やしお

ふつうの会社員の日記です。

2001年スーツがいきなり黒くなる

 会社(大手メーカー)の社内報に毎年、新入社員全員の顔写真・名前・自己紹介文が載っていて、この前ふと20年前のを見てみたら、男性社員のスーツやシャツがカラフルでいいなあと思った。自分が入社したのは11年前、2008年だけどその時にはみんなスーツは黒で色シャツの人はいないのが当たり前だったから、ちょっと新鮮だった。
 いつから変わったんだろ? と思って男性社員のスーツが黒じゃない人、シャツが白じゃない人の数を数えてみた。
※面倒だから「黒」って書いてるけど、ほとんど黒に近い濃紺かダークグレーのことで、喪服や男性アイドルの衣装みたいな真っ黒のスーツは(10年前の記憶では)あまり見かけたことがない。
※「スーツも黒じゃないしシャツも白じゃない人」がいるので3列目+4列目=5列目にはならないんだけど、そういう人は99年に1人しかいなかったので他の年はそのまま足した数字になっている。




 2001年から急減して2002年でほぼ絶滅、となっている。
 色シャツの人はまだ残っていたけど、明るい色のスーツは02年には絶滅している。それまでは明るいグレーやベージュ、茶色のスーツを着ていた人がいたのに絶滅した。ちなみに06~12年の間に黒以外のスーツの人がほんのわずかに登場してるけど、その人たちは例外なく明るいグレーであって、ベージュや茶色は完全に消滅している。そして2013年からは6年連続でそのグレーも消滅して黒一色になっている。(そもそも業績が落ち込んで採用が抑制されてたから数に出てこないだけかもしれないけれど。)


 上の表は男性社員だけをカウントしたものだけど(男女比が9:1くらいで女性社員のサンプル数が少な過ぎたので)、女性社員の方も見てみると2001年からリクルートスーツが増加して、02年に絶滅(全員例外なく黒)になっていた。(もしかしたらメイクや髪型も変わっているのかもしれないけど自分には正確に語る能力がない。)


 リクルートスーツっていつから出てきたんだろうと思ってググったら、どの記事でも「2001年から登場した」と書かれていた。


 いつから就活生は黒のリクルートスーツを着るようになったのか|就活サイト【ONE CAREER】


 リクルートスーツ いつから「黒」が定番色になったのか|NEWSポストセブン


 90年代前半にバブル崩壊してからだんだん黒が増えてきて、00年に大卒新卒の有効求人倍率0.99と過去最低を記録してその翌年の01年にリクルートスーツが登場した、という解説になっている。
(ちなみに98年1.68→99年1.25→00年0.99とわずか2年で一気に急落して、その後08年に向かってゆるやかに回復していった。リーマンショックの影響で2010年以降にも落ちているが、それでも12年の1.23が最低値なので、1倍を割ったのは99年だけだったようだ。)


 https://www.recruit.co.jp/newsroom/pdf/20180426_01.pdf


 あと面白いなと思ったのが、自己紹介文もリクルートスーツの登場に合わせて一変している。
 00年入社の人達は「将来の夢はパイロットです」とか「アッパーカットが打てるようになりたい」とかふざけたことを書いている人もいて、そうでなくても趣味のこととかを緩く書いている人が多かった。それが01年になると完全にふざけたことを書いている人は絶滅して、「頑張ります。よろしくお願いします。」みたいな無難なものになっている。


 やっぱり求人倍率が1を切って、「売り手市場」から「買い手市場」に転落して、「落ちても次があるからいいや」という現実が完全に消え去ったのを目の当たりにした人達は、「落ちる可能性がある要素の一切を排除しよう」という価値観になってるのかもしれない。
 そのタイミングで「これが就活のマナーだ」というのが流布されればみんな飛びつかざるを得なくなる。その真偽が定かでなくても、というより真偽が定かではないからこそ、念のためそうするしかなくなる。例えばどこかのスーツの量販店が「これがリクルートスーツです」と言ってそのタイミングでうわーって売れまくったら、他の量販店だって追従せざるを得ない。「常識」は条件がそろえばたった1年で作れるってことだ。
 「失点をなんとしてでも防ぎたい」という意識が、スーツだけでなく自己紹介文ともリンクしているのかもしれない。


 ちなみにリクナビは96年から、マイナビは95年からネットの新卒求人のサービスを開始していて、利用者が拡大したのも00年代頭からみたいだ。
 それは就職氷河期とインターネットの普及が同時期に起きたことで、大量の求人情報を収集する必要に迫られた求職者(新卒者)のニーズに合致している。みんなが同じ情報を参照する土壌ができたことも、画一的になった一因なのかもしれない。


 自分が入社した08年の新卒(大卒)の有効求人倍率は2.14で、バブル崩壊後の最高値になっている。
 自分の就活を思い返しても、リクナビにもマイナビにも登録してなくて、学校に来てた求人企業一覧を眺めて「めずらしく東京の会社があるからここにしよう(知り合いのいない土地に行こう)」と選んだ会社を学校推薦で受けたら内々定をもらったので入社した。入社したら配属は東京ではなかった。
 結局1社だけしか受けてなくて、会社研究とかもしなかったし、OB訪問とか会社訪問とかも全然してなかった。周りはちゃんとやってたと思うけど、その頃は友達もほとんどいなかったし、先輩との付き合いとかもなくて、社交性が死んでたからどうやればいいのかよく分かってなかった。
 ただ「就活……就活やらなきゃ……」と漠然とした焦りがあったけど、やり方も分からないし意欲も出なくて、やばいやばい……と思ってとにかく受けたら受かったのでほっとした、というのを覚えている。


 それで、(こんなのを就活と呼んだらちゃんとやってた人たちに顔向けできない……)みたいな気持ちを持っていたのを覚えている。今から考えるとほんとはそれくらい適当で許されて、嫌になったら辞めて他のところを受けて、労働市場流動性が高いし再チャレンジがちゃんと機能するのが普通なんだろう。偶然生まれた年がちょっと違っただけで「はい、塗炭の苦しみですよ」なんて不条理だ。自分が就職できたのは生まれ年の運でしかない。
 現実にはちゃんと就活をやらなくても就職できていて、でも「就活は大変だ」「ちゃんとやらなきゃ」みたいなイメージや焦りだけ漠然と持っていたのは、就職氷河期の時代に形成されたスタイルが、氷河期が終わった後も文化としては残存していたってことなんだろう。(残存させると得になる人達が残存させていた、とも言えるのかもしれない。)
 現実には売り手市場なはずなのに、心理的にも構造的にも買い手市場みたいになってた。買い手市場の時代に確立された「数撃ちゃ当たるでとにかくたくさん受けて落ちるのは当たり前」という就活スタイルは、本当は売り手市場になっているのに、みんなが同じ情報を参照してみんなが同じ企業を受けるせいで(一部の人気企業を)買い手市場のようにしてしまう。学生側からは買い手市場に見えてしまうのだから、学生側の心理も「失点したくない(だけど他人より優秀に見られたい)」となるし、その心理に基づいた「就活マナー」も生き長らえる。


 2008年の自己紹介文を見ると、単に「頑張ります」だけじゃなくて「様々なことにチャレンジしてみたいです」「何事にも積極的に取り組みたいと思います」といった内容に変化している。「何事も」「何事にも」という単語がすごく多いなと思って、数えてみたら184人中34人が使っていて約2割、「色々なことに」とか「仕事もプライベートも」とかは除外しているのでそれも含めたらかなりの割合の人が「私は何事にも積極的な人間である」というアピールをしている。
 「失点したくないから奇抜なことはできないけど、やる気があると思われなきゃいけない」という心情が醸成されてきた結果なのかもしれない。これは当事者だった自分の記憶とも合致している。
 ちなみにさらに10年後の2018年を見ると「何事」使用者は53人中3人で5%くらいになってかなり減っていて、むしろ「自分はこういうことをやりたい」とか「自分のこういう経験を活かしたい」とか内容が具体化したことでバラエティが出ている。
 アバウトな頑張りアピール時代→全範囲積極性アピール時代→具体的な専門性でアピール時代、と「頑張る」姿勢の見せ方が、より説得力を持たせる方向に進化しているみたいだ。個々人が、じゃなくて集団の意識が進化している。


 この自己紹介文は、入社する前に自宅にいろんな資料や書類と一緒に用紙が送られてきて「書いて返送してください」となっていて、自分は何を書いていいのかよく分からずにちょっと変なことを書いてしまって(古典・国文学を引用するとかいう変なイキり方をした……)今見ても恥ずかしい。もしかしたらみんなミクシィのグループでどんなこと書くのかも相談してたんだろうか。それともそんなの相談しなくても、みんなが内在化させてた「就活生の常識」から自動的に出力されてたんだろうか。
※内定式に行ったら、みんな初対面のはずなのに既に仲良くなってて、実はミクシィのグループで繋がってたらしいと後から知った。ちょうどその頃はミクシィが全盛期だったけど自分ははてなダイアリーとかやってたから。懇談会でその輪に入るだけの勇気も社交性もなかったので、二次会とかあったらしいけどすぐ岐阜に帰った。入社後は独身寮に入って交流のある環境が用意されたおかげで社交性を回復することができた。リハビリって感じだった。


 10年代半ばあたりになると、外国出身の新入社員も少しずつ増えている。それで服装も多様性が増しているかというと全くそうはなっていなくて、外国出身者もみんな黒スーツ白シャツを着ている。自己紹介文もみんな「頑張ります」になっている。かえって外国出身者の方が過剰に適応しているんじゃないかとさえ思える。(関係ないけど、モンゴル出身力士の方が日本の良くない体育会系の側面を受け継いでしまっているように見えるのも過剰適応なんじゃないか、みたいなことちょっと思い出す。)「よそもの」が「村」の一員になるには、もともとの「村人」以上に村人らしくしなければならない。
 会社がそういう人しか取ってないっていう面もあるのかもしれないし、会社が採用できるくらい「常識」に適応した外国出身の新卒者が出てきている、とも言えるのかもしれない。
 ところでスーツが完全に黒で定着した一方で(?)男性の髪型がおしゃれになってきている。自分が入社した08年の頃やそれ以前は、(ああ、技術系の企業だからなあ)と思うような無頓着な髪型の人が多かったのが、前髪がちゃんと処理されている人が増えている。服装面では完全に「就活スタイル」が定着したので、今度はさらに細部に入って髪型も「就活スタイル」の浸透が始まったのだろうか。



 リクルートスーツやマナーも含めたこの「就活スタイル」は、

  • 就職氷河期(=新卒一括採用+不景気)の到来
  • インターネットの普及

が重なったことで一気に浸透して、でもこの条件が一部解除されても、一旦浸透してしまうと今度はそれが所与の条件として働くせいで、消えるよりむしろ強化されていく方に働いている、みたいな話なのかなとぼんやり想像している。所詮は「古い製造業の大企業」1社っていう狭い観測範囲だから、外側は結構違うのかもしれないけど、かえって範囲を絞って定点観測した方があらわになることもあるのかも。
 マナーや文化が形成されるのは一瞬だけど、消えるには時間がかかる、むしろ定着していく方向に働く、そういう非対称性があるのかなと思って。


 今まで社内報の新入社員紹介コーナーなんて、関係ある人か、変わった名字や名前の人くらいしか見てなかったけど、こういう視点を持ってしまうと今度からじっくり見てしまう。

育てられ方を後継者にコピペしようとする気持ち

 職場のグループリーダーになったので、次のリーダーを育てるのも自分の仕事と思って、メンバーの一人(後輩)にそのつもりで仕事をお任せしていっている。
 担当製品を持って生産問題や品質問題に対応したり、リニューアルの立上げを担当していく中で、外注先や他部署の面識を得ていく。自職場の業務やルール、さらに周辺職場の仕事の理解を深めていく。課題解決の中で判断や考えを見せて周りに「この人には任せても大丈夫だな」と思ってもらえるようにしていく。そうなると「じゃあグループリーダーを誰にしようか?」となった時に、安心して選んでもらえる。


 大体3~4年くらいでこの状態にまで持っていきたい。
 自分が今の職場に異動してきてそんな感じでなったから、「重要な場面」を相手に任せずに自分で抱えてそうした機会を奪ってしまったら「恩を返せない」みたいな感覚がある。自分自身がそうやって仕事を任せてもらって力をつけていったのに、今度は自分がリーダーになった途端にその契機を奪うのは許されない、みたいな感覚。


 でも、自分の意識ではそうなんだけど、実は無意識では、自分と同じような育てられ方を相手にも適用することで「自分の来た道は間違ってなかった」と肯定させようという気持ちが働いているんじゃないか、という疑いを漠然と持っている。
 ちょっと安倍首相と稲田朋美衆院議員のことを思い出して、そんな疑問を抱いている。


 安倍首相自身、旧来のキャリアパスを無視する形で、官房副長官→幹事長→官房長官→首相と小泉元首相に引き上げられて首相になっていったという人だった。安倍首相が稲田議員を、特命担当大臣政調会長防衛大臣と当選回数や年齢と関係なく引き上げようとしたのは、本人の意識としてはたぶん「見どころのある人をきちんと引き上げなければいけない」というものなんだと思うけど、でも無意識に「総理総裁が一気に引き上げること」を今度は自分が他者にすることで、「自分がされたことは間違っていなかった」と肯定したい、安心したいという気持ちがあったんじゃないかと疑っている。


 そして誰が見ても明らかに、稲田大臣は大臣としての適格性に欠けていた。ポストに対して能力があまりに不足していた。それで大臣職の辞任に至って、このキャリアパスが完成することはなかったわけだけど、実は「能力が自分より不足した相手を選んだ」ということ自体が、「自分を肯定したい」ということと関係してるんじゃないか。もし自分よりもはるかに有能な相手だったとしたら「自分はこれで成功したのだ」という安心感が揺らぐ。
 自分の価値観を理解してくれて、肯定してくれる相手が現れる。「期待の持てる人だ」と思う。「自分が引き上げてやらなくては」という気持ちになる。この時相手が明らかに自分をオーバーして優れていれば「自分が引き上げなくちゃ」という感覚にはならないだろうし。


 ちょうどそのメンバー(後輩)はとても話が合うというか、こちらの意図をきちんと理解してくれるから気持ちがいい。それと基本的な価値観が共有できていると感じられるから話してて楽しい。それで、自分を疑っている。


 別に仕事に限った話じゃなくて子育てとか部活とかでも同じかもしれない。「自分がそう育てられた」を子供とか教え子とかにもコピペして、「ほらこれで上手くいった、だからこう育てられた自分もやっぱ正しかった」って安心したくなる。もちろん本人の意識では、何か合理的な理由で埋められているし、実は上手くいっていなくてもその現実を否定すれば自分自身を否定することになってしまうから「いや、これで上手くいってる!」と無理やりやってしまったりする。
 そこに上手く乗っかれば世襲だったり階級の固定化だったりに繋がるのかもしれない。あと不合理な指導法がやめられない一因になるとか。


 あと、これはついでの話だけど、この前久しぶりにカクヨムに新しくお話を書いてアップした。(愛子さま天皇に、芦田愛菜さんが首相になった経緯をまとめたハートウォーミングストーリー。)


AAゴールデンエイジ(OjohmbonX) - カクヨム


 その中でも少し似たような話に触れた。「自分が受けた教育を自分の子供にも施してしまう。そしてそれは自分自身を無意識に肯定しようとする振る舞いなのかもしれない」という話で、ちょうどこんなことを考えてたからついでに入れてみたのだった。


 ただそういう感情が無意識に働いてしまうこと自体は、いいとか悪いとかではなく仕方のないことだろうと思う。後はどれだけ自分で自分をきちんと疑って、その感情に流されて非合理なことをやっていないか、無理なことをしていないかを検証できるかという問題でしかない。自分を疑いつつ、相手を信じつつ、やってくしかないのかなと思ってる。

公明党が自民党と連立を組んでいく経緯

 この前、魚住昭野中広務 差別と権力』(講談社文庫)を読んでいたら、公明党自民党と連立を組んでいった経緯と、その中で野中広務が果たした役割について書かれていて、とても面白かったから忘れないうちにまとめ直しておこうと思って。
 公明党自民党と連立を組むのは1999年で、以降ずっと自民党と協力関係にある。85年生まれの自分にとって99年当時は13歳で、「自自公連立」「自公保連立」という言葉や、神崎代表の「そうはいかんざき」のCMとかは覚えていても、当時の背景や経緯まではよく知らなかった。


93年~00年の政局

 この話の前提として、93年に宮澤内閣で55年体制が崩壊、自民党が下野してから、96年に橋本内閣で自民党が総理総裁を再び出すまでの流れを頭に入れておかないとうまく理解できない。


【細川内閣】93.8.9~94.4.28(非自民・非共産の8党連立)
【羽田内閣】94.4.28~94.6.30(新党さきがけ社会党が抜けて7党連立)
【村山内閣】94.6.30~96.1.11(自社さ連立)
【橋本内閣】96.1.11~98.7.30(自社さ連立→自民単独)
小渕内閣】98.7.30~00.4.5(自民単独→自自連立→自自公連立→自公保連立)


 93年に宮澤内閣の不信任案が自民党内から造反者を多数出して可決され、解散を経て非自民の8党連立で細川内閣が成立する。経世会竹下派)から分離した小沢一郎羽田孜らが新生党を、派閥横断で若手・中堅議員を集めた武村正義鳩山由紀夫らが新党さきがけを結成し、自民党から離脱する。
 「佐川急便からの借り入れ問題」で細川首相が自民党の追求を受けて総辞職し、羽田内閣が成立する。政権運営のやり方、特に新進党 小沢一郎公明党 市川雄一の「一・一ライン」への反発が強く、社会党新党さきがけが連立を離脱した結果、衆議院で与党が過半数を維持できなくなり、2ヶ月で羽田内閣が総辞職する。細川内閣+羽田内閣の1年足らずで自民党政権に戻る。
 自民党55年体制でずっと最大野党だった社会党と連立を組み、社会党委員長の村山富市を首相に据える。しかし社会党自民党と組んで従来の方針を180°転換させたことで求心力を低下させる。その後、村山首相が突然退陣したことで自民党橋本龍太郎が首相になる。


 細川内閣の94年に選挙政治改革で中選挙区制から小選挙区比例代表並立)制への移行が決まっていた。(もともと海部内閣からずっと持ち越しになっていて、この政治改革法案の賛否が90年代の複雑な政局を生じさせる一要因になっていた。)小選挙区制では政党をまとめて2大政党制に向かわないと不利なので野党再編に向かう。自社さ政権で野党になっていた新生党公明党などが結集して94年12月に新進党ができる。
 「自民党新進党の2大政党」という流れでの埋没を恐れて、自民党と連立を組んでいた新党さきがけのほとんどと、社会党社民党)の約半数の議員が離脱して、96年9月に民主党ができる。直後の96年10月に初めて小選挙区比例代表並立制での衆院選が実施され、1位 自民党(239)、2位 新進党(156)、3位 民主党(52)という結果になる。新党さきがけ社民党は惨敗して連立から離脱する。
 自民党は単独で過半数を持っていなかったため、新進党への激しい引き抜き工作をして、97年7月には251議席に達して単独過半数を達成する。小沢一郎の求心力は低下し、97年12月に新進党は6党に分裂する。(小沢は自由党を結成する。)


 98年8月の参院選自民党が敗北したことでねじれ国会になる。(責任を取って橋本が退陣したため、小渕内閣になる。)ねじれ解消のため、自民は自由党と組んで自自連立となり、その後公明党とも連立を組んで自自公連立となる。自自公連立で公明党に比べて自由党の影響力が低下したことを嫌った小沢が連立離脱を進めるが、連立継続を望むグループが離党し保守党を結成したため、自公保連立となる。
 03年(小泉内閣時)に保守党は自民党に合流、自由党民主党に合流したことで、自民と民主の2大政党状態になっていく。それ以降は自公連立。


 というのが大まかな流れになっている。93~98年の5年間で政党の離合集散が激しく生じていたために分かりにくい。色んな政党が出てくるけれど、かなりはしょると↓になる。


 はしょらない図はウィキペディアとかにある↓
ファイル:1990年代の政党の離合集散.jpg - Wikipedia


自民党公明党を取り込む理由

 図だけを眺めていると、どうして公明党新進党とほとんど合流しながら再び分離したんだろうとか、新進党が分裂した時に自由党とくっつかずに、他の野党みたいに民主党へ合流することもせずに自民党とくっついたんだろうかとか、色んな疑問が湧いてくる。これは公明党が与党入りを望んだからそうしたというより(それもなくはないけど)、むしろ自民党公明党の取り込みに力を尽くした結果のようだ。


 96年から衆議院小選挙区制に移行した。小選挙区制では1vs1に持ち込まないと勝てないから、与党も野党も候補者を一本化させようとする。(だから選挙前になると「野党共闘」とか「選挙協力」とか言う。)公明党は全国の創価学会票を少なくとも600万票抱えていて、単純計算で300の小選挙区に各2万票以上を持っていることになる。どちらの候補に学会票がつくかで、ついた候補は+2万、逃した候補は-2万で、4万票の差がつくことになって当落が左右されることになるという。
 これが自民党公明党を取り込む理由になっている。


 自民党は野党時代も、また与党に復帰してからも、徹底した公明党創価学会叩きをやっていたが、一転して公明党を取り込んでいく。自民単独→自自連立→自自公連立→自公連立、と間に自由党を挟んでいるのは、自民党が学会バッシングをしていた経緯や、そもそも55年体制時の野党時代も含めて反自民の意識があったため、「いきなり自民と連立を組むのは(特に反自民色の強い)学会婦人部の反発が強いためワンクッションおいてくれ」という学会・公明党側の要望があったためだという。
 公明党自民党の協力関係を作り上げ、公明党と学会の対立も利用し、公明党新進党と完全合流するのを阻止し、最終的に公明党が与党入りする道筋を自民党が引いていくが、その中で大きな役割を果たした一人が野中広務で、最終的に公明党とのパイプを一手に握ることで自民党内部での絶大な権力を得ることになったという。


創価学会キャンペーン

 非自民の細川内閣では、自民党は「政教一致だ」という批判を展開した。「公明党は選挙のたびに全国の学会施設や電話をタダで使っている」「池田大作名誉会長が内閣成立前に大臣ポストを公明党が得たことを知っていた」といった反公明・反学会の攻撃を自民党は展開する。


 村山内閣で自民党は与党に復帰するが、95年は阪神大震災オウム事件が起こり、対応の遅れで内閣支持率が下がった結果、7月の参院選新進党の伸長を許す。(94年12月に公明党新進党に合流している。)学会の組織票に危機感を抱いた自民党ネガキャンをさらに強めていく。宗教法人法改正に絡んで池田大作の証人喚問を要求し、それは免れたものの、95年12月の国会(宗教法人等に関する特別委員会)で学会会長の秋谷栄之助参考人招致されてしまう。(もともと自治相・国家公安委員長野中広務が「オウム事件の捜査が宗教法人の壁に阻まれた。法改正の必要がある」と言い出したことで宗教法人法改正の話がスタートしている。)自民党の機関紙「自由新報」で池田大作レイプ事件の追求記事を連載したりもした。
 96年10月の衆院選では、「新進党創価学会党だ」「日本を特定の教団に支配させるな」というキャンペーンを展開した結果、自民党新進党に勝利する。


 98年に新進党が分裂すると、公明党の取り込みに舵を切り、自民党の反学会キャンペーンは終息する。
 この反学会キャンペーンでは亀井静香野中広務が先頭に立ち、学会からは「仏敵」と非難されている。『野中広務 差別と権力』でこんなエピソードが紹介されている。

 それにしても、なぜ学会はそれほど野中を恐れたのか。
「まあ、理由はいろいろありますが……」
 と言いよどんだ後で、岡本が例を挙げたのは学会発行の『聖教グラフ』に関することだった。聖教グラフには、池田と外国要人などとの会見場面を撮った写真がたびたび掲載された。
「写真のバックには学会施設にあるルノワールとかマチスとかいった有名画家の高価な絵が写っているんですが、野中さんがそれを創刊号から全部調べ上げて、学会が届け出ている資産リストと突き合わせた。その結果、届出のない絵がいろいろあることが分かったというのです。もちろん野中さんは直接そんなことを学会に言ってくるわけではない。何となく耳に入るので、秋谷会長は『野中は怖い、怖い』としきりに漏らすようになったんです」
 後に野中が自公連立政権作りを成し遂げた後、有力支持者の一人が「どうやって学会・公明党とのパイプをつくったんですか」と野中に聞いた。
 すると野中はこう答えたという。
「叩きに叩いたら、向こうからすり寄ってきたんや」

(pp.330-331)


 やってることがインテリジェンスというか、オシントそのものだ。


密会ビデオ

 96年3月の国会(橋本内閣)は、住専不良債権処理問題で紛糾していた。金融危機を回避するために6,850億円の税金を投入するという予算案に新進党が反対する中で、クリントン大統領の来日前に予算案を衆院通過させるために事態が切迫していった。その中で、東京都議、創価学会名誉会長・池田大作の側近で公明代表だった藤井富雄が、武闘派暴力団 後藤組組長の後藤忠政と密会しているビデオが出てくる。
 自民党側はそれを利用して新進党内の旧公明党系に揺さぶりをかけて、住専問題の取引材料にしていったという。(住専問題の新進党の強硬な反対に世論が反発して、その最中の参院補選で与党候補が圧勝したため新進党の強硬路線が緩んだ、といった背景もあるから、密会ビデオだけが要因ではないが。)


 学会と後藤組の関係はそれ以前の70年代からあって、富士宮市創価学会の広大な墓地が建設されることになって市議会が紛糾、自民党市議の会社が墓苑の開発を請け負ったが反対派との争いが激化し、最後まで妨害した人物の自宅に暴力団がブルドーザーで突っ込んで片腕を日本刀で切り落とすという事件まで起きた。この時の暴力団後藤組。(この辺は学会の元顧問弁護士・山崎正友が『懺悔の告発』で書いているとのこと。)
 80年代に入って、報酬を巡って学会と後藤組の関係がこじれ、新宿の創価文化会館に拳銃2発が打ち込まれて後藤組の組員が現行犯逮捕される事件も起きる。その前後に、藤井は右翼・暴力団による街宣車対策で、元警視総監の仲介で後藤組長と会い、一旦学会と組の関係が修復される。(後藤組創価学会との攻防については後藤忠政本人が『憚りながら』に書いているとのこと。)


 密会ビデオが出てきたのは95年12月頃で、もともと自民党の組織広報本部長として学会批判の先頭に立っていた関係で亀井静香が入手していた。ビデオの中で藤井は後藤組長に亀井らの名前を挙げて「この人達はためにならない」と語っていて、襲撃依頼とも受け取れる内容だったので亀井の警備が強化された。その警備強化を含めた対応を話し合う会議の時点では、野中広務はビデオの存在を知らされていなかったという。自民党参院議員・村上正邦の元側近の証言が『野中広務 差別と権力』で以下のように書かれている。

「でも、この会議のころは野中さんはビデオの件にはコミットしてません。逆に『野中にはバレないように気をつけろ。何をされるかわからないから』という話でした。ところがしばらくして村上が『えらいことだ。野中に嗅ぎつけられた』と騒ぎ出した。事情は詳しくわかりませんが、野中さんが亀井さんに『見たでえ』と言ったらしいんです。それからずいぶんたって村上が『野中が一仕事したみたいだな』と言ってました。『何ですか』と尋ねたら『あのビデオで信濃町(学会)をやったみたいだぞ』という返事でした」

(p.319)


 「見たでえ」って何だ。妖怪かよ。と思って読んでいて笑ってしまった。野中広務の風貌を思い出しながら、「見たでえ」と言う姿を浮かべるとイメージにぴったり過ぎて吹き出してしまう。


 自民党から密会ビデオを突きつけられた新進党は、衆院議員で旧公明党時代に国対委員長だった権藤恒夫を立てて、権藤・野中ラインで交渉していくことになる。こうした過程で、旧公明党のグループとのパイプを作っていく。


京都市議選

 住専国会で密会ビデオも利用しつつ旧公明党グループと交渉を進める一方で、野中広務は、国会の外でも創価学会そのものとパイプを作っていったという。
 そのきっかけが96年2月の京都市長選で、共産党推薦候補vs自民党新進党など5党相乗り候補の一騎打ちになっていたが、伝統的に共産党の強い京都で苦戦を強いられていた。創価学会も当初は中立を掲げていたが、野中が創価学会の関西長 西口良三と接触して支援を取り付ける。それでも投票日の午前中までは共産党がリードした情勢で、昼になって野中が西口に電話を入れて、西口から司令が出されて学会員が動員され、リードをひっくり返して5党相乗りの候補が競り勝った。野中は地元京都で、自民党の幹事長代理・選挙対策総局長としてのメンツを保つことができた。


 当時の学会には、新進党所属の旧公明党議員に対して不信感があった。特に公明党国対委員長から書記長になった市川雄一が、小沢一郎と接近して自民党を敵に回したことが、自民党の激しい反学会キャンペーンを招いて学会にダメージを与えたと考えられていた。これ以上自民党と敵対しないためにも、国会議員を通さず学会が直接自民党と手打ちしようとしたために、自民党野中広務と学会関西長の西口良三との間にパイプが出来上がった。
 こうした経緯を見ると、野中の「叩きに叩いたら、向こうからすり寄ってきたんや」という認識も、実態はどうあれ本人の感覚としてはそうなのかもしれない。


静音保持法

 「公明党新進党と合流した」とここまで書いてきたが、実は参議院は一部の議員だけを残して完全合流はしていなかった。新進党が立ち上がった時点(94年12月)で、公明党は組織として大きく、地方議会では自民党と連立を組んでいる議員も多かったこともあって、衆院議員の全部と95年に改選される参院議員が先行して新進党に加わった。この時、先行参加組を「公明新党」、後発参加組(参議院の11名)を「公明」という名前で分党して、公明新党は直後に新進党に合流して解散された。こうした経緯で参議院と地方議会は「公明」に属していた。この公明の代表が藤井富雄(東京都議、創価学会名誉会長・池田大作の側近)。


 学会としては公明党を消滅させるつもりでいた。
 『野中広務 差別と権力』では平野貞夫新進党参院議員で小沢一郎の側近)の証言が以下のように書かれている。

「そもそも新進党をなぜつくったかというと、これに公明党が協力したのは池田名誉会長の意思なんです。人を出してカネ使って政党をつくって、これだけ悪く言われるのは合わないと。政治が信教の自由というのを理解したから、もう公明党は要らない、創価大を出た者が自民党からも新進党からも国会議員になる、それでいいんだという彼の判断があったんです。政党を持ってることが面倒くさいという部分もあったんでしょう」

(p.337)


 実際、97年2月の党大会で公明は、残っていた参院議員11人も全員新進党に合流させる方針を出していた。しかしそこに待ったがかかったのが、「静音保持法」の存在だった。
 88年に成立したこの法律は「国会、外国公館、政党事務所周辺での拡声器使用を規制する」というものだった。これは消費税法案の審議に公明党が応じる代わりに自民党が差し出した法律だった。学会本部や池田大作の自宅周辺での右翼の街宣活動にそれまで悩まされていたが、どちらも公明党本部の周辺にあったためこの法律が施行されると街宣活動がやんだ。
 この法律上の「政党事務所」の要件は「衆院議員か参院議員が所属すること」なので、実は公明の参院議員11人が全員新進党に合流して公明が消滅してしまうと、公明党本部は政党事務所ではなくなってしまうため池田大作の自宅への街宣が再開されてしまう。公明党執行部の10年間の世代交代で静音保持法の存在とその制約が忘れ去られていたために、全員合流で進んでいたが、このことを覚えていたのが自民党野中広務だった。
 野中広務から学会関西長の西口良三の耳にこの話が入ったことで学会側からストップがかかる。「新進党に全面参加するか、池田会長宅の静音を守るか」という二択に陥って結局、池田会長宅の静音を選んで、公明代表の藤井富雄は97年11月に「来夏の参院選新進党に合流しない。公明として戦う」と宣言する。


 新進党に残された旧公明党系の衆院議員に関して、新進党党首の小沢一郎は学会会長の秋谷栄之助と会談して「新進党を解体し、反小沢を排除して新党を作る。旧公明党系の衆院議員のうち、反小沢の神崎武法ら約10人を除いた約30人は新党(自由党)に合流する」という内容で合意を取った。しかし無所属にされ無力化されると知った神埼らが「旧公明党系の衆院議員はまとめて新進党を出て新党を結成する」と宣言して「新党平和」が結成され、結局反小沢以外も自由党には参加せず新党平和に加わった。
 こうして最終的に、衆議院新党平和参議院の公明が再合流して公明党が復活(98年11月)し、神崎武法が代表になる。


 実は90年代半ばの時点で、公明党は消滅する方向で話が進んでいたというのは、「自公連立」が当たり前になっている現状からすると意外な話かもしれない。


地域振興券

 98年秋の特別国会はバブル崩壊金融危機に対する金融再生法関連の成立を巡るものだったが、直前の参院選自民党過半数を割ってねじれ国会になっていたこともあって、審議が膠着状態に陥ってしまった。
 その中で野中広務は公明代表の藤井に接触して旧公明党衆院新党平和参院の公明)の協力を要請するが、公明党側からは「地域振興券を代わりに実現したい」と要求される。これは以前から公明党が主張していた政策だったが、自民党内からも経済界からも「意味がない」という反対意見が多かった。しかし野中はそれを呑み、公明党の協力で重要法案を通すことができ、その後に地域振興券もちゃんと実現したことで、野中-藤井の信頼関係が構築されていった。

 政府が十五歳以下の子供がいる家庭に配布した地域振興券の総額は約七千億円。野中は実施が決まった後、派閥の若手議員たちとの会合でこう言ったという。
「天下の愚策かもしれないが、七千億円の国会対策費だと思って我慢してほしい」

(p.347)


 配布対象の「15歳以下の子供」に該当したので当時私ももらった。何に使ったのかは忘れたけど。地域振興券小渕内閣の時に出てきたことだけは覚えていたけど、そういう経緯だったのは全然知らなかったので、なんか20年も経って(ああ、あれってそういうことだったの!)と今さら知るのは変な感じがした。


3つのパイプ

 もともと創価学会は中央勢と関西勢の両方が競合しながら池田大作名誉会長を支え合う構図があったという。中央勢のトップが秋谷栄之助会長で、野中広務自民党加藤紘一(当時の宏池会会長)の手引きで会っている。関西勢のトップ西口良三関西長とは先述の通り京都市議選を通じてパイプを構築している。また池田の側近だった藤井富雄公明代表とも地域振興券などで信頼関係を築いている。
 こうして野中広務池田大作に通じる3つのパイプを手中にして、自公連立への道筋をつけていったし、自民党内での権力構築を果たしたという。


 学会への表立ったネガキャンが終わった後も、様々な弱点を探し当てて、お互いの利害を調整しながら、一時は消滅する方向にあった公明党を蘇らせて最終的に連立に組み込んでいった。






 自公の協力関係が今年でちょうど20年になる。20年も経ってしまうとそれが「当たり前」みたいになってきて、「それ以前」がどうだったかとか、「それ以前」と「今」の間の過渡期がどういうものだったのかは見えにくくなってしまう。そのあたりが、野中広務という人物を軸に背景も含めて見られて面白かった。(この本自体、出版されてもう15年になる。)
 自民党にとっては小選挙区制下で巨大な組織票を持つ公明党を敵に回した時の苦い記憶が埋め込まれているし、公明党にとっては自民党を敵に回した時に徹底的に反学会で世間からも叩かれた恐怖が残っているから、20年間くっついていられるのかもしれない。


 以前、自民党の派閥(主に経世会・清和会・宏池会)がどのような流れになっているのか整理してみたいと思って↓を書いたことがあった。
自民党の派閥のおおまかな流れ - やしお
 この時、自民党が90年代に下野していた期間は、政党が乱立したり合流したりが激しくてよく分からなくて放っておいたのだった。そのあたりが改めて整理できて間が埋まったので良かった。何が良かったのかよくわからないけど。


 この本自体はそこだけじゃなくて、野中広務という人の一生を通じて、京都の被差別部落に生まれてどのような差別を受けながら、その壁を這い上がって町議、町長、府議、副知事になり、58歳で国会議員になった後、権力の中枢に居場所を確保していったのかという話で、別に野中広務を礼賛する本ではなくて、その功罪や凄さと限界をニュートラルに描いている。「こういう人生・事例が存在した」という記録としてすごく面白かった。


野中広務 差別と権力 (講談社文庫)

野中広務 差別と権力 (講談社文庫)