やしお

ふつうの会社員の日記です。

尊厳死・安楽死の制約のありか

 母が入水自殺で他界した時、真っ先に考えたのが「安楽死制度が整っていればこんな死に方をせずに済んだのだろうか」ということだった。母の一人暮らしのアパートにあったiPadのブラウザの閲覧履歴には、死んだその日に頸動脈の切り方をあれこれ調べていた様子が残されていた。母は子供の頃に近所で縊死を目撃したのをきっかけに「首吊りだけは嫌だ」と以前から言っていたから、それ以外の方法を探していたのかもしれない。警察からは、河原には包丁が落ちていたことと、深夜に通りがかって堤防の階段に一人座っている女性を見つけて声をかけた人がいたと聞いた。深夜の堤防で死にきれず、階段で一人座ってしばらく過ごし、最後は一人で真っ暗な川に入るその間の感情を思うと、あんまりだ、とやりきれない気持ちになった。子供は既に全員経済的に独立し、孫も二人いて、例えば家族に見守られながら苦痛や恐怖のより少ない終わり方が、技術的には可能だったはずなのにそれが実現されなかったことは、つらいと思った。
 しかし同時に、母の自死という選択が自由な意思によるとも言えないだろうとも思ったのだった。64歳で亡くなった時点で大きな健康問題を抱えていたわけではなかった。遺書はごく簡潔なメモで、自死に至る理由は書かれていないし、書かれてあったとしても当人が意識しているものだけが理由であるとも限らない。65歳を迎える前に死のうとは以前から考えていた形跡は後からいくつか見つかった一方で、そのまま生きようとしていた形跡もいくつか残されていて、本人の中でも決めかねていたのかもしれない。
 もし健康(介護)や金銭面など将来への不安やその他一切がなかったとしたらその選択はしなかったかもしれない。あるいは人間関係を充実させたり趣味に打ち込むなども有効なのかもしれない。安楽死の環境整備ではなく、そうした不安を除去したり意欲を行進する方が優先されるべきだろうかとも思った。
 先日のALS患者の女性に対する嘱託殺人により医師2名が逮捕された事件をきっかけとして、安楽死の議論が出るのを見かけて、4年前に母が死んだ時に考えていたことを思い出していた。当時、母の死に関して出来事と感情や思考を下に一旦まとめて、自分の中で区切りをつけたのだった。
  悲しいだけ - やしお


 死ぬことを前提に考えれば、苦しくない死でありたいと望むのは自然なことだとしても、その「死ぬこと」の自明性が疑われるから難しい。「死を選ぶ権利」とは、あたかも完全に個人の自由な意思として選択可能であるかのように語られるが、その点がそもそも疑わしい。「本人が死にたいと思ってるなら死ねるようにした方がいい」の「本人が死にたいと思ってる」を疑っている。「楽に死ねますよ」の制度が用意されれば、「死ぬ」という意思決定を支えている外在的な要因(病気や貧困やDV・いじめ、周囲の圧力や常識・通念その他)を除去しようとする(本人だけの話ではなくて制度や仕組みとして)インセンティブが働きにくくなるのではないかと疑うのは自然なことだろうと思う。「だって本人が死にたがっているから」「本人の意思、死ぬ権利を尊重しよう」で封殺されそうだとは自然に想像できる。
 ALS患者女性の主治医が記事の中で、女性が安楽死を求めることがあったのと同時に「彼女は少しでも長く良い状態で生きたいと、最後まで治療法の情報を集めていた」とコメントしていた。
  死への思い「NHK番組観て」傾斜か 「安楽死」のALS女性、主治医が初めて語る姿|社会|地域のニュース|京都新聞
 私の母も死にたいという気持ちと、やめようかなという気持ちの間で揺れていたような形跡もあった。世の中にはこの間で揺れた結果として自死へ向かわず、誰もそこで揺れていたことを知らずにいるケースも無数にあるのだろう。「本人が死にたいと思っているならば」という条件・前提を設定するとき、それがあたかも自明であり固定的だという視点に立つ。仮定の設定とは一旦それが「成り立つ」ものとして、そうでない場合を捨象するような振る舞いだからだ。しかしそれが自明に/固定的に成り立つとは考えない方が現実に即しているだろうと思う。


 自身もALS患者である船後参議院議員が「『死ぬ権利』よりも、『生きる権利』を守る社会にしていくことが、何よりも大切です」というコメントを発したのも、「死にたい」を実現することと、「死にたい」を支える要因の除去との間では、まずは後者が優先されるはずだ、という認識に基づくのだろう。
  ALSの舩後靖彦氏「死ぬ権利よりも、生きる権利守る社会に」:東京新聞 TOKYO Web
 一方で日本維新の会の幹事長の馬場衆議院議員が、党内で尊厳死の制度検討を進めることを公表した際に、船後議員のコメントについて「議論の旗振り役になるべき方が議論を封じるようなコメントを出している。非常に残念だ」と語った。
  維新、尊厳死PT設置へ:時事ドットコム
 船後議員は「死へ向かう要因の除去こそがまず優先して考えられるべきだ」という「議論」の方向性を示しているという意味で、現に当事者の一人として「議論の旗を振った」し「議論を活性化させる」一定の役割を果たしているはずであり、「議論の旗振り役になるべき方が議論を封じる」といった批判は成立しないはずだ。しかし馬場議員が船後議員の発言を「議論の封殺」と断じているというのは、とどのつまり馬場議員の指す「議論」が安楽死拡大ありきの限定されたものに過ぎないことを意味する。そこでは「死にたい人が生きられる方向へ進めるようにする」は最初から除外されており(それが含まれるのなら船後議員の発言を「議論の封殺」と見做し得ない)、「死にたい人は死ねるようにする」に限定される。馬場議員はおそらくこうした構造に対して無自覚に発言しているのだと想像するが、そこには無自覚に「難病患者ないし重度障害者が『死にたい』と考えることは自然なことだ」という非当事者の一種の思い込みが作用しているのだろうと考える。
 死にたいと思うことはあり得る、しかし一方で生きられるなら生きたいと考えることもまた自然なことである、という視点に立つ。「死にたい」を自明なものとしてスタートするのではなく、「死にたい」がどこから来るのかを考えるところを出発点として設定した議論でなければならない、という理解で現時点の私はいる。


 例えば「あと5日後に死にます、その間肉体的に大きな苦痛を伴い、思考や会話はほとんどできません、現在の技術ではこの苦痛を除去することはできません」と言われるような状況をかりそめに想像してみると、「死なせてほしい」と私は思う。そう考えると、安楽死の一切を拒絶するわけではない。すると「一切認めない」と「全てを無条件に認める」との両端の幅の中で「では安楽死のどこまでを許容するのか」という線引きの問題がここで生じる。
 1991年に多発性骨髄腫で入院していた患者を、家族の求めに応じた医師が薬物を投与して死亡させ殺人罪で起訴されたケースがある。95年の横浜地裁の判決で医師による安楽死が許容される要件として以下の4つが挙げられた。

  • 患者が耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいること
  • 患者は死が避けられず、その死期が迫っていること
  • 患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くしほかに代替手段がないこと
  • 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること

  東海大学安楽死事件 - Wikipedia
 現在の日本ではここが一つの判断材料になっている。苦痛の大きさ、死との距離、要因の解消可能性、本人の自己決定、の4つを勘案した上で是非が決定される。(なお上記は積極的安楽死に関してであって、治療行為をしないことによる消極的安楽死に関しては本人の意思のみが要件となり認められている。)


 石原慎太郎都知事Twitterで、嘱託殺人容疑で逮捕された医師2名について「武士道の切腹の際の苦しみを救うための介錯の美徳も知らぬ検察の愚かしさに腹が立つ。」と書いた。
  https://twitter.com/i_shintaro/status/1287602343660228609
 切腹時の介錯というケースを仮に4要件に当てはめて考えると、

  • 苦痛の大きさ→刃物で腹部を激しく損傷させて耐え難い痛みに襲われている
  • 死との距離→死期は目前に迫っている
  • 要因の解消可能性→治療の可能性はない
  • 本人の自己決定→切腹前に介錯を拒絶していない(依頼している)

と4要件を満たすため(医師の手によるものではないが)介錯という安楽死は正当化されそうだ。「介錯の美徳も知らぬ検察の愚かしさ」と石原氏は書くが、仮に介錯のような状況であれば検察は不起訴(緊急避難により違法性が阻却され刑事事件の対象にならない)と判断するのかもしれない。切腹介錯と、今回のALS患者のケースとの間には大きな距離があり、今回の事件では4要件全てを満たしてはいない=違法性は阻却されないと思われ、警察ないし検察がこれを刑事事件として扱うのは現行のルール上自然なことであって、逮捕ないし起訴を「愚か」と断じる方に無理があるように見える。
 そうした具体的な「距離」を(意図的にか無意識にか)無視して、難病患者や重度障害者のケースにダイレクトに接続することは結局、船後議員が危惧した生きる権利をないがしろにする状況の招来そのものであって、「議論」としても粗雑ないし暴論でしかないだろうと思う。


 この4要件それぞれに線引き/程度問題が内在する。「苦痛の大きさ」で言えば肉体的苦痛に限定されず精神的苦痛もまた死という手段による解消が望まれるほど耐え難いものもあるのではないか、といった考えもあり得る。「死との距離」では「死が避けられず」という条件自体は全生物にとって既に共通であり「死期が迫る」とはどこまでを言うのか、数日に限定されるのか、数年に渡るものも許容されるのか。「要因の解消可能性」は例えば高額な医療で経済的に選択不可能であれば「代替手段なし」と言えるのかや、「自己決定」は現在の本人のみで過去の本人(認知症の発症前や植物状態になる前など)の意思にも遡及できるのか、等々、その程度を考える余地がいくつもあり、また既に一定程度司法判断が示されているものもある。
 現在の判断基準が「肉体的苦痛」に限定され「精神的苦痛」が除外されているのは、精神的な苦痛は客観的な認定の技術的な困難さによるのだろうか。現在の基準では少なくとも「認知症になったら死なせてほしい」は認められないし、まして私の母のケースは全く要件を満たす余地はない。
 他国では肉体的には健康だったが安楽死が許容された事例として、1994年オランダでの50歳の女性のケースがある。女性は夫からDVを受けており、また2人いた子供には一方が自殺、他方が癌により先立たれた。睡眠薬による自殺を試みるが失敗した女性は、「自発的安楽死協会」を通して精神科医に相談する。精神科医は「自殺願望を消す方法がなく、より悲劇的な自殺を実行する可能性が高い」と診断し、他の医師・心理学者ら7人と相談した上で薬物により患者を安楽死させた。精神科医自殺幇助罪で起訴されたが一審・二審で無罪、最高裁では形式的な有罪とされたものの「平穏に自殺する権利」が認められたという。
  みんなの介護
 他にオランダで、家族や友人を亡くした86歳の男性が「孤独であること」を理由に安楽死を求め、致死薬を渡した医師が最高裁で有罪だが刑罰は課されなかった事例もあるという。「オランダ社会は、『一定の年齢に達したら、病気などの事情がなくても、自分の死は自分で決める』という究極の自己決定権まであと一歩のところまできている」という。


 選択肢が多く自由である方がいい、制約は少ない方がいい、と基本的な価値観として考えている。世界全体で見渡しても安楽死の適用拡大が最も「進んでいる」オランダの状況が、私の住む社会でも実現されることを望むかと考えると、やはり「死にたい」の要因除去の優先が担保されていない限り、そうあってほしくないという気持ちになる。それは日本が文化的・社会的に個が確立されていない、空気を読む社会、同調圧力の強い社会だ、といった話にとどまらず、個の確立された社会であったとしても変わりない。一見、選択肢を拡大するように見えて、実は逆の効果をもたらす状況はシステム設計の問題としてありふれている。自由にすることがかえって不自由になる、制約がある方がむしろより自由になれる、という話の一つかもしれない。「死ぬ」を一旦塞ぐという制約を受け入れることで「どのように生きられるか」に繋がる。
 その意味で、「安楽死の適用拡大」全般に反対しているわけではないとしても、拡大の検討は、結局は現状の抑制的な4要件をベースにしてどこまでその線引きを拡大しても「死ぬ」選択肢が「生きる」選択肢を抑圧しないか個別具体的なケース(現実の広範な諸条件)と照合しながら一つ一つ検証するような地道な作業が必要になるのだろうと想像している。そこに至るともはや、観念論的に「死にたいと思っている人がいるなら楽に死ねるようにした方がいい」という立脚の仕方にはならないはずだが、少なくとも日本維新の会のPTは馬場幹事長の発言を見る限り、その稚拙な立脚点に基づいている(拡大ありきで考えている)としか思われず賛成する気にはなれないのだった。「死にたいと思っている人がいるなら」という条件への疑いが感じられない言説に首肯するのは難しい。


 自分自身の母親の入水自殺のことを思うと「もっと怖くない・苦しくない死に方ができたはずなのに」と、技術的には可能であっても許されていない現状を悔しく感じるのは正直な気持ちとしてあった。とは言え「そもそも死ぬ選択をせずに済むようにしてほしい」がそれ以前にあるはずだと思うと、「だから楽に死ねるような仕組みにしてくれ」という結論にはならないはずだとも、今回のあれこれを目にして改めて思ったのだった。