やしお

ふつうの会社員の日記です。

幸せであるのではなくこの自分が自分を幸せにする

 どうせ同じ8時間を過ごすのなら、苦痛にまみれた8時間よりも、楽しみに満ちた8時間の方がいいに決まっている。しかもそれが週に5日、何年も続くのなら尚更だ。だから労働者は自分の仕事を楽しめるように工夫する。その姿を赤の他人が社畜と嘲笑するのは無益なだけでなく有害である。その労働者に「自分はただ搾取される人間だ」という思いをあえて抱かせ、自己肯定感をひたすら阻害して幸福感を損なわせる。それでいてその部外者は自分が啓蒙してやっているなどと思っているのだから全く害悪であり無責任である。
 会社側が不当な待遇、不当に安い賃金や不当に長い労働時間をあいまいに労働者の視界から遠ざけるために、「これはやりがいのある仕事だ」という演出を施しているのなら、その欺瞞を指弾されるべきなのは会社であって労働者ではない。労働者側としては、たとえ「会社が/社会が自分を搾取している」という認識を抱いていたとしても、その上でなお自分の仕事に意義を見出して幸福であろうとするのは当然である。人が自己の意識の持ち方によって幸せを維持するのは当然であり、それを赤の他人が妨害するのは許されない。


 より隠微な形での妨害が存在する。子供に将来の夢を語らせるというものだ。当然のように幼稚園、小学校、中学校で何度も語らせられることで、「誰もが将来の夢を持って当然だ」、「人生には目標があって当然だ」という思い込みを抱いてしまう。私自身もそうだった。私も20代前半あたりまでは「何者かにならなければならない」と信じ込んでいた。これは不幸なことだ。「何者でもない自分」、「功成り名遂げていない自分」にあてもなく焦り、その挙句、この人生は無意味だったと一人で、勝手に絶望する。無意味で当たり前なものに「無意味だ」といって失望するのは滑稽なことだ。
 実際、人に限らず生物はみな無目的に生まれて死んでいる。ただ生きているから生きているだけだ。ただ、どうせ同じ8時間を過ごすのなら楽しく過ごした方が良いのと同様に、どうせ同じ60年だか80年だかの人生を過ごすのなら楽しく過ごした方が良い、そのための道具として人生の目標を持ってみるというだけに過ぎない。幸せにするための道具によって、逆に苦しめられるのは本末転倒だ。目標の存在は当然視すべきものでも、無条件に前提すべきものでもない。
 叶ったらよかったね、叶わなくてもよかったねと言えること。持っても持たなくてもよいということ。「ある」のではなく「選ぶ」ものだということ。人生の目標はそうしたものでしかない。人生の目標はいたずらに絶対視すべきものではないと最初から明確に伝えるべきだ。あえて失望させ、苦痛の生を過ごさせるには及ばない。


 こうして露骨な非難という形で、あるいは隠微な植え付けという形で、人の幸福を妨害する要素がある。それらの覆いを適切に取り払っていく。他人からは社畜に見えようと、夢をあきらめたように見えようと、そしてそれが事実であったとしても、当人として幸福を感じて満足することを邪魔される必要はない。実際幸福は、外形的な諸要素で無条件に規定されるようなものではなく、当人の意識によるところが支配的なのだ。どれだけ大金持ちで不自由のない暮らしの中でも不幸に苛まれて生きることもできるし、衣食住に困る暮らしの中でさえ幸福に満たされて生きることもできる。


 自分がしたいことと違う仕事だからと言って日々苦痛を感じている人もいる。私自身がまさにそうだった。工業高専に進学して情報系の学科で勉強を続けて、7年間(本科に続けて専攻科にも進学したため)学校に「技術者になるのだ」と言われ続けてきた。しかし実際に大手メーカーに就職して働き始めてみれば技術者としてスキルを上げていくというタイプの職種ではなかった。同期入社の社員たちが技術や知識を身に付けていく中で取り残されていくような焦りを覚えた。ところが数年働き続けていく中で、決定権の範囲が広がったり後輩ができたりしていくうちに、工学ではない技術も無数にあることがはっきりと目に見えて、そうした技術が自分に身に付きつつあるということがはっきりと分かっていった。それは物事の筋を見る技術であったり、他者とコミュニケートする技術であったり、職場を改善する技術であったり様々だ。そうしていつの間にか、妙な焦りや不安や徒労感を覚えることなく仕事に満足できるようになっていた。人は自身がより良くなっているという実感か、自身が周りをより良くしているという実感が得られるときに自尊心が満たされるらしい。
 振り返ってみれば、工学の技術者になるということや同期の社員と比べることといったものは覆いに過ぎなかった。こうした覆いを取り去った後に満足を得られたとすればそれは、とても幸福な環境に自分がいたということだ。もちろんそうした覆いを一つ一つどれだけ取り去ってみても、そこに自分ではどうしようもない条件が残っていることもあるだろう。例えば賃金が不当に低くどうしたって生活が維持できないというようなことだ。
 しかし覆いを取り払う作業を全くしないまま、満足を得る道を自ら閉ざしたまま、仕事に不満を抱いて日々を過ごすのだとしたらそれは悲しいことだ。そしてその不満をきっかけにして転職や起業をしようと退職するのはあまりに危険な賭けだ。なぜなら不満が圧力となって正常な判定をする場を歪めてしまうからだ。知らず知らずのうちに不満から逃れられそうな選択肢を追い求めて、都合の悪い情報を視野の外へと追いやってしまう。現職に満足しているがそれでもなお辞める、という選択ができてようやく正確な判断が下せる。
 これはあらゆる物事に適用可能な原則だ。例えば結婚も同様である。まだ見たこともない相手や、あるいは過去の恋の相手を美化し、その思い込みと現実の相手が違うことを嘆くというのは無益だ。


 望んだ仕事と違うといって苦しむのは実にありふれた光景で、しかし当人にとっては切実な苦しみだ。覆いは社会通念による刷り込みであり剥がすのは容易ではない。剥がれた後になってようやく、それが覆いだったのだと気付く。そうだとしてもその苦しみが自分では何一つどうしようもないものだと信じ込むのではなく、自分の手で自分を幸せな状態に導く可能性があって、検討する価値が確かにあるのだということを知らないよりは知っていた方がいい。その上でさらなる喜びを求めて、あるいは自身を守るための退職願いや異動願いを出す判断を正確に下してくれればいい。
 もうすぐ4月が来る。定期入社の新入社員たちを迎える側にいる人間としてこうしたことは何度でも伝えておきたいと思う。幸福や満足は自分が自分のために作り上げられるものなのだということを、具体的な形で伝えられればいいと思う。