やしお

ふつうの会社員の日記です。

誰かを貶める笑い

 新しく始まったアニメ「アフリカのサラリーマン」の第1話をこの前見て、「誰かを貶めることで発生する笑い」みたいなのはもう、見るのがしんどいなと思った。
 二足歩行の動物たちのコメディで、電車で通勤していたサラリーマンが女子高校生によって痴漢にでっち上げられそうになるというエピソードが前半に流れた。サラリーマン(オオハシ)は女子高校生(ゴリラ)に向かって「鏡見ろブス」と言う。またサラリーマンの同僚(トカゲ)は、オオハシがスマホでデリヘルのウェブサイトを見ているのを女子高校生に示し「こいつのスマホを見て下さい。素人JKには興味ないんです。プロのババアにしか反応しないんです。(だから痴漢はしていない)」と擁護する、オオハシは「人の性癖ばらすのやめてくれる?」と怒る、という場面だった。
 また後半では、合コンに出席したオオハシ(男)が、相手側の女性がみんな可愛かったので遅れている最後の一人にも期待していたら実際に来たのがブタだったから怒る、というエピソードが流れた。


 コメディなので、作り手はこれを「笑える/面白い」こととして提示しているはずだとは思うけれど、とても辛くて見るに堪えなかった。道で女性とすれ違った時に「今の見た? やばいめっちゃブスwww」と言われて一緒に笑えるか、ドン引きするかの違いかもしれない。他のエピソードで面白いと感じるポイントが絶無だったとは言わないけれど、あまりに耐え難いポイントが大きすぎるせいで最後まで視聴できなかった。どれだけいいところがあっても、すれ違いざまに他人を侮辱する人とは友人を続けるのは難しい、みたいな感じ。


 顔に好みがあったり、一般的な美醜に関する価値観が存在することは事実だけれど、ただそのことによって直ちに人が否定されたりするのを見るのはつらい。「お前みたいなブスを痴漢するわけないだろう」「お前みたいなブスは合コンに来るな」というのは、「生まれ持った美醜は社会的な資格である」という価値観の肯定を意味する。(ちなみに、一般的な価値判断による顔の美醜と、痴漢被害を受けるか/受けやすいかは実際には関係がなくて、例えば鈴木伸元著『性犯罪者の頭の中』(幻冬舎新書)でも、「好みの相手かどうか」ではなく「犯行がスムーズに行きそうな相手かどうか」で性犯罪者は被害者を選定する傾向にある、というアンケート調査の結果が示されている。)あるいは自己の性的な指向や嗜好を当人の望まない場面で他者によってアウティングされる場面を見せられると、笑えるというよりゾッとするとか怒りを覚えるという感覚に近い。
 現実にそうした価値観や行為によって苦しみや絶望を覚えている人たちがいる(自死に追いやられさえする)ことをその瞬間に想起してしまうため、「アニメを楽しむ」感じにはどうしてもなれなかった。こうした社会的に内面化された他者への蔑視が、ファンタジー作品の中にまで持ち込まれて、相対化されずにそのまま「笑えること」として作り手が肯定する。そんな現実を、仕事から帰ってきて「アニメでも見ーよっぴ」と思って見せられるのはかなりしんどい。
 Twitterである人が「フェミ発狂」という言葉で本作を擁護(?)していた。レッテルを貼りさえすれば何か勝った気になるのはよくある光景かもしれない。これは、フェミニストかどうかという話でもなければ、「発狂」という言葉も適切ではなく、ただ誰かを貶めたり馬鹿にしたりするような笑い、誰かの苦しみを代償にした笑いが許容できるかどうかという話だろうと思う。
 「ネットで炎上すればワンチャンあるかも」と書いている人もいたけれど、人々の苦しみによって耳目を集めることが目的なのだとしたら、それは世界をいささかも幸せにしないあり方だから、私は許容しない。


 人を馬鹿にしている笑いか、あるいはその事象に可笑しみを感じているのかは、かなり紙一重なのだと思う。ミスを笑うとか、素人いじりとかも簡単に「人を貶める笑い」に陥ってしまう。
 バラエティ番組なんかでの「いじり」でも、例えば明石家さんまはまだ(昔ながらの?)ツッコミ=下げて終わりだけど、マツコ・デラックスはかなり配慮している、みたいな違いとして観察され得るのかもしれない。高みから見下ろして馬鹿にする=一方的な否定になっちゃうのか、同じ人間としてお互いおかしなところがあるよねっていう肯定になるのかは、話し方・扱い方・態度・文脈もろもろトータルで決まってくる。
 「月曜から夜更かし」は一般人を面白おかしく取り上げる番組だけど、VTRでの扱い方が「人を貶める笑い」に堕していることもままあって、そういう場面で割とマツコ・デラックスは「やめなさいよ」と言ったりワイプの中でも一切笑っていなかったりする。番組を変えたり止めるところまではしない(というかその立場にはない)けれど、与しない、というスタンスなんだろう。


 たとえば喋り方が独特で面白い人のことを「だからこいつはおかしい」と言うのか「この人のここが面白い」と言うのかは、表現としては僅かな差でも、「人を貶めているか」という点では大きな違いになってくる。
 相手を下げたら「人を貶める笑い」になっちゃうけど、直後に自分も下げることで「これはあなたの能力が低い訳じゃなくて、誰にでもあることだ」に持って行って「個人ではなく事象への笑い」に差し替えることだってできる。すごく微妙なところで変わってくる。「人を貶める笑い」を回避する一つの常套手段が、「人」ではなく「事象」を具体的に特定することなんじゃないかなと思っている。


 それだから、「言葉狩り」をすれば済むって話じゃない。じゃあ「ブス」っていう表現を作品内で一切使わないようにしろ、と要求すれば解決するって話じゃないし、そんなことは望んでいない。
 例えば「この人物がクズであることを表現する」「読者に嫌悪感を覚えてもらう」といった目的のために「お前みたいなブスを痴漢するわけないだろ」「お前みたいなブスは合コンに来るな」といった発言を作中でさせることはあり得るし、必ずしも否定されない。その人物/発言が作中でどう扱われるかという文脈や表現をトータルで見ないといけない。「トータルで見る」「個別具体的に考える」という複雑さや煩雑さに耐え得ないと、言葉狩りを始めたり、あるいは言葉狩りだと反発したりすることになってしまう。
 言葉狩りで息苦しい、とすぐに言われがちだけれど、ここで提示されるべき手段は言葉狩りではなくて、「他人を一方的に自分が気持ちよくなるための道具にしない」という基本的な倫理と実践でしかない。


 それから、この「誰か」には「自分自身」も含まれる。自虐ネタというのも「誰かを貶める笑い」になり得る。つい先日、漫画家のつづ井さんが「自虐をやめる」という宣言をしていた。
  「裸一貫!つづ井さん」についてちょっと真面目に話させてくんちぇ〜|つづ井|note
 未婚である、恋愛経験に乏しいといったことを、他人から攻撃される前に自らが「ネタ化」して自衛する習慣がいつのまにか身に付いてしまう。それを意識的にやめる。そんなことが語られていた。
 自虐ネタも、単に事象としてプレーンに語ることで「誰かを貶める笑い」を避けることはできるけれど結構難しい。


 時々お笑い芸人が「『お笑い』は誰かを傷付けることと不可分だ(だからお笑いは他人を傷つけてもしょうがないんだ)」と語ったりする。でも本当にそうだろうか、誰かを傷つけたり下げたりしない笑いだってたくさんあるって気もする。誰かを馬鹿にしているというより、想像や予想からズレが生じたことに笑っているものはたくさんあって、例えば自分は笑い飯の「奈良県立歴史民俗博物館」だったり、流れ星の「肘神様」のネタがすごく好きで記憶に残っているけれど、それらも特定の個人や集団を貶めるようなことをせずに、次々にズレを生み出していって面白いネタになってる。
 「最近はタブーが多すぎる、不自由すぎる」と言って、昔のバラエティ番組のようなものをネットで目指したり、漫画の中でやったりする作り手もいる。確かに言葉狩りや難癖を回避するために、誰の得にもならないような制約がないわけじゃない。でも、そうじゃなくて、今まで誰かを踏みにじることで楽しんでたようなポイントが色々はっきりしてきて、見えていなかったものがみんなの目にだんだん見えるようになってきて、「もうそういうのはやめよう」ってことで生じてきた「制約」だってたくさんある。
 それをただ破ればいい、みんなが守ろうとしてるものを壊す俺はすごいだろ、という作り手と、他者を上手に尊重しながらより高次の笑いや成果を目指そうとする作り手がいたとしたら、後者の方がやっぱかっこいいなと思う。


 芸能人でもアニメや漫画の作品でもやっぱ安心感や信頼感は大切で、もしかしたら同じようなものをまた見せられるかもしれないという怖さがあるともう見るのがちょっと難しくなってくる。