やしお

ふつうの会社員の日記です。

電故のこと

 昨日の朝に、通勤電車に乗っていたら駅に入ったところで急停車した。イヤホンを外したら車内アナウンスで接触があったため緊急停車したと案内があった。ホームの反対側にも列車が止まっていたから、そちらで事故があったのかと最初は思った。いきなり急ブレーキという風でもなく、普段の「停止信号を受信したため緊急停車いたします」と変わらないくらいの止まり方だったこともあってそう思わせたのだった。車外では駅員が叫んでいる声が何度も聞こえたけれど、はっきりと何を言っているのかまではよくわからなかった。
 車内では運行再開までしばらくかかること、後ろ側の車両がホームに入っていないため扉は開けられないことがアナウンスされた。ツイッターで駅名を検索したら、下り列車に人が飛び込んだらしいことを書いている人がいて、その時初めて自分の乗っている電車で人身事故が起こったらしいと気付いた。3両目に乗っていたけれどそのあたりではぶつかった衝撃といったものは何もなく、本当にいつもと変わりない程度の緊急停車になるのかと思った。その後ホームの対面に停車していた上り列車が出発したから、この列車だったのだとはっきり知った。それでもたびたび入る車内アナウンスでは一度も「この列車で人身事故が発生した」とは説明されなかった。
 車内の人はケータイやスマホで何かを打ち始めたりしていて、会社や家族に連絡したり、もしかしたらSNSに何かを書いたりしているのかもしれない。15分くらいが経って、1、2両目のドアを開ける旨の案内があって、目の前をたくさんの人が前の車両に向かって流れていった。車両が急に空いた。僕はどの道この路線に乗らないと出勤できないからそのまま座っていた。職場に電話して、フレックス勤務のコアタイムまでに間に合いそうになければ午前休暇を取得するつもりだということと、朝9時から出席する予定だった打合せは欠席すると伝えた。
 ホームを背にして座席に座っていたからホーム側の様子をずっと見ていたわけではなかった。それでも時々大声で駅員か救急隊員かが何かを叫んでいたりするのが聞こえた。救急隊員が掲げたブルーシートで囲みながらホームを移動していくのを見た。人一人というわけではない大きさだったから、遺体の一部を運んでいたのかもしれないと思った。
 そのうちさっきとは逆に先頭車両の方から人が流れてきて車内の空席が埋まり始めてきた。一旦外に出た人が戻ってきたのかもしれないし駅に来た人が乗ってきているのかもしれない。
 本を読んだりスマホを眺めたりしていたら、「負傷者の救護が完了した」と放送があって1、2両目のドアが閉まって発車した。停車してから1時間半ほどが経っていた。少しだけ進んで改めて本来の停車位置に止まり、駅の案内の音声が流れた。1時間半ずっとこの駅にいたのに、正式には今、駅に到着したのかと思うと不思議な気がした。たった1時間半で人一人を片付けて、清掃まで終わるものなのかと思うと不思議な気がした。その1時間半が人の終わりを片付けるのにふさわしい時間なのかどうかもわからないし、そもそも「適切な時間」なんて存在しないだろうとも曖昧に思った。人を轢いた電車がそのまま人を乗せて動いて、きっと次の駅で乗る人はそんなことも知らずに乗り込んで、何気なく運行されていくのも一方で不思議なような、他方で別に当然のような気もして奇妙だった。


 職場の最寄り駅についた時点でもう、フレックスのコアタイムには間に合わないから午前休暇にすることにして駅ナカのカフェに入ってまた本を読んだりしていた。ずっと車内アナウンスでは「負傷者の救護」と言っていたのは悲しいと思った。人が一人その命を終えることにして、その事実を認めてすらもらえないのは耐えがたく悲しいと思った。日常を生きている人にとって、突然その破れ目を見せられること、人が死ぬという普段は忘れることになっていることを強制的に思い出させられるのは、漠然とした不安をもたらして、それを「不快」として処理するのかもしれない。不快の処理のために怒りを覚えて文句を言う人もいるかもしれないし、そうした文句を先回りして「負傷者の救助」という言葉で人の死の現実を隠蔽するというのはわかる。自分に関係のない生々しさを許可なく突きつけられるのは不愉快だというのもわかるし、仕方がない。穢れ、忌む、という感覚かもしれない。
 仕方がないけれど、人が一人死んだことと、その気遣いはバランスが取れていないという気も一方でした。「人が死んだのだ」と聞いて不快や不安な気持ちにみんななればいいし、それが自然だろう、そんなことまで気遣いでみんなで回避するなんてずるい、という気もした。だって人が死んだんだぞ、その車両に乗っていたというだけの、無関係の人たちにだって少しくらいははっきり「人が死んだんだ」と実感させたっていいはずだと思った。だって、人が一人、自分で人生を終えることにしたんだからそれくらいの、影響をみんなが少しずつ受けるくらいでなければ不条理じゃないかと、漠然とそんなことを思ったりした。


 1時間くらいしてカフェを出て会社に歩いて向かった。
 それなりに日は高くなっていたのに猛烈に寒かった。雲一つなく真っ青で澄んだ空で、これだけ晴れきっていれば放射冷却も滞りなく働いて41年振りの寒さだという。ああこんな寒くて晴れた日に死ぬことにしたんだなあと思うと、もうたまらなく、かわいそうだと思った。自死という決断自体を「かわいそう」というのじゃない。5年前の猛烈に寒い冬の日に自宅で一人で亡くなっていた父親のことと、1年と少し前に川で自殺した母親のことを思い出したりしていた。ああいうレベルのつらいという気持ちを、誰かが味わうのかもしれないと思うとたまらなく悲しかった。別に天候は関係がない。どしゃ降りの日でも、真夏の蒸し暑い日でも、穏やかな陽気の日でも、勝手に結びつけて思いを巡らせるだけのことだ。
 自殺という選択それ自体は、もし何かに追い詰められたというのではなく、もし当人の意思として決めたことなら(それは二分されるのではなくグラデーションかもしれない)、その決断を他者が無下に否定し去ることはできない、その不可逆的な決断が無意味・無駄だなんて勝手に決めるのは礼を失し過ぎているといったことを母が自死した時に思ったのだった。それは自分だって無縁ではないかもしれないことだ。
 それでも、暗い夜の川に一人で入ったんだなと思うと、怖かっただろうなと思うと、そのことだけがかわいそうだ。自死を選択したとして、その後どうして苦しく怖い思いをしないといけないのか。子供も孫もいるのに挨拶もしないしされないうちに、お互いに感謝の言葉を改めて口にする機会もないうちに、どうして一人で暗い川の中に入って死ななければいけないのか。
 安楽死を認めれば安易な自殺が増えるからハードルを設ける必要がある。そういう制度設計なのだ。そんな理屈はわかっている。しかしそうではなくて、ひたすら個別具体的な誰かの人生の終わりとして、どうしてそれが許されないのかという気持ちが残るのだった。例えば余命宣告されて徹底した緩和ケアを受けて苦痛が来る前に安楽死を選択する、その間に身辺整理や必要な人に挨拶をする。そんなようなことが、どうして「この人」に許されないのか。
 発作的だったのかもわからないし、計画的だったのかもわからない。それにしたって、電車に飛び込んで死ぬことはかわいそうだ。「かわいそう」は相手を見下してそう言うのではなくてそれが自分自身や友人かもしれないと思えば悲しいから言っている。自身の肉体が損壊することを心底望んでいるとか、電車を本当に愛しているとか、そういった理由からではなくて電車への飛び込みを選ばざるを得なかったのだとすればそれは、かわいそうだ。


 顔も知らないし、男性か女性かも、年齢も職業も、家族や友人の有無も生い立ちも何も知らない。亡くなる瞬間を見たわけでも、遺体を見たわけでもない。
 忙しい人はしょうがない。学校でテストがあるかもしれないし退っ引きならない仕事があるかもしれない人達や、そうでなくても誰かが、単に「電車の遅れで生じた自分の日常の乱れ」として処理することは当然だ。でも、たまたま時間に余裕があって考える余裕があった人は、勝手に考えたり悲しんだりしたっていいだろう。たまたまその場に居合わせただけの赤の他人が誰か一人くらい、その時の気持ちを少し書き留めておいたっていいだろうと思った。