やしお

ふつうの会社員の日記です。

清水潔『「南京事件」を調査せよ』

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南京事件は発生した当時「中国兵が市民になりすましている」という理由で一般市民を含めた殺害が指示されていた(その指示が文書として残っている)が、米軍機が日本の民間施設・民間人に空爆や機銃掃射での攻撃を加えた時に「日本は国民全員が兵士だと主張しているから」という理屈を立てていたことと似ている。軍人が民間人を殺害する場合はいつも似た理屈になるのかもしれない。歴史修正主義者や国粋主義者によって事後的に事件が否定・正当化されているが、実はそれ以前に、発生時点で最初の正当化が起こっている。


 もし自分がその場に日本兵としていたとして、上官からの命令、「中国兵が潜伏しているから」「捕虜全員の食料が用意できないから」といった理由、自分の側の安全、「めったに出来る体験じゃないし」という誘惑、「人生を持った一人の人間」ではなく「大勢」になった相手、そうした全てが準備された環境に立たされたとしたら、「せっかくの機会だし殺してみようかな」と思わずにいられる自信はないかもしれない、と読みながら思った。逆に言えば軍人による民間人の虐殺を引き起こさせないためにはこうした条件を成立させないための仕組みが必要ということになるのかもしれない。


 本書は南京事件を一次資料とその検証によって見ていくが、これだけの資料と証言が揃っていて「事件は存在しなかった」と否定するのは非合理的でしかない。各国の軍事組織による戦争犯罪と同様に確かに存在した事件だったとしか言いようがない。保守やリベラルといった政治思想の問題ではなく、単に合理的ではない。
 本書では否定派がどういうロジックで否定しているのかという例をいくつか示している。おしなべて「総合的に見ることをやめる」という態度を取ることで成立している。「事実から組み立てる」のではなく「(取捨選択して)事実を組み立てる」という態度だ。
 産経新聞が、70年代の時点では事件の主導者を厳しく批判していたのが、今は否定派に転じている。それは事実を見ないという点で報道機関の名に値しないが、どういう過程で否定するようになっていったのか、内部的に何が起こったのかを知りたい。


 中学生の時、休み時間にある友達に「自分の誕生日は12月13日だけど、織田裕二とhideと同じで、あと南京大虐殺が始まった日と同じ」という話をしたら、その子は熱心に「南京大虐殺は実は無かったんだよ」と説明し始めた。その頃、教科書には南京事件のことは載っていたし「無かった」という説があるとは知らなかった。否定説を知ったのはその時が初めてかもしれない。それ以降、自分ではよく調べることもなく「あったかなかったか確定していない何か」として漠然と把握していた。
 後になって、神社本庁国粋主義的団体になってしまっている現状を知ってから、その子のことを思い出したのだった。彼は神社の宮司の息子で、「だからだったのかな」とも思ったけれど、はっきりとは分からない。彼は知的水準が低いどころか、学年でも成績はかなり上位だった。その後彼が考えを変えたのかそのままなのかはわからない。それが自分にとって否定説と初めて出会った場面だった。