やしお

ふつうの会社員の日記です。

作品の密度がわかるようになる

 この前、小説っぽい描写で書かれた匿名ダイアリーの文章を(勢いもあって楽しいな)と思いながら読んでいたら途中で、「抜けるような青空だった。」という一文を見た瞬間に(あらいやだ)と思った。
 ある特定の瞬間について語られている中でではなく、習慣の説明の中で使われていたから、文脈として単に間違っている(機能的に矛盾する)と思った。例えばサッカーのルールを説明している途中で急に「その選手の汗がほとばしった」みたいなことは、よほど戦略的な理由(そうした方が絶対に面白いという確信)がない限りは言えない、というのと同じことだ。そして仮に文脈上正しいとしても「抜けるような青空だった。」という文章自体が、あまりに通俗的(一般的にイメージされる「小説らしい言葉」の枠を出ていなくて退屈)なので、これもよっぽど戦略的な理由がないと使えない。理由がないなら入れずに済ますか、あるいはきちんと新鮮なものにするかどうにかしないと難しい。


 その「抜けるような青空」に限らず、必要性を伴って選択された言葉/語り口というより、「こういう感じの書き方がいいんでしょ」もしくは「こういう語り口っていけてね?」という意識だけで選択されたものの率が高くて、「現実に当人の身に起こったことを、素人が書いてくれてるんだよ」というエクスキューズがあってようやく読める文章だと思った。
(ただ、そういう物が公表されて赤の他人が読める環境・インターネットがあるというのは本当に喜ばしいと思っているし、作者に向かって否定して抑圧して、下手な物のないきれいな景色にすべきとは全く思わない。)


 よく言われる、「素人がそれっぽく作ったもの」と「そうじゃないもの」を見分けるというのは、こういうことなのかなと思った。
 ちょっと前に、公募で採用された女子高校生がデザインしたロゴについて、プロのデザイナーがダメ出しをするという記事を読んだのを思い出した。拡大・縮小での使用に耐えられるか、色彩的な制約が課せられても(白黒印刷とか)イメージを保持できるか、民族的な多様性に耐え得るか(特定の意味を持つようなシンボルが使われていないか)、等々といった面で検証していって、もし自分が彼女の先輩だったらこういう指摘をするし、こういう改善案を出すという話だった。
 素人目には「きれいなロゴでいいなあ」としか見えなくても、そうした経験を積んだ目から見ると、「そこはそうすべきでない」という点がどんどん見つかっていく。
 ここで言う正しく作られているということ、内的な整合性があることというのは、別に日本語が正しいとか、キャラクターの弓の使い方が正しいとかいった話に限らない。その作品自身が採用した仮定・前提・条件を、その作品が自ら別の面で裏切っていないか、といったことも含まれる。


 そうした神経の行き届いている度合いの違いが、「素人がそれっぽく作ったもの」と「そうじゃないもの」とを分けていく。
 「ここはこういう意図があってそうしている」とか「ここはこうせざるを得ない」とかいった確信が、その一点に対してどれだけ多面的に積み上げられているかという密度の差がある。多面的に同時に物を作ることも、読み取ることも、それなりの経験が必要になってくる。
 そうした経験が作り手・読み手の双方に備わっていなければ、「それっぽく作ったもの」が喜ばれるという光景になる。「別にそれでいいじゃないか、自分たちはそれで楽しんでいるんだから」と言われればその通りだと思う。ただ、多面的に正確に見ることに慣れた目にとっては弛緩しきって退屈に映るというだけだ。
 だからといって「素人がそれっぽく作ったもの」の一切が排除されるべきだとは思わない。どのみち誰でも最初は素人なのだから、とりあえずそれっぽく作ってみるほかない。とりあえずジャンプしてみて、それからふと「でも、どうしてそうするんだろうか?」と立ち返って問い直す。そうした作業を積み上げて行くことで、多面的に同時に物を見る目ができていく。そしてその過程で、「素人がそれっぽく作ったもの」をそれでも褒めてくれるような相手がいて、肯定してくれることでようやく継続させられる。(しかしその肯定に溺れるのはつまらない態度だ。)


 ところで、そうした配慮の密度、内的整合性の確度が高ければ高いほど優れた作品かというと、そういうわけでもない。せいぜいそうした「正しさ」は第一段階に過ぎない。見ていて本当に嬉しくなるのは、そうやってどれだけ多面的に見ても、それでも何か捉えきれていないという感覚、自分の手には負えないほどの豊かさに接していると思われるような瞬間にある。
 「どうしてそうあるのだろうか」と問うても「わからない。しかし完璧だ」と呟くほかはない。
 以前に、
  批評は個人の好みを越えてどのように可能か - やしお
の中で以下のように書いた。

 そんな中で、どのように批評は可能なのだろうか。残された道はもはや、「批評はこの作品をついに語り得ない」ということを実証させることで、逆説的にその作品の豊かさを示すことにしかないように思われる。再利用のきかない一度限りの作品固有の体系を作り上げ、徹底的にその体系を語った先に、体系が限界を露呈させる姿を見せてしまう。これをいくつもの体系で試みながら結局、この作品はいかなる体系にも収まりきらないという事実をあからさまにする。

 このような、ほとんど無益とも思われる、あがきにも似たいとなみを、それでもせざるを得なくさせるような、豊かさ。
 こうした豊かさに直面するには、どうしても同時に多面的に捉える力量が基礎的に必要になってくる。この感動の片鱗を一度でも味わってしまえばもう、その悦びを更新するために、より真剣に考え続けてその力を伸ばさずにはいられなくなる。


 素人がそれっぽく作った作品だとわかるというのは、何も通ぶろうとしたハッタリとかではなくて、いろんな面でちゃんと神経が行き届いているかどうかが判別できるっていうことかと、ふと実感がわいた。
 小説でもロゴデザインでも、ファッションとか盆栽とかでも、そういう感じなんだろうなと思って。