やしお

ふつうの会社員の日記です。

育てられ方を後継者にコピペしようとする気持ち

 職場のグループリーダーになったので、次のリーダーを育てるのも自分の仕事と思って、メンバーの一人(後輩)にそのつもりで仕事をお任せしていっている。
 担当製品を持って生産問題や品質問題に対応したり、リニューアルの立上げを担当していく中で、外注先や他部署の面識を得ていく。自職場の業務やルール、さらに周辺職場の仕事の理解を深めていく。課題解決の中で判断や考えを見せて周りに「この人には任せても大丈夫だな」と思ってもらえるようにしていく。そうなると「じゃあグループリーダーを誰にしようか?」となった時に、安心して選んでもらえる。


 大体3~4年くらいでこの状態にまで持っていきたい。
 自分が今の職場に異動してきてそんな感じでなったから、「重要な場面」を相手に任せずに自分で抱えてそうした機会を奪ってしまったら「恩を返せない」みたいな感覚がある。自分自身がそうやって仕事を任せてもらって力をつけていったのに、今度は自分がリーダーになった途端にその契機を奪うのは許されない、みたいな感覚。


 でも、自分の意識ではそうなんだけど、実は無意識では、自分と同じような育てられ方を相手にも適用することで「自分の来た道は間違ってなかった」と肯定させようという気持ちが働いているんじゃないか、という疑いを漠然と持っている。
 ちょっと安倍首相と稲田朋美衆院議員のことを思い出して、そんな疑問を抱いている。


 安倍首相自身、旧来のキャリアパスを無視する形で、官房副長官→幹事長→官房長官→首相と小泉元首相に引き上げられて首相になっていったという人だった。安倍首相が稲田議員を、特命担当大臣政調会長防衛大臣と当選回数や年齢と関係なく引き上げようとしたのは、本人の意識としてはたぶん「見どころのある人をきちんと引き上げなければいけない」というものなんだと思うけど、でも無意識に「総理総裁が一気に引き上げること」を今度は自分が他者にすることで、「自分がされたことは間違っていなかった」と肯定したい、安心したいという気持ちがあったんじゃないかと疑っている。


 そして誰が見ても明らかに、稲田大臣は大臣としての適格性に欠けていた。ポストに対して能力があまりに不足していた。それで大臣職の辞任に至って、このキャリアパスが完成することはなかったわけだけど、実は「能力が自分より不足した相手を選んだ」ということ自体が、「自分を肯定したい」ということと関係してるんじゃないか。もし自分よりもはるかに有能な相手だったとしたら「自分はこれで成功したのだ」という安心感が揺らぐ。
 自分の価値観を理解してくれて、肯定してくれる相手が現れる。「期待の持てる人だ」と思う。「自分が引き上げてやらなくては」という気持ちになる。この時相手が明らかに自分をオーバーして優れていれば「自分が引き上げなくちゃ」という感覚にはならないだろうし。


 ちょうどそのメンバー(後輩)はとても話が合うというか、こちらの意図をきちんと理解してくれるから気持ちがいい。それと基本的な価値観が共有できていると感じられるから話してて楽しい。それで、自分を疑っている。


 別に仕事に限った話じゃなくて子育てとか部活とかでも同じかもしれない。「自分がそう育てられた」を子供とか教え子とかにもコピペして、「ほらこれで上手くいった、だからこう育てられた自分もやっぱ正しかった」って安心したくなる。もちろん本人の意識では、何か合理的な理由で埋められているし、実は上手くいっていなくてもその現実を否定すれば自分自身を否定することになってしまうから「いや、これで上手くいってる!」と無理やりやってしまったりする。
 そこに上手く乗っかれば世襲だったり階級の固定化だったりに繋がるのかもしれない。あと不合理な指導法がやめられない一因になるとか。


 あと、これはついでの話だけど、この前久しぶりにカクヨムに新しくお話を書いてアップした。(愛子さま天皇に、芦田愛菜さんが首相になった経緯をまとめたハートウォーミングストーリー。)


AAゴールデンエイジ(OjohmbonX) - カクヨム


 その中でも少し似たような話に触れた。「自分が受けた教育を自分の子供にも施してしまう。そしてそれは自分自身を無意識に肯定しようとする振る舞いなのかもしれない」という話で、ちょうどこんなことを考えてたからついでに入れてみたのだった。


 ただそういう感情が無意識に働いてしまうこと自体は、いいとか悪いとかではなく仕方のないことだろうと思う。後はどれだけ自分で自分をきちんと疑って、その感情に流されて非合理なことをやっていないか、無理なことをしていないかを検証できるかという問題でしかない。自分を疑いつつ、相手を信じつつ、やってくしかないのかなと思ってる。