やしお

ふつうの会社員の日記です。

マーサ・スタウト『良心をもたない人たち』

http://bookmeter.com/cmt/62947144

良心(=他者への愛着)がゼロの人、サイコパスが生得的に存在する、という仮定で、どんな景色になるか展開する本。良心を糧にした満足感が得られない以上、自己顕示欲や怠惰の満足を追求するしかなくて、子供の頃からストッパーなしで他人を手段として利用する技術が磨かれてしまう。周りは良心の枷が働いて搾取されちゃうから、早めに見抜いて遠ざけるべしという。そんな特性が肯定されて淘汰圧力が働かない米国社会なので、サイコパス回避法の話が中心で、サイコパス自身はいかに救われるのかという話がなくて、末路は悲惨ですというので悲しい。


 他人への共感能力を欠くという条件は、

  • 他人の苦痛に共感できない→他者を一方的に手段として利用して相手を苦しませても平気でいられてしまう
  • 他人の幸福に共感できない→他者が嬉しいから嬉しい、という種類の幸福を得られない→その他の幸福、野心:自分が他人より上回ってて嬉しい、怠惰:自分が他人より楽できてて嬉しい、といった部分しか満足を得られない

という条件を導く。これが子供の時からそうなので、数十年を費やして、他人を利用しながら野心や怠惰を満足させる技術を磨かせて、共感能力のストッパーがあるタイプの人たちの手の届かないレベルに行ってしまうという。
 そこには知性レベルとの兼ね合いもあって、それで社会的な成功をおさめる人もいれば、周囲の人にとことん甘えたり迷惑をかけるばかりでいる人もいるという。


 福島章犯罪心理学入門』の中で、自己中心的な人々に関する指摘があって、他人が自分と身分化というか相対化されていない状態なので、他人や家族を愛しているとしても、その愛し方が他者というより所有物に対するやり方になっている、みたいなことが書かれていた。
 本書にもそういう父親が娘や母親を苦しめるみたいな話が出てきていたので、「良心を持たない」というのは「他者を相対化する度合いが低い」という感じなのかもしれない。


 この話は、前提になっている「良心」という概念を設定して「良心ゼロの人が存在する」と考えるとある種の人々を広く説明付けられる、という作業仮説だと理解した方がよいと思っている。
 著者は「残念ながらこれは事実なのです」みたいな語り方で、実際に心理学実験や生理学的な知見も紹介しながら裏付けていって、それはもちろん嘘ではないのだけど、「嘘でないこと」は「唯一の真実」とイコールではないしね。そうした知見は説明付けに対して循環的に作用する面があるし、他の論理体系で整合的に説明できることを排除するものでもない。
 著者自身も「この概念を利用して他者を差別するのはダメだ」とも言っているけれど、本書の書き方だと、生得的なもので修正も不可能という言い方になっているので、そうした差別を導く作用が不可避的に生じてしまう。


 あと「良心がない方が得なのか?」という疑問に対して本書でも触れているけれど、より積極的・説得的に良心とそれがもたらす利益をリンクしているのが、例えばデール・カーネギー『人を動かす』ということになる。


良心をもたない人たち (草思社文庫)

良心をもたない人たち (草思社文庫)