やしお

ふつうの会社員の日記です。

受信負担の社会で起こるあれこれ

 コミュニケーションで「相手の意図を汲み取る」ことが重視される社会ではどのような現象が見られるのか。


コミュニケーションのスタイル:発信負担と受信負担

 情報を発信者から受信者へ伝達させる場合に、受信が成功するには情報の「形成」が必要になると考えることにする。情報の形成は発信者と受信者の双方で行われる。

 発信者と受信者のどちらがより多く形成を負担するかというバランスがある。例えば「今ゆで卵を食べてるから台所にある塩取ってくれない?」と受信者に丁寧に意図を伝える場合が発信負担であり、「ん」とだけ言われて(今あの人はゆで卵を食べているから塩が必要なのかもしれない、「ん」は塩を私に取ってこいという意味かもしれない、塩はたしか台所にあったはず)と受信者が相手の意図を汲み取って塩を持ってくるような場合が受信負担となる。形成は、情報を付け足すことに限らず、不要な情報を捨てること、情報を整理すること、推論すること等々が含まれる。
 仮に伝達の成立に発信側+受信側のトータルで100の形成度が必要だとして、発信90+受信10で伝達の成立を目指すのか(発信負担)、発信50+受信50を目指すのか(双方負担)、発信10+受信90を目指すのか(受信負担)といった選択があり得る。


コミュニティごとの発信/受信負担の重視

 発信側の形成技術と受信側の形成技術は異なる。「相手に意図を伝える技術」と「相手の意図を汲み取る技術」は必ずしも一致しない。習得にコスト(トレーニングの手間や時間)がかかるとすると、どちらを優先的に習得するかという選択がある。理想的には発信技術100/受信技術100を持つ人になればオールマイティかもしれないが、習得コストがかかることになる。
 あるコミュニティに属する個人が発信/受信技術のどちらを優先して習得するかは、個人の選択に属するというよりコミュニティによって傾向が生ずる。仮に発信優先の個人と、受信優先の個人が混在している場合を考える。発信90/受信10の人(意図を伝えるのは上手いが汲み取るのは下手な人)から、発信10/受信90の人(汲み取るのは上手いが伝えるのは下手な人)へ情報を渡す場合は90+90=180となり、受信が成功するのに必要な形成度100を超えるため伝達が成立する

 しかし逆の場合は10+10=20となり100を下回るため成立しない。

 このようにコミュニティ内部で発信優先者と受信優先者が混在するとコミュニケーションが成立しない場合が生じてしまう。習得コストをコミュニティ全体で抑えながら、かつコミュニティ内部で伝達が上手く働くようにするために、発信技術と受信技術のどちらを優先してメンバーに習得させるかという傾向が社会やコミュニティ全体として生じてくる。これは二分されるわけではなく、例えば発信50+受信50を目指すといった方向性もあり得る。
 またコミュニティ内部で全体の傾向と反する個人が存在することも当然あり得る。受信負担の社会の中で、発信負担の個人が存在することは当然ある。(ただ、その個人は周囲に疎まれるといった生き辛さはあるかもしれない。)あるいは発信技術100+受信技術100の有能な個人もいれば、発信技術20+受信技術20の両方共が苦手な個人もいる。ただコミュニティ全体として発信負担/受信負担(または双方負担)といった傾向を持つというだけのことでしかない。


 受信負担の社会でどのような光景が見られるのかをここでは考えてみる。


空気を読む

 受信負担を前提とした社会では、相手の意図を汲み取る技術が発達する。これが進むと、もはや相手が何事をも表現していない場合でさえ勝手に意図を汲み取っていく。相手のわずかな仕草や表情、語調から意図を読み取る。「空気を読む」ことが常態化する。また受信負担が前提の社会では、他者も当然意図を汲み取る技術を身に付けているものと見なされる。「空気を読む」ことが周囲に強制される。
 「自分がどうしたいか」より「相手がどう思うか」が優先される。発信負担の場合でも「相手がどう思うか」は強く考慮されるが、それは「自分がどうしたいか」という前提の上でそれを達成するために相手の受け取り方を考えるという文脈で考慮される。一方で「空気を読む」場合のそれは、「自分がどうしたいか」を欠いているか、もしくはそれを犠牲にしてでも「相手がどう思うか」を優先するような態度となる。


教育

 発信負担の社会では「いかに意図を明確に伝えるか」「誤解を生まないように整理して論理的に伝えるか」といった発信技術の訓練がされる一方で、受信負担の社会では「意図を読み取ること」のトレーニングが主眼となる。ディベートをする、小論文を書く、そのための理論や技術を体系的に学ぶというより、「この時の作者の気持ちを考えよ」といったトレーニングを積んだり「思いやりが大切だ」「迷惑をかけないように」といった相手の意図を先回りして読むことの重要性が説かれたりする。
 発信負担の社会では、先回りによる誤解を生じさせないよう「勝手に意図を汲み取ってはいけない」「言外の意図を読み取るな」という禁止が教育がされる。たとえ受信技術を抑えても発信技術があればコミュニケーションが成立する。しかし受信負担の社会では発信技術が乏しいため、むしろ言外の意図を積極的に読み取るよう訓練される。


 また「空気を読むこと」の延長上で教育現場でも「一人だけ勝手なことをするな」という圧力が生じる。学校でまだ習っていない知識を試験で使うと不正解にされるといった本末転倒が起き得る。あるいは能力があったとしても他の子供に合わせて押さえ込まれたり、逆に能力が身に付いていないにも関わらず他の子供に合わせて強制的に進級されられるといったことが起こる。「出る杭は打たれる」と「出ていない杭は出ていることにする」が起こる。
 教育者は伝える技術=発信技術が職業上要求される。しかし社会自体が発信技術を伸ばすことにインセンティブを与えていない場合は、教育者であっても発信技術が平均的に低くなる。受信負担であることを無意識に是認している教員は生徒に伝わらない場合に、自身の伝える技術が不十分だと反省するというより、生徒側の能力の問題だという考えに傾きがちになるかもしれない。


説明が失礼にあたる

 受信負担の社会では他者の受信技術を低いと見なすことは失礼にあたる。そのため発信者が説明を尽くそうとすることは、相手の受信技術を低く見積もっているというメッセージとなり、説明することは失礼だという価値観が生じる。説明しようとすると相手が「言われなくてもわかってる」という苛立ちを示したりする。
 受信負担の社会では発信技術が発達しないかというと必ずしもそうではなく、受信負担を前提とした独特の発信技術が発達する。「ピアノがお上手ですね」という発言で「お宅のピアノの音がうるさい」という意味を伝えようとするような独特の発信技術が磨かれる。相手がギリギリ気付くラインを正確に射抜こうとする。これは嫌味というより、受信者の心情を過剰に慮った結果として生じる。
 この時、意図が伝わらず相手が「ありがとうございます」と本気で言えば「あの人はわかっていない」=「あの人は受信技術が低い」と陰口が叩かれることになる。そう蔑まれる恐れからさらに受信技術を上げ、その向上した受信技術のさらにギリギリを試すような発信技術が磨かれるというエスカレーションが発生する。
 発信負担を前提とした人からは、それは発信技術には見えない。発信負担での発信技術が相手に十分に伝わることを目的とする手段であるなら、この受信負担で発達した発信技術は相手に伝わるかどうかギリギリを試すような手段となる。


冗長な説明

 受信負担において説明が失礼にあたるとしても、そのことで説明が短くなるわけではなくかえって冗長になる。相手が「言われなくてもわかる」と不快に思う説明レベルが正確にわからない場合、要点を突かないように少しずつ回り道をしながら情報を小出しにしていき、相手が「言われなくてもわかる」となる寸前で止めようと探る。あるいは「ご存知かと思いますが」「先日ご説明したかもしれませんが」といった前置きがいくつも重ねられる。
 相手との信頼度が低い場合(遠慮している場合)に顕著になる。これも受信負担の社会では発信技術が発達しないわけではなく、発信技術が奇妙な方向へ発達する例だ。


挨拶・礼儀・マナー

 受信負担の社会では「自分がどうしたいか」より「相手がどう思うか」が優先される。さらに他者もまた自分に対して「相手がどう思うか」を考慮してくれて当然だという認識になる。しかし「相手がどう思うか」は、実際に行動して初めて現実に発生するため先行して知ることは原理的に不可能だという制約がある。この制約の中で「私はあなたの気持ちに配慮しています」と事前に表明するための、お互いが了解している記号として挨拶や礼儀やマナーが過剰に発生する。
 mixiの挨拶なし足跡禁止、LINEの既読無視禁止、Twitterの無言フォロー禁止、リプライ時の「FF外から失礼します」という挨拶、メルカリの無断入札禁止、といった礼儀が次々に発生する。「上司にビールを注ぐ際はラベルを上向きにする」「『了解』は目上の人に使ってはいけない」といったマナーが次々に捏造される。
 受信負担の社会の成員は「こいつは空気を読めていない」「こいつは配慮できていない」と思われるかもしれないという不安に常にさらされる。そのためわずかでも新たなマナーが誕生する余地があれば誰かがその隙間にねじ込んでくるし、それがたとえ不合理なものであっても「万が一相手が気にする人だといけないから」という恐れのために採用されてしまう。「相手が実際に気にすること」⊆「相手が気にするかもしれないこと」という関係があるために、安全側に振ろうと後者をカバーすれば挨拶や礼儀やマナーが増殖する。


謝罪:真意と不快な思い

 発信負担が前提の社会であれば、発信者が言ったことが全てであり、言わなかったことは存在しないと見なされる。「発信者が言っていないこと」を受信者が勝手に見いだすという行為が基本的に禁じられている。しかし受信負担が前提の場合、発信者が言わなかったことも受信者が見いださなかっただけで存在すると見なされる場合がある。「発信されなかったが実は存在していた意図」が「真意」と呼ばれる。
 受信負担の社会では「真意が伝わらなかった」という弁明がされる。発信負担であれば伝わらないのはまず発信者の責任であり、「真意」が伝わらなかったのなら言わなかった/正確に表現しなかった発信者へ責任が全面的に帰する。しかし受信負担であれば受信者の責任だという理屈が生まれ、発信者の責任を曖昧に回避することができる。


 また受信負担の社会では「不快な思いをさせたことをお詫びいたします」という謝罪が見られる。受信負担では「空気を読めなかったこと」「相手の気持ちを慮れなかったこと」が非難される。これに対する詫びが「不快な思いをさせて悪かった」となる。具体的に発生した利害を見ずに、あるいは実害に対する非を認めることなしに、ただ「空気を乱したこと」のみに矮小化して謝罪のポーズだけを見せるという振る舞いが生まれる。
 「真意が伝わらなかった」と謝ることで責任の所在をすり替え、「不快な思いをさせた」と謝ることで非の所在をすり替える所作が生まれる。


自粛・クレーム

 受信負担の社会では、現に発生した利害の大きさより、発生するかもしれない利害に対して敏感になる。「相手が実際に気にすること」⊆「相手が気にするかもしれないこと」という関係があるため過剰な自粛や中止に繋がり易い。たとえ10人中9人が「別に良い」と思っていても1人が発した不満に敏感に反応してしまう。店員同士のおしゃべりも、消防隊員が休憩するのも、災害後のCMも、園児の公園での遊びも、自粛される。


 発信負担であれば、不満があれば不満を持つ側が発信するのが前提と見なされる。一方で受信負担では、不満があるかもしれないことをあらかじめ潰しておくという姿勢が取られる。クレームに対する態度も「来たらその時に対応する」というのが発信負担的なスタイルだとするなら、「来ないように最初から対応しておく」というのが受信負担的なスタイルとなる。この態度は企業が製品をリリースする場合にも現れるかもしれない。ここでも「実際に発生する利害」⊆「発生するかもしれない利害」という関係があるため受信負担の方がどうしても対応するコストが嵩む傾向にある。


おもてなし

 クレームや不快感、不満や文句を先回りして潰すという態度はコストがかかるとしても快適ではあり得る。先回りして潰す作業を不断に続けることで洗練へ向かう。電車のダイヤは精緻になり、小袋は「どこからでも切れます」になり、おすしのパックは蓋の裏に醤油受けができ、社内で使うだけのプレゼン資料の作成に異常な時間をかけたりする。そうした洗練に向かわない社会では冷凍食品のパッケージはずっとボール紙のままで水に濡れてぐしゃぐしゃになるし、電車のダイヤは乱れたままとなる。「おもてなし」の手厚さが個人によるものだけでなく企業のサービスや製品といったあらゆる場面で発達する。わずかな隙間も見つけて洗練を極めていく。
 「やりがい搾取」と呼ばれるような現象もここに根差すのかもしれない。安い賃金で働きながら過剰なサービスや配慮が要求されるのも「おもてなし」が当然視されている中で成立する。


ずるいという感覚、不満の抑圧とその爆発

 受信負担の場合、「自分がどうしたいか」より「相手がどう思うか(思うかもしれないか)」を優先する。そのため禁止や抑圧が広く働く。仮に、誰もが損得勘定を持つとして、受信負担の場合は禁止や抑圧によって「損」の側に振れやすい環境となる。空気を読まずに気楽にやっている人を見ると「自分は我慢・配慮しているのにあいつはずるい」という損得勘定が働く。損得勘定自体は受信負担か発信負担かに関わらず存在するとしても、受信負担では最初からマイナスに振れているために余計にこの勘定が強く働く。
 店員のおしゃべりや消防隊員の休憩を許せないという感覚も「自分は普段我慢して働いているのにお前らずるい」という感情から来るのかもしれないし、なぜか最初から他人にキレている老人も「自分は人生ずっと我慢してきたのに」という鬱憤から来るのかもしれない。
 電車で隣の人の肘が当たることに苛立ちを募らせ何度も押し返したりアピールしても改善してもらえずについに怒り出すとか、優先席の前に立っていたのに席を譲ってくれずに老人が怒り出すとか、妻が子育てや家事で夫に何かを指示せずに「どうして分からないのか」「言わなくても分かるのが当たり前だ」と怒ったりするのも、発信負担が前提の人から見れば「最初から口でお願いすればいいのに」と見えるかもしれない。
 会議でずっと黙っていた人が急に発言したと思ったらいきなり半ギレで詰め始める。自分は空気を乱さないよう黙って我慢していたのに、好き勝手に発言している人を「ずるい」と思い始める。あいつばかり「自分はわかってる」みたいな顔をするのは許せない。そうして穏やかに言えば済むのに相手を否定して打ち負かすような言い方をしてしまう。
 「空気を読むこと」は我慢や忍耐と一体となる。災害時でも混乱せず静かに列に並び、政治的な不満があってもデモをせず、労働組合が極端な労使協調に向かうことも、「空気を読めていない」と周りから思われることの忌避感から来るとするなら、ひとたび空気の流れが変われば一気に逆方向へと振れることもある。空気による抑圧が解消され、「みんなも好きにやってるんだから」という言い訳が用意されれば安心して何の抑制もなく過激に振る舞うことができる。
 おとなしいのにキレやすいという二面性が生じやすい環境に置かれる。


 苦労を美徳とする価値観は、この「自分(たち)は我慢している」という感覚に根差しているのかもしれない。損得勘定によって「だからお前たちも我慢すべきだ」となり、さらに「だから我慢・苦労は良いことだ」と転倒していく。真夏の炎天下に高校生を屋外で試合させるとか、社員にあえてトイレ掃除をさせるといった合理性を欠いた振る舞いも、苦労を美徳とする価値観が引き起こすのかもしれない。


善意の押売りと受領の強要

 受信負担の前提では「相手はこうしてほしいのかもしれない」という予測が働くが、相手の具体的な発信がなくても勝手に受信してしまいアクションが実行されることがある。それは「おもてなし」の一種だが、この時そのアクションが相手の望むものとズレていた場合は善意の押売りとなる。そして善意が相手に拒絶されると「せっかくしてあげたのに」と怒る。被災地に着古した衣類を送りつけて廃棄されると怒ったり、恋愛で「こんなにしてあげてるのに」と怒ったりする。
 善意の押売りという現象自体は発信者負担でも起こるが、受信者負担では「自分を犠牲にして相手のためにやっている」という感覚になる一方、発信者負担では「相手がどう思うか知らないが自分が好きで勝手にやっている」という感覚で起こるため、内在的なロジックが異なる。このため相手から謝絶された場合に受信者負担では「こっちは損をしたのにずるい」あるいは「わざわざしてあげたのに空気が読めていないと思われるのは許せない」と怒りを覚える一方で、発信者負担では「あらそう」となるだけで済む。(ただ、発信者負担の場合は受信技術が低いために「謝絶された」と理解されずに「またまたぁ」「遠慮しないで」とさらに善意の押売りが継続されたりする。)
 受信負担では「(仮想的な)リクエストを受け取ったから善意を施す」というロジックになるため善意を施す主体はあたかも受信者として振る舞う。そのため善意を謝絶されると「あなたが欲しいって言ったじゃないか」と(実際には何も言われていないのに)裏切られたような気持ちがわき起こる。相手からすれば、望んでもいないことを勝手にしておいてしかも怒り出すのだから迷惑千万だとしても、善意を施した側は「あなたに言われてやった」ような感覚でいる。逆に発信負担では善意を施す主体は発信者となる。


世間の強さ:過責任と無責任

 空気を読むことの抑圧によって損得勘定が損の側に振れている。これが社会全体で起こる。この時「ずるい」がひとたび発生すると一気に伝搬する。飲酒する高校生や、店の冷蔵庫にふざけて入るバイトが見つかり「こいつは叩いていい」とひとたび認定されると一斉にみんなで叩く。叩かれる姿を見て、我慢していた自分は正しいのだと安心する。例えば飲酒は当人の健康へのリスクが(未成年者飲酒禁止法の罰則規定が当人ではなく保護者や提供者にある)、冷蔵庫に入るのは店の清掃費用や客を失うリスクがあるのだとしても、そうした利害関係を越えた世間の人々によって叩かれる。本来の責任の範囲を越えたダメージが与えられることになる。過責任が課せられる。
 発信負担の社会でもある個人を世間が一斉に叩くことは起こる。ただ、不正義を働いたからとか悪だからとか社会的責任を果たしていないといった場合に限らず、それが不正義とは言いがたい(現実的な害悪がさほどでもない)ただルールを破ったということだけでも過剰な攻撃が加えられるのは、空気を読むことの抑圧によるのかもしれない。
 そして過剰な責任を負わされると分かっていれば、誰もが責任を回避しようとする。学校が「いじめには当たらない」と認めなかったり、「不具合が許されないプロジェクト」が誰も不具合を報告しないプロジェクトになったりする。責任を曖昧に繰り延べてゆき、どこかで「叩いていい」認定された誰かが現れたら、その人に本来の責任範囲の外まで全てを負わせる。
 過剰な責任は責任の回避を招き、責任の回避が過剰な責任をさらに引き起こす。過責任と無責任が相互に誘引し合う。


空気感の共有による安心

 受信負担を前提としている場合「今自分は空気を読めているか」という不安に常にさらされる。その不安の解消が必要になる。
 テレビのニュースで街頭インタビューが挿入される。長距離バスターミナルが完成したというニュースで「集約されて便利になると思います。」と一般人が答えるだけの2秒ほどの映像が挿入される。それは何ら新たな情報を加えることも、補強することもない、無意味な映像だとしても、「みんなはこう思っていますよ」「あなたもそう思って大丈夫ですよ」という安心感を視聴者に与える。こうしたインタビューではテレビクルーからほとんど「こういう風に言ってくれ」と要求される。
 騒ぐ子供に親が「周りに迷惑でしょ」と注意する。そうしなければ周囲から「迷惑をかけさせるな」という空気感の圧力をかけられる。空気ばかりか実際に「うるさい」「しつけろ」と言われもする。叱っていますよという態度を示して「私はちゃんと空気を読めていますよ」というアピールをせざるを得なくなる。その子供の迷惑が実害とすら言い難い程度のものでも「他人に配慮すること」が強要される。保護者がいなければ子供自身にさえそれが要求される。電車通学の子供を当然のように邪魔そうに扱う大人がいたりもする。


よそとうち

 海外や別の会社など自分が「よそ者」であるような場では、「今自分は空気を読めているか」という不安がより強く起こる。周囲の他者が自分をどう見ているかが十分に予測できないためだ。必死で同化しようと協調的に振る舞う。
 しかしその場に仲間がいると「自分は許されている」と感じられて安心する。ところがこの安心感は十分に安定したものではなくまだ周囲の「よその空気」の不安にさらされている。自分とその仲間が認め合うこの空気感を肯定しようとするあまり、周囲に対しては「自分達はお前らとは違うんだ」「自分達の振る舞いの方が正しいんだ」とアピールするように傲岸に振る舞うことがある。
 一人で「よそ」にいると心細そうにして、過剰に周囲と同化しようとするのに、仲間といると途端に傲岸不遜になる。「うち」にいる間はおとなしい人達が「よそ」で仲間といると急に気が大きくなる。


 この「よその空気」は想像されたものであって現実に存在しているとは限らない。「よそ」が発信者負担の社会で空気を読むことの強制力が働いていない人々であれば、周りはそもそも「こいつらはよそ者だ」という認識を強く抱いておらず、当人ばかりが「自分はよそ者だ」という感覚を抱いているかもしれない。
 「うち」と「よそ」を分けてその所属を意識するという感覚自体が「空気を読む」ことの強制力に由来し、「空気を読む」ことの強制力は受信負担のコミュニケーションスタイルに由来する。


組織の意思決定

 空気を読むことを重視する価値観の染み付いた人が管理職に就くと、この自分が組織の意思決定をするというのではなく、みんなが作った空気を組織の意思としようと考える。さらに上の上司もまた同様の考えである場合、ついに誰も主導権を握らず決定権者が曖昧になる。
 会議や打ち合わせで関係者全員を集め、ある空気が醸成されればそれが「組織の意思」とされる。全員で曖昧に「反対意見が出なかった」という既成事実によって「決定したとみなす」というスタイルのため、会議や打ち合わせが長引く傾向にある。空気感の決定に携わらなかったという非難を恐れて参加者も膨れ上がる。
 その一方で、ある空気感がひとたび醸成されるとそれを覆すことは「空気を読むこと」に反するため困難になる。あるプロジェクトが立ち上がりリリース日程が既に確定されみんなでそこに向かって全力を尽くす、といった空気感が形成されてしまうと反論すら許されないような雰囲気になる。
 地に足のつかなさと頑なさが、決定権者の不在によって組織に同居する。
 お互いの管理職が意思決定をしないため末端の担当者同士が協働する。管理者がトップダウンで指示を下ろすというより担当者がボトムアップで積み上げていくスタイルになる。管理者は自分で意思を構築するというより上がってきた案件を承認したりダメ出しをする役割になる。


発信負担との衝突

 発信負担を前提とした人と、受信負担を前提とした人とがコミュニケートする場合、受信負担の人が損をすることが多い。発信負担の人は要求や意見があれば自分から発信する一方で、受信負担の人ははっきりと要求を伝えず相手に気付いてもらえるようほのめかす。しかし発信負担の人は「もし要求があれば相手ははっきりそう言うはずだ」と考えるため、そうしたほのめかしには気付いてもらえない。一方で受信負担の人は発信負担の人の要望に敏感に反応するし、何なら先回りしてその要望に答えようとする。
 交渉ごとでさえこうした状況が生まれたりする。受信負担同士の交渉では皆まで言わず阿吽の呼吸で進められた話が、発信負担が相手だと黙ったまま相手の一方的なペースに巻き込まれていく。
 こうして受信負担の人が損をする。


受信負担への反動

 受信負担に過度に傾くと抑圧が強まり息苦しくなる。あるいは発信負担の人との交流の中で一方的に損をしたりする。こうした不利益を自覚した人々が、バランスを取るために発信負担へ若干シフトする。「気を遣うのをやめたら、他人が気を遣わないのにイライラしなくなって楽になった」「言いたいことをちゃんと言うようにしたらかえって上手くいった」といった感覚を抱きながら揺り戻しが起こる。これらは受信負担をやめるというより、発信10:受信90から発信30:受信70といった程度に個人がシフトする。
 教育では例えば「思いやり」といった名前で受信負担が称揚される。受信技術を上げることが正しいことだと刷り込まれているため、自身の受信能力をより向上させようとするし、他者の受信能力が低いことをけなしたり非難したりする。こうして全体として受信負担の傾向を強めていく。一方で強まり過ぎると不利益・副作用が起こるため、受信負担の傾向を弱めようとする揺り戻しが起こる。システム全体としてはこの揺り戻しによって受信負担がある程度で均衡するのかもしれない。


 受信負担の個人が発信負担の個人とコミュニケートして損をするとしても、それを社会vs社会にただちに敷衍することはできない。発信負担の社会に接することで、受信負担の社会全体が発信負担へとシフトするとは言えない。






 上で書いた話が、日本の社会のあれこれに似ているとしてもそれは(現時点では)偶然でしかない。ここでは「受信負担を前提とした場合にどういう現象が出てくるのか」を形式的に見ようとしただけだった。宇野弘蔵の三段階論のように、形式的な原理論を構築した後に、なぜそうなるのかという過程を段階論として追い、その上で現状分析によって異同を明らかにしてようやく、「日本の社会と似ている」「似ていない」という話をすることができる。ここでは原理論のアイデアを書いてみただけに過ぎない。原理論は現実の現象とどれほど一致しているかは問題ではなく、その形式的な正しさだけが問題となる。形式化は、体系全体の自律性が揺らぐ地点まで形式化して初めて「徹底した」と言えるような営みだから、まだまだ不十分としか言えない。
 例えば中野千枝の「タテ社会」や土居健郎の「甘え」といった日本社会の諸特徴を説明しようとした理論も、別にこの「受信負担」によって含むこともできるだろうし、逆に「受信負担」の方をそれらに接続することも、どちらも可能なのだろうと思う。


 仮に日本が受信負担を前提にしたコミュニケーションを取るタイプの社会だとして、例えばアメリカは50:50くらいなのかもしれない。日本から見ると相対的に発信負担に見えるかもしれないだけで、実際には受信負担的な面もかなりあるような気がする。そもそも受信負担がゼロではコミュニケーションが成立しないため、どれほど発信負担の傾向が強い社会であっても受信負担の現象がゼロにはならない。
 例えば中国やブラジルといった国の方がより発信負担が強い国なのかもしれない。中国人に対して「空気が読めない」とか「上手くコミュニケーションできない」といった印象を抱く日本人がいるとしても、それはコミュニケーションそのものの捉え方がそもそも違うからそう見えるだけでしかない。受信能力=コミュニケーション能力だと思い込んでいるために、コミュニケーション能力が低い、と見えるだけでしかない。
 またタイは日本以上に受信負担のようにも見える。イギリスは西欧の中でも受信負担的なのかもしれない。越智道雄『ワスプ(WASP)』では、同じアメリカ人でもWASPは、自己主張が強いのは忌避される価値観を持っていると指摘されていることもあって、受信負担的なのかもしれない。閉鎖的で流動性が低いコミュニティであれば、相手の意図の予測がより容易になるために受信負担の傾向が高まるのだとすると、例えば日本やイギリスが海によって大陸から隔てられた地域であるといった地理的な条件から受信負担の傾向が導かれたりするのかもしれないが、それは段階論の仕事になる。
 それから日本の中であっても大阪は(他の地域に比べると相対的に)発信負担が強い傾向があるのかもしれない。これらは本当にただの個人的な印象でしかない。
 同じ国の中でも地域や組織によって差はあり、さらに同じコミュニティの中でも個人によって差がある。そして受信負担に傾き過ぎるのも息苦しいが、発信負担に傾き過ぎた社会もそれはそれで別の生き辛さが生じてくる。