やしお

ふつうの会社員の日記です。

柳父章『翻訳語成立事情』

http://bookmeter.com/cmt/57050356

明治初期に定着した翻訳語の、権利、恋愛、彼など10の単語を取り上げて、定着の過程や日本語の意味からどう引きずられて原語の意味とズレていったかを見せてくれる。普及して定着する翻訳語には、あまり中身がないことで逆に「なんか深い意味がありそう」って思わせる言葉じゃないと流行らないし、最初は肯定的な意味で流行ってその後反動で否定的な意味で使われるって特徴が指摘されてて、今のビジネスカタカナ用語、ウィンウィンとかも同じだなと思った。本書は単語に絞ってるけど、著者の『比較日本語論』だと文法構造も含めて語ってて刺激的。


 この本で触れられてる話ではないんだけど、読みながら「設計」っていう言葉のことを思い出してた。designを訳すと設計なんだけど、それとはまた別にデザインというカタカナ語も日本語として定着してて、designだと意味範囲は一つなんだけど、設計とデザインだと意味範囲が異なるという。設計だと電気とか機械とか、単に仕様を満たす機能が実現されるように図面に展開すればOK、みたいなイメージだし、デザインだと見た目がかっこよければOKみたいなイメージに偏ってる。
 性能を追求すること、使いやすさを追求すること、外観の美しさを追求すること、みんなひっくるめたトータルの概念としての「design」なんだけど、日本語で「デザイン」って言うと一般的には前2つの意味が落ちちゃうことがある。
 プロダクトデザインなんかだと顕著だけど、本来「デザイン」って言っても見た目がカッコ良ければそれでいいわけじゃなくて、機能性と両立しているというか、いろんな面で高度に機能的であることによって美しさが生まれる、みたいな話なんだけど、日本語で「デザイン」って言うとそこが含まれてこないところがある。そのせいで、ロゴデザインみたいな純粋に視覚効果しかないようなものでも、本来「設計」という意味も含まれている以上、そこには機能性(拡大縮小できる/外部の文脈を適切に担っている/拡張性がある、等々)も含まれているという認識が、プロはともかく一般には抜け落ちていて、そのせいで理解されなかったり誤解されたりする。
 機能性が高くなければ美しくできないし、美しくなければ機能性が高いとは言えないわけで、確かに表裏一体になってるんだから、分けて考えるということができないのは当然なのだ。それで「design」という概念を一度知ってしまうと、「設計」と言うときでも「デザイン」の意味も含めて考えてるし、「デザイン」と言うときでも「設計」の意味も含めて考えている。それで「設計」と「デザイン」を別物として考えている人との齟齬が出てきてしまう。


 本書で紹介されていた「right」の翻訳語としての「権利」についても、似たようなことが書かれていた。本来「right」には「正しいこと」という意味も含まれている。実際、辞書を見ても、「右、正しさ、権利」と出てくる。「right」という言葉が権利の意味で使われる場合でも、原語だと「当然のものとしての権利」というニュアンスが入ってくる。権利の意味でのrightは、正しさという意味も含んで使われることになる。ところが日本語としての「権利」からは、「正しいこと」「当然であること」というニュアンスは切り離されている。(含んでもいいし、含まなくてもいい。)
 それはもともと、日本語の体系の中に(=日本の現実生活の中に)「right」に相当する概念がそもそもなくて、でも「正しいこと」という概念は(rightとはズレを含みながらも)存在はしていたので、その足りない部分の意味だけを担う「権利」という語が作られたという経緯があったからだ。そんな経緯を、いろんな語について見せてくれるのが本書ってわけ。


 あとこの本を読んでいると、あまりにも福沢諭吉の登場回数が多くて、この人の翻訳語に果たした役割がものすごかったことがよくわかる。そして福沢諭吉が翻訳ということにかなり繊細に反応していて、本人は原語からの意味や概念のズレにとても敏感だったし慎重に言葉を文脈に応じて使い分けてたけど、でも一旦その語が世の中に定着してしまうと、もうどうしようもなくその語を使わないと通じなくなってしまう、というつらさも見えてくる。


翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)

翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)