やしお

ふつうの会社員の日記です。

仕事が「指示されたもの」と「自分で決めたこと」の意識を共存させる

 自分で仕事をしながら感じるのは、

  • 全ての仕事は上司から指示を受けたものであって、それ以外は存在しない
  • 全ての仕事は自分で決めてやったことであって、それ以外は存在しない

という一見矛盾するような二つの命題が、全く矛盾せずに同居しているということだ。そしてこれが同居していないと、会社組織の中で仕事をする上で危ういのではないかと感じている。全ての仕事は「人に指示されてやっているもの」なのに「人に言われてやっているわけじゃない」。それが全く不思議にも思われずに成立するのは、視点が違うからだ。前者は建前方向から眺めた言い方で、後者は実態方向から眺めた言い方になっている。どちらか一方では不十分で、両方の視点が揃わないと十分だとは言えないと感じている。


 「上司から指示を受けていない仕事は存在しない」というのは、課長→係長→チームリーダー→担当者、という指示系統があり、この階層の順に権限が粒度を変えて委譲されているという建前を背景にしている。そもそも労使関係という建前があって、使用者は労働者の労務管理をする、労働時間や業務内容の管理をするという建前が存在している。しかし現実的には課長が課員数十人を完全に管理することは難しく、またそれでは処理速度が遅くなるため、実際には課員が判断して動いている。この現実を説明づけるものとして、権限が委譲されていると見なされている。明示的に指示や権限の委譲がある場合でなく、全く担当者が勝手に動いているような場合であっても、そこには暗黙的に指示と権限の委譲がなされていると見なされる。この建前が存在しているから、「あらゆる仕事は上司から指示されたものだ」という建前が生じる。
 一方で「人に言われたからやった、という仕事は存在しない」というのは、この自分は自由意思をもった個別の人格だ、という実態があるからだ。(より踏み込んで実態を見れば、自由意思というものは自明なものでも強固なものでもなく、環境や状況に左右されるものだが、ここでは一旦捨象している。)この会社に入って今在籍しているのは自分の意思であって、どんな指示だろうと究極的には拒絶できる(辞められる)以上、人から受けた指示であってもそれを自分が正しいと認めたからこそ実行したのだということだ。


 建前側の「全ての仕事は上司から指示のあった仕事」という感覚が弱いと、本来上司に相談したり報告したり決裁を仰いだりすべきタイミングを無視して勝手に動いてしまうことになる。たとえ実質的には自分の判断で進めている仕事であっても、上司が指示したことという形式を整えておかないと、問題が起こった時に自分自身を防御できない。そしてこの建前・筋の感覚が薄い人は、役割分担という感覚が薄い。本来の筋で言えば引き受ける必要のない仕事まで引き受けてしまったりする。上司がこれを自分に指示するという形になり得るかどうかと考えたときに、明らかにそうはなり得ないような仕事、本来は別の部署や担当者がやるべき仕事でさえも、抱え込んでしまったりする。
 一方で実態側の「全ての仕事は自分で決めた仕事」という感覚が弱い人に、ある仕事について「なぜそうしたのか」と聞くと「○○さんに言われたからだ」という答えしか返ってこない。建前としてそう言っているというより、本当にそれ以上がない。もしあらゆる仕事は他人が指示をしたからそうするのではなく、自分がそうすべきと判断したからそうするのだという認識でいれば、指示された作業でも、そもそもやらなくて済む方法はないか、本当に自分がそれをすることが最良なのか、より効率のいい方法はないか、と疑い直すことができる。それだから「なぜそうしたのか」と聞くと「こう自分が判断したからだ」という回答が返ってくる。
 そして両方共の感覚が弱い人は、本人が真面目で力を尽くしていればいるほど、とても非効率な状態で大量の仕事を抱えてこんで、しかも上司や他の職場の担当者から責められるという状態に陥っているから、見ていて本当に気の毒になる。
 これは建前と実態のあいだでバランスを取るというより、その両方を十分に満たすように行動を組織するというものだ。自分の行動が、建前側から検討しても、実態側から検討しても、合理的で説明可能なものになっているかを常に検討する。会社の中で働くということは、こうしたルールのゲームをするということだと思う。


 この建前と実態の両方共の感覚が不十分だったとしても、その人個人が悪いのだとは言い切れない。もちろん両方共がたまたまできている人というのは職場以外の環境や経験で培ってきたのかもしれないが、両方共の感覚に不十分な課員を抱えているというのは、職場の環境が悪く教育能力が低いというのが原因であり得る。
 上司からの指示、方針の提示、権限の委譲が明示的に行われていない職場で新卒の頃から過ごしてきた人にとっては、そもそもそれらが(暗黙的に)存在しているという認識を持ち得る契機がない。きちんと指示や方針の提示や権限の委譲を目に見える形でやっている上司を経験した上でないと、別の上司になった時に「この上司は確かに放任主義だが、しかし建前上は指示が存在していることになっている」という見方をするのはほとんど不可能だ。
 一方で、日常的に上司が事後的に課員の成果物を否定し、手直しを命じているような職場においては、「全ての仕事は自分が決めたことだ」という自己決定の感覚を持ち得ない。というより実際に自己決定権が奪われている状態になっている。この「ダメ出し」が常態化している環境では、もはや課員としては「上司がそうしろって言うからそうした」としか言い様がなくなってしまう。


 この悪条件の両方がそろっている職場・上司というのは、事前には「お前に任せる」と言っておきながら、事後には「そうじゃない、わかってない」と言って否定することになる。これは上司の側としては、「私は本当にこいつの自主性を重んじるために任せている。しかし成果物の質が低いから指摘してやり直させてレベルアップさせている」という理屈で一見自然のようだから、実際よく見かける光景となっている。そしてこの「ダメ出しをしてやり直させること」、それを細かく指摘できることこそが上司としての能力だと考えている人もいる。
 しかし建前の意識と実態の意識とを同時に共存させることが会社組織で過ごす上で決定的に重要であり、その能力が課員に身に着くか否かは職場の環境に大きく依存するという認識に立つと、その方法は全くの誤りであると言わざるを得ない。ところがその上司自身がそうした環境の職場で過ごしてきたために、建前の意識と実態の意識の共存を欠いていると、これ以外の方法を知らなかったりする。
 やはりどうしても、方針や目的を明示し、正確な粒度で権限を委譲し、またそのことを通じて事前に質を確保することで事後のやり直しを制約するということ、その環境整備が上司として必須ということになる。これを怠るともはや、その職場以外で建前・実態の共存感覚を身に着けた人材が入ってくるという幸福な偶然を待つしかなくなる。この職場の環境整備を怠りながら上司が、「うちには次のリーダー/マネージャーを担える人材がいない」と嘆くのは、この意味で正当化されない。