やしお

ふつうの会社員の日記です。

小倉磐夫『カメラと戦争』

https://bookmeter.com/reviews/99999725
単純な国産カメラの戦後発展史というより、色んなアイデアが現れて、消えるものもあれば残ったものもあるし、商品化されなかったものもある、そんな歴史の幅を具体的に見せてくれる本だった。話題も開発者・設計者ばかりではなく、経営者や工場側の人間の話もあって多彩。成熟期より黎明期のエピソードは大胆で面白い。カメラの品質基準が法律で定められ、政府系検査機関で合格しないと輸出できなかった時代があった、という話も新鮮だった。そうした品質安定化策を経て、国産カメラは64年に西ドイツを抜いて世界1位になったという。


 「『大和』15メートル測距儀とニコン」に収められていた青木大佐のエピソードが印象的だった。
 青木小三郎は、東京帝大理学部を卒業し、海軍の技術将校になる(最後は技術大佐になる)。ドイツに3年滞在し、潤沢な軍の調査研究費を背景に、光学兵器の研究する。太平洋戦争では、日本光学ニコン)の監督官(軍需工場は軍人によって管理されていて社長や工場長もその指揮下にあった)になり、戦艦 大和・武蔵に搭載された「15メートル測距儀」の開発を進める。戦後、日本光学に再就職しようとするが、25,000人いた従業員の94%をリストラして1,500人にまで縮小しており余裕がなかったためか断られてしまう。海軍時代の部下が興した「日本真空工学」に技術部長として入社する。
 年齢を重ねて、技術部長を退き、監査役も退くと、会社では居眠りしたりケーキを買ってきてパートのおばちゃんたちと談笑するおじいちゃんになる。誰も東大卒の海軍大佐だったという話を信じない。ある時、おばちゃんの一人が買ってきた外国製の缶詰を見て、そこに書かれたドイツ語を青木さんがスラスラと読んで聞かせ、おばちゃんたちも「本当にそうかも」と思うようになったという。94歳で亡くなり、棺には終生会員だった日本物理学会の会誌の最新号が入れられた。「本当は学者になりたかった」と生前は語っていたという。


 「会社で暇そうにしてるジジイが実はすごい人だった」の実話じゃん、と思って、なんか笑ってしまった。