やしお

ふつうの会社員の日記です。

死体の写真をみんなで撮る

 電車にひかれて死んだ人をシャキーンシャキーンと撮影する。笑顔で「ちょうこわかったー」と電話やツイッターで報告する。そして古舘伊知郎みたいな人が「現代社会は病んでいる」と言う。
 でもそんな風に言うのは無意味だし、かえって病的という気もする。


 電車事故や無差別殺人は、せっかく忘れてた「自分が死ぬこと」をいきなり可能性としてつきつけてくる。そんなとき「ちょっと珍しいモノでも見た」みたいな反応(ケータイで写真撮ったり友だちに笑って話したり)して、無意識に「大丈夫だよこれはふつうのことだよ」と自分自身に言い聞かせてなだめる。死に限らず、嘲笑、他人を馬鹿にすること自体が「こいつは自分とは違う」と自分から切り離して安心させる振舞いだ。そんな防衛反応だと思えば病的というより自然なことだ。
 「遺族感情への想像力が欠如している」という非難は、不謹慎な振る舞いをせずにはいられない人たちへの想像力が欠けている。
 もちろんそれに怒る遺族感情もまた当然だ。家族や知人というのは、自分の記憶や価値体系と結びついてるから(比喩じゃなくて字義通り)自分の一部だ。それを赤の他人が「なんでもないこと」に押し込めるのは自分を否定されることと同じだから、それに反発するのも自分を守る防衛反応の一種であって、自然なことだ。


 この防衛反応どうしの衝突を回避するために「不謹慎だ!」がある。「不謹慎」とは「つつしみがない」という非難であり、「つつしみ」とは他人の感情に配慮して自分の欲望を抑圧することで衝突を回避する装置だ。「不謹慎」の抑圧が昔より働いていないとしても、それで「現代社会は病んでいる」と言っても仕方がない。抑圧が働かなくなったのなら、抑圧されるものが強くなったか、抑圧するものが弱くなったかのどちらか/両方だろうし、それが社会全体に起こったのなら社会構造の変化が起きたって考えないと意味がない。
 例えば前者なら、ケータイが普及してその場で「防衛反応」を手軽に示せるようになったとか。もとからあった自己防衛の欲望が顕在化して「抑圧されるものが強くなった」ように見えてるだけかもしれない。後者なら、村人の機嫌を損ねると生きていけないような社会じゃなくなって昔ほど衝突回避スキルを磨く必要がなくなった。それで「抑圧するものが弱くなった」とか。
 これは適当に思いついただけの理由だけど、そんな風に考えれば、なるようになっただけのことを「病んでいる!」と言うのは滑稽に思える。「今のやつらは火のおこし方も知らねえ」なんて怒ったって意味ない。「非常時にガスが止まったらあいつら無力じゃねえか」と嘲笑しても無意味だ。


 でも全くの無関係者がそうやって非難せずにいられない意味はよくわかる。自分は「不謹慎」の抑圧をがんばって耐えてるのに、それをしない人がいたら自分が損をした気になるからね。だから「つつしめ!」と叫んで出る杭を打たずにいられない。
 そういう損得勘定に目をつぶって、正義感だと思い込んで他人を非難する態度は、むき出しの防衛反応よりもかえって病的に見える。

笠智衆『大船日記』

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/31016544

スタジオシステム(制作会社が監督、役者、技術者を抱え込み量産する体制)が日本に生きてて、ちょうどサイレントからトーキー、モノクロからカラーに変わる時代の生活を役者として見た人の話が聞けるのは面白い。小津安二郎を一貫して先生と呼び、「雲の上のような人」、「先生の演出をなるべく理解し、その通りに演ずることが、作品に貢献するただ一つの方法なのです」と最大限の尊敬をもってほぼ全ての小津作品に出演した人が、小津が亡くなるところで「先生と僕は、ひとつしか歳が違いません。先生がひとつ上だっただけです」と言う、この関係。

大船日記―小津安二郎先生の思い出

大船日記―小津安二郎先生の思い出