会社の中だと「合理的にやること」が正義になっている。それで「なんとなくこうしちゃった」という人は「ちゃんと考えてやれ!」と糾弾されてしまう。
適切なタイミングとルートで情報を上げないとか、すでにスケジュールが崩れる材料がそろっているのに手を打たないとか、実はやる必要のない作業を惰性で続けているとか、「なんとなくそうした」、「前からそうしてたからそうした」、「そうするものだと思ってたからそうした」、といった場面があふれてる。
そして責められても当然みたいなところがある。責める方も、責められている方も、それを見てる周りも、みんななんとなく当たり前だと思っているふしがある。でも本当はそんな正当性なんてない。これはダメなことなんだ、とはっきり認識するために「理屈ハラスメント」と心の中で呼んでいる。
小さな子供に「どうしてそうしないの!」と理屈で問い詰め続けてる親がいたとしたら周りは「ちょっと……」ってなる。子供は何も考えていないわけじゃない。手持ちの知識を組み合わせて考えている。その手持ちの知識が大人よりも狭いだけだ。それは当人にとって仕方がない。どうしようもないことを怒っても意味がない。
だけど、怒ってる方から見ると「本人にとってどうしようもないこと」だとは見えなかったりする。怒ってる方は「こう考えればこうなるに決まってる」というのが見えているせいで、「どうしてそうしないのか」が見えにくくなっている。しかも怒られている方も「こうこうこうだから、こうなるでしょ!」と言われて「確かにその通りだ」と納得してしまった後だと、「じゃあなんで自分はああしたんだろう?」というのがもうわからなくなってしまう。それでもう「どうしてそうしなかったの!」と責められても「わかりません」「すみません」としか言えなくなる。
でも子供だけじゃなくて、大人だってみんな全員がこの延長上にいる。同じ地平にいる。
会社の中で「なんでそうしないの!」と怒っている人だって、オバマやゴーンやジョブズ(霊魂)から見たら「もっとこうすればいいのに」と思われる。もっと大きな範囲で「資本主義というシステムの中で生きている」とか「国家という枠組みがある」とかは、ほとんどの人が「そういうもの」と思って生きている。
みんな、どこかの地点で「そういう風になっているから」で考えを止めている。怒っている方だって、怒る相手と別に変わらない。
そういうわけで、同じ穴のムジナなんだから責める資格はないし、どうしようもないことを責める有効性もない。理屈で相手を追い詰めるという正当性がない。
ないはずの正当性を「ある」となんとなく思い込んで、責められながら「自分が馬鹿だからしょうがない」とつらくなっていく人を生む事態は許容されない。それで「理屈ハラスメント」と呼んでる。名前をつけるとはっきりするし。
別に責めなくても、「どうしてそうしたの?」を聞きながら途中で「こう考えたからこうしたんだよね」と助け船を出してあげればいいだけだ。それから「でももう一歩考えると、こっちの方がいいってことがわかる」って説明すればいいだけのことだ。助け船を出すには、相手の内在的なロジックを正確に把握する必要がある。「こうすべき」というロジックを立てられるだけでは未熟で、さらに「そうしなかった」という人のロジックまで突き止められないとダメだということだ。そこまでいって初めて理屈ハラスメントから免れられる。
これは自分がロジハラをする側に回りかねないから、いましめで書いてる。