やしお

ふつうの会社員の日記です。

クリエイターが才能で免罪されるおかしさ

 犯罪や不祥事のあった芸能人(俳優・音楽家・芸人・学者・スポーツ選手など)に、「本業で評価しろ」という擁護はよく聞くところだけれど、イベントやCMへの起用は、その人の本業(演技・音楽・漫才・学業・試合など)そのもののみではなく、その人のネームバリューやトータルイメージを見込んで起用され報酬も払われるのだから、そこで本業のみによって免罪し、あたかもイメージを切り離せるように見せるのは、あまりに都合の良い言い分というほかない。
 そのイベントなどの性質と、不祥事の性質との近接性が大きい場合はなおさらで、交通安全啓発ポスターに交通事故を引き起こした人物が起用されたり、麻薬撲滅キャンペーンに覚醒剤で逮捕された人物が起用されたり、障害者スポーツイベントに障害者に暴力を振るっていた人物が起用されたりすることは、通常あり得ない。もしその人物が起用されるとしたら、反省(=原因追求と再発防止策実施)ができており、啓発・支援活動などを真摯に長らく続けていたなど、「その人のネームバリューやトータルイメージ」が反転し、イベントの性質との親和性が高まっていた場合などに限定される。


 この考えを裏返すと、イメージの利用ではない、純粋なその人の本業の公開は妨げないということになる。過去の出演作や曲が消されたり、公開予定の作品がお蔵入りになったりすることを「行き過ぎ」と感じる所以である。これは「作者と作品を切り分ける」という考えがベースになっている。
 しかし理屈上はそうであっても、現実的には「作品そのもの」を完全に切り分けることは難しく、その具体的な程度が問題になってくる。小説家や音楽家が個人的にネット上に公開した作品などであれば、かなりの程度「その作品単体」として見ることが可能になる。一方で、職業として商業的に製作・公開される作品には、それを支えるプロモーターや企業や組織があり、作品は「作品そのもの」であるばかりではなく、商品としての側面も持つことになる。
 「作者が作品を公表すること」と「企業等が商品をリリースして利益を得ること」が同時に発生する。前者は「作品と作者を切り分ける」という考え方をベースとして、作者が犯罪者だったり人倫に悖る人物であろうと、作品そのものだけを見て評価する、という言い方ができる。しかし後者は、企業等がその人物を起用して利益を得る場合、その人物の非倫理的・反社会的な行為などを肯定するメッセージとして受け取られ得る。これはフェアトレードの考え方に近いかもしれない。児童労働・強制労働などで生産された材料や部品を使わないのとも似ている。
 著名人に限らず、企業の一般社員であっても、倫理的に非難を受ける行為をしたり公言するなりして耳目を集めれば、「法令や会社の行動規範に反する行為により会社の信用を傷つけた者」などの就業規則に従って懲戒の対象になり得る。


 作品の性格によっては、商業的な支えなしに成立しないものも多くある。大規模な製作予算を必要とする映画や公共建築などは、作家個人によって作ることは難しい。フェアトレード的な観点によってその人物を採用できなくなれば、その人物は新たな作品を作り得なくなる。その人物の能力や才能を評価する人々は、こうした場合に「もったいない」「損失だ」と感じて、この排除を不当だと考える。他方でそのフェアトレード的なあり方を受容する立場からは「仕方ない」「当然だ」と考えるし、その人物を擁護する人々を「甘い」「都合が良い」と感じる。ここに意見の対立が生じる。


 仕事には、個人によって実現可能なものと、プロジェクトとして実現可能なものとがある。またそれとは別に、本業としての技能によるものと、その人物のイメージに依拠したものとがある。「個人的−プロジェクト的」、「技能−イメージ」の2軸で捉え得る。

 この2軸で仮に4つの象限に分割すると、右上:プロジェクト的+イメージに行くほど、不祥事や犯罪に対して排除の圧力が高まる。さらに、その人物のイメージと仕事のイメージとの親和度という軸があり、ゼロは無関係、プラスは合致、マイナスは不一致と考えると、高いほど起用されやすく低いほど排除されやすい。
 「テレビCMへの出演」は様々な仕事の中でもかなり高く右上に位置し、対象とイメージの親和度の高い人物が(予算の枠内で)選ばれる。家庭的というイメージを持たれた芸能人が家族向け商品のCMに出演するが、その人物に不倫報道が出れば親和度がマイナスに至り降板となる。(なお、CMを超えて右上に位置しそうなものを考えてみると、「天皇(皇族)」という仕事はそう言い得るのかもしれない。個人では成立し得ずシステムの中でのみ成立し、かつ当人のイメージによって象徴として肯定される職業となっている。人々が激しいバッシングをしたかと思えば掌を返したように肯定するほど振れ幅が大きいのも、高く右上に位置するため、という視点で考え得るのかもしれない。)
 仕事の中には「技能−イメージ」の軸上で正確に位置を定めることが難しいものも多くある。高名な俳優が映画に起用される時、役者の能力とネームバリューのどちらも見込まれて、両面的であり得る。有名デザイナーがイベントに起用され、それが実力かネームバリューによるものかを特定することも難しい。アイドルになれば、もはやイメージを形成する能力こそが、その本業の技能そのものとなり、一体化する。技能かイメージかは、拡がりをもって位置を占める。また親和度の程度は、「イメージ」というものの境界が曖昧である以上、評価者の解釈の余地が大いに生まれ得る。


 「作者と作品は分けて考える、作者の罪は作品の罪ではない」と原則としては言える。しかし現実の「作品」は純粋に「作品」としてのみ存在するわけではなく、「商品」としての側面もあり、本業としての技能のみによらず成立する側面も持つ。この原則のみを盾に、そうした側面を捨象して語ることは、妥当ではない。その当人を擁護したいと感じる時に、無意識に捨象してしまう。その先に「アート無罪」「クリエイターはその才能で免罪される」とする極端な考えがある。逆にその人物が気に食わなければ、無意識に「作者と作品を弁別する」原則を弱めて、商品や人格の側面を強調して排撃してしまう。どちらも一面では正しく理屈が通るため、本人は正しいと感じる。しかし無謬ではあっても妥当ではない。複雑なファクターが現実に存在する以上は結局、個別具体的にそのケースを見つめて妥当性を考えるほかないし、そのためには自分にどのバイアスがかかっていてどちらの側面を重視しているのかを見つめる必要がある。