やしお

ふつうの会社員の日記です。

ワクチン4回目接種の感情メモ

 この前(11月初旬)新型コロナウイルスワクチンの4回目接種をして思ったことのメモ。
 自分が結構、世間の空気感に左右されて行動してるんだな、みたいなことを思ったりした。こういう割り切れない感覚みたいなものは、(割り切れるものは論理の積み上げで後からでも再現しやすい一方)後から振り返ろうとしても分からなくなりがちで、それから「一時的な雰囲気」は後から別の雰囲気が支配的になって変わった時に、記憶もオーバーライトされて分からなくなることがよくある。曖昧な感覚や一時的な雰囲気は、忘れないうちに記録しておいた方がいいかと思って。


雰囲気の差

  • 3回目までは割とあった「みんな打つ」ような雰囲気も、4回目は「えっわざわざ打つんだ」みたいな空気感を個人的には感じた。
    • 職場でも(打つ日と翌日は在宅勤務に切り替えて予定を職場内で共有していたこともあり)「なんで打つの?」と聞かれたりした。
    • 非難や馬鹿にしての意味ではなく、理由を聞いて自分の判断材料にしたい、という意味で聞かれた。
    • ただこの「感じ方」は同年代でもかなり個人差があるとも感じた。「4回目も当然」と感じている人もいそうだった。
  • 自分自身も必要性をしっかり腹落ちして4回目を打っていたわけでもなかったなと思った。

 

3回目以前より弱い要素

  • 「4回目はいいかな」の気持ちには以下のような要因があった。
  • テレビやネットニュースで感染者数や接種率の扱いが以前より小さかった(第7波ピーク以降で減った)。
    • 「自分から情報を取りにいかないとわからない話」と「その気がなくても(テレビやネットで)流れ込んでくる話」で大きな差がありそう。
    • 第8波で感染者数増加、医療逼迫、死者数増加すれば、また取扱いも増えて雰囲気が形成されるのかもしれない。
  • 3回目までは会社の職域接種があったが、4回目は(今のところ)ない。
  • 周囲で打つ人の少なさ。(職場やTwitterのタイムライン等)
  • 「基礎疾患のない非高齢世代の4回目接種の必要性」はあまり喧伝されていない。
    • 「時間経過で発症予防効果は下がっても、重症化予防効果はそれなりに維持される」と見聞きしたことが、3回で十分だろうかという気分に繋がっていた。
    • 今年4月に自民党のワクチンPTが「若い健常者は4回目不要」の提言をまとめた、という報道があったりもした。

 

打つ気にさせる要素

  • 逆に打つ気にさせた要因は以下。
  • 8月に出た理論疫学者の西浦博教授の記事を印象深く記憶していた。
  • 後遺症のリスクはそこそこあり得そう。
    • 発症予防効果は短くても打てばあって、発症せずに済むなら、個人の利益としてそれはあるのかなとも思った。
    • 今のところ感染はしていないので、このまませずに行きたい気持ちもある。
  • 会社の制度で給与面でのダメージがない。
    • 接種の中抜けが業務時間に見なされる。
    • 副反応で公休(通常の有給休暇を消化しない有給の休暇)を取れる。
    • 上記の3回目以前からのルールがまだ継続されていた。
  • タダで打てる。
    • 払った税金を回収したい、みたいな貧乏根性が多少あるかもしれない。
    • 最近、財務省が「これ以上タダでは無理」と言ってると報道されていて、そのうちタダじゃなくなりそう。

 

打った経緯

  • 市から接種券はだいぶ前(9月下旬ごろ)に届いていた。
    • 「高齢者や基礎疾患のある人が対象」と書かれていたので(自分は対象じゃないのね)とそのまま放っておいた。
  • 10月下旬くらいに、同年代の同僚が予定表にワクチン接種で在宅勤務にしてるのを見て、(あっ今は全員が対象になったのかな?)と認識した。
    • 打つ予約を入れた時点でも「いつから4回目接種が全員対象に切り替わったのか」はよくわかっていなかった。
    • その時点では具体的に自分が打つ気持ちにまではなっていなかった。
  • 11月に入って妻が4回目接種の予約を入れているのを見て、初めて具体的に自分も打とうかという気になった。
    • 妻も、Twitterで非高齢者・基礎疾患のない人が打ってるのを見かけたのがきっかけとのこと。
  • 11月初旬時点で、感染者数が増えつつあり第8波に入ってきているという報道を見て、先述の西浦教授の「波の手前で打つ」話を思い出した。(その後中旬になって「第8波に入った」と報道された)
  • 出張の予定や「効果は打って2週間後」を加味して今かなと思って市の集団接種会場を予約した。

 

市の集団接種会場

  • 過去3回は職域接種で会社が会場だったので、市の集団接種は初めてだった。
  • 基本的なオペレーションは(当たり前だが)職域接種と変わらない。
  • ただ大きく違うと感じたのは、ものすごく職員の数が多い点だった。
    • 建物内のすべての曲がり角、T字路に必ず案内の人がいる、くらいの感じ。
    • 打ちに来てる人より職員の数の方が多かった。(ピークに比べれば今打ってる人が少ないこともあり)
    • 職域接種だと会社の人(かせいぜいその家族)だけど、集団接種は世代もバックグラウンドも多種多様な人が来るから、これくらい丁寧にしておかないと混乱やトラブルが生まれるだろうなと思った。

 

副反応

  • 3回目以前と変わらず。
  • 当日の夜から発熱、解熱剤も飲んだが翌日は夕方ごろまで38℃程度で推移。
  • 結局翌日は仕事を休んだ。

 

周囲に影響を受ける

  • 普段「情報を取捨選択して合理的に判断してます!」みたいな顔して生きているが、空気感・雰囲気にかなり影響されていると改めて思った。
  • 副反応で1日ふいにした時も、損したような、被害者意識のような気持ちを感じて、自分が随分わがまま・身勝手だと思って嫌になった。
  • 打つ必要性の喧伝や機運醸成を、マスコミや政府がもっとしてくれればいいのに、と責任転嫁するような気持ちに自分がなったのも嫌だった。
  • 「みんながそうしてないのに自分だけやるのが恥ずかしい」感覚が自分にもあると改めて思わされると、それも自分で自分が嫌になる要因だった。
    • 逆に打つことにしたのも、人がツイートしてるのを見かけたり、妻が予約してたのがきっかけになっているので「そうしてる人がいる」に行動が大きく左右されている。
    • テレビの街頭インタビューや、はてなブックマークやヤフーニュースのコメントが存在してるのと同じで、「利害関係のなさそうな人がそうしてる/そう言ってる」を見て安心しようとしている。
  • 報道、職域接種、一般人の接種等、全部が揃って背中を押してくれないと不満に感じるというのは、いくらなんでも甘え過ぎだと思うけど、そう感じた自分の恥ずかしく弱いところは、記録した方がいいかと思った。

 

利得と損失のバランス感覚

  • この曖昧な「打とうかなどうしようかな」の感覚は、ひょっとしたら、若い人たち(接種率が上がらなかった世代)が感じていたものを後から体験してるのかも、とふと思った。
  • 「打たなくても重症化するリスクは少ない」という利得の小ささと、「打つと丸一日副反応でしんどい」という損失の大きさで、個人の損得勘定だとなかなか打つ方向にいかない。
  • 後は利他的な側面に、どれくらいその人が価値を見出すかが作用してくる。
    • 「接種率が高まると波を抑えられる」「感染の絶対数が小さいほど変異の確率が下がる」など
  • こうした全体の利益は(あれば)、政治的に調整すべき話とは思われる。個人の利益に転換したり(例えば実際に旅行支援の条件にされたりした)、意義を広く説明するとか。
  • 個人的には、「発症すれば重症化はしなくても後遺症(自己免疫疾患?)のリスクはそこそこありそう」との見込みで、4回目を打つ意味はそこそこあったかとは(今のところ)思っている。
  • 一方で、人にものすごく強く勧めるほどの気持ちもないと感じた。
  • 新型コロナに限らずインフルエンザも、ワクチンの性質として個人の損得勘定とはあまり馴染まないものかもしれない。
    • 後から振り返って(個人ではなく)全体を眺めて、効果が高かった・低かったとしか言いようがないような性質が、個人の損得勘定と馴染みづらそう。

 

個人と全体を行き来して感情に対処する

 ワクチンに限らず、自分の判断の結果で自分が損した(良かれと思ってわざわざやって損した)と感じると、結構やるせない気持ちになる。この感情を上手に素早く解消させないと、案外危ないんじゃないかと思っている。損した気持ちから、「いや、自分の判断は間違っていない」か「間違えたのは何か/誰かのせいだ」と考えて、「自分は悪くない」に持ち込もうとする機序が自動的に働いてしまう。


 今回で言えば、「いまいち(自分が)4回目の必要性を十分に腹落ちしない状態で副反応で1日ダウンしたこと」が損した気持ちにさせて、「政府やマスコミがもっとちゃんと」と責任転嫁するような気持ちに一瞬なったのがそれだった。
 ここで「自分は間違っていない」で自分を慰めようとすると、その延長線上で強硬なワクチン推進派(打たないやつはおかしい、周りを危険にさらしてる、とか)になるのかもしれない。その逆方向に強硬反対派のコースもあって、マスクも含めて、「単に自分がそうしないこと」を一般化して正当化しようとする過程で、被害者意識から「全体主義の象徴」「製薬会社や政府の陰謀」といった論で攻撃的になったりする。極端に走ると現実とはさらに乖離して、その乖離がますます本人を苦しめて救われることがない。
 個人の単位で言うと、ワクチンは「打つ/打たない」の2値しかなく、「確率的に打つ」「半分打つ」などができないのも、そのまま敷衍した時に極端に走りがちな要因かもしれない。あとマスクも外から見た目でわかるのが極端な主張に行きやすいのかもしれない(「強硬な手洗い反対派」を見かけないのと比較して)。


 自分自身を「代えの利かない個」で見ると、どうしても「それを選んだ自分」を肯定したくて/その選択への不安を解消したくて、苦しくなってきてしまう。同時に自分自身を「全体に含まれる一要素」でも見た方が、気持ちが楽になる。
 一つの判断が究極的には生死に繋がったりもして、それは最大の個の損得なので、本人も周囲も簡単に解消できないやるせなさや恨みが生じるけれど、その時に一度「個を離れて眺める」を意識的に考えるのは、救いになり得る。
 打つ人もいれば、打たない人もいて、個としてはそれぞれ判断(根拠が不明確の「なんとなく」の判断も含めて)した結果、全体の数値(感染数や接種率など)が世の中の雰囲気を反映したものになっていく。その中に自分も回収される、それでいいんだ、みたいな感覚で、一旦客観視して落ち着ける。


 東日本大震災津波被害の時に、ビートたけしが「人の命は、2万分の1でも8万分の1でもない。そうじゃなくて、そこには『1人が死んだ事件が2万件あった』ってことなんだよ」と週刊ポストのインタビュー記事で語った有名な言葉をふと思い出す。これは当時マスコミが死者数を連日報道していたことに対するカウンターだった。あるいは「社会(組織)の歯車じゃない」という通俗的な言い方があったりする。
 全体視点に偏っている時に、個視点を強調してバランスさせるのは重要で、それと同様に、個視点に偏っていそうな時は、全体視点を考えるのが、客観視して精神衛生に寄与するのだと考えている。個で考える方を強調されがちだったりもする(生きた人間を数字で見るな、は反論しようもなく正しく見えてしまうので)けれど、あんまりそこを見すぎるとしんど過ぎておかしくなるので、個と全体を意識的に行き来させた方がやっぱり安全だと思う。