やしお

ふつうの会社員の日記です。

批評は個人の好みを越えてどのように可能か

  認識の枠組み - やしお
の「違う側面で見ること/豊かであるということ」という節の中で以下のように書いた。

 ある楽曲について、対位法的にどうか、和声法的にどうか、リズム構造はどうか……と様々な体系から説明できる。そしてどの体系を適用してその現象を見るかは恣意的である。それだから、ある体系(価値判断)からその現象が否定されたとしても、現象全体を否定するには及ばない。弓の持ち方がおかしかったとしても、そのアニメ全体を否定する必要は必ずしもない。
 また、ある体系から見て否定されたとしても、別の体系によって肯定されていることもある。映画の中で「物理的にそんなことは起こり得ない」というようなことが起きていても、映画なり物語なりの論理からそれが明らかに必要であって導かれていることもある。

 現象(作品や物事)に様々な体系、網をかけていく。
 隙間を埋めて体系をより精緻にすることもできるし、別の体系から語ることもできるし、それを含むより大きな体系、メタ的な体系でも語れる。あるいはその作品だけのために体系を新たに作り上げることもある。しかしどれだけやっても「語りきれる」ということはあり得ない。網は、どれだけ細かくしても、重ねても、大きくしても、作り直しても、網である限り必ずそこから零れ落ちるものがある。
 そしてどれほど網をかけても、汲み尽くせていない、容易に収まってはくれないといった予感をいつまでも抱かせ続けるようなものが、豊かな作品ということになる。


 作品に対して適用する体系は任意である、と言っている。どの視点から見ても/見なくても構わないと言っている。これは「評価とはとどのつまり個人の好みでしかない」と言っているように見える。しかし実際には個人の好みを越えて評価することは可能だ。


作品や形式のレギュレーション

 作品に対して適用される体系の中には、受容者の「個人の好み」で選択される体系だけではなく、作品自身が導入してしまう体系というものが存在する。


 一つが作品が選択した仮定にまつわるものである。
 例えばよく作者が「キャラクターが自分の手を離れて動き出す」といったことを語る。作中人物にある言動をさせていく過程で、その人物に内在的なロジックが生まれてくる。するともはやそのロジックを裏切った言動をその人物にはさせられなくなってくる。真面目な人物として設定した以上は、何の理由もなく不真面目な行動をさせられない、というようなことだ。これまでの積み重ねの上でこれからが自動的に決まってくるような面があって、そうなると作者としてはもはや、自分が書いているというより書かされているという感覚になる。彫刻家か仏師かの、木を彫って形作るというより木の中にそもそも存在している造形に沿って彫っているだけだ、という発言を目にしたことがあるが、同じことかもしれない。
 あるいは作中の出来事や構造、テーマから考えた時に、こうした文体、絵柄、音色は使えないといった認識もそうだ。全体や細部、あるいは流れの中でその作品が固有に選択してきた仮定と、それがもたらす縛りというものが存在する。


 もう一つがその作品が採用している形式に基づくものである。映画であれば「カットという最小単位が存在する」、小説であれば「言語によってシーケンシャルに書かれている」、あるいは映画でも小説でも漫画でも「始まりがあって終りがある」といった種々の制約が存在する。これらは作品が形式を選択した時点で自動的に導入されてしまう。そして、そうした種々の制約が仮定となって体系を導いていく。作品はこうした形式がもたらす体系を無視することも応答することもできる。
 映像作品のノベライズや、漫画や小説作品の映像化など、形式を変更する際にこうした面が特に露わになる。作品は形式と多かれ少なかれ不可分に結びついているため、形式を変更する際には、何を保存し、何を廃棄し、何を創出するかが問題になる。(例えば小説では作中人物の思考を直接書くことができても、映画では思考を直接映すことはできない。)形式固有の制約にまるで無頓着に形式を変更することは可能だが、その場合形式との齟齬をきたして見るに堪えない作品に仕上がることが多い。


 こうした作品内で生じる仮定や、形式がもたらす仮定から生じる体系については、もはや受容者の側が恣意的に適用しているとは言い難い。作品や形式に内在する体系から作品を論じることで、個人の好みを越えた評価というのは可能である。
 なお、先の記事内に書いた、体系の正しさとしての無謬性と妥当性という区分で言えば、作品によって生じる体系に対して作品が正しいかどうかは無謬性、形式によって生じる体系に対して作品が正しいかどうかは妥当性にあたる(が、あまりこの区分自体に有効性はないかもしれない)。


批評の創造性

 フィクションとノンフィクションの間に明確な境界は無く、引いたところであまり意味をなさない。ノンフィクションは現実をそのまま写しとったものではあり得ないし、また「現実をそのまま写しとる」ということがそもそも原理的に不可能だ。どれだけ当人が「現実をそのまま描いた」と思っていても、現実のある一部を切り取って歪曲するという行為でしかないから、現実そのものではまるであり得ない。例えば写真にしても「ある時空間を切り取る」という行為において主観的だし、使用されるレンズによっても結果が変わる。そもそも「現実」というもの自体が人の観測結果としてしか存在できない。
 ノンフィクションは現実の中に無限に畳み込まれている体系のうちの一つを恣意的に取り出してみせたに過ぎない。ノンフィクションの中にはフィクション性が不可避的に備わっている。せいぜい現実の出来事との一致の程度としてしかフィクションとの差がない。


 ある現象(作品)から体系を見出していくという作業は一種のフィクションであって、そうした意味で批評は創作と同程度に創造的な行為だ。既存の体系をそのまま作品に当てはめて云々してみるという作業(キャラクターの弓の持ち方が違う、等)にはほとんど創造性が見られないため、一般に批評(というか批判)は人が好き勝手にいちゃもんをつける行為だと見なされがちだ。しかしほとんどその作品のためだけに、あるいはその作品に誘発されて、新たに体系を作り上げていくというような行為であれば創造的であり得る。それは、数学や物理学といった自然科学、あるいは人文科学も全く同様に創造的であり得る、と言っているのと同じことだ。


創造性の否定による回復

 しかしそれは、体系について語っているに過ぎず、作品そのものを語れてはいないのではないか。作品を語ることが批評だとしたら、それは批評の名に値しないのではないか、という問いを立て得る。
 既存の体系を好き勝手に当てはめて作品を語るのでは、個人の好みをただ語っているに過ぎない。作品に固有の体系を(形式の体系とも合わせながら)明らかにすることで、個人の好みを脱することができる。しかしそれは作品ではなく体系について語っているに過ぎない。
 作品は一種の現象なのだから、先に書いた通り、現象そのものを語ることができない、純粋なノンフィクションというものは存在し得ないということと考え合わせると、「作品そのものを語る」といったことは不可能だ。


 そんな中で、どのように批評は可能なのだろうか。残された道はもはや、「批評はこの作品をついに語り得ない」ということを実証させることで、逆説的にその作品の豊かさを示すことにしかないように思われる。再利用のきかない一度限りの作品固有の体系を作り上げ、徹底的にその体系を語った先に、体系が限界を露呈させる姿を見せてしまう。これをいくつもの体系で試みながら結局、この作品はいかなる体系にも収まりきらないという事実をあからさまにする。
 人は聡明であろうとすれば、体系を立ち上げ、現象がその体系に収まっている姿を見て、体系の有効性を納得してそこで足を止めてしまう。しかしそこで停止させずに、愚直にその体系を駆動させて矛盾点まで辿り着かなければ批評が実現できない。
 私の理解では、蓮實重彦の『表層批評宣言』がこうしたことの確認になっており、『夏目漱石論』、『監督 小津安二郎』、『「ボヴァリー夫人」論』などがその実践になっている。


 また、この意味で批評的な作品と言うのは存在する。それは社会批判とか風刺とかではなく、徹底的に形式に寄り添うことでその形式に内在する限界を露呈させてくるような作品のことだ。そのあまりの愚直さによって、それは一見して「批評的な作品」には見えないかもしれない。