やしお

ふつうの会社員の日記です。

補助線としての神様

 こんなエピソードを以前何かで目にして、ああ、こういう神様の使い方はいいなあと思ってずっと忘れずにいる。


 海で溺れた子供を助けようとしてお父さんも飛び込んだけれど、結局子供はサーファーに助けられてお父さんは溺れ死んでしまう。「お父さんは海の神様に『自分はどうなっても構わないからこの子だけは助けてくれ』と必死でお願いしたから、神様が残酷にも本当にその願いを叶えてしまったんだ」という。


 神様が存在するとは思っていなくても、信仰心があるわけでなくても、こういう形で神様が導入されるのは意味のあることだと思う。お父さんは海に入らなければ良かったのにとか、お父さんは無駄死にだったんじゃないかといったやるせ無さが、ある補助線が引かれるだけで誰の損にもならずに解消される。「優しい嘘」の一種だ。


 それから時々、「そんなことをして死んだあと閻魔様の前で何て説明するつもりなんだ」という言い方をすることがある。「リボ払いをデフォルトで選択させるなんて、死んだら閻魔様の前で何て言うつもりなの」とか。
 別に閻魔や地獄の存在を信じているわけじゃない。だけどこうやって「閻魔様」を都合よく仮定してみることで客観視させることができる。


 どうしたって視界が狭くなって部分最適かどうかしか見えなくなってしまうことがある。でも「閻魔様の前で説明ができるのか?」という視点は、「本当にそれは全体として最善なのか」「本当に自分の行動を自分自身が肯定できるのか」という真剣なチェックをもたらす。
 これは、皇帝や国家指導者が「未来の歴史書にどう書かれるか」という視点で自分を律するというのと同じだし、「神様が見てるから」という律し方、「あの人だったらなんて言うかな」と考えることと同じ種類の視点だ。


 こうした補助線として神を導入するのは、神を都合よく道具としてのみ利用することでしかない。これは絶対的な神ではなく(利用している本人の主観では絶対的なものだとしても)選択に属する問題で、実際「神」でなくても「閻魔さま」でも「妖怪」でも「後代の歴史家」でも何でも構わない。
 以前、↓でそうした選択的な神を否定していった末に(絶対的/相対的といった二分法を全部取り除いた後で)どうしても見出されてしまうようなものがあり、それをあらためて「神」と呼ぶことはできるといったことを書いた。(そしてさしあたり自分はそれを「神」ではなく「単独性」と呼んでいる。)
認識の枠組み - やしお


 色んな種類の、というか色んなレイヤーで神様がいて、補助線として神を利用するというのは恐らくかなり浅いレイヤーに位置するものだと思うけれど、それはそれで構わないと思ってる。