やしお

ふつうの会社員の日記です。

インターネットに殺される大型獣

 ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』で、アフリカにだけ大型獣(ライオンとか象とかキリンとか)が残っていて、他の地域にはあまりいない理由について、こんな指摘がされていたのをふと思い出した。
 アフリカの動物たちは人間がちょっとずつ狩りの技術を発達させていく過程を一緒に過ごしてきたから、一緒にちょっとずつ狩られない技術を伸ばしてきた(そういう進化を遂げた)。しかし他の地域(特にオーストラリア)は十分狩りの技術を身に付けた人間がいきなりやって来たから、狩られない技術を身に付ける暇もなく全滅させられたからだ、という指摘だ。「わーい、なになにー??」と警戒心ゼロで人間に近づいてきて殺されて食われるという。さいわい極地は人間がふつうには生きていけないお陰でまだ大型獣が生き残っている。


 出始めからインターネットとお付き合いのある年代の人と、気づいたらいきなりインターネットが身近にいる年代の人の違いも、そういう感じなのかなとふと思った。90年代後半くらいからインターネットとお付き合いしてる人と、物心ついたら10年代だった人。


 自分自身は'99年、中2のときに貯金をはたいてパソコンを買ってネットをはじめた。
 その頃は「インターネットではハンドルネームを名乗る」というのは、ほとんど当然視されていたような気がする。リスキーだからとかというより、「そういうもの」だ、そうするのがかっこいいって風だった。今でもそういう思い込みが働いているのかSNSやブログで本名を全く使っていない。当時、中学校の友だち数人がアクセスできて日記を更新したり掲示板に書き込んだり出来るサイトを運用していたけれど、みんなわざわざ本名とは別の、普段のあだ名とも違うハンドルネームを名乗っていた。これは「ここは実生活からは分離された世界」という前提があったのかもしれない。違う世界なんだから、実生活とは違う名前を名乗るのが当然だ、という認識。
 実際、そのころのインターネットなんて実生活からまるで隔絶していた。わざわざパソコンの前に座って立ち上げて(時間がかかる)、接続して(モデムがピー、ギャギャギャギャ……とか鳴いてる)、ほとんど文字ばっかりのサイトを回って(画像は上からちょっとずつしか表示されない)、従量制の通信料を気にして最初から計画を立ててサイトを回ったり、読んでる最中は切断したりする。実生活の知り合いでインターネットを利用している人、というのが1、2割しかいない。こんなのが実生活とそのまま連続してつながってる世界だ、と感じろってのがどだい無理な話だ。


 電車の中でもベッドの中でも授業中でもスマホ見てインターネットと常時つながってて今思ったことや今見てるものをみんなに見てもらえるのが当たり前、実生活での家族・友人もみんなそう、という環境なら「実生活とつながってる」と感じられるだろう。しようと思えば24時間張り付いていられる。
 この環境が物心ついたときにもうあったら、インターネットは実生活の一側面でしかないという認識になるのは当然だ(そもそも実世界/別世界という捉え方自体しないだろう)。けれど、一番最初に「こいつは別世界だ」とはっきり思って付き合い始めていると、その相貌がゆっくり実生活に似てきたとしても、ずっと「こいつは別世界」のままなんだ。


 90年代末・00年代頭だと、インターネットにいる人は「パソコンをある程度使える人」という入学試験をパスしていた。そういうフィルタがあったから、人口も少なかったしずいぶん牧歌的だった。
 それから色んな機能が出てきたり(マウスポインタにキラキラがついてきたときは「これすげえ」と思ったよ)、できることが増えたり('08年にストリートビューを初めて見た時は衝撃的だった)、頭のおかしい人が増えたり、新しい種類のトラブルが起きたりしてきた。ウイルスとかスパムメールとかフィッシング詐欺とかは技術的に防御されてきたりもしたけれど、そうじゃない面についてはそのまま残ったりしてる。そういうのの出始めからお付き合いして一個ずつ対処してきた人たちと、気付いたらいきなりそういうのが全部まとめて身に降り掛かってくる人たちというのが、アフリカとオーストラリアの大型獣の違いみたいだなと思って。
 「わーい」って無防備に近づくと槍でぶっ刺される。インターネットが「実世界だよ〜」みたいな顔してやってきて、「わーい」って遊んでると急に、実世界ではあり得ない大きさの世間力の槍を容赦なくぶっ刺してくる。この前も高校生がバイト先の食器洗い用シンクをお風呂がわりにして遊んだ写真流してぶっ叩かれてた。そういう炎上がはやったのが2年半ほど前だと考えると、その学生にとって当時は完全に他人事で教訓にすべき事態ではなく、今回彼にとっては「いきなり」だったのかもしれない。若い子にしてみたらどうしたって「気付いたらいきなりそういうのが全部まとめて身に降り掛かってくる」という感じになってしまう。
 逆に自分の母親(64歳)とかは、せいぜいiPadでちょっとネットを検索して変なうわさ話を拾ってくるくらいで、あんまり使いこなせていなからかえって安全だ。この前メールで「神田沙也加の本当の父親は石原裕次郎らしいね」という、どデマを信じてお知らせしてくれたけれど、せいぜい私や母親の周囲の人が被害を受ける程度だ。インターネットに襲われるエリアにそもそも近づく能力がない。


 こういうのって車の運転なんかも同じかもしれない。舗装もされてない、信号機も整備されてない、そもそも乗ってる人がほとんどいないって環境で自動車に乗り始めて、ちょっとずつ交通量が増えていって、ちょっとずつ交通ルールができていって、ちょっとずつ車の性能や機能が増えていって、その一つ一つに対処してきたって人から見たら、いきなり車に乗り始める若い人たち大変ね、って感じだったのかもしれない。
 それで、いくらなんでも「気付いたらいきなりそういうのが全部まとめて身に降り掛かってくる」って状態だと危なすぎる。車の場合だと目に見えて人が死ぬし。ってわけで実戦投入の前にちゃんと、自動車学校でのトレーニングが整備されているし、義務付けられている。
 そう考えるともう、至る所にバッドエンド(ソシャゲで廃課金するとか、SNS疲れで日常生活が破壊されるとか、炎上して退学になるとか)を用意した丁寧なシミュレーションゲームでも作ってクリアできるまで遊んでもらう授業とかやるしかないとこまで来てるのかな。