やしお

ふつうの会社員の日記です。

担当の美容師がやめる

 歩いて5分くらいの小さな美容室に2年くらい前から行っている。半年ほど前から指名していた男性の美容師が店を辞めて、故郷の札幌に帰って別の店で働くという。
 美容師の指名なんて今までしたことなかったし、する必要を感じたことがなかった。30歳も過ぎてから、生まれて初めて指名してみた人がいなくなるので、まあちょっと、いなくなるんだなあと思って。


 初めてその人に切ってもらった時は不満だった。前髪がアシンメトリーにされて、全体的にかわいい感じにされた。いつも「後ろと横は刈り上げの手前くらいに短く、前は眉にかかるくらいで」と大雑把なことしか言わないので、確かに要求仕様には適合している。でも会社員のおじさんがアシンメトリーなんていやだ、恥ずかしいと思った。家に帰ってじっくり見てから失敗したかなあと気付いた。
 でも整髪料できちんと整えるとなんかいい感じかもしれないと思った。(え、やだあたし……すてき……)とちょっと思った。


 でも指名はせずそのまま通っていた。
 以前は20席くらいあるチェーンの大きな美容室に行っていた。美容師もたくさんいたし指名なんてしていなかったから、誰が誰かなんて向こうもこっちも覚えてない。その方が気楽だった。
 カットだけなら割安だからそこに通っていたけれど、歩いて20分と遠くて、4年ぐらい経って(なんでこんな遠くまで行かなきゃいけないんだ)と急に思って近所の小さい美容室に変えた。
 小さいから指名しなくても1年も通えば同じ人に何度か当たるし、美容師の顔も覚える。その人に当たるとまた、その、ちょっとかわいい髪型にされる。他の人には全く不満はなかった。(まあこうなるよね)と想像している範疇の髪型になる。


 それで、そのうち美容院に向かって歩きながら、(今日はあの美容師に当たるといいけど)と思って、ああ、そうか、指名ってだからするんだ、と急に腑に落ちた。それで半年くらい前から予約する時に500円の指名料でその人を指名するようになった。
 美容師の指名制度があるなんてことはずっと前から知ってる。でも「自分が指名をする」と考えたことがなかったから、そうしようと思いもしなかったんだった。


 美容師はみんなプロだから、プロのことは信じる、だから誰が切ってくれたっていい、俺の頭がどんな風になっても受け入れるぜ、という気持ちでいつもいて、だから指名したこともなかったし、出来上がりに文句を言ったこともなかった。
 でも、それは結局、関心がなかっただけだと思う。
 たぶんずっと、伸びてきたから仕方なく切る、という感覚しか持ってなかった。みっともなくない状態にしてほしいとしか思っていなかった。


 小さいころは美容院に行っていて、小学校高学年になると床屋に行くようになって、16歳あたりから母親に切ってもらっていた。(母は美容師の免許を一応持っていた。)なんか普通とは逆コースみたいだ。普通は中高生になって自分の身だしなみに対して意識が芽生えて美容院に行ったりヘアカタログを見たりするのかもしれない。
 でも自分はお金かけたくないとか、行くのが面倒くさいとか、でも人に変な目で見られたくはないとかしか考えていなかった。就職して自分で美容院に行くようになってからもそういう意識は変わってなかった。


 でも、いやいやこれはちょっと、やり過ぎでしょ……みたいな髪型にされて、なんかわくわくした。出掛けるのがうれしいというか、鏡を見るとうれしいというか……
 シルエットがかっこよくて、素材もきれいで、値段もそこそこするコートを買って着たときのわくわく感に似ていると思った。自分が何か、バージョンアップしたような、他人に見られて変に思われない自分じゃなくて、他人に見てほしいと思えるような自分になったようなわくわくが。
 こういう感覚が髪を切って起こるんだな、と初めて知ってちょっとびっくりしたんだった。


 初めて指名して店についたら、その美容師がなんか奥からにやにやしながらもったいぶった感じで出てきて、「えっへっへ。どうも」みたいなことを言ったから、僕は(は? 指名とかしてませんけど)という顔をして、いつも通り「後ろと横は刈り上げの手前くらいに短く、前は眉にかかるくらいで」と言った。それでちゃんと嬉しくなる髪型にしてもらえる。


 それで指名をするようになって半年して、「退職することになりました」というお知らせメールが届いたので、その前にと思って切ってきた。


 その人の腕がいいのかどうかは正直自分にはよくわからない。たぶん、客の想像していた通りに切ってくれる他の人たちの方が正しいんだろうとも思う。
 おしゃれに気を遣っている風でもなく、細かく髪型を指示したり写真を見せるわけでもなく、眼鏡の30歳くらいの男性客がきたら、無難な髪型を望んでいると判断するのが正解だという気がするし、実際自分自身もそれを望んでいたはずだった。
 でも、僕の希望を微妙にオーバーしたところへ連れていって、ああ、こういうところに喜びがあるんだ、と初めて教えてくれたことにとても感謝している。
 本人が意識的にそう計算したわけじゃなくて、単にちょっとズレてるとか、ちょっとお調子者なだけなのかもしれないが。


 そういう感謝をきちんと本人に伝えるべきなのかもしれないけど、ちょっと大袈裟かなとか気恥ずかしいなとかいろいろあって、「次のところでも頑張って下さい。」としか言えなかった。


 「札幌でたまたま店に来てカットするかもしれないですね」なんて言うから、そんなわけないでしょと思いながら「そうですねえ」と言った。