やしお

ふつうの会社員の日記です。

炎上しない書き方

 ブログを16年もだらだら書いていると「こういうことを書くと怒る人がいるんだ」というポイントがある程度体得できるようになってくる。たぶんライターや編集者も、意識しているか無意識かはともかく、似たような感覚があるんじゃないかと想像している。


 ただここで言う「炎上」は、

  • 差別的な言辞を繰り返しながら恬として恥じない
  • 悪質なデマを広げておきながら指摘されても支離滅裂な弁明でごまかす
  • 「自分が何を批判されているか」をまるで理解していない反論を出してしまう

といった、人倫に悖る行為や、職業や立場を全うしないことで非難されるような真性の炎上というより、言葉が足りなかったり書き方の下手さで悪印象を持たれて起こるような軽い炎上をイメージしている。ちょっとした書き方の配慮で、「言いたいことは分かるがお前はムカつく」を防いですんなり相手に納得してもらいたいよね、くらいの意味。


違和感を与えない

 炎上する、非難されるのは、読む側の「ん?」「なんかおかしくないか?」といった違和感が起点になっているのだと考えている。自分の価値観や常識と相容れないものを見て、その大きさと数のトータルで「こいつは全体がもう信用できない」と判定されると叩かれる。誰かが叩いてその内容に納得性があると(たとえその非難に妥当性がなくても)みんなが叩き初めて炎上する。
 これはまるで「いじめられる側にも原因がある」みたいな言い草で、実際叩いている人たちの側がどうなのと思う事例もたくさんあるけれど、一方で予防措置というものがあるのも事実だ。


 じゃあ「誰も何の違和感も覚えないこと」を書こうとして、毒にも薬にもならないものを書くと、無内容であること自体が違和感として作用するため「なんで時間をかけて無意味なものを読ませられないといけないんだ!」と読み手の怒りを買うし、そんなことを書くのは書き手の人生を無駄にしている。(いかがでしたかブログがその極北かもしれない。)


 不必要な点で相手の違和感を与えないようにする技術、というのが基本的な方針になっていく。


他者をバカにしない

 その「違和感を与えない技術」の根底にあるのは、他者を蔑まないという態度なのだろうと考えている。読者をバカにした態度を取る、誰かを上から目線で批判する、自分を棚に上げて他人を非難する、といった態度は確実に引っ掛かってしまう。


 7年前に↓のエントリを書いて、ブックマークコメントで随分色々言われてしまった。
  この眼前の、絶望的な40年の差 - やしお
 会社に入ってみたら日々の細かな積み重ねで仕事のレベルが全然違ってくる、数十年分の差を見て驚いた、普通の会社で世間に名前が通ってるわけじゃなくてもこうして日々積み重ねてる人たちがいるのかと思うと面白い、という実感を語った他愛もない話だった。
 ただ比較対象として「ダメなおじさん」という言い方で一方的に他者を蔑む書き方をしていて、バカにしているのが透けて見える。「言いたいことは分かる、だが言い方がムカつく」と思われて当然の書き方だと思うし、今の自分ならそんな言い方はしない。(かなり恥ずかしいけれど消さずに残しているのは、具体的な他者の権利を侵害していたり、明確に人倫に悖る内容でなければ、「20代の会社員がこういうことを書いてしまった」記録としてそのまま残した方がいいかもと思っているため。)


 他者を一方的に蔑む人を見るのは、単純に気持ちの良いものではないし、場合によっては「自分がバカにされた」と感じて怒りが湧く。バカにされた側の肩を持ちたくなるのは、自然な反応だろう。


システムを見る=立場を慮る

 他人の言動が愚かだと感じたとして、それをバカにしないでいるためには「どうしてそうしたのか」の機序を見ることが重要になってくる。人が悪いというより仕組みや環境が悪い、と考えていくと、その人がそうしたのも仕方がない、その言動は理解ができる、と思えてくる。「自分が相手でもそうしただろう」と思えるレベルまで相手の立場に寄り添って考えてみれば、他人事じゃなくなってくるしバカにする気もなくなってくる。
 さっきの、会社で「積み上げてこなかった側の人」の話であれば、そういうインセンティブが働いた人と働かなかった人の違いがどこにあるんだろうと考えて、そこまで書けば良かった。


 以前、安倍内閣が安定して存続する状況を自分の中で整理したくて↓を書いたことがあった。書いてから3年弱が経っているけれど基本的な認識は特に変わりない。
  システムをハックする首相 - やしお
 安倍首相をどう思うか? と聞かれると、民主主義国家の為政者としての自覚に欠ける人物でありほとんど許し難い、とは思っている。でもそれを単純に「こいつがバカだからだ!」と言ってしまうとそれで終わってしまう。一方で、恐らくパーソナリティとしては「周囲の期待に答えようとする努力家」「仲間思いの人」で、実は友達としては好ましい人物なんじゃないかと思っている。このパーソナリティが、俯瞰して全体を見ることができない・相対化して捉えられないという能力上の限界と組み合わさることで、外部から見ると「政権存続だけを自己目的化してシステムをハックしている」ように映るし、被害者意識を抱えて「不当に攻撃される我々」という自己認識でいるように見える、そしてちょうどそれがぴったりハマる環境になっているために存続してしまう。そんな捉え方をすれば「個人が愚かだから」と矮小化せずにすむ。


 「バカにしないように書く」だけでは不十分で、それはどこか端々に見下している態度が出てしまうから、本気で「バカにはできない」と思えるレベルまで持っていく必要があるのだと考えている。


何かを褒めるために別のものを貶さない

 上で挙げたエントリで、会社ですごいなと思った人を描くために、ダメな人の例を持ってくるというやり方は、まさに「誉めるために貶す」をやってしまった実例だった。「じゃあそういうお前は何なんだ」と読む側を苛立たせる。褒めるために貶すを避けないといけない。


 一方で、逆に「貶すために褒める」、「批判を展開した上で、好例を提示する」のは可能だと思っている。例えばA市の政策の問題点を挙げた後で、B市やC市ではその問題点を既に解決する政策を取っている、といった話の持って行き方はできる。この時、好例の提示がなくても成立するレベルで「批判する」を正確に展開していないとダメで、ただ「好例を提示する」だけで成立させようとすると結局は「誉めるために貶す」に陥って違和感や反発を招く。
 大杉一雄の『日中戦争への道』という本は、どういう経緯で日本が日中戦争に突入してしまったのか(そしてその後の大平洋戦争に至ってしまうのか)を描いている。この中で最後に、第2次世界対戦下で政治的に曖昧な態度を貫くことで参戦を回避しきって、膨大な人的被害を出さずにすんだスペインの事例に触れている。単に「スペインみたいにやれなかった日本は愚か」と単に言っているのではなくて、それまでに資料を丁寧にあたって従来の「陸軍が悪い(海軍はまとも)」のイメージを覆して日中戦争に至る経緯を説得的に描いた上で、だめ押しで「そんなやり方もあったかもね」くらいの感じで反例を付け足している。これくらいのバランスだと「貶すために褒める」は成立する。


揶揄しない

 揶揄や嘲弄はまさに他者をバカにするために実行されるものだから、書かない。「パヨク」「ネトウヨ」「発狂」「お妊婦様」などの言葉は、正確に語る努力を放棄して、自分の方が分かっている、自分は嘲笑する立場にある、と安心感を得たくなると使いたくなってしまう。使うとしてもカッコ書きで、そういう言葉が使用される事実があることを指摘する際に使うくらいしかできない。
 例えば「アベが」と片仮名で書くのも見かけるけれど、批判する文脈であっても「安倍首相が」と書いた方が受け入れられやすいだろうと思う。揶揄を書くとそこで反発を買って、結局は仲間内だけに受け入れられる言動にしかならないし、かえって断絶を深める。


価値判断を相手に任せる

 ほとんど結論が導けるレベルにまで情報を提示して、しかし最後の価値判断を下さない方が、相手にとって受け入れやすいんじゃないかと思っている。
 誰かを批判したくて「こいつが悪いんですよ!」と声高に言うと、「一方の言い分だけ聞いても判断できないな」「この人も悪いんじゃないの?」と言われてしまう。「こういう状況があった」とだけ事実を並べて、最後の「だからこいつが悪い」を書かずに終わると、読んだ人が代わりに「そいつが悪い!」と言ってくれる。
 誰もが自分は中立である、フェアな人間である、と思い込みたい気持ちが働いているのかもしれない。「これは非難し過ぎだ」と感じれば「こいつも悪いんじゃない?」と言いたくなるし、「非難しなさ過ぎだ」と感じれば代わりに非難してくれる。そんなバランスが働いている。
 非難という文脈でなくても、誰かに強制された結論ではなく自分が出した結論だと感じられると安心できる。相手の自己決定権を尊重するのは基本的な方針となる。


リップサービスをやめる

 内輪ネタやフザケは周囲に「フフッ」と笑ってくれる人がいても、その外側では引っ掛かる人もいる。不特定多数が見えるような場でやれば、笑ってくれる人よりも不愉快に思う人の方が多いこともある。


 2014年に東京オリンピック組織委員会会長で元首相の森喜朗ソチオリンピックを視察し、フィギュアスケート女子シングルで6位となった浅田真央選手について「あの子、大事なときには必ず転ぶんですよね。」と発言して非難を浴びた。ここだけを取り出すと、傷口に塩を塗るような発言だが、森喜朗元首相の発言全体を見ると「浅田選手はシングルの前に団体で出場しており、そこで転倒したことが心理的な影響を与えていたのかもしれない。団体は出場しないという選択肢もあり得たのではないか」という内容になっている。(以下に発言の全文が記載されている。)
  森喜朗 元総理・東京五輪組織委員会会長の発言 書き起こし - 荻上チキ・Session-22
 その発言の趣旨自体は理解できなくはないものだったとしても、発言のタイミングと表現が最悪だった。浅田選手のキャリアの集大成であり金メダル獲得が有力視されていたオリンピックにおいて、ショートプログラムで転倒が相次ぎ16位というスタートを切った。浅田選手は直後のインタビューで「何も考えられない」と茫然自失の体だったが、翌日のフリースケーティングでは女子史上初の6種類すべての3回転ジャンプを計8回成功させ、自己最高得点を出した。その結果としての6位だった。この状況で自暴自棄にならず、心を折られることもなく、アスリートとして競技を全うした姿に観戦者が感銘を受けた中での「大事な時には必ず転ぶ」発言だったため、心ない言い方だと森会長は非難を浴びた。
 森元首相がかつて、失言が繰り返し報道されたことで最後は内閣支持率を7%まで落として退陣した過去を思い出した人も多かっただろうと思う。


 劇作家の鴻上尚史はコラムの中で、森元首相との個人的な体験で偉ぶらない誠実な人だったと回想しつつ、失言を繰り返してしまう体質を「リップサービスである」と指摘している。
  失言のオンパレード…森喜朗元首相という人【鴻上尚史】 | 日刊SPA!
 自分をよく見せようとせず、率先して見知らぬ他人のために雑務を厭わない美点と、その場にいる周囲の人を楽しませようと軽口を叩いてしまう欠点は、実のところ一体である、という指摘だった。森元首相は、元外交官の佐藤優の著書でもたびたび描かれて、国政をあずかる政治家としての職業倫理に忠実で誠実な人物として描かれている。それは恐らく事実なのだと思う。
 一方で「その場にいる周りの人へのリップサービスが、そうでない人にどう受け止められるか」への無頓着さは、どれだけ誠実な人物であろうと許されない、という事実がかなりはっきり分かる事例になっている。


比喩は正確に使う

 別の出来事に置き換えて話すことで、問題点や違和感を明確にできる。ただその比喩や比較が相手に別の違和感をもたらして批判を招く光景は本当によく見かける。別の違和感をもたらす要因はいくつか考えられる。

  • 差別:「女性のお喋りみたいだ」のような性差別的、ジェンダーバイアスが露骨な比喩など、たとえによって発信者の差別意識が明らかになる場合。
  • 異なる点が多い:相違点があまりに多いとたとえとして成立しない。「どれだけ才能があっても全てを成功させられるわけではない」という意味で「イチローだって3割しか打てない」とたとえても、野球のルールの中での話と現実との条件が大きく違うと思われてしまうような場合。
  • 前提知識が共有されていない:野球やガンダムでたとえられても知らない人にはそもそも伝わらない。


 昨年、トランプ大統領がメキシコとの国境沿いに移民の移動を防ぐ壁を建設しようとしている状況下で、大統領の長男であるドナルド・トランプ・ジュニアがインスタグラムに「動物園でなぜ楽しめるか分かるか? 壁があるからだ。」と投稿して批判を浴びた。
  「壁があるから動物園で楽しめる」 トランプ氏長男の移民比喩に批判 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
 メキシコ人は動物園の動物ではないし、外から見て楽しむ対象でもない。動物園の動物が移動する動機と、彼らが移動せざるを得ない状況とはまるで異なる。たとえによって、差別意識がむき出しで、相違点もあまりに大きいと思われれば批判を浴びる。


 たとえによって相手の理解を増そうとする営み自体は有意義だし必要だけど、上記の難しさがあるため、たとえようとするものと相当隣接したものをたとえに選ぶのが、正確さを失わずに、かつ理解を助けるにはいいバランスなのだと感じている。


淡々と書く

 何かをバカにしない、価値判断を下さない、揶揄しない、リップサービスを控える、無茶な比喩をしない、といった方針を取ると自然に淡々とした文章になってくる。
 これはもう個人的な好き嫌いの範疇かもしれないけれど、テンションの高い文章を読むのがちょっとしんどい時がある。楽しいな、って時もあるけれど、フォントの色や大きさを変えたり行間がすごく開いているといったスタイル上の騒がしさも含めて、文体が騒がしいのがしんどくなってる。老人になってきているだけかもしれない。(子供の頃はめざましテレビを見ていたのに、今はおはよう日本を見てるとか、ワイドショーとかでコメンテーターが怒ったり強い言葉を使うのを見たくないとか……)
 めちゃくちゃ怒りまくってる文章とか、ジョークをがんがん飛ばしながら書かれている文章でも、読んでいて嫌な気持ちにならないものは、他のポイントで抵触しないように書かれていたりする。


 特に怒りの表明や告発は、感情的にならず抑制的に事実を伝える文章の方がかえって怒りが伝わり易いとは思っていて、「死んだ方がいい」と思っていてもそう書くと(先述の「価値判断を下さない」と同じで)読む側の反発を招いたりすることがある。


PREP法

 会社の研修なんかで文章を書く方法で「PREP法」を習ったりする。Point(結論)→Reason(根拠)→Example(実例)→Point(結論)と展開することで文章が明快になるという。最初と最後に結論を提示するのは非常に有効だと思っていて、間で話が脱線しても最後に元のトピックをさりげなく持ってこれば「話が発散した」印象を持たれにくい。仕事の会話でも、話が脱線してどう切り上げるかよく分からない時に、決定事項(次のアクションとか)を言えば何となく締まった感じにできる。
 逆にこれをしないと「結局何が言いたいのか分からない」と文句を言われたりする。これは個人の雑感だよ、日記だよ、というポーズを取っていてさえ「何が言いたいのか分からん」と文句を言われる。「オチがない」という文句に近いのかもしれない。


データやソース、実例を提示する

 「ソースがない」という怒られ方はよく見かける。書き手のバーチャルな意見や想像なのか、地に足のついた話なのかが判断できないと不安になる。PREP法で言うE、データやソース、実例や体験談があると読む方が安心する。体系が体系内部でただ無謬であるばかりではなく、体系の外部に対して妥当であることも示してほしいと読み手は感じている。法律でいう「立法事実」に近い感覚かもしれない。想像で考えられるリスクだけを基に、自由を制限するような法律を作ると違憲判決を食らうので、現実的な根拠を見据えた上で法律を作らないといけない、という規範が働いているみたいな感じ。


 一方で、そういうやり方で相手に信用してもらえると、適当に嘘を書いても信用されてしまったりする。10の要素のうち7が嘘でも、事実である3が正確にデータやソースを引用しながら書かれていると、残りの7も「この人はちゃんと書いているはずだ」と信じられてしまう。逆に9割が事実でも、1に分かりやすい誤りが含まれていたり書き方が稚拙だと、1から10まで全部が誤りだと思われてしまう。こういう感覚が身についてしまうと、「ここは裏取りしていないけど、まあ信じてくれるだろう」みたいな気持ちになってしまう。
 データや原典にあたってチェックする他者がいなかったとしても、書き手自身が誠実であるために裏取りや確認をするんだ、と思っていないと、この悪い気持ちに流されてしまう。これも「どうせ誰も気付かないだろう」と相手を侮る姿勢という意味では、「他者をバカにしない」に通底する話になっている。


仮定や前提を明示する

 データやソースがなくてバーチャルな話をするのはじゃあダメなのかというとそういうわけじゃない。その場合はどういう仮定を置いているのか明確に書いておけばいい。思考実験が無益なわけではなく、その前提・仮定を明確にしないで思考実験を展開するのは書き手にとっても読み手にとっても「何の話をしているんだ?」になりがちというだけのことだ。


話の目的を書き添える

 PREP法の要素には挙げられていないけれど、その話の目的を先に伝えておくのは極めて重要だと考えている。(PREP法に入ってないのは、背景や目的が相手と共有できているのが前提になっているのだと思う。)「どうしてこの人が今この話を私にしているのか分からない」という話を延々と聞かされるのはしんどいので文句を言われてしまう。
 個人的な体験やニュースに紐付けて「こんなことがあったから」「こんな記事を見たから」でもいいから一言書いてあると地に足がついてくる。自分がどういう立場で書いているか(事件の当事者であるとか、マイノリティの当事者であるとか、職業としてそのプロであるとか)が明示されていると「なぜこの人が発信しているのか」がはっきりする。そういうのが何にもない場合であっても、単に「自分のために書いている」とはっきり書かれているだけでも立ち位置が明確になる。立場や目的が明確な話は聞いていて不安な気持ちになりにくい。


タイトルと内容を乖離させない

 よく「タイトル詐欺」と言われて批判されたりする。タイトルで想像していた話と違うと怒られる。書いている途中で考えが発展したり方向が変わったら、タイトルもそれに合わせて変える。


無根拠な断定を避ける

 「~だ。」と言い切っているのに、その断定の根拠がはっきりしないと読んでいて「なんで?」となる。途中式が省略され過ぎていて間のロジックが分からないとか、データやソースが明示されないとか、そんな不信感が募っていくと最後には「この語り手は信用できない」と思われる。
 このため論拠があるものについてのみ「~だ/である/でしかあり得ない。」と断定して、そうでないなら「と思う」「かもしれない」とその確度に応じた表現にする方が誠実だし、相手にも違和感を与えない。論拠がある場合でも途中式を省略し過ぎると、本人は理解していても相手が理解できなくて結局不信感を与えかねないので、想定される相手の理解度に合わせてロジックをちゃんと見せる。何となく「~だ」と書いた方がそれっぽいから、といった曖昧な感覚で文末を決定せず、自分がどこまで検証・確認しているのかを意識して文末をコントロールする。
 その一方で「と思う」「かもしれない」が多用されると冗長で無責任な文章に見えてくる。冗長になりそうなら、途中までは断定で書いて最後だけ「と考えられる」と書くだけでも、全体としては非断定的な書き方にできたりする。
 こちら側で断定を避けることで、相手側に判断を委ねるという意味で、これは先述した「価値判断を相手に任せる」の一環にもなっている。


文体をコントロールする

 言葉の選び方で全体の印象がかなり変わってくる。「だが」「だけれど」「だけど」は僅かな違いだとしても、この差異の積み重ねで印象を作り出すことができる。接続詞や文末だけでなく「システム」と「体系」のように名詞でも、代替可能だが含まれるイメージや意味がちょっと違う言葉をどう選ぶかという判断がある。「ムカつく」と「腹立ちを覚える」でも印象が大きく違う。


 よく文章指南では「言葉を統一しなさい」と言われる。ですます調と、だである調が混在していると読む側の気が散る。誤字が多かったり語句が統一されていないものを読むとイライラする。相手に苛立ちを与えて「なんか嫌だな」という印象を持たれると、それ以外の部分で文句を言われやすくなる。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いじゃないけれど、悪印象を持たれると普段ならスルーしてもらえるささいな瑕疵にも引っ掛かってしまう。
 それだから語句や文体の統一は原則として守ることになる。その上で、「ここは個人的な感情を語っている箇所だからやや柔らかめにしておこう」とか「ここは実証的に人の姿勢を批判する箇所だから硬めにしよう」とか細かい語句の選択で印象をさらにコントロールする。その目的のために、教条主義的に統一性を守るわけではなくて、必要に応じて崩すことになる。


解釈の余地を限定する

 好意的/敵対的どちらにも解釈ができる話は、だいたい悪い方に解釈されてしまう。「書かれていないこと」は決定できないはずなのに、自動的に批判される方向に読まれてしまう。
 友人が家に来ていて「いつ帰るの?」と単に聞いたら、「早く帰ってほしい」「まだいてほしい」「今後の予定を立てたい」など質問の意図や目的は複数考えられるけれど、「早く帰れと言外に伝えている」と見なして相手はムッとするかもしれない。それなら「夕食一緒にどうかなと思って」と先に一言付け加えておけば、相手の解釈の余地を限定できる。
 「りんごが好きだ」と言うと「じゃあみかんは嫌いなのか」と言われる。「フルーツ全般好きだけど、りんごは特に好きだ」と先に言っておけば曲解を防げる。最初から冗長にならない程度に、さりげなく道を塞いでおく。
 この話は「断定しない」や「価値判断を相手に任せる」と矛盾するようにも見えるけれど、根拠のない断定をしない、最後の価値判断は自分で下さないというだけで、あくまで解釈の余地は狭めておくという点ではいずれもこの方針を踏まえた上での振る舞いになる。


書いた後で時間を置く

 ここまでに挙げたチェックは、「書いた自分」を離れて「読んだ他人」の視点で見ることが必要だけれど、書いた直後にそうするのは難しい。特に個人的な体験に基いて誰かを非難するようなことを書こうとすると、どうしても無意識に自分を正当化させようとする力が働く。5,6回くらい読み返して、時間を置いて読み返して、「相手に違和感を与えて苛立たせない」の観点でチェックする。
 そこまで気を付けていてもとても難しくて、昨年↓を書いて、これは「自分の感情がどうだったか」を主眼に書こうとしていたつもりだったけれど、結果的にはかなり「お前もおかしい」とブックマークコメントで言われてしまった。
  お金を貸して絶縁するだけの話 - やしお
 言われてみると「そうか、他人からはそう見えるのか」と改めて気付いて、自分では客観的に自分を見ていたつもりでも、やっぱり上手くいかないもんだなと思った。これまでも何度か「お前がおかしい」とコメントで言われる経験を通して、それを避けるポイントをある程度身につけてきたつもりだったけれど、それでもなお難しい。


無視する

 どれだけ配慮して書いたところで「文句のための文句」で非難する人はいる。あちらを立てればこちらが立たず、のような感じで完全に文句を言われなくすることは難しい。だから、ここまでこっちが整備してもそう言うなら、もう知らない、とある程度で無視しないと心が荒んでくる。こうした技術は「他者から非難されるとしんどい、自分の言いたいことが伝わらないのはつらいので、それを軽減するためにやる」とあくまで自分のためにやっている。他人から「こう書け」「こう書かないからお前が悪い」と言われるようなものではないし、相手のためにやっているわけではない。だから、相手が「お前が悪い」と言っても説明に付き合ってあげなくてもいい、無視する自由はこっちにもあるんだと思ってやるのが、ちょうどいいんじゃないかと思っている。
 逆に自分が読み手の時は、多少書き方が下手くそだったり「こういう言い方をすれば反発を喰らわずに済みそう」と思ったとしても、プロが書いたわけでもないならそこは差っ引いて、書き手側の意図に寄り添って読めばいいのだと思っている。ネットに感情を吐露してそれが共有されたり記録として残ることだけでもありがたいことだ。


 自分で自分に「お前は誠実だったか?」と問い合わせて、「自分は自分なりに誠実だった」と答えられたら、もうそれでいいと割り切った方が精神衛生にいいし、それ以上の文句はもう書き手ではなく読み手の心の脆弱性の問題だと見なす方が、バランスがいいのだと考えている。