おれときどき本気で思うんだ。ノー残業デーとかだけじゃなくて、おネエ口調デーを会社に設けたほうがいい気がする。
ストレスがたまるから
会社で働いているとどうしても「はあ? こいつマジ何言ってんだ」と思ったりすることがある。
思考様式が違う、持っている情報量が違う、習慣が違う他人と、意見をすりあわせて物事を進めていこうとする以上、どこかで齟齬が発生するのは仕方がない。誰だってそうだ。
だけどもちろんそんなこと口に出したりはしない。相手の自尊心を傷つけちゃいけない。黙って飲み込むか、いっそ裏腹に「なるほど。確かにそうかもしれませんね」なんて言ったりしている。だって自分だって相手からそうしてほしいからだ。
でもこれはストレスだ。思っていることを言えない、自分で自分を裏切るというのはつらいことだ。
このまえ飲み会で、ときどき感情的になってるときあるよねと言われた。そう、感情をきちんとラッピングする作業は大変なのだ。余裕があるときはちゃんと過不足なくできる。もうなにかを一生懸命伝えようとしているとき、説明しているときにはもう感情をラッピングしている暇がなくなって、別に怒ってるわけでもないけど言い方がきつくなってしまうのだ。
おネエ口調でデトックス
そんなとき、(これがおネエ口調だったら……)と思うんだ。
「んもおーっ。ちょっとあんた何言ってんのよ!」
「やだもう、アンタの説明がわかんないのよ!」
そんなふうにはっきり言ってしまえば気持ちがすっきりする。お互いのあいだに「ずけずけものを言ってもいい」というルールがこの日だけは、おネエ口調を媒介にして了解されている。
こういうのは、不公平感があると絶対に成立しない。(おれは我慢してるのにあいつばっかり好き勝手なこと言って)と思わせたら一気に精神衛生が悪化する。「お互いに我慢する」でバランスを取るか、「お互いに我慢しない」でバランスを取るしかない。じゃあ「お互いに我慢しない」で行きましょうと宣言したところで、我慢する術を磨いて生きてきてまるっきり身に付けてるのにいきなりそんなのは無理だ。
だからおネエ口調を強いて、いっかい生まれ変わってもらう。
「そういうキャラを演じてるんだ」というエクスキューズを与えてあげよう。(大丈夫、ずけずけ言ってるけど、おれは今日そういうキャラなんだ。相手もわかってくれてる、大丈夫。)って思わせてあげよう。
なんにもなしで「はい、じゃあみんな服を脱いでくださいね」じゃあ服なんて脱げないけど、「今からお風呂入りますんでね」となれば人前で脱げる。逆に脱がなきゃ変だなってなる。(でもキャラを演じるのが苦痛な人には地獄だな。)
友達と実践してるんだ
おネエ口調で話すっていうの、実際やってみると超快適なんだ。おれ友達とやってるからわかる。
友達も頻繁に会ってるとお互い遠慮がなくなってきちゃう。最初は許容できてた相手の「ちょっと気になるところ」を我慢するのがしんどくなってくる。だけどそれを指摘しちゃうと(なんだよ細けえことぐだぐだ言いやがってめんどくせえやつ)ってイライラされてしまう。でも言うのを我慢してるとそれはそれで苛立ちがつのって、今度は別の箇所で漏れてしまう。
それでお互い、ときどき急におネエ口調で文句言ってる。
冗談っぽくなって当たりのキツさが和らげられている。文句を言えば言うほど笑っちゃったりする。
文句以外も言ってる。「やだ〜。でかみがすごぉーい」(何か大きな物を見て)とか言ってる。新しい言い方を知ったら取り入れるようにしてる。
前ツイッターで、男友達3人と海外旅行をしている、だんだんギスギスしてきた、試しにおネエ口調を導入してみたらすごく雰囲気が改善された、しかも海外で周りに日本語がわかる人もいないので大丈夫、といったことを書いている人がいた。それを見たとき(そうそう、そうなんだよ!)とちょう思った。
これは女の人でもおネエ口調で思いっきり話してそれを周りに受け入れられるのはすごく気持ちが楽になると思うんだ。
隠微な取り込み過程
よくよく考えてみるとここまで、おネエ口調ならずばずば話しても大丈夫という了解がある、という前提で話を進めてたけど、これってなんだろう。どういうことなんだろうかと書きながら思った。
最初におネエ口調を使っていた人たちは、奇異の目で見られたり嗤われたりしたんだろうな。それでもそういう選択をした/そうせざるを得なかった人たちだった。もともとおネエ口調を使っていた人たちは抑圧に対して異議を示した/示さざるを得なかった人たちだった、「違う」と思ったことをきちんと「違う」と表明する人たちだった、そういう傾向があったから、おネエ口調=はっきり物を言うというイメージが一般に形作られていったんじゃないか。
そうやって築かれていった起源を無視して、こうやってその基盤だけ勝手に借用しようなんて、許されるんだろうか? 会社におネエ口調デーを設けようぜとかって浸透させていけば必ず、もとの空気を読む態度へと寄せられていって、「はっきり物を言うというイメージ」はそこから失われていくだろう。
たとえ「そういうキャラだから」という留保付きでもとにかく一般に受け入れ可能な形にまで作り上げて物が言える環境を構築してきた人たちの時間をおだやかに無に帰すみたいな真似が、許されるんだろうか?
マジョリティに取り込まれていくってこういうことかもしんない。
だんだんおネエ口調をナチュラルに使っている人がテレビに出てくるようになる。それをお笑い芸人が真似をする。一般人もそこそこ身に付けてちょっとした場面(飲み会とか)で遊んだりする。ここまではもう来てて、それでおれが「おネエ口調デーを導入しよう」とか言い出すって言うのは、マジョリティが音もない巨大な波みたいに迫って取り込んでいくっていう過程の一フェーズを、無意識に空気を読んで、推進しちゃってるってだけじゃないのか。
ここで「おネエ口調デーを導入しよう」っていうのは、誰かを揶揄しようとかそういうつもりなわけじゃない。だけど差別って、そういうあからさまにむき出しのものだけじゃなくて、本人は無意識に、マイノリティをマジョリティにゆっくり回収しようとしていく構造に加担しちゃってるっていうのも、差別の一形態なんじゃないのか。
たとえそうした構造が不可避なものだった、「どうせ遅かれ早かれそうなっちゃうんだよ」というものだったとしても、そのことと、その構造に積極的に加担する姿勢とはまた自ずと別物のはずだ。
それとも、「おネエ口調=はっきり物を言うというイメージ」という結びつけ方自体がある種のレッテル貼りなんだから、むしろそのイメージからおネエ口調を解放するために、かえってイメージを消費して寿命を早める方向へ持っていった方がいいんだ、と考えたほうがいいんだろうか。だからやっぱり「おネエ口調デーを設けようぜ」というのでOKなのだろうか。おネエ口調が何かのイメージを引きずらない、ただ純粋なおネエ口調になるために……。(しかしそうしたイメージをまとわりつかせない言葉なんてものはそもそも存在し得ないのじゃないか。)
ね。はっきり「こうだよ」って言い切れば気持ちいい記事かもしれないけど、まだちょっと考えてるんだよ。