか改善すべき事項にはなり得たとしても、別に感情的になるような話でも何でもない。でもそこが最終的にわかってもらえないのかもしれないと思うと、ほとんど絶望的な気持ちになる。
 今でも二人とも魅力的な人だったと掛け値なしに思ってる。それは終わりがどんなでも関係ないんだよ。


 二人目との関係性はもう現状、ほとんどめちゃくちゃになってるけど、一人目の人とはまだ友人関係をちゃんと維持していて、あたらしい返済計画も立てて、それが有効なのか今は楽しみに見ているって感じだ。もし上手くいかなくてもまたやり直せる。それは当然相手の忍耐や努力もあってのことだ。まるで感謝しかない。ちゃんと機会を見つけて、君の努力はとてもすばらしいしうれしいということをはっきり伝えているし、これからもそうしていかないとだめだ。
 だけど、ねえ、その二人目の人が、もう……完全に敵対意識を持っていて……どれだけ手を差し出しても振り払われ続けている……もう疲れた…………もし絶縁するのなら「今まで本当にありがとう! ずっと楽しかった! バイバイ!」って感じでお互い別れたいといつでも思ってる。自分のもてる誠実さのありったけを尽くして説明と譲歩と提案を示したメールを出してみた(もう面談も電話もするつもりはない。文面で出せ、と頑なに言うので)、しかし返事もない……ほとんどぜつぼうしかない、いっそすがすがしいほどの絶望だけが…………