やしお

ふつうの会社員の日記です。

サラリーマンが何なのかよくわからなかった

 地方都市から東大に進学した人の書いた、地域に大学がなくて大学生を見かけることもなくて親族や友人に大学生・大卒がいないと、そもそも「大学に行く」というイメージが持てない、という記事↓
「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由(阿部 幸大) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
が話題になったのを少し前に見て、ああそれは実感としてなんかわかるという気がした。
 自分の場合は大学というより「会社」とか「サラリーマン」というのがそれだった。大手メーカーに就職して10年になるけれど、自分で入るまで会社やサラリーマンが何なのかまるで謎だった。それは地域差が主要因というより、「会社員」の持つ説明のしづらさと、それを能動的に説明する人と触れ合う機会が無かったということに尽きるのかもしれない。


 岐阜市の出身で、両親とも小さなパチンコ屋の店員だった。小中の同級生を思い出すと、病院院長の息子、新聞販売店の娘、鞄屋の息子、神主の息子、寿司屋の息子、税理士の娘、経営者の娘、教員の娘、表札職人の息子、電気工務店の息子……などなどがいたのは覚えているものの「サラリーマンの家の子供」というのはよくわからない。いたはずだろうけどそう思って見ていなかったからわからなかったんだろうと思う。ただ自営業者が多い土地柄だったのは確かかもしれない。自分の親がサラリーマンなら「あの子のお父さんもうちと同じかな?」と意識する機会もあったかもしれない。


 「サラリーマン」というものが存在することは知っていた。サザエさんの波平やマスオ、クレヨンしんちゃんのひろしのおかげで「サラリーマン」や「会社員」という職業があるらしいとは知っていた。でもサザエさんもしんちゃんも別に「彼らが具体的に社内でどのように働いているか」を描いたアニメではないからそれ以上のことはよくわからなかった。コナンだと新一の父親は小説家、母親は俳優、蘭の父親は探偵、母親は弁護士だし誰も会社員ではない。子供向けアニメでサラリーマンの具体的な働き方が描写されることは少ない。「なんかサラリーマンはつらいらしい」と漠然と思っていた。
 テレビドラマも、小学生だった20数年前は「普通の人が普通に会社で働くこと」を題材にしたものはあまりなかったような気がする。そもそも親がテレビドラマを見ないから自分も見ていなかった。


 両親が仕事の話を家の中でしても、ほとんど母が他の店員の悪口や噂話を父に一方的にして、父が「ああ」とか「うん」とか言うばかりだった。両親とも「大きな会社で働くこと」がどういうことかは知らなかっただろうと思う。
 戦争直後に生まれた父は高卒で九州から大阪へ集団就職したらしいけど数年でやめてあちこちふらふらしながら最終的に岐阜に来たみたいだった。母は岐阜の山の農家に生まれて中卒で名古屋の美容室で住み込みで働いた人だった。親戚にも会社勤めをしている人はいなかったし、そもそも親戚付き合いがなかった。自分の身近で大企業で働いているような人はいなかったし、どういう風に働くのかは想像したこともなかった。


 90年代末の中学生の時にITバブルが起こってパソコンにはまってそういう方面に進みたいなあと思っていたら情報系の学科のある総合高校というのがあるというので最初はそこに行こうとしたら中3の時の担任が家庭訪問で「今の学力なら高専という選択肢も……」と言われてはじめて「高専高等専門学校)」という存在を親子ともども知って結局、高専に入った。高専に入ると「お前たちはエンジニアになるのだ」ということを言われて、エンジニア、技術者が実は何なのかよく分かっていなかったけれど、漠然と(そうか自分はエンジニアになるのか)と思っていた。この時点でも自分がサラリーマンになるという認識はまるでなかった。
 結局高専は本科5年+専攻科2年いて、就職する時も学校から見せられた求人一覧から東京に本社があるメーカーを選んで(ずっと岐阜にいて飽きたので)、その一社だけ受けたら受かったので入った。コンシューマー向けの製品を出していて単に「名前を聞いたことがある」ということと東海地方じゃない会社だったから選んだだけだった。
 本当に何となく印象だけでよくわからずに決めていたら会社員になっていた。
 この時点でもまだ「会社で働くこと」のイメージがまるでよくわからなかった。同級生とそういう話をすればある程度分かったのかもしれないけど、高専の7年間はほとんど交友関係の構築に失敗していた(その頃は社会性に欠けていた)のでよくわからなかった。


 結局、会社で働くことのイメージが何も湧かないままとても不安に思いながら地方からよくわからないまま出てきて会社に入ったのだった。
 入社直後から1ヶ月間、同期全員での新人研修があってビジネスマナーとか社内の組織とか仕事の仕方とか色々教え込まれて急に「お前たちはビジネスマンだ!」と言われたので(えっ自分はビジネスマンなの?)と思っていた。この時点でもまだよくわかっていなかったと思う。実際に職場に配属になってみると、そこがたまたま20代が一人もいない職場だったこともあって随分大切に扱われた。職場の人たちはビジネスマンではなかったし、エンジニアでもなかった。別にピリピリもしていなかったし(ゆるいやんけ定食。)と思った。


 学生の時いくつかバイトもしていたけれど、ずっと「仕事は言われたことをやるもの」だと思っていたし、「仕事は嫌なことを我慢してやるからお金がもらえる」「その時間拘束されることでお金がもらえる」ものだと思い込んでいた。本当に仕事の要領が悪かった。今思えば、そう思い込んでいたからこそ「自分で考えて改善してみる」とか「工夫してみる」とか「自分の決定権の範囲を拡大させる」とか「怒られないようにしておく」といった発想がなかったせいでバイトも上手くやれなかったんだと思う。
 会社に入っても最初はその思い込みがまだあったし、実際入ったばかりの頃は具体的な作業を指示されてそれをやる(あるいは曖昧に放置されている)という感じだった。ただ職場で周りの人達を見ていると、自分でやり方や予定を決めてやっていたり他人や他部署と調整しながら進めているのを見てようやく(あ、自分で決めてやっていいんだ)というのが分かってきた。あるいは組織デザインやマネジメントをきちんとやる上司(珍しいけど一人だけいた)を見て、(あ、そういう風にやるんだ)と知った。そうして実際、自分で「こうした方がいいかも」と思ってやっても怒られないし、「こうした方がいいのでは?」と言って納得してもらえれば変えさせてくれる経験の積み重ねで少しずつそうした思い込みが晴れていった。そもそも「仕事はある範囲で自分で考えて決めていい」ということ自体を知らなかったし、考えたこともなかった。
 あるいは、こういう場面ではどこの誰に相談すればいいのかとか、どのタイミングでどのくらいの粒度で誰に報告すれば良いのかといったことが分かってくる。これらは相手の立場に立って考えてみて「こうされるとあの人は困るな」というのを逆算して回避していけばだんだん理解できていく。
 そうして3年くらい経ってようやく会社員しぐさが身についてきて「ああ、これが会社で働くって感じなのか」と理解できた気がする。


 「会社の中で働くことって何だろう」というのを意識するようになって初めて、実は本屋に行けばビジネス本なりハウツー本なりが並んでいるし、サラリーマンを題材にしたエンタメ小説だってあるということに気付いた。(気付いたものの読みはしないけれど……)学生の時に本屋でバイトをしたこともあったし、どちらかというと本をよく読む方ではあったと思うんだけど、そういうビジネス本というものがあるということに当時は気付かなかった。というより「自己啓発本」「ビジネス本」「ハウツー本」という名前のジャンルがあるということは知っていたけれど、それが何について書かれたものなのかよくわからずにいた。
 目にしていたはずなのに気付かないというのも不思議だけど、そもそも「上手に働く方法」を身に着けたり考えたりする余地がある、という発想そのものがなければ、それを解説した本があるということにも気付かない。


 本当に「知らない」という一言に尽きる。存在をそもそも知らないことは調べようと思うきっかけすらない。
 視野が狭いと言われればその通りだろうけど、そもそも「視野の外側が存在する」と知らなければ見ようとする機会がない。
 釧路から東大に行った人の記事も、教育格差・文化格差が世帯の貧富にのみ依拠するわけではなく地域差にもよるという話だった。教育機関や文化に触れる機会が身近になければ、というよりそれを身に付けた人による能動的な接触がなければ、「そもそも存在することを知らない」ままになってしまうが、それは世帯収入の多寡だけでなく地域性(あるいは親類や交遊関係)によっても左右されるという。「会社で働くこと」のイメージにしても同じかもしれない。


 そしてこれは会社員に限った話でもなくて、政治家とか研究者とか起業家、国際機関の職員とかでも同じことだと思う。そういう職業があるということは知っていても、具体的に何を考えてどういう仕事をしているのか、どういう経緯でなるのかを身近に触れていないと「自分がそれになる」と想像することも難しい。
 実のところ身近にそうした人がいなくても、その当事者が書いた本、新書の一冊でも読めば分かるけれど、本は向こうからやって来ない。自分から手に触れないと本は読めないけれど、触れるべきものだと思わなければ触れる機会がない。実際、自分自身がそうした色々な職業の人の本を読むようになったのも、自分が働き始めて「働くってなんだろ?」と実感を持って考えるようになった時に、じゃあもっと相対化させようとか、別の職業の人が何を考えて働いているのか知りたいとかいう発想が出てきてからようやく手に取っただけで、それ以前は小説や批評しか読んでいなかった。
 「知らなければ知らない」はどこでも起こっている、ありふれた話だとは思う。


 それにしても自分が比較的大きな会社で何となくサラリーマンになって、周りに毎日怒られたりお金がなくて辛い思いをすることもなく今生きていられるのは本当に運でしかない。自分で自分の仕事をある程度左右できる自由を持ち得ている(と感じられる)のも本当に偶然でしかない。
 中3の担任が高専の存在を教えてくれなければメーカーに入ることもなかったかもしれないし、そもそも自分の母親が「パチンコ屋の店員の子供だからと人に言われないようにしたい」という見栄?を張らなければ、あるいはそもそも親の知的水準が低ければ、あるいはもっと抑圧的で子供を否定して育てるタイプの親だったなら、今もバイトで周りに「使えない」と言われながら働いていたって全く不思議ではない。むしろ環境的には自分はそうなっていた方が自然だったんじゃないかと時々思うことがある。


 釧路から東大の人も、この種の「自分はたまたま運が良かっただけだ」という実感をその記事の中で語っていた。この「たまたま恵まれただけだ」「そうでなかった人を犠牲にして自分はいるのではないか」という罪悪感のようなものが、(自分も含めて)こうした記事を書かせるのではないかとも思う。
 「カツ丼の存在を知らなければカツ丼を食べたいとは思わない」というのはあらゆる分野であらゆる階層であらゆる要因によって、本当にありふれたこととして不断に起こっている。「貧富差や地域差によって教育機会や文化へのアクセスが変わる」という話はその裏腹に「お金持ちの子は貧乏人の生活や苦しさを想像する機会がない」という話をすることだってできる。本当に言おうとすればいくらでも言える。それでも自分が偶然カツ丼の美味しさを知ってしまったら、それを知らずに過ぎていった人達への申し訳の無さや、「知らないままだったかもしれない自分」への恐怖から「ここに知る機会の差がある」と殊更に声を立てずにいられなくなるし、それを自分の体験に引き寄せて具体的に記録しておくことも、それがありふれていたとしても、無益ではないと思う。




 甥っ子にもし「会社員って何」「どんな仕事してるの」の話をするならどう伝えるだろうかと思うことがある。

  • 例えばもの(車でもゲームでも)を作ろうとすると一人では難しいことがあるけど、みんなでやればできたりする。
  • そのためにはみんなで役割分担をする必要がある。「どんなものなら世の中の人が欲しがるか」を考える人、設計図を書く人、材料を買ってくる人、材料を加工する人、組み立てる人、できた品物を売る人、苦情を受け付ける人……
  • それぞれの役割の中で、もっと上達できるように工夫したり努力したりする。野球選手がそれぞれのポジションで自分の能力を磨くのと似ているかもしれない。同じ仕事でも早くできるように、楽にできるように、上手にできるように工夫したりする。
  • 「それぞれの役割」も一人ではやりきれないことがある。例えばアニメなら一人で全部の絵を描くことはできないから「絵を描く人」もたくさん必要になる。同じ仕事をみんなで分担する必要がある。
  • 同じ役割を持つ人をグループにまとめて「課」にしたりする。役割が近かったり協力した方がいい課をまとめて「部」にしたりする。
  • 課の中でみんなに仕事を上手に割り振る役目の人がいて、それが課長。トラブルが起きたり仕事が上手くいっていないところに人を多目に割り振ったり、忙しい人の仕事を暇な人にまわしたりといった調整をする。最終的に「その課の仕事」をどうするかは課長が決めるし、「その課の仕事」が上手くいかなければ課長のせいになる。
  • たまに役割が変わって別の課に移ることもあってそれを「異動」と呼ぶ。野球で言うとポジションが変わるコンバートみたいなもの。この人はこっちの仕事の方が合ってるとか、あっちの課は忙しくて人が足りないとか色々な理由で異動になる。
  • 会社員、サラリーマンはそうした役割の一つを担当して進めていく。大きな会社でたくさんの人が働いていれば役割の範囲は狭くなるし、小さな会社だと一人で多くの役割を担ったりする。これは大企業の会社員の方が暇という意味ではなくて、自主製作の5分間のアニメなら一人で脚本を書いて絵も描いて声もあてて作曲もするかもしれないけれど、2時間の超大作アニメなら分業してさらに同じ役割も複数人で分担してやる、というような意味。
  • どうやったら仕事の割り振りを上手にできるだろうか、どうやったらみんなで協力して上手く仕事ができるだろうか、しんどいときどうサボればいいか、といったことは職種に関係なく「会社(組織)で働く技術」として共通にあって、それを身につけると上手に楽に働けるようになる。野球やサッカーに競技特有の技術がある一方で、「体幹を鍛える」とか「走り方」とかある程度共通した技術があるのと同じ。


 あとは自分の仕事の話を具体的にすれば少しはイメージを持ってもらえるかもしれない。
 こんな話、少し考えれば当たり前のことなのに、実はこの当たり前のことが自分はよくわかっていなかった。「大きな仕事の一部を分担してやる」というのは説明しづらかったり作品(ドラマとか漫画とか)になりづらかったりして、身近にそうした人がいないとなかなか知る機会もないのかもしれない。