やしお

ふつうの会社員の日記です。

『ゼノブレイド2』と『Undertale』:下ネタと性の扱い

 この前の土日にSwitchで『Undertale』をプレイした。ちょうどその前に『ゼノブレイド2』をやっていて「嫌だなあ」と感じていた部分がごっそりなかったのが心地よかった。(どちらもRPG。)これはゲームそのものの話とはあまり関係がない。


 『ゼノブレイド2』で不快だったのは、下ネタやほとんど性差別に近い発言がムービーやサブストーリーに盛り込まれているところだった。キャラクター同士の関係性や世界システムの説明が含まれているからスキップすることもできず、予期せずそんな瞬間を見せられるのはとてもしんどかった。(メインストーリーが進行するとシリアスになるせいか、そうした場面も減ってだいぶ楽になった。)
 女性キャラの衣装がほとんど水着に近いこと自体は「そういう世界なのだろう」と納得していたのに、わざわざムービーで男性キャラが「露出度が高すぎる」「それで見ないというのは無理だ」と言うのはかなりつらい。この世界でもそれは普通の格好ではない、この世界でも男性は「男性が欲情するのはそういう服装をしている女性にも責任がある」と思っている、という世界観を見せられるのはしんどい。
 ニアという少女のキャラクターがある男性キャラを「亀頭(かめあたま)」と呼んで罵倒した時、他の男性たちが「亀頭はちょっと」と慌てて、他の女性が赤面するというシーンもあった。(ちなみに英語版だと「one-eyed monster」となっていて、これは男性器の隠語。)
 全体のストーリーとしてシリアスでも、細部で明るくなごませたいというのはわかる。しかしそこで下ネタを利用するのがダサいと思う。飲み会を盛り上げようとして下ネタに持っていこうとする大学生やおっさんを見ているようで見苦しい。作中人物が言っていることそのものがというより、そう作中人物に言わせてしまう作り手側の感覚、下ネタ笑えるでしょ、という作り手側の感覚が透けて見えてくるのが、ゲームで遊んでいて急に現実に引き戻されて嫌だなと思ったのだった。現実世界がそういう嫌な世界なのに、そういう世界観じゃないファンタジー作品の中でも急にわざわざそういう目に合わされると「何で」という気になる。
 それ以外の部分は楽しかったから全体として満足しているのだけど、下ネタや性差別を見せられるしんどさの記憶のせいで、全肯定するのはちょっと難しいお話だった。


 『Undertale』は、様々な種族のモンスターが共存する地底世界に一人の人間の子供(プレイヤー)が入り込んでしまうという物語だった。ゲームの中では、恋愛や性愛、友愛といった感情が割とはっきりと描かれている。また性別というものも存在している。(「女帝」や「王妃」といった言葉、あるいは「彼」「彼女」といった人称代名詞の使い分けが見られる。ひょっとすると性別が存在しない種族もいるのかもしれない。)
 しかし性愛と友愛の間はかなりシームレスで、また異性だからという理由で性愛に発展するわけでもなければ、同性だからという理由で性愛に発展しないわけでもない。この世界の中では男女のペアもいれば、男性同士・女性同士のペアも何の説明もされずに当たり前のこととして存在する。ペアが発生する経過も描かれるが、その過程で性別が問題とされたり話題にされることはない。また種族の違いも殊更問題になっていないように描かれている。
 主人公は男性のモンスター、女性のモンスターとそれぞれ「デート」をする場面が発生しその後結局「友達」の関係性に落ち着くのだが、この時も「男同士だから」「女同士だから」という理由で断られるわけではなく「ちょっと違ったから」という理由による。そもそも主人公はビジュアル上でもシナリオ上でも男女の区別がされていない。(ちなみに、日本語だと一人称に性差が、英語だと三人称に性差があり、これを回避するために作中では主人公が三人称で指示されることはなく、日本語版では鏡を見た時のセリフが僕でも私でもなく「自分だ!」になっていたりする。主人公の性別は意図的に「どちらともとれる」ようになっている。)
 実は最初男性だと思い込んで、しばらく進行してから作中の会話で女性だと気付いたキャラがいた。ミスリードが仕組まれているわけでもなく、「実は女だったのだ!」といった演出もない。ただ途中で文脈上知る、というだけだ。「あれ、男じゃなかったのか」と自分が気付いた瞬間、自分の中で「こういうのは男だろう」という思い込みが働いていたことに同時に気付く。無意識に・自動的に他人を性別で区分する習慣が自分に働いている、ということに気付いて恥ずかしくなる。


 性差別でも人種差別でも障害者差別でも、例えば「メガネをかけている」くらいのレベルで、ことさら話題にされなければ隠蔽もされない、誰も特別どうとも思っていない、「そういうもの」として受け流されているという状態に至ってようやく「およそ差別がない」と言えるのだと考えている。
 その意味では『Undertale』の世界は考えられる限り差別的な言辞や価値観が廃されている。下ネタもないし、相手の容姿をあげつらうことも、モンスター達が自分の容姿や性質を自虐ネタにすることもない。中にいてとても心地良い世界だった。


 様々な種族がいるから「気にしない」という態度の世界になるのだろうか、と思ったけれど、そういえば『ゼノブレイド2』も様々な種族がいる世界なのだった。
 トラという主要な男性キャラは、ノポン族という人型とは違う小さくてモフモフした種族だけれど、彼は人型・女性型のロボットを作っている。そしてそのロボットに「大人の女性の魅力」や「萌え」といった価値を付加させようと苦心しているのだった。ロボットの方は「お前の期待や好みなんぞ知るか」みたいな態度だったからまだ救われている。アジア人男性が金髪碧眼の白人女性を性的対象として最上級と見なす、みたいな光景を無意識に反復しているのだろうか……。どうしてあえてトラをそういう設定にしてしまうのだろう。


 ゼノブレイドは前作を遊んでいないけれど同じようなノリなんだろうか。例えば15年前、自分が17歳だった時に『ゼノブレイド2』を遊んでいたとしたら、下ネタや性差別的な会話に接しても「あはは」と笑って何とも思わなかったかもしれない。
 ポリコレ棒と言われたりもするけれど、常識や「当たり前」によって実は苦痛や生きづらさを与えられている人達がいて、それを「当たり前」と考えることで自分も荷担していたと知れば、「もう荷担したくない」と思うのは自然なことだろう。一度認識がアップデートされてしまえば許容されないのは当然だ。保毛尾田保毛男の話と同じで「昔は許された」「昔はそれで笑っていたじゃないか」と言っても、その「昔」は誰かを犠牲にすることで笑えていただけでしかなかったりする。


 ある種の「デバッグ」が必要なのだと思う。差別に荷担していないかというチェックは、誤字や脱字のチェック、歴史考証などと同様に必要なものだろうと思う。「創作の自由だ」と言われればその通りで、最終的に作者の好きにやればいい。ただ、あまりに誤字脱字や慣用句の誤用が目立つ、論理的な破綻がある時に、そこが引っ掛かって作品に集中できないことがある。そうした書き手の意図しないところで読み手の意識を乱すことが、書き手として満足なのか、そうした細部で「この作品はクソ」と断じられてしまうことが書き手として許容できるのか、という意味で「デバッグ」をした方がいいだろうと思っている。
 創作されたものである以上「あえてそうする必要があるのか?」という問いがある。初めて文字を覚えた何かがたどたどしく誤字だらけの手紙を書くといった場面であればそれは作品として必要性のある「誤字」となり得る。そこに「誤字だからダメだ」というのはナンセンスでしかない。差別に関する表現であっても同じことだ。必然性の有無、文脈上の意味を問うこと無しに画一的にある表現を圧殺するならそれは「言葉狩り」なり「ポリコレ棒」なり呼ばれることになる。(ここでいう「創作」はフィクションに限らずエッセイなり論文なりのノンフィクションも含まれる。事実を書いたものでも切取られ、取捨選択され、再構成される以上は創作の一種となる。)
 もし作り手ないし作中の整合性にとって「どちらでも構わない」ことならより苦痛の少ない方にしておこうよ、というだけの話でしかない。


 『ゼノブレイド2』と『Undertale』は同じRPGとはいえ色々な面で対照的な作品だと思う。多数の人が携わった大きなプロダクトと、ほとんど一人が作り上げたインディーズゲーム。日本のゲームとアメリカのゲーム。一見するとアクション的な戦闘システムと、非アクション的な戦闘システムのようで、実は進めていくと逆であることがわかる。(それは『ゼノブレイド2』がいかに大きなダメージを相手に与えるかが主眼で、『Undertale』はいかに相手の攻撃をしのぎ切るかが主眼となっている、という違いに由来するのかもしれない。)そして性の扱いも対照的なのだった。
 『Undertale』が魅力的なのは、別に性の扱いによるというわけではなく、お話の仕掛けやキャラクターの関係性と役割にあったりする。そうした種類の魅力は、何の期待も予備知識もなく触れたときに「ああ、いい作品だなあ」と思う種類のもので、もし「神ゲー」みたいなことを散々聞いた後にやっていたら(えっ……?)ってなっていたかもしれないと思う点では、『カメラを止めるな!』や『けものフレンズ』に近いかもしれない。大きな部分から細部まで圧倒的な稠密さで構築された作品、『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』や『シン・ゴジラ』は散々「あれはすごい」と言われてから見ても(たしかにすげえ)となるのとは少し違う種類の魅力だと思う。