やしお

ふつうの会社員の日記です。

ゼルダとジムとやりがい搾取

 ここ最近、テレビゲーム「ゼルダの伝説」の新作「ティアーズ オブ ザ キングダム」(TotK)をずっと遊んでいる。本当に楽しい。前作「ブレス オブ ザ ワイルド」(BotW)も本当に楽しくて、ずっと新作を心待ちにしていた。これだけ大勢の人から大きな期待を集めて、その期待を越えたものをメーカーが出せるのは心底すごいと思う。
 それはそれとして、遊んでるとなんか仕事っぽいなという気持ちに時々なる。


仕事っぽさ

 タスクがどんどん発生する、それをやり方考えてこなしていく、それで忙しい。やることが多い。
 この感覚が、やってると「仕事っぽい」という気持ちになる。
 前作BotWも同様だけど、今作TotKはやること、やれること、やりたいことがさらに増えていて(アクションの種類がさらに多く、フィールドがさらに広いので)ますますその気持ちになる。


 アクションの種類が増えたことで、操作に難儀することが時々ある。(ウルトラハンドなどのモードが多く、十字ボタンとスティック、L/R/ZL/ZRを押し間違えて、意図した動作と違うことを一回してしまうことが時々ある。)
 新しいツールが出てきて、でも「考えなくても手足みたいに動かせる」ほど脳が適応できなくて、やるのが遅く、年を取ったのを感じて悲しくなる。
 この哀しみも、ちょっと仕事っぽい要素と言えるかもしれない。


お金を払って労働する

 仕事は生活費を稼ぐためにやっている。でもゼルダは、その仕事で稼いだお金をはたいて買って、それで仕事みたいなことをやっている。
 この倒錯が、ジムっぽいなとちょっと思った。


 機械がいろいろ発達したおかげで肉体労働の必要が減った。大阪から東京まで移動するにも飛行機や新幹線やバスがある。徒歩を現実的な移動手段として選択する人はほとんどいない。
 運動をしなくなって、筋肉が衰えたり骨への刺激が減ると体に悪い。寿命が縮む。それでお金をかけてジムに通って運動する。
 運動をしない方向に進んでおいて、逆にお金を払って運動をする。この逆転が、ちょっと似てるなと思った。


 情報技術(AIとか)や社会技術(資本主義的なシステムの転換とか)の発達で、人間が仕事・タスクをこなす必要性が、社会システムの維持に必須でなくなる/激減するような未来が訪れたりするのかもしれない。
 その一方で、「タスクをこなす」が脳の健康維持に必要で、ゲームなりの形でやっぱりお金を出してでもやるような光景を、ジムとの類推で想像していた。
 AIと人間の棲み分けが進み、単純作業だけでなく、創造的な思考(組合せ爆発のような形で一見自由思考に見える)までも、ほとんどAIの仕事になっていく。責任を伴う決断だけが、形式的に人間の仕事として残される。でも「決断すること」が重なると人間にはストレスになる。そのストレス解消のため、AIに任せたはずの仕事をジムのトレーニングみたいに人間がお金を払ってやる。


 稼ぐための労働から人が解放されても、クリエイティブな活動にみんな時間を割くようになるかというと、そうでもないんだろうなとも思う。なんとなく暇を潰して過ごす人の方が多い。1円パチンコや、ゲーセンのコインゲームとかで、高齢者が日がな一日過ごしてたり、自分もYouTubeをダラダラ見てたりする。
 それだけだと体に悪いので、ジムや上手くデザインされたゲームとかで、上手に健康を維持させるようになるのかもしれない。


人間の機械的側面/生物的側面

 人間だと遅過ぎる/効率が悪過ぎたり、人間の負荷を減らしたりする目的で、運動も仕事も人間から取り上げられていく。一方で生物としての人間にとっては、運動も仕事もその機能(肉体的・精神的な健康)維持のために一定程度必要になる。
 人間には、機械としての側面(考えたり喋ったりするシステム)と、生物としての側面の両者がある。一方で不要でも、他方で必要という差があるために、「発展してやめたことを、お金払ってやる矛盾」が色々生じるのだろうと思っている。
 「肉体を捨てて脳のエミュレートだけで人類が存在する」みたいな未来になれば、生物としての側面も捨象されるのかもしれないけれど、そうでない以上は、生物的側面(栄養バランスも運動も睡眠も必要)が存在するので、それへの手当てが必要になって、こういう変なことがあれこれ観察されるのだろう。


お金を払ってでもやりたい仕事

 ゼルダが、お金を払ってプライベートの時間を削ってでもやりたいと思える「仕事」なら、そう思えるだけの楽しい特徴がある。それを「やりがい」と呼ぶとして、やりがいを生じさせる特徴を洗い出してみれば、それとの差でどうしていつもの仕事が嫌なのか(つまらないのか)も見えてきそう。
 以下そうした要素で思い付くものを挙げてみる。(BotW/TotKに特徴的でなく、他のゲーム一般にも見られる要素も含む。)カッコ内はゼルダでのケース、※印は現実の仕事などのケース。

  • 自身のレベルアップを実感できる:自己肯定感の醸成
    • 技術的な上達(操作が上達する。始まりの空島や祠のお題などそのためのチュートリアルが用意される)
    • 手段の増加(特殊能力の獲得、持ち物の増加、知識(やり方のパターン学習)の増加で、やれることが増える)
    • 攻撃力や耐久力の増加(武器や服の強化、ハートやがんばりゲージの増加など)※仕事だとロジックの構築力が上がったり、人的ネットワークが充実したりして、上手く人と協力できるようになったり、責められたりしなくなるとか
  • 怒られない/失敗が許される:自己肯定感が毀損されない
    • 失敗にペナルティが課されない(ゲームオーバーになってもアイテムが減るとかはない。直前のセーブまで戻されるが、こまめにオートセーブされる)
    • トライアンドエラーが許されている
    • 下手でも下手なりにできるようになっている
  • 精神的な報酬
    • 褒められる(祠やお題を達成できるとおなじみの効果音が出たりする)※ダイレクトな誉め言葉でなくても、やってることの意義や大変さを理解してくれてると感じられるだけでも救われる
    • 尊敬される(NPC達が「姫様お付きの騎士」として尊敬してくれたり、ミニチャレンジクリアでプレイヤーを持ち上げてくれたりする)※会社でのランク制度なども自尊感情に繋がったりする。関係ないけど、江戸時代の大名が、政治的な実権のないランク制度:位階を上げるために藩財政を傾けてまで幕府に貢いだ事例を思い出す
  • 新しい発見がある/好奇心が刺激される
    • 無意味な反復作業が少ない(レベル上げ作業がない。素材集めもコログや図鑑登録と組み合わさって反復感が多少軽減される)※逆に穴を掘って埋めさせるみたいな、完全に無益・無意味な繰返しを強いると拷問になる
    • 勉強・研修が楽しい(チュートリアルもストーリーの進展やアイテムの獲得と紐付いていて、ただの訓練ではない)
  • 適度な単純作業がある(素材集めや祠のパズル的要素等)※数独ピクロスマインスイーパなどの作業で頭が休まる。仕事でも片付け、製品検査、パワポの見た目を整える(別に生産性があるわけではない)作業が少し挟まると楽になる。エントロピーを下げる整理のような作業
  • 暇過ぎない/適度に忙しい(人と話せばチャレンジがどんどん発生し、周りを見渡せば祠や穴がたくさんあって、やることが多い)※逆にパソコンも仕事も取り上げられると、人は苦しくなって退職に追い込まれてしまう
  • 裁量・自由度の範囲が広い
    • タスクの優先順位・締切をコントロールできる、やらない選択肢も許されている(いきなり全てをすっ飛ばしてラスボス戦をする、という選択肢さえ許される)
    • 達成のために取り得る手段が複数あり、どの手段を取るかの決定権がある
  • 意義や意味、目的が与えられている(ハイラルの地やゼルダを救うという大きなストーリーから、住民の困りごと解決とそれに伴うアイテムのゲットなど小さな目的までが与えられる)※社会に役立つ、自分のキャリア形成に役立つなど大きな目的があれば取り組みやすい。逆に小さなタスク一つでも目的が不明確だとやる気がなくなる

 

やりがいと賃金の4象限

 こうした「やりがい」を上手くデザインできれば、お金を払ってでも仕事をやれる。似たことが現実の労働で起きると、「やりがい搾取」になるのかもしれない。労働に見合った賃金が支払われなければ、労働者が「お金を払っている」に近くなる。
 やりがいが高くても給与が不当に低ければ「やりがい搾取」になる。やりがいと給料の2軸で見るのだとすると、4象限できる。大雑把には↓のようなイメージでいる。(用語設定はより適切なものがあり得る気がするけど。)


  • やりがいも給与も高い:一番嬉しい。ホワイト職場になる。
    • 例えば臨床医は、社会的意義などの意味でやりがいが高く、給与水準も高く、じゃあホワイト職場なのかというと微妙かもしれない。自由度が低い(激務)、失敗が許されないなど、他のポイントでやりがい度が下がって、ホワイトより3K領域に近いのかもしれない(所属組織や専門領域にもよる)。
  • やりがいが高くても給与が低い:やりがい搾取になってしまう。
    • 以前に某テーマパークのキャストが、ブランディングや教育制度・グレードアップ制度などによって高いやりがいとサービスを維持できても、給与水準はそれほどでもなく、将来性も不明確なので、やりがい搾取だ、といった批判がされたこともあった。上記の「やりがいポイントを満たすよう業務が設計されている」話にかなり近いイメージ。完全なブラック領域に入るよりはマシかもしれない。
    • 教師も、社会的意義や子供たちのためといった面でやりがいが高くても、過重労働に比して給与水準が低いとやりがい搾取になっていく。長時間労働が、コア業務でなく周辺事務作業(自由度が低い、無意味な反復作業)だとやりがい度も低下して、やりがい搾取からブラック領域に近づく。
    • アニメーターは、(特に元請けからの距離が遠いと)給与水準が異様に低くなるが、アニメ業界そのものへの憧れで志望者が確保できてしまい、やりがい搾取と呼ばれたりする。これも憧れ以外の部分でやりがいポイントを毀損しているとブラック領域に近くなる。
  • やりがいは低いが給与が高い:昔でいう3K職場だろうか。
    • 3Kは、本来は単に「きつい・汚い・危険」という職場の特徴を指すだけで、給与水準には触れていないので、用語選択としては最適でないかもしれない。ここでは「大変だが稼げる」ものとしてさしあたりラベリングしている。
    • かつての鳶職やトラック運転手はきついが稼げる職業と言われて、そのイメージ。
    • 最近は6Kと拡大され、その中に「稼げない/給料が安い」が含まれるそう。その場合はこの4象限だとブラック領域に入る。
    • 現代だと、振り込め詐欺などの犯罪が、逮捕されるリスクはあっても(危険)、稼げるという意味で、ここに入るのかもしれない(しかし末端がどれほど稼げているのかは分からない)。(ちなみに振り込め詐欺でも「溜め込んでる老人から富を吐き出させて世代間の不平等を是正する」という(嘘の)意義が与えられて、やりがいのデザインがされていると聞く。)
    • 現代日本だと社会全体の衰退の結果「きついが稼げる」職業は多くなく「きついし稼げない」ものばかりで、この3K領域に入るのが犯罪行為などになってきていたりするのかもしれない。
  • やりがいも給与も低い:一番悲しい。ブラック職場。
    • 「ブラック」という言葉も、定義によりけりで、低賃金/低やりがい(悪環境)の一方しか満たしてなくてもブラック呼ばわりされることもあるけれど、ここではさしあたり両方満たしたものをブラックと呼んでいる。
    • 金融・不動産業界や広告代理店などで、厳しいノルマが設定されたり、長時間労働が常態化したりして「ブラック職場」と呼ばれる。一方で高い給与が得られるのであれば、(この場の区分だと)3K領域になる。

 



 もう全然ゼルダと関係ない。なんか世知辛い話になってきた。

  • なんかゼルダ遊んでると仕事っぽいな
  • →お金と時間遣って仕事みたいなことするのは、ジム通って運動するのと似てるな
  • →仕事はやりたくないのに、仕事っぽいゼルダはわざわざやるなら、どの辺に差があるんだろ
  • →お金払って仕事やるなら究極のやりがい搾取みたいだな
  • →やりがいと給料の二軸で考えると色んな仕事や職場がマッピングできて楽しいかも

という無軌道な連想ゲームの記録だけど、個人の日記は、そうやって「なんか最近ふと思ったこと」を書き留めて記録しておくことに意義がある営みなのだから。

CoCo壱番屋と共に生きる

 カレーハウスCoCo壱番屋(以下ココイチ)は、定期的に「美味しくない割に高い」と話題になる。そのたびに哀しい。ほとんど腹を立てているくらいの気持ちになっている。ココイチに対して私は冷静な評価はできない。
 そうした気持ちがどこから来るのかを一度整理して片付けておく。


「自分のもの」という感覚

 家庭料理や自国料理をよその人に貶される感覚に近い。自分で文句を言うのはいい、だが他人に言われるのは許せない、というような感覚。


 よく「まずい料理代表」とネタ扱いされるイギリス料理も、最近はその揶揄が「ダサい」と否定されてきている気がする。
 世界に先駆けて産業革命に突入したことで食文化を不可逆的に破壊されたイギリスを、後追いで産業革命を短期に圧縮できたことで食文化を維持できた日本が、嘲笑できる立場にあるのだろうかという疑いもある。
 そんな切実な背景がココイチにはないとしても、尊重されれば嬉しい。私は美味しい、あの味が食べたいと思って食べてるのだし、という気持ちはある。


食べ始めた時期

 これは子供の頃から食べる習慣があったかどうかが大きいのだと思う。
 日本にマクドナルドを普及させた藤田田が「12歳までに食べ慣れた味を一生食べる」と、ハッピーセットやプレイランドなどで子供をターゲットにした戦略を思い出す。


 外国に行くと根本的な味の価値観が違うとつくづく感じるが、それは国単位ではなくもっと小さな範囲でも起きる。
 自分にとってのココイチが「物心ついたころから食べていた」「近所にいくつも店があった」という環境で、美味しい/美味しくないではなく、「あの味が食べたい」と思っているので、味を評価するとかはできない。自分は岐阜市の出身で、ココイチは愛知が本社だから、非常に身近な存在だった。


出身地域差

 ごく個人的な狭い観測範囲だと、西日本出身者の方が受容度が高いと感じている。
 以前、鳥取と大阪出身の会社の後輩と出張した時に、全員ココイチが好きだからと言ってココイチで食事したことがあった。熊本出身の会社の後輩もココイチが好きだという。
 一方で、北海道出身の後輩は、14年前に「ココイチってそんな美味しくないけど高いじゃないですか」と言っていた。(こんなにはっきり覚えているのだから、よほど思うところがあったのだろう。)埼玉や神奈川出身の友人知人は、軒並みココイチを微妙なもの、それほど魅力の高い外食とは感じていない様子だった。そもそも「食べたことない」という人も多い。


 という話をすると、ただちに「は? 私は東日本出身だがココイチがめちゃくちゃ好きなのだが?」と文句を言われそう。
 そういえば会社の同期で、福島県出身だけど好きな会社の同期がいたのを思い出したから、絶対にそうというわけでもない(大学で地元を離れたのかもしれない)。


西高東低

 実際どうなんだろうと思って、都道府県別の人口当たりのココイチ店舗数を計算して、地図に色を塗ってみた。ついでに日本の外食チェーンストアとして最大のマクドナルド(以下マック)も参考までに作ってみた。


 やはりココイチは西高東低の傾向があるようだ。
 創業地である愛知が突出して多い。私の出身の岐阜は2位、三重が3位で、東海3県が多いのは想像通りだった。愛知は「マックに近いレベルでココイチがある」という結果で、多いとは思っていたが想像以上だった。(愛知の2.51は平均+3σ=2.1を超えていて外れ値になっている。)
 ココイチが好きだと言っていた後輩の出身地、大阪、鳥取、熊本も比較的高い。
 関東では東京都だけが例外的に高いが、その他の各県は低い。


 「西日本出身者の方が好きな人が多い」という実感があり、それは西日本の方が店舗数が多い(経験機会が多い)からだろうと漠然と想像していたが、改めて実際にそうなんだなと知って、ちょっと面白かった。
※この地図を時間軸でアニメーションにできれば、どの年代・地域の人がココイチに出会ってそうかも分かって面白いけど、そこまでは(正確な全店舗の開店年のデータもなく)できていない。


 一方でマックは「地方による差」は見られず、日本全国におおむねムラなく展開している。


 マックの人口あたり店舗数は京都が1位、沖縄が2位だった。沖縄は米軍基地があったり27年間の米国統治時代の食文化への影響もあるのだろうかという気もするけれど(ちなみにKFCも人口あたりで沖縄が全国1位)、京都は少し意外だった。国際的な観光地だからかもしれないし、京都はパン食率が実は高い(世帯消費量が圧倒的に1位で、偏差値だと75に相当する)のとも関係するのかもしれない。
 岩手はココイチもマックも全国最少となっている。食費に占める外食費の割合で、岩手は42位と低い。物流課題等で外食産業が増えないから外食費率が低いのか(供給要因)、文化的な理由等で外食が少ないから外食産業が低調なのか(需要要因)、どちらかはわからない。ただ他にココイチもマックも双方周辺県に比べて低い島根(外食比率19位)や高知(27位)、鹿児島(32位)は必ずしも外食比率が低いわけではないので、需要要因というより供給要因なのかもしれない。


店舗数

 外食チェーンの店舗数でココイチはどの程度の位置なのだろう、と思って↓のサイトの23年1月時点の店舗数を、ジャンルを全部まとめて20位まで見てみた(手元では全順位の表があるけど長いので20位までにした)。
  【2023年版】飲食店チェーンの店舗数ランキング|日本ソフト販売株式会社


 ココイチは全体の7位だった。
 「ココイチはサイゼやKFCより多い」は、今は神奈川に住んでいる自分の実感ではかなり意外な結果だった。一方で岐阜に住んでいた頃の実感(東海3県に限って)で言えば「サイゼ・KFCよりココイチの方が多い」は確かなので、地域の密度差が大きいせいかと思った。
 ココイチはスシローの2倍、日高屋の3倍、やよい軒バーミヤンびっくりドンキーの4倍近い店舗が存在する。小さい店舗も多いし出店しやすいのかもしれない。


ハレとケ

 食事でも衣服でも、特別なもの(ハレ)と日常のもの(ケ)に仮に分けるとして、外食でもココイチゴーゴーカレーすき家松屋のカレー、あるいはうどん屋のカレーなどは日常側に入るのかと思う。一方でインド、ネパール、タイなどエスニック料理屋のカレーや、日本人店主のスパイスをたくみに使って複雑で豊かな味を追求したカレーなどはハレのカレーになるだろうか。
 「ああそうそう、このいつもの味ね」と思って食べに行くカレーと、「うわあ美味しい」と新鮮な驚きを得るために食べに行くカレーみたいな。新しい体験をしたい欲求と、過去の記憶をなぞりたい欲求とがそれぞれある。(後者は、幼児がもう知っている物語の語り聞かせを親に何度もねだるのもそうかもしれない。)


※関係ないけれど、ちょっとこだわりが強くて面倒くさい感じの人がハマって、アマチュアから(脱サラとかして)店を開くものって、昔は蕎麦だったのが、最近はカレーにそのポジションが移ってるのかも、という漠然としたイメージがあるけどどうなんだろう。コーヒーは昔からこだわりの対象になりがちだけど、店舗が喫茶店からカフェになった違いがあるのかも。
※お米が、もちもちしたコシヒカリ系はハレ、さらっとしたササニシキはケ、という話を思い出していた。ただササニシキの方が生産が大変だったりして、ほとんどコシヒカリ系に支配されて現実の日常の場からは遠ざかってしまった。


「美味しい味」と「食べたい味」の評価軸

 「スペシャルな味が食べたい」外食(ハレ)と、「あの味が食べたい」外食(ケ)とがあるとすると、要求が異なるので評価軸もそれぞれ異なってくる。前者は「味や見た目に工夫がしっかり凝らされているか」、後者は「味や見た目が思っていた通りで安心できるか」が評価軸になってくる。


 軸の違いを無視して、「美味しい味」の評価軸のみで否定すると、「食べたい味」軸で高評価している一派からひどい文句が出るのだろう。以下はそれで思い出した事例など。
※逆に「美味しい味」軸で高評価されているものを、「食べたい味」軸で否定する、というパターンもあり得る。「味がしない」とか「こんなの○○の方が安いし美味い」と否定すると、美味派からは「味の分からないバカ」と蔑まれる。


ジョブチューンのロイホパンケーキ不合格騒動

 テレビ番組「ジョブチューン」の「外食チェーンのメニューを一流料理人がジャッジする」コーナーにロイヤルホストが登場した。パンケーキが不合格(7名中不合格6)となり、ネット上でやや炎上した。
 パンケーキの現在の潮流や価値観からは改良の余地があり得るといった指摘がされた。3枚重ねや、メープルシロップ・マーガリン後がけのスタイルの必要性があるのか、といった疑問が提示された。
 放送後に「あれがいいのに何も分かってない」「変えないでほしい」「またジョブチューンか」といった批判がTwitterなどで見られた。後追いの記事がメディアから出されるなどして、ちょっとした騒動になった。
 これも「美味しい味」の軸で否定すると、「食べたい味」で好きな人達の怒りを買う事例だったのだと思う。


 その後出演した料理人から「収録6時間」「事前誘導なし」「現場は建設的な雰囲気」「ノーギャラ」といった状況と、判定の細かな説明が公表されて、騒動は落ち着いた。(無報酬+6時間拘束の上、他のメニューをどれだけ褒めても、一つ改善点を挙げたらボロクソに叩かれるのなら、料理人側の出演リスクがあまりに大き過ぎる。)


 私自身も放送を全編見ていたが、そこが取り上げられて騒動になるとは思わなかった。(私はロイホのジャワカレーが好きで、7名中7名合格で絶賛されていて嬉しかった。)
 以前にもジョブチューンは「食べもせずに不合格を出した」ことで炎上した。その際にTwitterか匿名ダイアリーで「あれは『自分が普段食べてるあれってプロも美味しいんだ』と一般人を喜ばせる番組」と言ってる人がいて、なるほどと思った。
 「食べたい味」軸で評価していても、やっぱり「美味しい味」軸からも評価してほしい、それで安心させてほしい、という欲求がある。それなのに「美味しい味」軸で否定されて冷や水を浴びせられるとつらいし、怒り出す。


 個人的には、番組の趣旨や、他の料理の評価のされ方を見れば、そんなに叩くこともないだろうと思った一方で、「パンケーキ変えないで」の気持ちもよく分かる気がした。
 自分はロイホのポットに入ったドリップコーヒーが「アメリカのダイナー」っぽくて好きで、やめないで欲しいと思っている。ドリンクバーには豆を挽いて淹れてくれるマシーンがあって、そっちの方が美味しいのかもと思いつつ、ついポットのドリップコーヒーを飲んでしまう。映画とかで見るダイナーへの憧れがある。(アメリカに行ったら滞在中に1回はIHOPに行きたくなる。)
 ロイホに対して「この雰囲気、この見た目、この味であってほしい」気持ちはすごくよく分かるし、そこを無視して「美味しくする余地あり、変えるべき」と言われると反発心が湧く気持ちはわかると思った。


古い喫茶店の食事メニューの評価が低い

 以前に散歩の途中で見かけた古い喫茶店で食事をしたことがあった。スパゲティやピラフ、ハンバーグといった昔ながらの喫茶店メニューが食べられる。味も「喫茶店の味」で満足だった。
 でも後でGoogleマップのレビューを見たらかなり低評価だった。冷凍の味がするなど否定的な書かれ方が大半だった。見た目も味もしっかりこだわった現代カフェめしと比べると、その通りかもしれないとも思うが、レビューを見て腹が立った。


 追求された味かどうかで下した評価が、留保なく正しいとして疑わない態度はかなり疑問だった。この見た目の喫茶店で、あの「喫茶店っぽい」味でなければ、むしろ裏切りで、がっかりする。
 これも自分自身が岐阜の出身で、近所に喫茶店がたくさんあって、家族で喫茶店へ行ってご飯を食べていた子供の頃の記憶があるから、という側面は大きいのだと思う。
 「海の家の美味しくないカレーや焼きそばやラーメンが好き」に近い感覚がある。そこで凝ったラーメンが出てきても(美味しいけど、今じゃない、TPOが違う)という気持ちになる。


ゴーゴーカレーの味

 この前ゴーゴーカレーを久々に食べた時に、(あれ、そんな美味しくないな)とふいに感じた。その時に(ああ、ココイチを「美味しくない」と言う人もこれと同じ感覚かも)と思った。
 食べていてしばらくは何も思わなかったのに、途中でこのカレーは全然辛くないなと(辛さの選択がない)ふいに物足りなさを感じて、改めて味を考えたら「そんな美味しくない」と思ってしまったのだった。
 一方で「この味を食べたい」「カレーというよりゴーゴーカレーを食べたい」と思って食べに来ている人もいるはずだとも思った。それで「これは自分にとってのココイチと同じことか」と気付いた。


「あの味」側も変化する

 以前にテレビで、伝統的な和菓子を作っているメーカーが、「実は味を少しずつ変えている」話しているのを見て印象に残った。みんなの「味の価値観」が時代と共にシフトしていくので、全く同じ作り方を続けていると、味が変わっていなくても「味が落ちた」と文句を言われるという。それで「昔から変わらない味」を実現するには、時代の味覚に合わせて少しずつ変えていかないといけないという。


 ここまで「味や見た目を追求するもの」と「あの味や見た目とユーザーの記憶やイメージを慰撫するもの」と分けていたが、後者は後者で、必ずしも追求や工夫を重ねていないわけではない。(一方で本当にずっと変わらなかったり、適当にやっていながら愛されているケースもある。)


「美味しい味」と「食べたい味」の境界と共存

 食べ物にハレ/ケがある→美味しい/食べたいの異なる評価軸が生じる、という作業仮説を立てていた。しかし2つの軸の境界は自明ではない。
 「好みや食文化を超えて、これは不味い」と感じる時、「食べたい味」と「美味しい味」が互いに独立していると前提している。(アメリカのスーパーで買うインスタント食品やお惣菜の一部は、本当にそう感じることがある。)この絶対的美味しさの軸として、例えば生理的な(生物としての人間の)共通基盤を据えたとしても、文化的な価値基準との境界は確定できない(実際、極度に酸っぱい、塩っぱい、辛いなどの食文化が存在する)。


 これは生得的/後天的、主観/客観といった対立や、「個人の好みを超えて批評は可能か」といった古典的な議論と、地続きになっている。
 味に限らず、例えばお笑いも「傷つけない笑い」が話題になるたび「全ての笑いは誰かを傷つける(だから仕方がない)」と言う人が出てくる。仮にそうなら、ではどのように何が可能か、そこからどう考えるかを考えないのなら、他愛なく無用だろう。
 究極的には主観的だとしても、全力で客観性へ向かう。前提や限界を明らかにしながら、論を組み立てるほかない。


 否定せず「not for me」と言う、が現在の潮流だとしても、それで「何も言えない」「意見が抑圧される」と嘆くのは、あまりに脆弱でナイーブな態度だろう。批評を抑圧して対立するものではなく、否定/肯定するなら前提や評価軸を明らかにする、評価軸(体系)の外側も意識して語ればいいだけのことだ。
 「美味しくない」と言う側は「あの味を食べたい人もいるのだろう」とも思いつつ「この文脈だと評価が低くなる」と丁寧に言えばいいし、「食べたい味」と思う側は「美味しくない」と否定する人を、(腹は立っても)いきなり敵と見なさずどういう軸で評価した結果かを考えれば、お互い平和だ。
 ロイホのジョブチューン炎上でも、番組を全編見ていた人であまり文句を言う人がいなかったり、プロ料理人の側が丁寧に説明したら鎮火した。「ココイチは(ゴーゴーカレーは/古い喫茶店のメニューは)美味しくない」と簡単に断言するより、「あの味を食べたい人もいるだろう」とせめて留保するか、どういう意味で美味しくないかをもう少し丁寧に言えば平和になる。
 適当に放言すれば文句を言われるのは、当然のことでしかない。


「高い割に」美味しくない

 ココイチは日常系カレーとしては(ゴーゴーカレーすき家松屋に比べると)やや高い価格設定になっている。そして値上げのニュースがあると毎回「高い割に美味しくない」「値上げの判断は愚か」と言われてしまう。


 ちょうど最近、渡辺努『世界インフレの謎』を読んだ。日本だけが「賃上げしない代わりに値上げもしない」(デフレマインド)で社会が続いた結果(そして円高が進行したわけでもなかった結果)他の先進諸国に比較するとこの30年間で物価の差があまりに大きくなってしまったが、それが健全な状態とは思われない、と指摘されていたのを思い出す。
 企業は仕方なく値上げをするし、生活が苦しくなるので労働者は賃上げを要求し、企業は仕方なく人件費を上げ、それを仕方なく価格に転嫁して……というサイクルを程よく繰り返して(各国がインフレターゲットとして設定している年2%程度の)マイルドなインフレを繰り返す方が健全だ。
※関係ないけど同書で、アベノミクスでは「仕方なく」のサイクルとは逆回転の「物価が上がれば企業も賃上げするはず(トリクルダウン)」の自発的サイクルを前提させたので、インフレのサイクルは回らず、政府が企業に賃上げをお願いする形になった、とも指摘されていて面白かった。


 赤城乳業の社長が(ネタとして)ガリガリ君値上げの謝罪CMを出した件が、ニューヨークタイムズの1面に掲載されて、原材料費上昇の価格転嫁を「謝罪する」社会の歪みとして報じられた、というエピソードも同書では紹介されていた。
 そう考えると、一定の努力はした上で、デフレマインドの価値観から叩かれたりしながらも、値上げをしていくのは、まともな姿勢という気もする。「値上げするココイチは経営が分からないバカ」と(経営経験もない素人達が)言うより、「ココイチが食べられねえだろ給料上げろ」と言う方が健全だとは思う。
※自分の今の給与水準と家庭環境(子供もなく、両親も他界して、扶養する家族がいない)で、外食1回にかけて良いと思える金銭感覚で許容できるからそう思える面はあるのかもしれない。15年前に就職したばかりの頃だと「きつい」と感じたかもしれない。


 企業姿勢といった話だと、創業者夫妻の身の引き方がきれいなのもいいなと思う。一旦社長を退きながら「やはり任せられない」と返り咲いたり、いつまでも後継者を育てないケースは大企業でもたまに見かけるが、そういったことはしなかったし、子供や親族に継がせもしなかった。経営から退いた後、壱番屋ハウス食品の子会社となった際は、夫妻が保有する株式を全て売却して所有からも身を引いているという。(もちろん「本当の内情」は知らないが……)


個人的なあれこれ

 本当に書き残しておくべきことは、以下の個人的なことだけかもしれない。

  • トッピングはロースカツ・チーズ・ほうれん草
    • 毎回メニューを見て考えて、だいたいいつも同じになる。
    • 物心がついた時からロースカツカレーを食べていた。父親が勝手に選んでいたのだと思う。それが当たり前になってしまった。
    • チーズは中学生くらいから追加するようになった。どこまでも伸びて切れず食べづらい。
    • ほうれん草は大人になってから追加するようになった。サイゼリヤのほうれん草のソテー(が廃止されて今はほうれん草のくたくた)、インドカレー屋ではサグカレー、メキシコ料理屋ではタジャリンベルデを頼んでいて、自分はほうれん草が好きなんだと最近気付いた。ほうれん草の根っこの赤くて硬いところが好きだけど外食には出てこない。それも結局、子供の頃から母親がほうれん草のおひたしをよく食卓に出していたから好きになったのかもしれない。
    • ナスややさいも時々ある。ナスもすごく好きだから悩む。
    • 一度、ロースカツ、チーズ、ほうれん草、なす、ソーセージ、スクランブルエッグ、と好き勝手に組み合わせたら、皿の容量と齟齬をきたしたカレーが出てきて、反省してやめた。
    • 旨辛にんにくも時々頼む。別添えでついてくる。かまいたちYouTubeで出てきて存在を知った。
  • ごはんの量は300g(標準)
    • 子供の頃はずっと200gだった。小5で初めて300gを食べきった時に、(ああ、自分は大人になったんだ)と思った。
    • 以前は小盛りは200だけだったのが、去年から250ができた。もうアラフォーだし250にしようかなとちょっと思っている。
    • そういえば昔「1300gを20分以内に完食でタダ」の大盛りチャレンジがあったよね。お店に成功した人の写真が飾ってあった。1300gの食品サンプルが飾ってあって、子供の頃に(無理だろ)と思って見てた。
    • 店舗デザインも昔は違っていた。2005年から切り替わり始めたらしい。
  • 辛さは店内だと4辛、テイクアウトやデリバリーだと5辛
    • 辛くて汗や鼻水が出て恥ずかしいので外で食べる時は4辛にしてる。
    • 普通が一般的な辛口くらいなので、子供の頃はずっと甘口だった。中学生くらいになって普通にしていた。
  • 岐阜に住んでいた頃はココイチの店舗がたくさんあったので使い分けていた。
  • 親が共働きで、家で夕飯を待っていて、たまに持ち帰りで買ってきてくれると嬉しかった。
    • 父親の運転する車の助手席で、持ち帰りのカレーを膝の上に乗せて、なんか太ももの付近がじんわり温かくなるのを感じて、おもらしした感覚に近いなと思った記憶がある。
    • その後自分が免許を取り、その同じ車を自分が運転して、助手席に父親が乗ってココイチに行った時は、なんか不思議な感じがした。
    • 中学の時に塾に通っていて、遅い時間に母親がちょうど仕事終わりと重なって、ココイチに寄ってカレーを買って帰るのが嬉しかった。新岐阜駅(現在の名鉄岐阜駅)の裏というか、各務原線の入口のそば、ダイエー(今はマンション)やパチンコジャンボのあった側にココイチがあってそこに寄っていた。
  • 今店舗検索で見たら名鉄岐阜駅近くの店は閉店していた。2021年に閉店したらしい。あと柳ヶ瀬近くにあった店も2017年に閉店していたし、時期は不明だけど自宅近くのココイチもなくなっていた。人口がシュリンクしているからしょうがないのかも。もう岐阜を離れて15年経つから色々変わっている。

 


 これだけ記憶にこびりついている食べ物は、もう「美味しいかどうかをジャッジする」なんて無理だよ。「あれは美味しくない」と言われたって、そりゃそうかもしれないけど、そういうんじゃないんだから。

陰謀論への免疫力を高める

 陰謀論に感染すると本人も周りも苦しい。免疫力を高める体質づくりには、以下のような習慣が必要だと思っている。

  • 「相手が愚かだから」で解釈しない
  • 「自分は全体を見えている」と信じない
  • 義憤ではなく好奇心で見る
  • 自分に一貫性を課し過ぎない
  • 標準理論をまず勉強する

 

 どれだけ予防的な習慣を取っても100%は保証できない。しかしリスクは低減できる。自分自身への予防措置として一旦まとめておこうと思った。


陰謀論の見た目

 陰謀論は「正しいもの」として現れる。整合的に(筋道が通っているように)見える。以下のような手段でその「正しさ」は支えられる。

  • 前提条件を見せない・隠蔽する:「既に証明されている」「明らか」「当然だ」といった言辞で、前提への疑問や遡行をシャットアウトする。
  • 検証不能な前提を導入する:実証的に存在を確認できないもの(闇の組織や神)、裏取りのできない人物の意図や発言、無関係な事象の結びつけ(この事件は○○から目を逸らさせるために起こされた)、恣意的に見出した意味、などを「事実」として前提する。
  • 反証を無視する:「条件が違う」「偶然」「でっち上げ」「信心が足りないから」などと、論理が当てはまらない事象・事例を排除する。

 

 これは意図して騙そうとしている場合に限らない。こうした論が現れるとみんなが「正しい」と信じ合ってしまう。
 ある種の日常的なトレーニングが、そうした「正しさ」を前に違和感・引っ掛かりを覚えて、その疑問を維持するのに有効だと考える。


「相手が愚かだから」で解釈しない

 「相手が間違っている」と感じた際に、「それは相手が愚かだからだ」とは考えない。「彼らは古い理論・固定観念に囚われているからだ」「メンツにこだわっているからだ」「真実を知らないからだ」といった安易な理由付けで停止しない。
 「自分が相手の立場でもそうするだろう」と納得できるところまで考える。子供や会社の新人など、明らかに自分と比べて知識量が少なく、見えている範囲が狭いと思える相手でもそう考える。これは陰謀論への免疫力を高めるためだけではなく、相手を頭ごなしに否定しないためにも必要な習慣になる。


「自分は全体を見えている」と信じない

 自分の持っている情報が全てだと思い込むと、その範囲で組み立てられた理論を「完全に正しい」ものとして認識してしまう。特に自分なりに色々と調べて努力した後は、その努力を無駄だと思いたくない気持ちが働いてそう思いがちになる。どれだけ調べても「自分が見えている範囲には限度がある」「その外側がある」と思い続ける。


 これは「相手が愚かだと見なさない」とも通底する。自分自身に限らずより一般化して「誰もが一定の範囲でしか見えていない」と考えることは、「自分の方が見えている(相手が見えている範囲は自分よりはるかに狭い)」と無条件に相手を過小評価することを制約する。


義憤ではなく好奇心で見る

 感情が駆動原理になると、フラットな見方が出来なくなってくる。(好きな相手の欠点も魅力に見えるなど。)特に怒りがきっかけだと、敵・相手を否定するための材料ばかりを集めて、「自分は正しい、相手が間違っている」論の組立てに汲々としてしまう。さらにその怒りが、「自分の損得から来る怒り」ではなく、「他人・世の中のための怒り(義憤)」だと、後ろめたさもなく突っ走ってしまう。(なお、本人が義憤と感じても、その怒りの根を丁寧に掘り進めると、個人的・利己的である場合はありふれている。)
 感情を元手にせず、「メカニズムを知りたい」といった知的好奇心を保つ。

 これは「相手を愚かだと見なさない」と同値になっている。「自分が相手ならそうする」と思えるまで考えることは、相手への怒りを乗り越えてメカニズムを見るようにすることと等しい。


自分に一貫性を課し過ぎない

 過去の言動と矛盾があれば、人に指摘されたり信用を失ったりする。また自分の間違いを認めるのは苦痛だ。それで自分の言動に一貫性を持たせようとするのは自然な価値観ではある。
 一方で一貫性に拘泥するあまり、誤りを認められなかったり、誤りである可能性を無視したりすれば、正しい(妥当性の高い)判断は下せない。


 「なぜ以前の自分と言動が異なるのか」を明確にする。前提が変わった・知らなかった前提が明らかになった、結び付けていた論理が誤っていた、目指すべき方向・結論が変わったなどの理由を明らかにした上で変化させた言動は、他者に対しても自己に対してもより納得され受け入れられやすい。
 一貫性を持つべきなのは、表面的な同一性ではなく、「客観性への誠実さ」に対してだと考える。


標準理論をまず勉強する

 標準理論をまずは愚直に身に着け、そこからの差分で新しい(ように見える)主張を眺めることで、その主張の妥当性や位置付けがはっきりする。
 例えば「お片付け術」は世の中に数多あるが、製造業でよく言われる「5S」はよくまとまっていて標準理論と言えそうだ。5Sの概念を知っていれば、新しいお片付け術が現れても「その新理論が5Sのどのステップに何を付け加えたものか、新規性はどこに存在するのか」(新理論の差分)が理解できて、「お片付け術のお片付け」ができる。やみくもに新たなお片付け術を勉強する前に、先に5Sの概念を理解するのが早い。


 様々な媒体が存在するが、より正確で標準的な論や通説が説明されている可能性が高い順におおよそ

  • 研究機関(大学など)のその分野の専門家が書いた書籍
  • 大手メディアの記事
  • 専門外の著者が書いた書籍
  • ネット上の個人の記事や動画、まとめサイト

となる。
 もちろん専門家の書いた書籍で極論が主張される場合もあれば、ネット上の個人の記事や動画でも十分な正確性・客観性を有して体系的なものもあり得るとしても、質の高い情報に出会える確率で言えばおよそ上記の通りになる。
 ネットの情報を長時間漁っていると、何か勉強した気になって「完全に理解した」ように思えてくるが、実際には断片的な知識ばかりが身に付いてしまう。狭い範囲で(前提や反証を無視して)「正しい」理論を完全に正しいものと思い込んでしまう。せめてネットで漁る場合には「それを否定する側の論理」を探す習慣を持つほうが安全だと思われる。
 書籍1冊の方がまだしも、まとまった形で体系的に語られていることが多い。


論理体系を相対化する態度

 これらの

  • 「相手が愚かだから」で解釈しない
  • 「自分は全体を見えている」と信じない
  • 義憤ではなく好奇心で見る
  • 自分に一貫性を課し過ぎない
  • 標準理論をまず勉強する

といった習慣は、そのベースで「論理体系を相対化する態度」が共通している。論理体系の客観性に対して誠実であるような態度がある。あるいは「相対化・客観視のできてなさ」への意識でもある。
 この「論理体系そのものに対する認識」については過去に↓でまとめている。
  認識の枠組み - やしお
 

心身の健康を保つ

 人間は機械ではなく生物で、常にフラットに思考できるわけではなく、その時々の状態に左右される。感情、とりわけ怒り(義憤)に突き動かされると見えなくなるのもその一つだった。生理的な状態(セロトニンなど神経伝達物質の多寡など)からの影響も受ける。気温・湿度・気圧など環境によっても判断の傾向は左右される。認知能力が低下したり、精神疾患であればなおさらだろう。
 自身の損得に関わる場合は、損をしたくない感情が強く働いて物事が見えにくくなる。損得の最大は自身の命に関するもので、特に冷静な判断が難しくなる(癌患者が医療とすら呼べない「治療法」を選択してしまうなど)。経済的な困窮も思考力を奪う。
 陰謀論と距離を取り得そうな習慣も、その土台となっている心身が健康でないと維持が難しい。


陰謀論以外にも

 陰謀論が「あたかも正しい理論として現れる」「その正しさは現実を矮小化させて(非妥当的に)成り立つ」ようなものだとして、そうした特徴は陰謀論に限らない。
 例えばメーカーに勤めていて、製品の品質問題が発生し、原因を特定しようとする。有力そうな要因Aが見つかる。その要因Aによって現象の発生が説明できる。「これが原因だ」と見なして対策を取るが、現象は再現性が低く対策の直接的な有効性の確認はできない。その対策品でまた同じ不具合が発生する。その後再度調査すると別の要因Bも見つかり複合的に発生していたことが分かる……といったケースはよくある。そうした真因の見逃しを防ぐため、製造業では(他分野へも波及しているが)、なぜなぜ分析(前提を遡る)や特性要因図(要因を視覚化する)などの手法なり枠組みが用意されている。


 ここで現れる「要因Aが現象を引き起こすメカニズム」は、「正しいように見える」「実はその正しさは、範囲を狭めて前提や要素を見ることで成り立っていた」という意味では、陰謀論とも共通する。関係者が多数いても、みんなが「早く解決したい」思いで、他の可能性を捨ててこのストーリー1本に飛びついてしまう様子も、陰謀論とも似ている。
 その意味で、陰謀論に抵抗する習慣は、陰謀論に限らない問題解決にも有効であり得る。(ただし例えば「相手が愚かだからで解釈しない」は「現象はたまたま起きたで解釈しない」などの読み替えは必要だろうが。)その逆に、なぜなぜ分析や特性要因図などが、特定の陰謀論の妥当性や位置付けの確認にも有効であり得る。




 ここで言う「習慣」によって全てが解決するわけでも、全てが防げるわけでもないが、せめて陰謀論に苦しめられる確率が下げられるのなら、それに越したことはないかと思っている。