やしお

ふつうの会社員の日記です。

安倍政権での「第二官僚」のメンバー

 安倍政権下では専門性や実効性より、内閣の存続(=支持率の維持)やメンツが重視されているように見える。
 最近の新型コロナウイルス対応での全国一斉休校も、官邸サイドの主導で進め、文部科学省・大臣との事前調整もなかったと報道されている。さらに安倍首相自身が「直接、専門家の意見を聞いたものではない」と2020年3月2日参議院予算委で答えている。結果として対策が功を奏したとしても、そのことと意思決定の過程が正しかったかどうかは別問題で、結果の妥当性は過程の妥当性を正当化しない。
 こうした専門性の軽視は「第二官僚」(官邸官僚)の形成という視点で捉えると理解しやすいのかもしれない。


 野球や相撲でもプレイヤーの出身や経歴、実績、得意技を把握しておくと試合や取組を見るのが楽しくなるし、ニュースで名前を耳にしても「ああ、あの時の人ね」と分かるようになる。同じように第二官僚のプレイヤーもその辺を覚えておけば、別の場面で名前を見かけた時に頭の中でちゃんと結び付けられる。具体的なメンバーを整理しようと思った。
 でもその前に、「第二官僚ってなんだ」という話と、内閣の組織がどうなってるのか、官僚の格付けがどういうルールになっているのかが前提知識で持っていないと話が分からないので、まずはそこを整理する。





第二官僚

 「第二官僚」という用語は、元外交官で作家の佐藤優が『官僚の掟』の中で提示している。第二官僚には以下のような特徴が見られる。

  • 「全体の奉仕者」ではなく「官邸の奉仕者」として行動する。
  • 法体系によって明示的に構築された仕組みではない。
  • 従来の官僚機構による専門性や、民主主義に基づく意思決定を迂回する。


 既存の官僚機構の上に、別の官僚機構が構築される。その意味で「第二官僚」と呼ばれる。
 重要政策ごとに諮問会議を立ち上げ、そこへ各省庁から官僚を出向させる。そうした手法で、新しく法律を作るわけではなく現行制度の枠内で、明確に設計されたわけでもないのに、政治と官僚の関係性を変質させ「第二官僚」という制度が形成されていく。現政権では特に経産省出身者を中心に形成され、「日本経済再生本部」と「経済財政諮問会議」の二つがその形成に資するという。
 日本経済再生本部は2012年10月に自民党内に設置され、同じ名称のまま第2次安倍内閣以降、内閣に設置されている。法的な根拠はなく閣議決定により設置されたもので、本部長が首相で全閣僚が参加している。2013年1月に事務担当として「日本経済再生総合事務局」が内閣官房に設置され、各省庁から官僚が出向している。出向者46人中12人が経産省からだった。ここでの成長戦略は経産次官の菅原郁郎や首相秘書官の柳瀬唯夫(経産省出身)が中心となってまとめたという。
 一方「経済財政諮問会議」は小泉政権時に設置されたが、民主党政権で休会、安倍政権で再開している。小泉政権で経済学者の竹中平蔵が経済財政政策担当大臣に起用され、諮問会議では「構造改革」を推進、翌年の予算編成の基本方針を決めた。これにより旧来は財務省にあった予算編成権が官邸へ移り、また与党自民党の意向も反映されにくくなっているという。ここで佐藤は、選挙を通じて国民から選ばれたわけではない竹中平蔵に、国の統治機構を変える重要案件を任せている点を指摘している。その意味で「第二官僚」の原型は小泉政権下の竹中大臣に認められ、「第二官僚」は現役の官僚に限らず官僚OB、学者、財界人によっても形成されるという。
 経済財政諮問会議財務省主導だったが、第2次安倍政権以降は会議の運営担当である内閣府政策統括官に経産省出身の新原浩明が任命された。日本経済再生本部と同様、経済財政諮問会議経産省出身者が中心的な役割を担っている。


 経済財政諮問会議では、政策統括官の新原と、首相秘書官(首席)の今井尚哉の連携により、働き方改革や教育無償化が進められた。彼らは労働行政の専門家でも教育行政の専門家でもない。2017年9月の日露首脳によるウラジオストク会談においては「北方領土での共同経済開発という経済カードを切ればロシア側が軟化する」という見通しに基づき、その手法に反対する外務省のロシア課を交渉ラインから外して首席秘書官の今井に対露交渉を主導させた。
 予算・外交・福祉・教育・労働といった様々な行政分野において、所管の省庁・専門の部署を外し、官邸に近い官僚、「第二官僚」によって進められる実態が見られる。


 経済財政諮問会議を担当した新原浩明は、内閣府から経産省に戻った際に筆頭局長(経済産業政策局長)に就任した。官邸での評価が高いと人事面でも優遇される。2014年に内閣人事局が設置され、各省庁の幹部人事を官邸サイドが握ったために実現されている。
 官僚は「法の下の平等」「全体の奉仕者」の原則で働く。そのための仕組みの一種が採用における成績主義であり、内部のヒエラルキーであるが、官邸官僚になれば他省庁の官僚より上に立ち、出身の省へ戻った後も優遇され、その仕組みが崩れる。官僚は自然と「官邸の奉仕者」となっていく。


 一方で各省庁は自律的な専門家集団から官邸の下請けへと変化していく。国益や国民の利益といった観点で必要と思われることでも進めなくなっていく。佐藤優はそれを「死んだふり」「不作為」と呼び、例として北朝鮮問題での日本外しに対する外務省の動きを挙げている。北朝鮮が米韓中露と交渉を持ち日本外しを仕掛けてくる中で、日本の外務省サイドはカウンターとして東京での6者協議参加国による首脳会談の提案する、というのが外交としては定石だという。そうした動きを見せないのは、財務省の佐川元理財局長の影響があると佐藤優は書く。森友学園問題に関連した財務省の文書改竄の問題で、佐川理財局長は政権を庇ったにも関わらず、野党のみならず与党からも攻撃を受けて依願退官するに至った。省内から自殺者を出し、その職員から遺書で「佐川局長に指示されて改竄した」と名指されてまで政権を庇っても、全て「省が/官僚が勝手にやったこと」とされる。積極的に国益のために働いても、過剰に政権を守ろうとしても不利に働く状況では、「死んだふり」「不作為」を態度として選択する方が合理的となる。仮に各省庁から政策提言をしようとしても、官邸サイドの官僚に抑え込まれてしまう。
 また官邸は経産省に目玉となるような政策を要求し、その要求は年々厳しくなっているという。経産省が官邸の下請けのように振舞っていく。(これは、2012年に第2次安倍政権が成立した際の成功体験が尾を引いてるのかもしれない。経産官僚にキャッチコピーを作らせれば勝てるという感覚が残っているのかもしれない。)


 民主党政権においても脱官僚依存・官邸主導を進めようとしたが、官僚側の反発を受けて失敗した。安倍政権でこれが成功しているのは、最初から高らかに「脱官僚」を宣言するわけではなく、官邸に都合のいい人物を徹底的に人事面で優遇し、既存の専門領域を侵犯したり、省庁間で競合させたりする中で、既存の官僚組織の力を削いでいるためである。正確には「脱官僚」ではなく、既存の官僚体制は脱しながら、官邸周辺の官僚の新たな体制(第二官僚)を築いたことで安定している。
 「第二官僚」の形成によって政権の安定化を図ることはできるが、一方で民主主義の迂回や、国会や既存の官僚機構の形骸化が進む。一度この「第二官僚」の体制が実現してしまうと、国益や国民の利益への意識が希薄な(もしくは正確に理解する知性を持たない)政治家や官僚が出現すれば、同様の方法を用いて権力基盤を安定化させようとすることになる。




内閣官房内閣府

 首相周辺に「第二官僚」が形成されている、という話をする時、では「首相周辺」とは何かという前提知識が必要になる。
 内閣、内閣官房内閣府、あるいは「官邸」という言葉が差す対象はそれぞれ異なる。このうち「内閣」は内閣総理大臣国務大臣から構成される組織であり、メンバーも明確で分かりやすい。一方で内閣官房内閣府が異なる組織である点は名前も役割も似通っていることもあり、外からは分かりづらい。この組織の違い(あるいは何故分かりづらいか)について、特許庁から内閣官房に出向した官僚によるレポート「内閣官房副長官補室に出向して」が公開されているので参考にしつつ確認する。
 http://www.tokugikon.jp/gikonshi/264/264tokusyu2-8.pdf


 内閣は「取締役会」、内閣官房は「秘書室」、内閣府は「総務部」と会社組織にたとえられている。内閣官房は他の府省庁を取りまとめる立場にあるのに対して、内閣府は他の省庁と同列の組織であり内閣府設置法で「内閣官房を助ける」と規定されている点でも、内閣府内閣官房の下位に位置付けられる。内閣府は2001年の省庁再編によって、総理府沖縄開発庁経済企画庁が統合されて誕生した。
 建前としての役割分担が以上の通りでも、現実には似た目的の組織が内閣官房内閣府で設置されたり、あるいは大臣・副大臣政務官らの政治家や、あるいは職員が、内閣官房内閣府それぞれで役職を兼任していたり、さらに物理的には内閣府本府庁舎の建物内に内閣官房が所在する、といった点で、外部からは(あるいは他の官僚や職員にとっても)内閣官房内閣府の区別が分かりにくくなっているという。


 内閣・内閣官房内閣府の組織トップはいずれも内閣総理大臣である。内閣官房長官内閣官房全体のトップではないというのはちょっと分かりづらい。(内閣法13条で官房長官国務大臣で、内閣官房の事務を統轄すると規定される。)さらに官房長官(と副長官)は内閣府にも所属している点も内閣官房内閣府の違いがさらに分かりづらくなっている。なお内閣府の中には特命担当大臣が置かれ、現在は17のポストがある(兼務のため大臣としては10人)。


 報道等で「官邸」と呼ばれる場合、何を指しているのかという点について、上記のレポートでは「総理及びその側近からなる集団を指し、一般的には総理、官房長官官房副長官、総理秘書官、総理補佐官などを指します。」と解説されている。



首相秘書官と首相補佐官

 「官邸」が指す対象のうち、首相秘書官と首相補佐官の区別が分かりづらい。

といった共通点・類似点があるため分かりづらい。


 首相秘書官(内閣総理大臣秘書官)は、内閣法20条で規定される国家公務員で、慣例として政務担当1名(首席秘書官)と事務担当6名の7名で構成されている。首席秘書官は、首相が国会議員だった時の議員事務所のナンバーワン秘書がそのまま登用されることが多く、秘書官全体の取りまとめ役を務める。首相の私生活や家族のことも処理にあたるため、長年寄り添ってきたベテラン秘書がなることが多い。(現在の首席秘書官である今井尚哉は、第2次安倍政権発足と同時に就任しているが、経産省出身の元官僚であるという点で珍しい。)事務担当秘書官は、財務・外務・警察・防衛・経産の各省庁から将来の事務次官候補のエリートが出向することが多い。秘書官は政府・政党・省庁の調整役を果たす。


 一方の首相補佐官内閣総理大臣補佐官)は、内閣法19条で規定され、定数5名で与党の国会議員が就くことが多いが、民間の専門家や元官僚などが就くこともある。アメリカの大統領補佐官のように、官房長官・副長官と一緒に首相直轄のチームを組みたい場合や、特定の政策の企画・立案を担当させたい場合などに任用される。


 補佐官が特定の政策に携わる一方、秘書官が広く調整役を果たす点で、秘書官(特に首席秘書官)の方が補佐官より強い権力を有すると言われる。では(どちらも直接首相に仕える)官房長官首席秘書官のどちらがより首相に近いか、権力が強いかは一定しない。小泉政権下での官房長官 福田康夫首席秘書官 飯島勲、第2次安倍政権下での官房長官 菅義偉首席秘書官 今井尚哉のように官房長官首席秘書官が対立するケースがある。(ちなみに飯島勲は官僚出身ではなく、小泉純一郎が国会議員に初めてなった時からの議員秘書である。)
 官房長官・秘書官・補佐官はいずれも首相に直属してお互いに独立しているが、どのような権力構造や協調関係が生じてくるかは組織体系として明確な上下関係(レポートライン)が規定されているわけではないため、プレイヤーのキャラクターやキャリア、あるいは首相が誰を重用するかに左右されるようだ。ただし、後述の通り国家公務員法の規定や給与の規定としては、官房長官国務大臣であり、補佐官は次官級、秘書官はそれ以下、という序列がある。


 立憲民主党江田憲司衆議院議員は、橋本政権で政務秘書官首席秘書官)を務めている。橋本が通産大臣時代に事務秘書官として仕えた経験から抜擢された。(経産省通産省出身者が首席秘書官になったのは橋本政権の江田憲司鳩山由紀夫政権の佐野忠克、安倍第2次政権の今井尚哉の3人のみ。鳩山-佐野は、両者の妻同士が知り合いだった縁で採用されている。)森功『官邸官僚』の中で江田憲司首席秘書官政務秘書官)の役割を以下のように語っている。

政務秘書官の立場は、総理がどう位置付けるかに尽きる。総理大臣の議員事務所の秘書がそのまま官邸に入り、単なる雑用係の役割だけにとどまる秘書官もいれば、金庫番を務める秘書官もいます。ただし、議員事務所から政策秘書を選ぶと、総理の政策は官邸にいる他の事務秘書官におんぶに抱っこになります。僕みたいに政策しかできないのは、ホワイトハウス大統領補佐官的な役割の政策アドバイザータイプでしょう。今井さんもそうではないかな」

「一応事務秘書官には省庁の担当があり、政務秘書官には担当がありません。何となく政治担当の秘書として存在しています。あくまで黒子ですから、表向き秘書官そのものに権限はありません。しかし、実際にはその権限や役割分担が総理との距離感や信頼の度合いにより、いかようにも変わり得る。政務秘書官はひとえに総理の虎の威を借るキツネです」

「いったん信頼を得て総理と一体になると、総理を通じて何でもできる。早朝六時から夜の十二時、朝から晩まで毎日休みなく働く。家に帰ってシャワーを浴びているとき、ポッと浮かんだアイデアを翌日総理に伝えると、それが実現します。僕は三十九歳で政務秘書官になったけど、こんな面白い仕事はなかった」


 なお報道で「政府首脳」は官房長官、「政府高官」は官房副長官、「首相周辺」は首相秘書官(特に首席秘書官)のオフレコ発言を表すことが多いという。それから「~首脳」「~高官」は決定権者を、「~関係者」「~筋」は非決定権者を表しているという。(↓記事参照)
  「政府首脳」って誰のこと?(下) | Biz Clip(ビズクリップ)-読む・知る・活かす



国家公務員のキャリア、ランク

 各省の中では偉い順に、大臣→副大臣政務官事務次官→……となっており、事務次官までは官僚、政務官以上は政治家というのは理解しやすい。一方で他の名称のポストでも次官級、政務官級などがある点が分かりづらい。そこを覚えておくと国家公務員がどういうヒエラルキーになっているかが理解しやすくなるので、「第二官僚」のメンバーを見ていく前に一旦整理しておく。


【次官級】内閣官房の中では内閣官房副長官補、内閣広報官、内閣情報官が次官級となっている。その他、首相補佐官、大臣補佐官、警察庁長官金融庁長官、式部官長などが次官級。(首相補佐官は政治家と(元)官僚のどちらも就任するが、政治家の場合は政務官級、官僚の場合は次官級の給与となる。)


政務官級】内閣官房の中では内閣危機管理監、内閣情報通信政策監、国家安全保障局長が政務官級。その他、人事院の人事官や会計検査院の検査官、宮内庁侍従長などが政務官級。


副大臣級】内閣官房の中では内閣官房副長官副大臣級。副長官は3名で、政治家2名(衆院議員+参院議員)+官僚(事務担当)1名という構成で、このうち官僚出身の副長官(事務担当)が官僚全体のトップと位置付けられている。この官僚出身の副長官が、各省庁の次官を統括し、次官連絡会議を主宰する。その他、宮内庁長官内閣法制局長官などが副大臣級。


【大臣級】国務大臣の他は、会計検査院長人事院総裁が大臣級。


 ちなみに法務省は、検事総長(大臣級)→東京高検検事長副大臣級)→次長検事・東京以外の検事長政務官級)→法務事務次官、というランクになっている。これは司法の中で裁判所(最高裁判事や高裁長官)と待遇を対応させるためで、他の省庁とは異なり事務次官がトップではない。
 また国家公務員は一般職と特別職に大別され各省の事務次官警察庁長官、一般の職員(外交官や検察官含む)などは一般職で、内閣総理大臣以下、大臣・副大臣政務官内閣官房国家安全保障局長や広報官・情報官などは特別職の国家公務員にあたる。首相秘書官も特別職に該当し、序列では首相補佐官(次官級)より下で、他の国務大臣人事院総裁などの秘書官と同列。



第二官僚のメンバー

 第2次以降の安倍政権下での具体的な第二官僚のメンバーについては、森功『官邸官僚』が詳しい。以下の記述は本書と、下記の森功の記事、その他ニュース記事に依拠している。
  核心レポート 霞が関を踏み潰した3人の「官邸官僚」|文藝春秋digital
  総理のためだけに動く「官邸官僚」。今井補佐官の正体<森功氏> | ハーバー・ビジネス・オンライン
 森功は官邸官僚の3トップとして、今井尚哉首相秘書官・補佐官、和泉洋人首相補佐官、北村滋前内閣情報官(現国家安全保障局長)の名前を挙げている。その3名を含めた第二官僚のメンバーを以下具体的に確認していく。また北村前内閣情報官については今井良『内閣情報調査室』も参考にしている。

官邸官僚 安倍一強を支えた側近政治の罪

官邸官僚 安倍一強を支えた側近政治の罪

  • 作者:功, 森
  • 発売日: 2019/05/31
  • メディア: 単行本



首相秘書官 今井尚哉

 経産省出身。61歳。
 第二次安倍政権の発足以来一貫して政策担当の首相秘書官(首席秘書官)を務めている。さらに2019年9月11日より首相補佐官も兼務している。秘書官と補佐官を兼任するのは今井が史上初。
 アベノミクス(2012年の三本の矢、2015年の新三本の矢)、原発再稼働、インフラの海外輸出、消費税10%先送り、戦後70年首相談話、対露・対中外交等々、安倍政権での重要政策すべてに関わっている。『官邸官僚』の中で今井は「総理の分身」「総理の振付師」と称される。安倍首相は「今井ちゃんはなんて頭がいいんだ。本人の頭の中を見てみたい」と語り、今井秘書官に全幅の信頼を寄せているという。


 東大出身で、元経団連会長の叔父と、元通産次官の叔父がいる。
 1982年に通産省(現在の経産省)に入省。1997年の橋本政権での行政改革で、通産省内に「政策実施体制審議室」という名称で特別チームができる。今井や、2年後輩で第2次安倍政権で事務担当の首相秘書官を務めた柳瀬唯夫もメンバーとして参加している。第2次安倍政権で実現した内閣人事局も、この時点で構想はされていたという。


 経産省でエネルギー政策の担当課長だった際に、第1次安倍政権で事務担当秘書官(広報担当)として出向する。(経産省から出向した事務秘書官は広報担当になる。)安倍首相の祖父・岸信介が商工大臣だった時に、今井秘書官の叔父・今井善衛が岸の秘書官を務めていた、と安倍首相が気付いてから二人は急接近する。2007年に第一次安倍政権が終わり、持病(潰瘍性大腸炎)の問題もあり失意の底に沈んでいた安倍晋三を、経産官僚の今井や長谷川榮一が励まし続けた。長谷川の発案で、安倍・今井・長谷川の3人で高尾山登山に挑戦し頂上まで登れるようになり、また2009年に特効薬「アサコール」が発売され体調が劇的に改善したこともあり、健康面での安倍の自信も回復した。


 その後、自民党が下野し民主党政権に変わり、東日本大震災によって政権が脱原発に舵を切る中、今井は資源エネルギー庁次長(将来の次官コースの一つ)に就任する。その際、原発再稼働に力を果たした。福井県関西電力大飯原発再稼働問題で、1府5県の自治体が広域連合を結成して再稼働反対に回った。今井は広域連合の橋本透大阪市長嘉田由紀子滋賀県知事らを説得し、また政権内でも原発事故担当大臣の細野豪志官房副長官仙谷由人らを説得し、再稼働への道筋をつけた。(なお当時経産相枝野幸男は、今井にとって宇都宮高校の後輩にあたり、近付こうとしたがさほど溝は埋められなかったという。)こうした働きによって自民党サイドからも評価を得る。関係者を説得・納得させて政策を思う方向にコントロールできるような、ロジックを組む力や誰にどんな順で働きかければ良いか把握する力等々を総合して「突破力」と呼ぶのだとして、今井秘書官はこの力が優れている。


 第2次安倍政権の成立直前に、安倍事務所ではベテランの政策秘書が突然辞めてしまう。首相秘書官(政策担当・首席)は首相のベテラン秘書が就任するケースが多いが、そこに空きポストが生じる。安倍が、首相辞任後も支えてくれた今井に首相秘書官就任を打診したことで、第2次政権が発足した2012年12月以降、そのまま務めている。


 2015年の新アベノミクスはまず経産省で素案が作成され、安倍首相から今井秘書官に「わかりやすい数字を入れてください」と指示が下り、今井秘書官が「GDP600兆円」「出生率1.8達成」という数字を設定、後付けでその数字の根拠となるデータ集めが各省庁に指示されたという。素案を受けてから今井秘書官が仕上げるのに1~2日程度だったという。現実的な制約に根差しているというより、数字ありき、印象ありきで政策が設定されている。
 経済界や与党自民党内からも数値目標に実現性が乏しいと批判を受けるが、今井秘書官は「安保から国民の目をそらすことが目的。悪い評判の方が印象に残りやすいからこれでいい」と記者らに答えたという。当時、安保法制の強行審議によって内閣支持率が低下していた。「内閣支持率さえ維持・向上できるなら政策が国益・国民の利益にかなうかどうかは構わない」という姿勢が表れている。


 外交面でも外務省を外して今井秘書官が主導し、結果としてイメージ優先・国益が蔑ろにされる面が見られる。経産省JETRO日本貿易振興機構)を所管し、その海外ネットワークの広さは外務省の在外公館に次ぐとされる。今井秘書官はJETROの国際的なパイプを利用し、外務省と異なるルートで外交を動かそうとしてきた。


 対ロシア外交において、今井秘書官は自身のエネルギー畑の人脈や経験を活かし、エネルギー分野での日露経済協力を領土問題の突破口にしようと進めたが、現実に領土問題の進展は見られない。北方領土問題は橋本・小渕・森政権と、エイリツィン・プーチン政権の中で進展し、森・プーチン会談でのイルクーツク声明で最も解決に近付いた。しかしその後の小泉政権での田中真紀子外相で頓挫し、民主党政権を挟んで10年間停滞し、第2次安倍政権で再び動き始めていた。
 2015年11月にはロシアの石油大手ロスネフチ社のイーゴリ・セーチン社長が来日した際、今井秘書官は官邸に招待している。セーチン社長はプーチン大統領の盟友とされ、ロシアのエネルギー産業に絶大な影響力を持つ。こうした人脈により、安倍政権は日露による北方領土の共同経済活動をアピールした。ただ、日本側からカードを一方的に切り、ロシア側は日本からの援助を引き出す狙いはあっても二島先行返還を認めるつもりはなく、結局領土問題は進展しなかった。今井秘書官自身も北方領土の解決が非常に困難な課題であることは理解しているはずだが、あたかも二島返還に筋道が立ったかのように演出し、支持率アップに繋げようとした。


 2016年5月、伊勢志摩サミットで安倍首相は各国首脳に、当初予定されていなかった4枚の資料を配布した。現状がリーマン・ショック前夜と似ていると示す経済指標が並んでいたが、各国の認識や日本政府の報告と乖離していたため酷評された。「リーマンショックのような事態がない限り予定通り消費増税する」という安倍首相の発言に沿って増税延期の口実づくりにサミットが利用されたという。


 対中国外交においては、2017年5月に習近平国家主席宛の親書の内容が書き換えられるという事件が起こった。親書は外務省が起草し、外務省出身の事務秘書官が首相に確認を求め、最終的に外相の決済・首相の了承という流れで作成される。中国が主導する一帯一路構想・AIIB(アジアインフラ投資銀行)に対して日米は消極的な姿勢だったが、首相親書が外務省やNSC国家安全保障会議)との擦り合わせがないまま、今井秘書官によって積極姿勢に書き換えられた。元外務事務次官で当時初代の国家安全保障局長だった谷内正太郎が激怒すると、今井は「総理の意向です」と言い返したという。アメリカ側からは、日本は何の事前調整もなく突然中国寄りに転じたように映った。


 アメリカに関しては2016年11月、安倍首相は大統領選挙に勝利したトランプとニューヨークのトランプタワーで会談した。安倍首相は当選確定後にトランプと初めて会った外国の首脳となり、また日本の総理大臣が現職の大統領ではなく次期大統領に面会したのも異例だった。
 官邸サイドは、外務省はヒラリーに肩入れし続けた結果トランプの当選を予想できず、首相がすぐに面会できたのは経産省JETROのルートを使ったからだ、というストーリーを流した。しかし実際はJETROのルートは機能しておらず、一方の外務省は2016年7月時点でトランプ当選の可能性を視野に入れ、佐々江駐米大使が部下に命じてトランプの娘婿であるジャレッド・クシュナーとのパイプを構築したことで、当選時に安倍首相が真っ先に祝電をかけることができ、また外国首脳として最初の会談を組めたという。首相秘書官・補佐官の手柄でないことも、あたかも官邸側の功績であるかのように見せかける。


 また北朝鮮交渉が日本を外し米中韓で進んでいる状況に対応できていない点も、先述の通りだった。
 今井秘書官は番記者を前に「先進国の外交はトップダウンであり、外務省のボトムアップ型の外交は時代遅れだ」と外務省を批判する。しかし官邸側の官僚が外務省ほど外交の機微に通じているわけではなく、外交成果が十分に上がっていない現状がある。


 今井秘書官が部下を評価する際のポイントは、思想信条や政策ではなく、突破力・理論構築力だという。自身の仕事のスタンスも、実績やエピソードを鑑みると同様なのだろう。
 経産省出身の秘書官だった柳瀬唯夫が今井との不仲が取り沙汰され、2015年8月に秘書官を外れることとなり、代わって総務省出身の山田真貴子が女性初の首相秘書官として就任した。しかし山田は今井から仕事を評価されず、「女性活躍推進法案」の中間取りまとめで各省庁へのヒアリングができていなかった件で今井からひどく叱責されたという。今井は「ふざけるな」と大声で怒鳴りつけ、まくし立てるように怒りをぶつけるため、部下は委縮するという。山田は嗚咽し、仕事も取り上げられ放心状態だったという。
 秘書官室は総理大臣執務室に隣接し6人の秘書官が在籍するが、会話はなく常に静まり返っているという。今井首席秘書官は執務室に呼ばれて首相と打ち合わせはするが、他の秘書官へその内容は共有されないという。


 2018年4月に森功による今井秘書官へのインタビューが文藝春秋の社屋で実施され、その内容が『官邸官僚』に掲載されている。その中で自身の役割について下記のように語っている。

「僕は自分自身が二つの矛盾した役割を担っていると考えています。一つは、政治家の横暴から役人を守ること、もう一つは役人の怠慢から政治家を守ること。政治家は国民に選ばれなければ失業するんですから、常に必死だし、ときに横暴になる。役人は二年ごとに、何もやらなくても出世していきますから、ときに怠慢になる。だから、二つの役割は僕の矜持です。
 この五年間、さまざまな場面で『どうせ今井の仕業だろう』と黒幕のように見られてきたことは知っています。これはひとえに僕に徳がないんだろうなとは思います。ただ、先ほどの二つの役割に対する思いを変える気はありません」

 自己認識としてはその通りだとしても、現実の働きと比較するとこうした調整弁の役割に留まってはいない。ここで言う「役人の怠慢」の判定が今井秘書官の価値基準では、「専門家集団としての官僚・省庁の働き」ではなく、「現政権の維持するための働き」という観点なのかもしれない。


 2019年9月より首相補佐官も兼務している。先述の通り、秘書官と補佐官の兼務は史上初。7年以上、首席秘書官を務めながら、このタイミングで補佐官も兼務するのは2つの理由があるとされる。1つは今までの働きに対する論功であり、秘書官の年収が約1800万円だったのが、補佐官になることで約2400万円に上がるという。もう1つが政策担当としての正式な権限の付与であり、首席秘書官は形式上は首相の予定管理が主業務である一方、補佐官は政策の担当が与えられる。「政策企画の総括」という担当に任じられたことで、あらゆる種類の政策に対して介入できる権限を得た。従来は経産省での先輩にあたる長谷川榮一(安倍首相・今井秘書官と高尾山に上ったメンバー)がそのポストを担っていたが、今井秘書官がそれを奪った格好となる。
 今井秘書官兼補佐官は第二官僚として官邸内でより地位を向上させている。


  今井尚哉 - Wikipedia



内閣情報官→国家安全保障局長 北村滋

 警察庁出身。63歳。
 北村は安倍との面会回数が最も多い官僚と言われ、内閣情報官時代には新聞の首相動静欄でも火曜・木曜の週2回は首相と会談している。


 東京大学法学部卒で1980年に警察庁に入庁。外事・インテリジェンス畑を歩いて90年代から北朝鮮問題に取り組んでいる。1983年にはフランス国立行政学院(ENA)に2年間留学し、さらに92年から3年間、在フランス大使館一等書記官も勤めており、英語と仏語に堪能だという。
 小泉政権時代に外事課長となり、拉致問題北朝鮮が「横田めぐみさんの遺骨」として提出したものが偽物であると解明したのが北村だった。安倍は北朝鮮問題で北村を頼るようになり、第1次安倍政権で北村は首相秘書官になる。
 その後、警察庁に戻り2007年には刑事局刑事企画課長として「取調べの可視化」に取り組んだ。警察庁の幹部には可視化に反対する者も多かったが、北村は積極派だったという。可視化への流れが不可避なら、それを所与の条件として対応するという現実主義的な考え方で、可視化に制約を加えつつ成立させた。


 民主党政権下で内閣情報調査室(内調)のトップである内閣情報官に就任し、第2次安倍政権以降も留任した。歴代の内調トップの中で北村は就任期間が最長となっている。
 内閣情報調査室は日本の情報機関の一つで、他に公安警察警察庁警備局が指揮)、公安調査庁法務省の外局)などと競合する情報機関となる。2001年の中央省庁再編に伴って内調は格上げされ、トップはそれまでの室長から内閣情報官と名称が改められ、事務次官級となった。この内調のレベルアップは、1993~97年に室長を務めた大森義夫警察庁出身)が大きく寄与している。それ以前はデスクワーク中心だった内調でフィールドオペレーション(尾行・張り込み)を始めたり、大森自身が政治家・学者・商社幹部・メディア関係者との関係性を構築し、大手出版社の月刊誌に知り合いの学者に寄稿させることで、内調によるマスコミ・世論操作を始めたりした。


 第2次以降の安倍政権で首席秘書官を務める今井とは馬が合っていると言われる。現在の官邸は首相・今井・北村の3人がメインプレイヤーだとされる。
 2011年に民主党政権が終わりに近付いた際には、総選挙も含めたインテリジェンス情報を北村情報官は安倍総裁に提供したといわれる。
 2013年には特定秘密保護法を手掛ける。法案の作成・企画・運用・総合調整を内調が担当することになり、法律の成立後は内調総務部門の「特定秘密保護法運用班」が所管することとなった。
 2015年に安倍や菅と親しいジャーナリスト山口敬之元TBSワシントン支局長が、女性ジャーナリストへの準強姦容疑で逮捕状が発付されたが、執行直前に警視庁刑事部長の判断で逮捕が中止になる事件が起こった。週刊新潮などが北村情報官が刑事部長へ指示したのではないかと報じた。
 2017年5月22日に前川喜平文科事務次官の出会い系バー通いを読売新聞のみが朝刊一面で報じた。杉田官房副長官から北村情報官に指示が出され、北村情報官は内調の国内部門のマスコミ担当班を動かし、前川次官の行動確認(対象者を尾行し立寄り先や面会相手等を把握すること)を行ったとされる。
 2018年9月の自民党総裁選では、石破茂の地方票の切り崩しで内調国内部門が情報収集・分析をし安倍総裁の再選をサポートした。「首相の私的機関」と揶揄される。
 2018年4月以降、北朝鮮との拉致問題解決交渉を安倍首相の指示により担当している。官邸サイドは外務省ルートが機能していないと見做し、またアメリカがCIA主導で米朝首脳会談を実現させたのを安倍首相は参考にしたことで、内調を使ったルート形成を指示したという。北村情報官は重永内閣参事官(内調国際部門の主幹)に当局者と接触する場を設定するよう指示を出し、北村情報官は7月に朝鮮労働党統一戦線部北朝鮮の情報機関)のキム・ソンヘ統一戦線策略室長とベトナムで会談し、10月にモンゴルで再度会談している。(統一戦線部はCIAのカウンターパートでもある。)ただ、既に北朝鮮アメリカとのコネクションを確立しており、日本外しに動いているのは先述の通りで、この北村情報官の接触拉致問題解決に有利に働くかは不明だという。


 2019年9月に北村は2代目の国家安全保障局長に就任している。(なお同月に内閣特別顧問にも就任している。)
 2013年に安倍首相肝いりで日本版NSC国家安全保障会議)が発足した。首相、官房長官、外相、防衛相の「4大臣会合」が月2回程度開催され、安全保障政策や外交方針を決定する。その事務局として国家安全保障局があり、初代の局長は元外務事務次官谷内正太郎が就いた。(国家安全保障局長は大臣政務官級。)局長が4大臣会合の進行役を務める。国家安全保障局は、政権の外交・安保政策の司令塔の役割を担い、省庁間の政策調整や情報交流などの役割も担う。
 NSC設立を巡っては外務省と警察庁で主導権争いがあった。現行の安全保障会議を刷新して安全保障・危機管理の情報を官邸に集約するという構想から始まっているが、外務・防衛・警察で領域が被っている。外務省が自主的に新組織案の構想を始め、その後に警察庁も検討を始めた。結果的に元外務事務次官の谷内が初代局長に就任したため警察庁との駆け引きで外務省が優位に立ったかと思われたが、警察庁出身の北村がその次に就任した。外務省出身者と警察庁出身者でバランスを取る意味があったのか、安倍首相の外務省不信や近い人を優遇する人事(お友達人事)の結果なのかはわからない。


 杉田官房副長官、北村内閣情報官は警察庁出身だったためNSCが外務省主導となったことには複雑な思いだったとされ、二人の構想から2015年12月に「国際テロ情報収集ユニット」が始動し、杉田官房副長官が議長となった。(似たような情報機関が既に複数ある中で、国際テロを主題に据えて差別化を図っている。)ユニットをどの官庁に設置するかで外務省と警察庁で再び駆け引きがあり、結果的に外務省に設置されることとなった。ただし形式的には外務省国際統括官組織に属するが、実際は内閣情報調査室の指揮監督下にある。ジャーナリストの安田純平がシリアで拘束された事件で、2018年の解放にユニットは寄与したという。


 仕事には厳しく克己的な反面、角が立つ物言いはせず部下への労いも忘れないため、官僚にも慕われているという。極めて多忙な中で、早朝に警視庁の道場で剣道の稽古に励む姿が見られたという。冷静沈着で敵を作らないためメディアでも取り上げられることも少ない。
 民主党政権下から引き続き起用されたのも、第1次安倍政権で首相秘書官を勤めた経緯もあるかもしれないが、安倍政権に限らず何政権であろうと徹底的に仕えるという姿勢に依るのかもしれない。


  北村滋 - Wikipedia



首相補佐官 和泉洋人

 国交省出身。66歳。
 第2次安倍政権では、第1次での秘書官が官邸の要職に再登用される傾向があるが、和泉補佐官は第1次政権時の繋がりではなく、菅官房長官の強い推薦により登用されている。
 省庁にも序列、中枢権力への距離の近さがある。国家公務員Ⅰ種試験合格者の希望は財務・総務・警察・経産に集中し、また首相秘書官が財務・外務・警察・経産・防衛の5省庁から出向するのも、こうした序列を反映している。官房副長官・副長官補は旧内務省系(警察・総務・厚労)出身者が多い。その意味で、権力から比較的距離のある国交省の出身でありながら、国家戦略特区構想、新国立競技場建設、沖縄基地問題、東南アジア外交加計学園問題での文科省への圧力など、安倍政権にとっての重要政策に大きく関わった点で、和泉補佐官の特異性がある。


 和泉補佐官は、建設省(現在の国交省)への入省時点で既に事務次官コースからは外れていた。他の省庁が東大法学部出身者が事務次官に就任するケースが多いのと異なり、国交省では法学部出身の事務官と、工学部出身の技官が事務次官ポストを分け合っている。技官は大学時代の選考によって土木技官と建設技官に分かれるが、このうち事務次官になれるのは土木系の技官に限られる。東大工学部都市工学科出身の和泉は建築技官だったため、事務次官コースには乗らず最高で局長止まりというキャリアになる。
 29歳で群馬県高崎市へ出向している。高崎は中曽根康弘福田赳夫小渕恵三の首相経験者3人を排出する群馬3区(中選挙区制)だったこともあり、ここで政治との繋がりを得たという。この高崎出向は東大で同じ学科の10年先輩の官僚(上野公成)による人事で、上野はその後参議院議員となって和泉は後ろ盾を得た。
 小泉政権で上野は官房副長官に就任し、和泉を内閣官房の都市再生本部事務局次長に引き上げた。この時に特別経済区域構想(特区構想)を手掛けたことで特区の専門家としての現在がある。特区構想は政治的な利権の奪い合いの側面もあった。自治体任せだった公共事業を国交省が直接手掛けることで、経世会の権力の源泉だった公共インフラ事業を奪い、小泉首相(清和会)による経世会平成研究会)の弱体化に利用された側面があった。(東京ミッドタウンあべのハルカスが特区制度を利用して建設されている。)
 その後、和泉は内閣官房から国交省に戻り、住宅局の審議官となる。この時、耐震偽装事件(姉歯建築士が構造計算書偽造を繰り返していた事件)を契機として、建築業者が瑕疵担保責任保険に強制加入する制度を国交省では導入しようとしたが、建設業界は反対した。審議官だった和泉は業界側の意見を受け入れ、省内で保険制度を推進していた課長・補佐クラスの職員を更迭し、強制加入から任意型の保険制度へと転換させた。また建築基準法などの改正を手掛けたことで政府内での評判も高めていったという。
 麻生政権で再度内閣官房入りし事務次官級のポスト(地域活性化統合事務局長)に就く。民主党政権へ変わってもそのまま内閣官房に留まった。鳩山政権では小泉政権時代の特区構想の見直しが重要課題で、その一つが株式会社による高校経営問題への対応だった。国から生徒一人あたりに対して学校へ補助金が支払われる制度だったため、名義貸しによる幽霊生徒で儲ける学校もあったり、学業の実態を伴わないまま単位を付与して卒業させる学校(ディプロマミル)があり、問題の多い制度だった。また従来の学校法人と異なり文科省の監督が届かない。民主党政権下でこの制度は廃止に進んでいたが、和泉が当時の平野文科相を説得して止めた。野田政権では内閣官房参与に就任する。
 菅官房長官は国会議員になる以前は横浜市議だったが、その時に建設省事務次官だった高秀秀信を市長に擁立し、建設省の官僚だった和泉の協力を得ていた。その後、小泉政権下で菅が国交政務官になって和泉に政策の相談をしたことで、菅と和泉の関係が深まり、第2次以降の安倍政権で菅の後ろ盾を得て首相補佐官に就任したという。


 加計学園獣医学部新設問題(これは特区制度を利用して開設しようとしたものだった)では、和泉補佐官は前川喜平文科事務次官に「総理が自分の口からは言えないから自分がかわって言う」と詰め寄ったとされている。2017年6月23日に前川前次官が日本記者クラブで会見し「和泉補佐官がキーパーソン。私に直接、働きかけが。総理に代わって、と言っている。また、萩生田副長官の発言も、和泉補佐官の発言を引いている。全体の絵を描いていたのは和泉補佐官」「(萩生田副長官は)文科省にとっては頼りになる人だった。調整をお願いしていた。農水省厚労省が関与してもらわないと困るので、調整をお願いした。10月7日のペーパーでは、萩生田副長官は自分が調整するとおっしゃっている。ところが10月22日になると話が変わってくる。とにかく早くやる。和泉補佐官が決めた線でやる」と語っている。(萩生田副長官は、現在の文部科学大臣で安倍首相の側近議員。)


 2020年2月に国会閉会後に和泉補佐官の不倫問題が報じられた。海外出張の際に厚労省の女性幹部と毎回「コネクティングルーム」(廊下を介さず直接お互いの部屋を行き来できるタイプの部屋)に宿泊していたとされ、野党は「税金を使った公私混同」と批判したという。また和泉秘書官と女性幹部が都内や出張先で腕を組んで歩いたり腰に手を回すなどの写真が週刊誌に掲載されるなどした。こうした報道について、「菅潰し」の一環だと指摘する週刊誌もある。
  菅官房長官が「男の嫉妬と権力闘争」で潰されるまで(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/7)
 昨年以降、菅官房長官が自身の影響力を増してきたという。

  • 2019年4月の元号発表で「令和おじさん」として知名度を上げる。
  • 5月に単独訪米し、ポンペオ国務長官、ペンス副大統領らと会談した。
  • その結果、今まで名前が上がることのなかった「次期総理」の世論調査で上位に菅官房長官がランクインした。
  • 6月に無派閥議員の勉強会「令和の会」を菅が立ち上げ、菅派の結成と話題になった。
  • 7月の参院選後の9月の党役員人事で菅長官が安倍首相に「二階さんでなければ党内はまとまりませんよ」と語り、岸田文雄元外相の幹事長就任を直前で阻んだ。(安倍から岸田への禅譲路線を阻害した。)
  • 同時に行われた内閣改造で、菅長官の最側近である河井克行法務大臣に、菅原一秀を経産大臣にねじ込んだ。(二人とも菅グループを実質的に取り仕切っている。)

 こうした動きに対して安倍首相は菅長官に不信感を抱いたという。その結果、

  • 10月に菅原経産相有権者買収スキャンダルが発覚し大臣を辞任。
  • 同月に河井法相の妻、河井案里参議院議員にウグイス嬢の違法買収スキャンダルが発覚し大臣を辞任。
  • 11月以降の「桜を見る会」問題で首相周辺(今井秘書官側)が情報を遮断したことで菅長官が会見で十分な説明ができなくなる。(今井秘書官は周囲の記者に「菅さんは危険だ。何もわかっていない癖に、あれこれ口を出す。」と語り、11月15日に安倍首相のぶら下がり会見を設定した後は記者に「そら見ろ、すべて解決しただろ」と語った。ただし実際には会見で首相が「前夜祭の会費はホテルが決めた」と矛盾を語ったためより窮地に陥ったのだった。)
  • 12月にIR(統合型リゾート)担当の秋元司内閣府副大臣が家宅捜索を受け逮捕された。(菅長官はIRの旗振り役で秋元副大臣とは近い関係にあった。)
  • 12月に総務事務次官日本郵政の鈴木康雄副社長に行政処分情報を漏らしたことが発覚し、更迭に追い込まれた。鈴木福社長もそれに伴い翌年に辞任した。鈴木は総務省OBで「郵政のドン」と呼ばれ、菅長官が総務大臣だった際に審議官を務めた人物で、日本郵政に送り込んだのも菅長官だったという。(ちなみに2018年4月にNHK日本郵政のかんぽ不正を報道した際に、NHKに対する抗議を主導し続報を諦めさせ、記者団にNHKの取材手法を「まるで暴力団」と発言して物議を醸したのが鈴木副社長だった。)

 記事では和泉補佐官のスキャンダルもこうした「菅潰し」の一環だとしている。菅長官との関係で和泉補佐官の立場が危うくなっている。


  和泉洋人 - Wikipedia



官房副長官内閣人事局長 杉田和博

 警察庁出身。78歳。
 官房副長官は3名で、衆院議員1名+参院議員1名+官僚1名(事務次官経験者等)という構成。副大臣級。事務担当の官房副長官が官僚の頂点であり、各官庁を統べるキャリア官僚のトップとなる。また政権と官僚組織の接点となる。事務担当の官房副長官には旧内務省系(総務・厚生・警察)のトップが副長官になるケースが多い。財務・外務はもともと省庁の中で力が大きいため官房副長官に起用すると省庁間のバランスが壊れてしまうので、それ以外で省庁全般を見渡せる旧内務省系の出身者が就くことが多いという。
 2017年8月からは官房副長官萩生田光一衆議院議員)から引き継いで内閣人事局長に就任している。各省庁の幹部人事も握る。(内閣人事局長は官房副長官の一人が就任する。)


 東大法学部卒で警備・公安畑で外事関係の仕事をし、内調のトップ(内閣情報官)に就任している。北村滋国家安全保障局長と同様の経歴で、これは警備・公安が警察庁の出世コースであり、内閣情報官に就任した警察官僚のほとんどが同様の経歴を有することによる。なお在仏大使館一等書記官を勤めている点でも北村局長と同様。(杉田副長官は北村局長の入庁年で14年先輩にあたる。)
 1983年に中曽根内閣で後藤田官房長官警察庁出身の衆院議員)の秘書官として出向し官邸との関わりができる。
 警察庁の出世コースのゴールは警察庁長官と警視総監で、杉田は将来のトップに目されていたが、1993年に51歳で突然神奈川県警本部長に飛ばされる。大阪府警本部長と神奈川県警本部長は警察庁内の「あがりポスト」だったため、将来のトップの目が一度なくなったが、1年半後に警備局長という花形ポストに返り咲く。これは長官の交代によるものだという。
 1997年に内閣情報調査室長に就任し、橋本政権で成立した中央省庁再編に伴い森内閣の2001年に初代の内閣情報官となる。(格が上がって次官級のポストとなる。)橋本政権~小泉政権にかけて官邸で務めた後、2004年に外郭団体へ天下って(内調のシンクタンクである世界政経調査会の会長)政権中枢から外れる。同時に、JR東日本・東海の企業顧問になる。労働組合対策で招聘されたが、JR東海の葛西名誉会長が財界の安倍支持団体「四季の会」の主宰だった関係で、第2次安倍政権発足時に葛西名誉会長が杉田を内閣官房副長官に据えるよう安倍に勧めたという。なお「四季の会」はもともと葛西名誉会長が東大の同級生だった与謝野馨財務相を応援するために立ち上げた親睦会だったが、与謝野が安倍を紹介し安倍支援の会に変わったという経緯がある。
 また2007年9月に第1次安倍政権が終わった後、2008年2月に安倍と官邸関係者ら数人が新潟のスキーリゾートに集まって親睦会(反省会)を開いた。その場に杉田も呼ばれていた。政権奪還の人事構想の話になった際に、官房副長官候補として杉田の名前が上がったという。杉田は小泉政権下で内閣危機管理監を務め北朝鮮問題にも精通していたこともあり、安倍と直接仕事をした経験はなかったがこのスキー合宿で打ち解けたという。


 杉田副長官は北村情報官と協働してインテリジェンス情報を握る。
 加計学園問題で「総理のご意向」文書の存在を告白しようとした文科次官の前川喜平に関して、出会い系バー通いが突然読売新聞で報じられた。この件で前川次官に再三警告していたのが杉田副長官だったという。


  杉田和博 - Wikipedia



内閣広報官・首相補佐官 長谷川榮一

 経産省出身。67歳。
 最近、首相会見を強制的に打ち切って話題になっている。2020年2月19日の新型コロナウイルスに関する首相会見で、官邸側は事前に20分程度と会見時間を案内したが、安倍首相の原稿朗読で20分を費やし、5人からの質問を受け付けたところで司会の長谷川広報官が「予定時間を経過したので」と会見を打ち切ろうとした。フリージャーナリストの江川紹子が「まだ質問があります」と何度も食い下がったが長谷川広報官は「以上をもちまして記者会見を終わらせていただきます」と打ち切った。
 この会見後ジャーナリストの神保哲生は、首相会見の仕組みに関して以下の主旨のツイートをした。

  • 官邸官僚が質問を事前に取りまとめ、答弁を用意している。首相はそれを読むだけ。
  • 会見で当てる順番も事前に決まっている。
  • 時間を計算して官僚が原稿を用意しているが、首相が早く読み過ぎると時間が余る。事前に設定した以外の記者を当てないため、挙手していたのが自分一人にも関わらず、挙手していないNHKの記者を当てたことさえある。
  • 民主党政権下の3年間はフリーでも記者クラブと対等に質問ができた。
  • 内閣記者会の記者たちはこうした状況に抗議せず従っている。

 3月2日の参院予算委で蓮舫委員(立憲民主党)が会見打ち切りを批判すると、安倍首相は当初「会見後も打合せを行ったため」と説明したが、会見終了後は官邸を出て都内の私邸に帰宅していたことを指摘され、打ち切りは広報官の判断だったと強調し、長谷川広報官の責任にされた。
 3月14日の首相会見では、打ち切ろうとする広報官に対して「質問がある」と声を上げた記者が増えた結果、会見時間が延長された。


 2018年12月28日に官房長官会見をめぐって、上村秀紀官邸報道室長名で記者クラブ(内閣記者会)に対して「東京新聞の特定の記者による質問について事実誤認等があった」ため「正確な事実を踏まえた質問」を要請する文書が出された。東京新聞の望月衣塑子記者に対するもので、文書が出される以前から官房長官会見では進行役の報道室長が望月記者の質問をたびたび遮るなどの行為があった。記者クラブに対しては文書の提示前に、望月記者を排除するよう求める要求が水面下であったとされる。官邸による報道の自由の侵害だとして、東京新聞新聞労連日本ジャーナリスト会議、弁護士などから抗議声明が発表された。
 2019年2月19日の閣議で、

  • この文書は長谷川広報官の判断を仰いで室長が作成した。
  • 記者クラブへの申入れの当日に、官房長官秘書官が菅官房長官に報告した。
  • 安倍首相は2月8日に、この件で衆院予算委で野党議員が質問するとの通告を受けて初めて知った。

という内容の答弁書閣議決定した。


 今年の首相会見でも、昨年の官房長官会見でも、記者からの都合の悪い質問は受けたくないし封殺したいという動きがあり、それが顕在化・問題化すると「安倍首相・菅長官は知らない、長谷川広報官がやった」というストーリーが立てられている。長谷川補佐官・広報官は第1次安倍政権から一貫して安倍首相を支えている。しかしここ最近、その立場が低下している。


 1976年に東大法学部を卒業し通産省(現在の経産省)に入省した。経産省では将来有望な国会議員に若手の担当をつける慣習があり、課長時代の長谷川が安倍の担当となり信頼を得たという。小泉政権で安倍が官房副長官に就任すると、長谷川は秘書官も通さず副長官室に出入りできた。第1次安倍政権で内閣広報官を務めた。
 その後安倍政権は終わり長谷川も官邸から離れて経産省に戻り、中小企業庁長官を最後に2010年に58歳で経産省を退官した。同ポストで結果を残して経産事務次官になった官僚もいたが、長谷川の場合は注目政策がなかったこともあり役所を離れた。民主党政権下で天下り企業がなく、コンサルや客員教授を勤め、官僚としてのキャリアが終わろうとしていた。
 しかし安倍の健康問題が改善され(特効薬が発売され、経産省の後輩である今井と共に長谷川は高尾山登山で安倍を励ましたのは先述の通り)、第2次安倍政権が発足し補佐官・広報官に任命されたことで長谷川は官僚としてカムバックすることができた。長谷川は「安倍さんに拾ってもらった恩義があるから、政権を守るんだ」と後輩の経産官僚たちに語ったという。


 広報官としての長谷川は、海外メディアへの人脈形成に長けていた点で評価が高かったという。日本に滞在する海外メディアの特派員や、首相と外遊した際の現地記者への接待を通じて人脈を形成し、外国メディアでの首相インタビューを実現させるのが得意だった。さらに帰国後に国内メディアの馴染みの政治記者に、首相インタビューの内容を先に伝えるなどの手法で国内のマスコミをコントロールし首相の外遊の成果をアピールしてきたという。そうした長谷川広報官の手腕を安倍首相は高く評価したとされる。


 一方で補佐官としては政策企画担当を任され、今井秘書官と協働して北方領土の共同経済活動やロシア外交を牽引してきた。今井秘書官は政策面で政権を背負っているという自負はあっても、立場としては政策企画担当の長谷川補佐官が政策全体をサポートすることになっているため、今井秘書官も長谷川補佐官を立てながら政策を進めていたという。
 しかし2019年9月の人事で今井秘書官は補佐官を兼務し、政策企画担当は長谷川補佐官から今井補佐官へ移っている。補佐官としては「広報、経済の好循環実現のための中堅・中小企業政策及びロシア経済分野協力担当」とされ、北方領土の経済活動分野の仕事は残されたが、現実にはこの政策は成果を上げていない。「仕事が取り上げられた」格好になっている。


  長谷川榮一 - Wikipedia



東京高検検事長 黒川弘務

 法務省出身。63歳。
 最近、検事長の定年延長問題で大きな話題になった当事者が黒川検事長。これは単に「黒川検事長の定年を2020年8月まで半年延長する」という話ではなくて、「黒川を2022年まで検察トップの検事総長に据える」ための下準備になっている。そのために、「検察の政治的な独立性を尊重するため検察庁の人事に政治介入しない」という慣例を破り、国家公務員法検察庁法の規定より優先するという「特別法は一般法に優先する」原則を無視した法解釈を施すといった無理筋を通そうとしている。これは既に各所から違法であると指摘されている。
  東京高検検事長の定年延長はやはり違法(渡辺輝人) - 個人 - Yahoo!ニュース


 2020年2月に報道された「黒川検事長の定年延長」という大騒ぎの前に、2016年9月に「次期法務事務次官に林刑事局長ではなく黒川官房長を充てる」という人事があり、2018年1月に「黒川法務事務次官を留任する」という人事があった。いずれも、法務省サイドが提示した人事案を官邸側が差し止めたものであり、一般に大きく報道されてはいなかったとしても、関係者間では大きな話題となったという。


 法務・検察組織の序列は、検事総長→東京高検検事長最高検次長検事大阪高検検事長→法務事務次官となっている。(他省庁とは異なり官僚のトップが事務次官ではない。)そして検事総長は、法務事務次官と東京高検検事長の双方を経験した者が就任することが多い。また法務・検察のキャリアは大別して2つあり、法務省の要職から進むキャリア検事と、現場の捜査経験を積んで進む捜査検事がある。黒川は法務キャリアの検事である。
 特に現場サイドの検事の中でも政治権力と対抗する東京地検特捜部長は特別視される。不祥事等により検察庁の組織が揺らぐと、東京地検特捜部長経験者が検事総長に就任して組織の立て直しを図る傾向にあるという。(佐川事件で検察批判が巻き起こった際は1993年に吉永祐介が、大阪地検特捜部の押収資料改竄事件で検察批判が起きた際は2010年に笠間治雄が、当初の人事路線から外れて検事総長に就任し検察の立て直しを図った。二人とも東京地検特捜部長経験者。)検察庁は政治的な圧力に屈することもままあるが、その場合は現場サイドの声が強くなるため、そうした声を無視できず検事総長に現場サイド人材が就任する、というバランスが働く。


 2016年7月に、9月人事の案を法務省内閣人事局に提出した。同期の黒川と林眞琴のうち、次期事務次官に刑事局長の林を、官房長の黒川を地方の高検検事長に異動するという人事案だったが、官邸が差し止めたことで黒川は法務事務次官に就任した。菅官房長官が「黒川官房長は法務省内に留めてほしい」という意向を出したためとされる。(なお東京以外の高検検事長は上がりポストである。)
 他の省庁同様、官房長は国会対応を担うため政権中枢と距離が近い。法案作成、国会対応の能力が高く、過去3度も廃案になった共謀罪を安倍政権で成立させたのも黒川の功績とされる。そうした点が官邸に評価された。
 同期である黒川も林も、現場検事/キャリア検事の区分では両者とも後者に属するが、相対的に林の方が現場に近い法務官僚だった。2人とも検事総長候補であり、16年9月人事で黒川は事務次官になったが林はまだなので、当然18年1月人事では黒川はどこかの高検検事長に、林を事務次官に就任させるものと思われてきたが、黒川が留任したため関係者に衝撃が走ったという。
 そして2019年1月に東京高検検事長に就任した。


 黒川は検事総長コースである事務次官と東京高検検事長を経験しているが、年齢的な問題で検事総長になるには無理があった。2018年7月に総長に就任した稲田伸夫と黒川の年齢は半年しか違わない。定年は検事長が63歳、検事総長は65歳。総長は約2年で退官する慣例があるが、稲田総長それに従って退官した場合でも、その時点で黒川は検事長の63歳の定年を超えて退官している計算になる。
 2019年5月に出版された『官邸官僚』では、黒川の検事総長就任について、

  • 一度定年で検事を退任した人物を呼び戻す。
  • 稲田が1年半以上も前倒しで退任する。

という選択肢を挙げているが、いずれも無理を重ねたものであり、林が東京高検検事長検事総長に就任した方がまだしも自然だ、と指摘している。しかしその後現実に官邸が選んだのは「定年を違法に延長させる」という、可能性としても挙げられていなかった選択肢だった。
 1957年2月8日生まれの黒川検事長の定年が半年延長されることで、2020年8月まで検事長を務めることができ、一方で稲田検事総長が2年で退官の慣例に従えば20年7月で退官するため、黒川を検事総長に据える道が見えてくる。


 法務省が提示した当初の人事案は、

というものだったと見られている。(『官邸官僚』で林総長の方が自然だ、と指摘されていた通りの人事案である。)名古屋では林検事長の送別会まで開催済みだったが異動が立ち消えとなった。2019年12月中旬に官邸がこの人事案を拒絶したという。検事総長の人事が既定路線を外れるのは、先述の通り検察庁の立て直しを図るため現場サイドの人材(元東京地検特捜部長)を充てるパターンが過去には見られたが、今回は検察の信頼回復のための人事ではない。


 なお、黒川次官留任の人事異動が閣議決定された2017年12月26日は、森友学園問題に絡む財務省国交省への捜査が大阪地検特捜部で進められていたタイミングだったため「森友封じのための留任ではないか」と取り沙汰された。実際にこの次官人事が捜査に影響を及ぼしたのかは不明だが、その後大阪地検が佐川元理財局長ら財務省関係者38名全員の不起訴を決定したのは事実だった。捜査終結までの流れは以下の通り。

  • 2017年2月17日の衆院予算委で首相が「私や妻が関係していたということになれば、総理大臣も国会議員も辞任する」と答弁する。
  • 2月下旬~4月に首相答弁に合うよう財務省で決裁文書の改竄が進められた。
  • 3月に豊中市議らの刑事告発により大阪地検特捜部による捜査が始まる。当初は、国有地の不当値引きによる背任、交渉記録の廃棄による証拠隠滅・公用文書毀棄を容疑として進められた。
  • 4月から財務省国交省の事情聴取が始まる。捜査の過程で特捜部は文書改竄を掴む。背任容疑を固めるのは難しいため、まずは公文書偽造の容疑固めを進め、2017年中には固めていた。
  • 7月5日、佐川理財局長が国税庁長官に昇進。(財務省は財務事務次官国税庁長官、財務官の3つが次官級ポストになっている。)
  • 12月26日、黒川次官留任、林刑事局長の名古屋高検異動の人事が閣議決定
  • 2018年初めの段階で、3月に捜査を終了させる方針が大阪地検内部で決まる。
  • 3月2日、朝日新聞朝刊1面で文書改竄のスクープが出されたため、大阪地検は捜査終了の方針を撤回して続行した。
  • 5月31日、大阪地検特捜部は佐川長官ら計38人を不起訴処分にした。
  • 2019年3月15日、大阪第1検察審査会は「不起訴不当」と議決、大阪地検特捜部が再捜査を始める。(審査会はランダムに選ばれた国民11名が不起訴処分に対する不服申立を受け、起訴相当・不起訴不当・不起訴相当のいずれかの議決を行う。不起訴不当・不起訴相当は過半数で決するが、起訴相当は3分の2以上の多数によるとハードルが高く設定されている。)
  • 8月9日、特捜部は改めて不起訴処分とした。(不起訴不当に対する再捜査で検察官が不起訴処分とした場合は、再度の不服申立はできないルールになっているため、これで捜査が終結する。)

 佐川元理財局長を逮捕・起訴すれば公判の中で犯行の動機・指示を明らかにするプロセスが発生するが、大阪地検は文書改竄も掴んでいたがそれを避けた形となった。山本真千子特捜部長は会見を開いて「捜査を尽くした」と繰り返した。


 実態として黒川検事長が特捜部の捜査にどのような影響を与えているのかは分からないとしても、大炎上必至の無理筋で検事総長に現政権が推そうとする姿を見せられると、黒川検事長が去ると政権が危ういということだろうかと傍目には見えてしまう。


  黒川弘務 - Wikipedia



その他のメンバー

【元首相秘書官 柳瀬唯夫】経産省出身。2012年12月~2015年8月まで首相秘書官。加計学園獣医学部新設に関して国家戦略特区の担当者として学園幹部・愛媛県今治市の窓口として働く。官邸で加計学園の訪問を3度受け、2015年4月2日に「本件は首相案件」と柳瀬が述べていた事実が愛媛県の文書で発覚したが、本人は面会の記憶もなく首相にも報告していないという。今井首席秘書官との関係で山田真貴子と交代。


【元首相秘書官 中江元哉】財務省出身。2012年12月~2018年7月まで首相秘書官。毎月勤労統計問題に関して、2015年3月に厚労省側に「データの取り方に問題があるのでは」と詰め寄ったとされる。アベノミクスで景気回復をアピールしながら、賃金増減率がプラスからマイナスに転じたため。さらに2015年10月の経済財政諮問会議で麻生財務大臣総務省の統計委員会で改善策を検討するよう要請したことで話が進み、2018年からデータのとり方を変えて結果的に18年の労働者の賃金(統計値)はプラスになった。


【首相秘書官 佐伯耕三】経産省出身。2017年7月に史上最年少の42歳の若さで秘書官に抜擢され話題になった。2018年4月11日の衆院予算委で玉木雄一郎委員(国民民主党)が加計学園問題に関して安倍首相に質問する中「違う!」「間違ってる!」とヤジを飛ばして紛糾させた。今井首席秘書官のお気に入り。第1次安倍政権でも今井秘書官の補佐として官邸入りし、第2次政権でも内閣参事官という立場で首相のスピーチライターなどを務める。今井秘書官は2018年の森功によるインタビューで「総理の演出そのものは僕がやらなければならない部分はありますけど、まあ、基本的に僕は広報の仕事から足を抜きつつあるし、これまでも少しずつ佐伯君に任せてきました。彼の(スピーチ原稿)はテンポがいいでしょう」と褒めている。


【経済産業政策局長 新原浩朗】経産省出身。2014年から内閣審議官、2016年から内閣府政策統括官、2018年より経産省に戻り経済産業政策局長(経産省内での筆頭局長)。今井と同じくエネルギー畑の経産官僚で、今井から実務を託され、働き方改革(労働関連法の改正)や軽減税率の仕組みづくりなどを担当する。民主党の菅政権で首相秘書官を務めた際、原発問題の対応で自民党の不興を買う。太陽光発電の固定価格買取制度の推進で電力会社の経営を圧迫したことが経産省内でも問題になったが、今井秘書官が救った。働き方改革では連合や経団連の説得に成功し、今井秘書官に評価される。消費増税では「キャッシュレスでポイント還元」の奇策を進めた。財務省側は官邸側に2度の増税延期の上、増税分も幼児教育無償化や軽減税率導入で社会保障拡充や財政再建に使えず煮え湯を飲まされている。ポイント還元費用として3000億円を予算計上したが、査定段階では還元の仕組みもできていない中、今井秘書官らから「3000億円近い予算案を作れ」と試算根拠も不明なまま押し付けられたという。事務次官レースでは、今井秘書官の推す新原、菅官房長官の推す中小企業庁長官だった安藤久佳が争ったが、省内にも配慮した結果、安藤事務次官となった。2019年11月に女優の菊池桃子と入籍し話題となった。



まとめ

 いかがでしたか。


 大雑把にまとめると、

  • 基本的に第1次政権で官邸入りした官僚が、第2次政権以降でも安倍首相に登用されている。
  • 安倍政権を支える第二官僚は、次官レースから外れた人が多い。
  • 今井首相秘書官・補佐官(経産)が政策で、北村国家安全保障局長(警察)がインテリジェンスで安倍首相を支えている。2人は2019年9月人事で地位・役割が強化された。「安倍・今井・北村を中心とした官邸」の様相。
  • 今井秘書官の先輩が長谷川補佐官・広報官(経産)、北村局長の先輩が杉田官房副長官内閣人事局長(警察)にあたる。長谷川補佐官は役割が低下している。
  • 和泉補佐官は菅長官の後ろ盾を得て官邸入りしているが、菅長官の地位が切り崩されるのに伴って立場が危うくなっている。
  • 黒川東京高検検事長は法務官僚として政権を支える。政権が違法な定年延長をしてでも検事総長にしようとしている。


 3年ほど前に↓のエントリを書いた。「なんでこんなに政権が安定してしまうんだろう?」「安定するのは、システムにちょうどすっぽり入るからだ」という素朴な気持ちから考えてみた。
  システムをハックする首相 - やしお
 この時は、「官僚の幹部人事を官邸側が握った」程度の認識で、政権に近い官僚が具体的にどのように支えているのかという視点が欠けていた。今回はその補足のような感じかもしれない。「○○が裏で操っている」といった単純化をすると結局は陰謀論に陥ってしまうので、なるべく具体的に誰がどうしたのかを見たかった。


 もともと官邸機能の強化は1995年の阪神大震災の政府の初動対応の遅れの反省から始まっているという。素早い判断を下せる組織・法を整備するという観点で、アメリカ大統領府の大統領補佐官制度やイギリス型の議院内閣制などを手本にしたとされる。素早い判断は、「専門家が正確な情報を整理して提供する、政治家がそれを正確に理解した上で判断を下す」という形になっていないと妥当性が欠けてしまう。このうち「情報を正確に理解した上で」は政治家の能力によるが、そこが不十分だとただただ(政権維持に資する)判断を下す装置になってしまうのだろうか。「首相が官邸官僚に全幅の信頼を置く」「官邸官僚は首相に重用されたお礼に全力で政権維持に尽くす」という形が「官邸機能の強化」とセットで成立すると、現状のような感じになるのかもしれない。

炎上しない書き方

 ブログを16年もだらだら書いていると「こういうことを書くと怒る人がいるんだ」というポイントがある程度体得できるようになってくる。たぶんライターや編集者も、意識しているか無意識かはともかく、似たような感覚があるんじゃないかと想像している。


 ただここで言う「炎上」は、

  • 差別的な言辞を繰り返しながら恬として恥じない
  • 悪質なデマを広げておきながら指摘されても支離滅裂な弁明でごまかす
  • 「自分が何を批判されているか」をまるで理解していない反論を出してしまう

といった、人倫に悖る行為や、職業や立場を全うしないことで非難されるような真性の炎上というより、言葉が足りなかったり書き方の下手さで悪印象を持たれて起こるような軽い炎上をイメージしている。ちょっとした書き方の配慮で、「言いたいことは分かるがお前はムカつく」を防いですんなり相手に納得してもらいたいよね、くらいの意味。


違和感を与えない

 炎上する、非難されるのは、読む側の「ん?」「なんかおかしくないか?」といった違和感が起点になっているのだと考えている。自分の価値観や常識と相容れないものを見て、その大きさと数のトータルで「こいつは全体がもう信用できない」と判定されると叩かれる。誰かが叩いてその内容に納得性があると(たとえその非難に妥当性がなくても)みんなが叩き初めて炎上する。
 これはまるで「いじめられる側にも原因がある」みたいな言い草で、実際叩いている人たちの側がどうなのと思う事例もたくさんあるけれど、一方で予防措置というものがあるのも事実だ。


 じゃあ「誰も何の違和感も覚えないこと」を書こうとして、毒にも薬にもならないものを書くと、無内容であること自体が違和感として作用するため「なんで時間をかけて無意味なものを読ませられないといけないんだ!」と読み手の怒りを買うし、そんなことを書くのは書き手の人生を無駄にしている。(いかがでしたかブログがその極北かもしれない。)


 不必要な点で相手の違和感を与えないようにする技術、というのが基本的な方針になっていく。


他者をバカにしない

 その「違和感を与えない技術」の根底にあるのは、他者を蔑まないという態度なのだろうと考えている。読者をバカにした態度を取る、誰かを上から目線で批判する、自分を棚に上げて他人を非難する、といった態度は確実に引っ掛かってしまう。


 7年前に↓のエントリを書いて、ブックマークコメントで随分色々言われてしまった。
  この眼前の、絶望的な40年の差 - やしお
 会社に入ってみたら日々の細かな積み重ねで仕事のレベルが全然違ってくる、数十年分の差を見て驚いた、普通の会社で世間に名前が通ってるわけじゃなくてもこうして日々積み重ねてる人たちがいるのかと思うと面白い、という実感を語った他愛もない話だった。
 ただ比較対象として「ダメなおじさん」という言い方で一方的に他者を蔑む書き方をしていて、バカにしているのが透けて見える。「言いたいことは分かる、だが言い方がムカつく」と思われて当然の書き方だと思うし、今の自分ならそんな言い方はしない。(かなり恥ずかしいけれど消さずに残しているのは、具体的な他者の権利を侵害していたり、明確に人倫に悖る内容でなければ、「20代の会社員がこういうことを書いてしまった」記録としてそのまま残した方がいいかもと思っているため。)


 他者を一方的に蔑む人を見るのは、単純に気持ちの良いものではないし、場合によっては「自分がバカにされた」と感じて怒りが湧く。バカにされた側の肩を持ちたくなるのは、自然な反応だろう。


システムを見る=立場を慮る

 他人の言動が愚かだと感じたとして、それをバカにしないでいるためには「どうしてそうしたのか」の機序を見ることが重要になってくる。人が悪いというより仕組みや環境が悪い、と考えていくと、その人がそうしたのも仕方がない、その言動は理解ができる、と思えてくる。「自分が相手でもそうしただろう」と思えるレベルまで相手の立場に寄り添って考えてみれば、他人事じゃなくなってくるしバカにする気もなくなってくる。
 さっきの、会社で「積み上げてこなかった側の人」の話であれば、そういうインセンティブが働いた人と働かなかった人の違いがどこにあるんだろうと考えて、そこまで書けば良かった。


 以前、安倍内閣が安定して存続する状況を自分の中で整理したくて↓を書いたことがあった。書いてから3年弱が経っているけれど基本的な認識は特に変わりない。
  システムをハックする首相 - やしお
 安倍首相をどう思うか? と聞かれると、民主主義国家の為政者としての自覚に欠ける人物でありほとんど許し難い、とは思っている。でもそれを単純に「こいつがバカだからだ!」と言ってしまうとそれで終わってしまう。一方で、恐らくパーソナリティとしては「周囲の期待に答えようとする努力家」「仲間思いの人」で、実は友達としては好ましい人物なんじゃないかと思っている。このパーソナリティが、俯瞰して全体を見ることができない・相対化して捉えられないという能力上の限界と組み合わさることで、外部から見ると「政権存続だけを自己目的化してシステムをハックしている」ように映るし、被害者意識を抱えて「不当に攻撃される我々」という自己認識でいるように見える、そしてちょうどそれがぴったりハマる環境になっているために存続してしまう。そんな捉え方をすれば「個人が愚かだから」と矮小化せずにすむ。


 「バカにしないように書く」だけでは不十分で、それはどこか端々に見下している態度が出てしまうから、本気で「バカにはできない」と思えるレベルまで持っていく必要があるのだと考えている。


何かを褒めるために別のものを貶さない

 上で挙げたエントリで、会社ですごいなと思った人を描くために、ダメな人の例を持ってくるというやり方は、まさに「誉めるために貶す」をやってしまった実例だった。「じゃあそういうお前は何なんだ」と読む側を苛立たせる。褒めるために貶すを避けないといけない。


 一方で、逆に「貶すために褒める」、「批判を展開した上で、好例を提示する」のは可能だと思っている。例えばA市の政策の問題点を挙げた後で、B市やC市ではその問題点を既に解決する政策を取っている、といった話の持って行き方はできる。この時、好例の提示がなくても成立するレベルで「批判する」を正確に展開していないとダメで、ただ「好例を提示する」だけで成立させようとすると結局は「誉めるために貶す」に陥って違和感や反発を招く。
 大杉一雄の『日中戦争への道』という本は、どういう経緯で日本が日中戦争に突入してしまったのか(そしてその後の大平洋戦争に至ってしまうのか)を描いている。この中で最後に、第2次世界対戦下で政治的に曖昧な態度を貫くことで参戦を回避しきって、膨大な人的被害を出さずにすんだスペインの事例に触れている。単に「スペインみたいにやれなかった日本は愚か」と単に言っているのではなくて、それまでに資料を丁寧にあたって従来の「陸軍が悪い(海軍はまとも)」のイメージを覆して日中戦争に至る経緯を説得的に描いた上で、だめ押しで「そんなやり方もあったかもね」くらいの感じで反例を付け足している。これくらいのバランスだと「貶すために褒める」は成立する。


揶揄しない

 揶揄や嘲弄はまさに他者をバカにするために実行されるものだから、書かない。「パヨク」「ネトウヨ」「発狂」「お妊婦様」などの言葉は、正確に語る努力を放棄して、自分の方が分かっている、自分は嘲笑する立場にある、と安心感を得たくなると使いたくなってしまう。使うとしてもカッコ書きで、そういう言葉が使用される事実があることを指摘する際に使うくらいしかできない。
 例えば「アベが」と片仮名で書くのも見かけるけれど、批判する文脈であっても「安倍首相が」と書いた方が受け入れられやすいだろうと思う。揶揄を書くとそこで反発を買って、結局は仲間内だけに受け入れられる言動にしかならないし、かえって断絶を深める。


価値判断を相手に任せる

 ほとんど結論が導けるレベルにまで情報を提示して、しかし最後の価値判断を下さない方が、相手にとって受け入れやすいんじゃないかと思っている。
 誰かを批判したくて「こいつが悪いんですよ!」と声高に言うと、「一方の言い分だけ聞いても判断できないな」「この人も悪いんじゃないの?」と言われてしまう。「こういう状況があった」とだけ事実を並べて、最後の「だからこいつが悪い」を書かずに終わると、読んだ人が代わりに「そいつが悪い!」と言ってくれる。
 誰もが自分は中立である、フェアな人間である、と思い込みたい気持ちが働いているのかもしれない。「これは非難し過ぎだ」と感じれば「こいつも悪いんじゃない?」と言いたくなるし、「非難しなさ過ぎだ」と感じれば代わりに非難してくれる。そんなバランスが働いている。
 非難という文脈でなくても、誰かに強制された結論ではなく自分が出した結論だと感じられると安心できる。相手の自己決定権を尊重するのは基本的な方針となる。


リップサービスをやめる

 内輪ネタやフザケは周囲に「フフッ」と笑ってくれる人がいても、その外側では引っ掛かる人もいる。不特定多数が見えるような場でやれば、笑ってくれる人よりも不愉快に思う人の方が多いこともある。


 2014年に東京オリンピック組織委員会会長で元首相の森喜朗ソチオリンピックを視察し、フィギュアスケート女子シングルで6位となった浅田真央選手について「あの子、大事なときには必ず転ぶんですよね。」と発言して非難を浴びた。ここだけを取り出すと、傷口に塩を塗るような発言だが、森喜朗元首相の発言全体を見ると「浅田選手はシングルの前に団体で出場しており、そこで転倒したことが心理的な影響を与えていたのかもしれない。団体は出場しないという選択肢もあり得たのではないか」という内容になっている。(以下に発言の全文が記載されている。)
  森喜朗 元総理・東京五輪組織委員会会長の発言 書き起こし - 荻上チキ・Session-22
 その発言の趣旨自体は理解できなくはないものだったとしても、発言のタイミングと表現が最悪だった。浅田選手のキャリアの集大成であり金メダル獲得が有力視されていたオリンピックにおいて、ショートプログラムで転倒が相次ぎ16位というスタートを切った。浅田選手は直後のインタビューで「何も考えられない」と茫然自失の体だったが、翌日のフリースケーティングでは女子史上初の6種類すべての3回転ジャンプを計8回成功させ、自己最高得点を出した。その結果としての6位だった。この状況で自暴自棄にならず、心を折られることもなく、アスリートとして競技を全うした姿に観戦者が感銘を受けた中での「大事な時には必ず転ぶ」発言だったため、心ない言い方だと森会長は非難を浴びた。
 森元首相がかつて、失言が繰り返し報道されたことで最後は内閣支持率を7%まで落として退陣した過去を思い出した人も多かっただろうと思う。


 劇作家の鴻上尚史はコラムの中で、森元首相との個人的な体験で偉ぶらない誠実な人だったと回想しつつ、失言を繰り返してしまう体質を「リップサービスである」と指摘している。
  失言のオンパレード…森喜朗元首相という人【鴻上尚史】 | 日刊SPA!
 自分をよく見せようとせず、率先して見知らぬ他人のために雑務を厭わない美点と、その場にいる周囲の人を楽しませようと軽口を叩いてしまう欠点は、実のところ一体である、という指摘だった。森元首相は、元外交官の佐藤優の著書でもたびたび描かれて、国政をあずかる政治家としての職業倫理に忠実で誠実な人物として描かれている。それは恐らく事実なのだと思う。
 一方で「その場にいる周りの人へのリップサービスが、そうでない人にどう受け止められるか」への無頓着さは、どれだけ誠実な人物であろうと許されない、という事実がかなりはっきり分かる事例になっている。


比喩は正確に使う

 別の出来事に置き換えて話すことで、問題点や違和感を明確にできる。ただその比喩や比較が相手に別の違和感をもたらして批判を招く光景は本当によく見かける。別の違和感をもたらす要因はいくつか考えられる。

  • 差別:「女性のお喋りみたいだ」のような性差別的、ジェンダーバイアスが露骨な比喩など、たとえによって発信者の差別意識が明らかになる場合。
  • 異なる点が多い:相違点があまりに多いとたとえとして成立しない。「どれだけ才能があっても全てを成功させられるわけではない」という意味で「イチローだって3割しか打てない」とたとえても、野球のルールの中での話と現実との条件が大きく違うと思われてしまうような場合。
  • 前提知識が共有されていない:野球やガンダムでたとえられても知らない人にはそもそも伝わらない。


 昨年、トランプ大統領がメキシコとの国境沿いに移民の移動を防ぐ壁を建設しようとしている状況下で、大統領の長男であるドナルド・トランプ・ジュニアがインスタグラムに「動物園でなぜ楽しめるか分かるか? 壁があるからだ。」と投稿して批判を浴びた。
  「壁があるから動物園で楽しめる」 トランプ氏長男の移民比喩に批判 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
 メキシコ人は動物園の動物ではないし、外から見て楽しむ対象でもない。動物園の動物が移動する動機と、彼らが移動せざるを得ない状況とはまるで異なる。たとえによって、差別意識がむき出しで、相違点もあまりに大きいと思われれば批判を浴びる。


 たとえによって相手の理解を増そうとする営み自体は有意義だし必要だけど、上記の難しさがあるため、たとえようとするものと相当隣接したものをたとえに選ぶのが、正確さを失わずに、かつ理解を助けるにはいいバランスなのだと感じている。


淡々と書く

 何かをバカにしない、価値判断を下さない、揶揄しない、リップサービスを控える、無茶な比喩をしない、といった方針を取ると自然に淡々とした文章になってくる。
 これはもう個人的な好き嫌いの範疇かもしれないけれど、テンションの高い文章を読むのがちょっとしんどい時がある。楽しいな、って時もあるけれど、フォントの色や大きさを変えたり行間がすごく開いているといったスタイル上の騒がしさも含めて、文体が騒がしいのがしんどくなってる。老人になってきているだけかもしれない。(子供の頃はめざましテレビを見ていたのに、今はおはよう日本を見てるとか、ワイドショーとかでコメンテーターが怒ったり強い言葉を使うのを見たくないとか……)
 めちゃくちゃ怒りまくってる文章とか、ジョークをがんがん飛ばしながら書かれている文章でも、読んでいて嫌な気持ちにならないものは、他のポイントで抵触しないように書かれていたりする。


 特に怒りの表明や告発は、感情的にならず抑制的に事実を伝える文章の方がかえって怒りが伝わり易いとは思っていて、「死んだ方がいい」と思っていてもそう書くと(先述の「価値判断を下さない」と同じで)読む側の反発を招いたりすることがある。


PREP法

 会社の研修なんかで文章を書く方法で「PREP法」を習ったりする。Point(結論)→Reason(根拠)→Example(実例)→Point(結論)と展開することで文章が明快になるという。最初と最後に結論を提示するのは非常に有効だと思っていて、間で話が脱線しても最後に元のトピックをさりげなく持ってこれば「話が発散した」印象を持たれにくい。仕事の会話でも、話が脱線してどう切り上げるかよく分からない時に、決定事項(次のアクションとか)を言えば何となく締まった感じにできる。
 逆にこれをしないと「結局何が言いたいのか分からない」と文句を言われたりする。これは個人の雑感だよ、日記だよ、というポーズを取っていてさえ「何が言いたいのか分からん」と文句を言われる。「オチがない」という文句に近いのかもしれない。


データやソース、実例を提示する

 「ソースがない」という怒られ方はよく見かける。書き手のバーチャルな意見や想像なのか、地に足のついた話なのかが判断できないと不安になる。PREP法で言うE、データやソース、実例や体験談があると読む方が安心する。体系が体系内部でただ無謬であるばかりではなく、体系の外部に対して妥当であることも示してほしいと読み手は感じている。法律でいう「立法事実」に近い感覚かもしれない。想像で考えられるリスクだけを基に、自由を制限するような法律を作ると違憲判決を食らうので、現実的な根拠を見据えた上で法律を作らないといけない、という規範が働いているみたいな感じ。


 一方で、そういうやり方で相手に信用してもらえると、適当に嘘を書いても信用されてしまったりする。10の要素のうち7が嘘でも、事実である3が正確にデータやソースを引用しながら書かれていると、残りの7も「この人はちゃんと書いているはずだ」と信じられてしまう。逆に9割が事実でも、1に分かりやすい誤りが含まれていたり書き方が稚拙だと、1から10まで全部が誤りだと思われてしまう。こういう感覚が身についてしまうと、「ここは裏取りしていないけど、まあ信じてくれるだろう」みたいな気持ちになってしまう。
 データや原典にあたってチェックする他者がいなかったとしても、書き手自身が誠実であるために裏取りや確認をするんだ、と思っていないと、この悪い気持ちに流されてしまう。これも「どうせ誰も気付かないだろう」と相手を侮る姿勢という意味では、「他者をバカにしない」に通底する話になっている。


仮定や前提を明示する

 データやソースがなくてバーチャルな話をするのはじゃあダメなのかというとそういうわけじゃない。その場合はどういう仮定を置いているのか明確に書いておけばいい。思考実験が無益なわけではなく、その前提・仮定を明確にしないで思考実験を展開するのは書き手にとっても読み手にとっても「何の話をしているんだ?」になりがちというだけのことだ。


話の目的を書き添える

 PREP法の要素には挙げられていないけれど、その話の目的を先に伝えておくのは極めて重要だと考えている。(PREP法に入ってないのは、背景や目的が相手と共有できているのが前提になっているのだと思う。)「どうしてこの人が今この話を私にしているのか分からない」という話を延々と聞かされるのはしんどいので文句を言われてしまう。
 個人的な体験やニュースに紐付けて「こんなことがあったから」「こんな記事を見たから」でもいいから一言書いてあると地に足がついてくる。自分がどういう立場で書いているか(事件の当事者であるとか、マイノリティの当事者であるとか、職業としてそのプロであるとか)が明示されていると「なぜこの人が発信しているのか」がはっきりする。そういうのが何にもない場合であっても、単に「自分のために書いている」とはっきり書かれているだけでも立ち位置が明確になる。立場や目的が明確な話は聞いていて不安な気持ちになりにくい。


タイトルと内容を乖離させない

 よく「タイトル詐欺」と言われて批判されたりする。タイトルで想像していた話と違うと怒られる。書いている途中で考えが発展したり方向が変わったら、タイトルもそれに合わせて変える。


無根拠な断定を避ける

 「~だ。」と言い切っているのに、その断定の根拠がはっきりしないと読んでいて「なんで?」となる。途中式が省略され過ぎていて間のロジックが分からないとか、データやソースが明示されないとか、そんな不信感が募っていくと最後には「この語り手は信用できない」と思われる。
 このため論拠があるものについてのみ「~だ/である/でしかあり得ない。」と断定して、そうでないなら「と思う」「かもしれない」とその確度に応じた表現にする方が誠実だし、相手にも違和感を与えない。論拠がある場合でも途中式を省略し過ぎると、本人は理解していても相手が理解できなくて結局不信感を与えかねないので、想定される相手の理解度に合わせてロジックをちゃんと見せる。何となく「~だ」と書いた方がそれっぽいから、といった曖昧な感覚で文末を決定せず、自分がどこまで検証・確認しているのかを意識して文末をコントロールする。
 その一方で「と思う」「かもしれない」が多用されると冗長で無責任な文章に見えてくる。冗長になりそうなら、途中までは断定で書いて最後だけ「と考えられる」と書くだけでも、全体としては非断定的な書き方にできたりする。
 こちら側で断定を避けることで、相手側に判断を委ねるという意味で、これは先述した「価値判断を相手に任せる」の一環にもなっている。


文体をコントロールする

 言葉の選び方で全体の印象がかなり変わってくる。「だが」「だけれど」「だけど」は僅かな違いだとしても、この差異の積み重ねで印象を作り出すことができる。接続詞や文末だけでなく「システム」と「体系」のように名詞でも、代替可能だが含まれるイメージや意味がちょっと違う言葉をどう選ぶかという判断がある。「ムカつく」と「腹立ちを覚える」でも印象が大きく違う。


 よく文章指南では「言葉を統一しなさい」と言われる。ですます調と、だである調が混在していると読む側の気が散る。誤字が多かったり語句が統一されていないものを読むとイライラする。相手に苛立ちを与えて「なんか嫌だな」という印象を持たれると、それ以外の部分で文句を言われやすくなる。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いじゃないけれど、悪印象を持たれると普段ならスルーしてもらえるささいな瑕疵にも引っ掛かってしまう。
 それだから語句や文体の統一は原則として守ることになる。その上で、「ここは個人的な感情を語っている箇所だからやや柔らかめにしておこう」とか「ここは実証的に人の姿勢を批判する箇所だから硬めにしよう」とか細かい語句の選択で印象をさらにコントロールする。その目的のために、教条主義的に統一性を守るわけではなくて、必要に応じて崩すことになる。


解釈の余地を限定する

 好意的/敵対的どちらにも解釈ができる話は、だいたい悪い方に解釈されてしまう。「書かれていないこと」は決定できないはずなのに、自動的に批判される方向に読まれてしまう。
 友人が家に来ていて「いつ帰るの?」と単に聞いたら、「早く帰ってほしい」「まだいてほしい」「今後の予定を立てたい」など質問の意図や目的は複数考えられるけれど、「早く帰れと言外に伝えている」と見なして相手はムッとするかもしれない。それなら「夕食一緒にどうかなと思って」と先に一言付け加えておけば、相手の解釈の余地を限定できる。
 「りんごが好きだ」と言うと「じゃあみかんは嫌いなのか」と言われる。「フルーツ全般好きだけど、りんごは特に好きだ」と先に言っておけば曲解を防げる。最初から冗長にならない程度に、さりげなく道を塞いでおく。
 この話は「断定しない」や「価値判断を相手に任せる」と矛盾するようにも見えるけれど、根拠のない断定をしない、最後の価値判断は自分で下さないというだけで、あくまで解釈の余地は狭めておくという点ではいずれもこの方針を踏まえた上での振る舞いになる。


書いた後で時間を置く

 ここまでに挙げたチェックは、「書いた自分」を離れて「読んだ他人」の視点で見ることが必要だけれど、書いた直後にそうするのは難しい。特に個人的な体験に基いて誰かを非難するようなことを書こうとすると、どうしても無意識に自分を正当化させようとする力が働く。5,6回くらい読み返して、時間を置いて読み返して、「相手に違和感を与えて苛立たせない」の観点でチェックする。
 そこまで気を付けていてもとても難しくて、昨年↓を書いて、これは「自分の感情がどうだったか」を主眼に書こうとしていたつもりだったけれど、結果的にはかなり「お前もおかしい」とブックマークコメントで言われてしまった。
  お金を貸して絶縁するだけの話 - やしお
 言われてみると「そうか、他人からはそう見えるのか」と改めて気付いて、自分では客観的に自分を見ていたつもりでも、やっぱり上手くいかないもんだなと思った。これまでも何度か「お前がおかしい」とコメントで言われる経験を通して、それを避けるポイントをある程度身につけてきたつもりだったけれど、それでもなお難しい。


無視する

 どれだけ配慮して書いたところで「文句のための文句」で非難する人はいる。あちらを立てればこちらが立たず、のような感じで完全に文句を言われなくすることは難しい。だから、ここまでこっちが整備してもそう言うなら、もう知らない、とある程度で無視しないと心が荒んでくる。こうした技術は「他者から非難されるとしんどい、自分の言いたいことが伝わらないのはつらいので、それを軽減するためにやる」とあくまで自分のためにやっている。他人から「こう書け」「こう書かないからお前が悪い」と言われるようなものではないし、相手のためにやっているわけではない。だから、相手が「お前が悪い」と言っても説明に付き合ってあげなくてもいい、無視する自由はこっちにもあるんだと思ってやるのが、ちょうどいいんじゃないかと思っている。
 逆に自分が読み手の時は、多少書き方が下手くそだったり「こういう言い方をすれば反発を喰らわずに済みそう」と思ったとしても、プロが書いたわけでもないならそこは差っ引いて、書き手側の意図に寄り添って読めばいいのだと思っている。ネットに感情を吐露してそれが共有されたり記録として残ることだけでもありがたいことだ。


 自分で自分に「お前は誠実だったか?」と問い合わせて、「自分は自分なりに誠実だった」と答えられたら、もうそれでいいと割り切った方が精神衛生にいいし、それ以上の文句はもう書き手ではなく読み手の心の脆弱性の問題だと見なす方が、バランスがいいのだと考えている。

「みんなが成長したいわけじゃない」の捉え方

 ここ最近のツイートや記事で「社員のみんなが成長したいと思ってるわけじゃないから、そこの配慮が必要だ」っていう話をちらほら目にして、一方で「いや成長したいと思う気持ちは自然なものじゃないか?」といったコメントも見かけて、意見が対立している。この話って、マズロー欲求段階説を前提に考えると「どっちかが正しい」という話ではなくて「どっちも正しい」話で、矛盾なく理解できそう、とふと思った。


 マズロー欲求段階説自己実現理論とか欲求のヒエラルキーとも呼ばれる)は、人間の欲求が5段階で構成されていて、低次の欲求が満たされると今度は高次の欲求を求めるようになる、という説。低次の方から順に以下のようになっている。

  1. 生理的欲求:食事、排泄、睡眠などへの欲求
  2. 安全欲求:身の安全や経済的な安定性への欲求
  3. 社会的欲求:自分が社会に必要とされていて、社会の役に立っているという感覚。他者に受け入れられている、何かに所属しているという感覚(愛と所属)への欲求
  4. 承認欲求:低次と高次がある。低次は他者からの評価(尊敬、地位や名声)への欲求。高次は自分自身からの評価(自己尊重感、技術・能力の習得、自立性)への欲求。
  5. 自己実現欲求:「あるべき自分」「なるべき自分」になろうとする欲求


 「成長したい」という気持ちは、4段階目の承認欲求のうち高次にあたる「自分自身からの評価に対する欲求」か、5段階目の「自己実現の欲求」にあたるのだろうか。そう考えると「みんながみんな成長したい訳じゃない」という話も、1~4段階が全部クリアできていない、達成する順番がちぐはぐになっているのかもしれない、と捉えられそう。
 残業だらけで睡眠を削ったりするような職場じゃないとか、しっかりした給料が貰えている、だけではまだ足りなくて、職場(グループや課)が自分の居場所だと思える、周りからも認められていて「自分すげえ」という実感がある、ある程度決裁権・自己決定権があってやりたいようにできる、ぐらいまで達成できていて、ようやく「もっと自分を成長させたい」という気持ちが自然に湧いてくるってことだと考えると、なかなか実現は大変そう。そこまで達成されないと内発的に「成長したい」って気にはならないっていうのは、自分自身の実感としても違和感が少ない。そのレベルまでチームのメンバーや社員が感じられる環境を提供できるか? と考えると結構むずかしい。
 スキルを身に着けたい、最新技術にキャッチアップしたいという気持ちが、4(高次)~5段階に基づくものではなくて、もっといい収入を得たい(2段階)、周りからバカだと思われたくない、すごいと思われたい(4段階低次)に基づくものだとしたら、それは自発的な「成長したい」という欲求ではないので、「同じような環境なのに、成長したい人とそうでない人がいる」が出現してくる。2、3段階の欲求に対する手段としては必ずしもスキルアップなどでなくてもいいから、人によっては「成長しよう」にはならない。


 マズロー欲求段階説を補助線として引いてみると、「同じ職場なのに成長したいと思う人と思わない人がいる」っていうのもよく分かるし、でも「自分のできることが増えて成長してるって実感はみんな嬉しくないの?」っていう言い分もよく分かる、両方分かるっていうのを矛盾なく理解できそうだとふと思ったのだった。


 あとこの5段階って、どの程度ブラック企業ホワイト企業かのチェック項目にもなってる気がする。はちゃめちゃに残業が多くて睡眠を削らざるを得ない、拘束時間が長くて食事休憩・トイレ休憩を取る時間もままならない(1段階)といった仕事が一番ブラックで、給料が安くてちゃんと生活できない(2段階)がその次にブラック、安心して職場にいられない(3段階)がブラックとホワイトの境目くらいで、3段階目までの欲求を社員にちゃんと満たせていればそれなりにホワイト企業、みたいな感じだろうか。
 アジャイル開発の提唱者の一人であるジェフ・サザーランドは、著書の『スクラム』の中で、仕事の質とスピードを阻害する要因を徹底的に排除してムリ・ムラ・ムダのない仕事の在り方を追求しているけれど、それはメンバーを4の高次~5段階目まで引き上げることを含意しているんじゃないかと思っている。


 それから「やりがい搾取」という言葉があって、給料が安かったり長時間労働だったりするのに、それをバイトや社員の「やりがい」で覆い隠して働かせるって手口がある。最近だとアニメーターが働きに見合わない対価で仕事をしていて、でも「アニメを作りたい」という夢を人質にして働かせているという話があった。
 5段階説は、ちゃんと1から順番に満たされると次の欲求が立ち上がってくるという話だったから、矛盾しているようにも思える。1や2が達成できていない状態なのに、働いている人たちは4あたりを求めているように見えるから、5段階説は成立していないように見える。
 これは、上位の3~5段階が達成できているように見せかけることで、実は下位の1~2段階がちゃんと達成できていなくても、あたかも下位の欲求が満たされているような錯覚を覚えさせる、みたいな機序なんじゃないかと解釈している。欲求が5段階の順に出てくるとして、先に上位の欲求を外側から強制的に満たしてしまうと、「もう上が満足されているから、下も満足されているはずだ」と錯覚して、下位の欲求が内側から十分に発現されなくなってくる。人間のバグを利用しているような感じ。
 ゲーミフィケーションもちょっとそれに近い感じかもしれない。ゲームが人を楽しくさせてハマらせる仕組みを上手く応用して、ゲーム以外の色んな分野(仕事も含まれる)で成果を上げようって話だけど、これも一歩間違えば(というか悪用すれば)「やりがい搾取」と同じことになるんだろう。


 別に5段階説に拘泥する必要はないと思うけれど、そんな風に解釈すれば「成長したい人ばかりじゃない」って話も、ブラック企業からホワイト企業に至るレベル感のことも、「やりがい搾取」みたいな現象も、そんなに違和感なく統一的に理解できそうな気がしている。