やしお

ふつうの会社員の日記です。

高卒新人に資産運用を説明する

 今年入社の高卒の新人と雑談していて「会社の確定拠出年金のこととか何を選ぶのがいいとか分からない」という。集合研修でも制度そのものの解説はあったけどよく分からず、学校でも習わなかったので、漠然としか分からないと言っていた。
 それで「自分はこういう理解で、こうしている」を整理して伝えることにしたのでそのメモ。結論としては「長期でインデックス投信」なのだけど、そこに至るバックグラウンド等も含めて説明したいと思った。


前提

  • そもそも趣味や仕事に注力したいので、株や不動産を一生懸命やりたいとは全く思っていない。
  • 自分は普通の会社員で、その道のプロ(銀行員や証券マンやファイナンシャルプランナー)ではない。
  • 大損は絶対に嫌だし、時間を遣いたくない。株の勉強とかもしたくない。

 

経済システム

  • 現在は「産業資本主義」というOSで世の中が運用されている。
  • このシステムでは「富の総量が時間の経過で増えていく(右肩上がり)」ことが数学的モデルで証明されているとのこと。
  • 例えば「株価」という指標で見ても実際にそうなっている。
  • 「長期的にはゆるやかにインフレする(物価や賃金水準が上がる)」のもその一環。
  • 「右肩上がり」は、時間軸を大きく取る(グラフを遠くから見る、100~200年くらい)とそうなっている。
  • しかしグラフを拡大して見る(時間軸数年)とギザギザ上下に変動していて必ずしも「右肩上がり」にならない。
  • 下のグラフ(一番上)は米国の株式市場(S&P500)の150年間のグラフ。縦軸が対数軸なので「右肩上がり」というより「指数関数的に増えている」。そのうち一部期間を取り出すと(中と下:こちらは対数目盛ではない)「右肩上がり」にはなっていない。

  • 時間軸だけでなく空間的にも、全体でなく個別で見るとギザギザしている。
  • 株価を全体の平均ではなく、会社個別で見ると長期で見ても右肩上がりには必ずしもならない。(会社の業績が悪化したり業界が沈めば株価も落ちる。)
  • 物価や賃金も、国や地域別に見れば右肩上がりに必ずしもならない。(米国は上がっているが日本は横ばいなど。)

 

時間軸 - 短期/長期

  • ものを安く買って高く売ると、その差額が利益になる。
  • 株式の投資は、短期と長期に大別される。
  • 「グラフを拡大する(=短期で見る)とギザギザ」で、このギザギザの谷で買って山で売るのが短期の投資。
  • 「グラフを縮小する(=長期で見る)と右肩上がり」で、この左(過去)で買って右(未来)で売るのが長期の投資。

 

空間軸 - 個別/平均

  • 企業個別の株式(や債券)の売買に対して、市場全体(≒インデックス)に対する売買もある。
  • インデックス:株価指数。代表的な企業の株価を合算して、市場の動きを数値化したもの。「株価の平均値」みたいなイメージ。日本だと日経平均TOPIXアメリカだとダウ平均やNASDAQ、S&P500など。

 

投資のスタイル

  • 時間軸(短期/長期)と空間軸(個別/全体)で4象限できる。


  • ①短期+個別:「株で稼ぐ人」のイメージ。時間が日単位だとデイトレードになる。企業や業界、世界的な情勢などを具体的にチェックして生き馬の目を抜く営み。忙しいし勉強しないといけない。
  • ②長期+個別:成長が見込まれる企業、有望な割に評価(株価)が低い企業を探してきて、長い期間保有する。これも個別の企業調査が必要なので手間がかかる。
  • ③短期+全体:相場急落時に「平均株価の値動きの2倍で連動する金融商品」などを買うとかだろうか。
  • ④長期+全体:「時間・空間で平均すると右肩上がりになる」を利用して資産を増やすスタイル。

 

株のギャンブル性

  • 「投資をやる」と聞くと「ギャンブルだ」「素人がやってもカモにされる」といったイメージがある。
  • 「ギャンブル的である」=「誰かが損した分誰かが得する(ゼロサムゲーム)」のはグラフを近くで見た場合(短期)の①や③に該当する。
  • ④の「長期(時間的な平均)で世界市場の平均(空間的な平均)に対して投資」は、グラフが右肩上がりなのでゼロサムではなくプラスサムになる。
  • ④は「誰かの損で自分が得しよう」というより「みんなで得を薄く分け合う」となる。世界全体の成長に、自分の資産を多少貢献させて、その分け前をもらう。
  • ただし人間の人生が短すぎる(十分にグラフを遠くから見られない)ので、取り出すタイミングでたまたま低くなっている(世界的な大不況が起きるなど)と、損する場合もゼロじゃなく、リスクゼロではない。
  • 時空間を広く取るとリスクとリターンが下がり、狭くすると上がってギャンブル性が増す、という関係にある。

 

世界平均と連動させる意味

  • 逆に世界平均の成長率を基準にして見ると、運用しなかった資産は「目減りしていく」ことになる。
  • 緩やかなインフレで物価が上昇すれば、同じ額で変わらないままの資産は、相対的に価値が下がることになる。
  • 世界平均に連動するように運用するのは、「資産を増やす」というより「マイナスにならないようにしている」だけとも言える。

 

基本スタイル

  • 「大損したくない(大儲けも望まない)」「投資で自分の時間を費やしたくない」前提からすると、4象限のうち「④長期+全体」のスタイルになる。
  • ①②の個別株は、資産形成ではなく趣味と割り切ってやるのが良い。安全な範囲でギャンブルを楽しみたい、よほど好きな会社がある、株主優待が欲しい、など。

 

長期・積立・分散

  • よく「長期・積立・分散」が資産運用の3原則と言われる。3つとも「平滑化する」を意味する。
  • 長期→「グラフを遠くから眺めると右肩上がり」のこと。
  • 積立→「グラフを近くで見るとギザギザしている」ので、たまたま買ったタイミングが高いと損する。積立=「毎月買い続ける」なら「偶然高い/安いタイミング」が平均化される。
  • なお「積立」は逆に売る時も「たまたま安い時に売ると損」を平均化するために、「ちょっとずつ売る」が必要になる。
  • 分散→「日本は下がったがアメリカは上がった」とか「株価は下がったが債券は上がった」とかに対して、異なる種類のものを保有して平均化する。
  • 長期・積立は時間軸上での平均化、分散は空間軸上での平均化にあたる。

 

複利

  • 投資で上手くいくと、投資したお金×利率=運用益が手に入る。
  • 単利:運用益を取り出す。元金が変わらないので毎年同じ運用益になる。
  • 複利:運用益を元金に加えて次の投資に回す。元金が増えるので次の運用益はもっと大きくなる。これを繰り返すので雪だるま式に増える。
  • 金融商品の中で「毎月配当型」とうたうものがあるが、これは「運用益を取り出す」(もっと悪いと元金を取り崩す)に相当するので、複利の効果は得られない。
  • 「100万円を年利5%で10年間運用」だと、単利は150万円、複利は約163万円となり、複利の方が13万円多くなる。あるいは「年利5%でお金が2倍になるのにかかる期間」で言うと、単利は20年、複利は14年強。
  • 「長期で投資」は、この複利効果を得るということでもある。
  • 逆に払う立場で複利の恐ろしさを味わうのがクレジットカードのリボ払い。
  • 利息に対して利息がかかっていくため、元金に対して返済額がどんどん膨らむ。小額の定額でしか払わないため元金が減りづらい上、本人は気付きづらい。地獄の発明。
  • しかしキャッシングやリボ払いで損する人のおかげで、クレジットカードを会費タダで使えてポイントを貰えている。不公平な世界。フールプルーフではなくフールペナルティ的な仕組みになっている。

 

投資の種類

  • 預金:銀行や郵便局にお金を預けると利息がもらえる。ほぼゼロリスク・ゼロリターン(現在はゼロ金利)。
  • 債券:借金の証書(カタ)。国債なら日本国の借金の証書。期日になると元本+利息がもらえる。
  • 株式:企業の株を買うと、配当や株主優待がもらえる。購入時より売却時の方が高値なら利益が得られ、逆なら損する。
  • 不動産:大家になって家賃収入を得る。初期費用が高くハードルが高い。空室になった時の精神疲労が大きい。
  • リスクの大きさ(≒リターンの大きさ)はおおよそ、預金<債券<株式<不動産 の順。
  • 投資信託:「投信」「ファンド」とも呼ぶ。広くみんなから集めたお金をプロが株式・債券・不動産などに投資して運用→その利益の一部を貰える。
  • 株や債券、投資信託は証券会社や銀行を通じて売買できる。

 

投資信託

  • 初期費用が安い(100円~)一方、プロが運用してくれる分の手数料がかかる。
  • 株に会社ごとの「銘柄」があるように、投資信託にも色々な種類(銘柄)がある。
  • 投資信託の銘柄には、投資の対象(株式・債券・不動産など)、対象国(先進国・新興国など)、プロが関与する度合い(アクティブ・パッシブなど)の違いで色々な種類がある。
  • 銘柄の表には「債券/株式」「国内/海外」「パッシブ/アクティブ」などの分類が書かれている。
  • インデックスファンド:インデックスに連動するように組まれた投信。プロの関与が小さく手数料が安い。
  • 「④長期+全体」の中で「全体(市場全体に投資)」をやるにはインデックスファンドを利用するのが便利で手間がない。
  • インデックスファンドでも「パッシブ」は純粋にインデックス(指標)に連動するように運用されて手数料が安く、「アクティブ」は運用成績が上がるようにプロが手心を加えていて手数料がパッシブより高い。
  • ただしアクティブの方がパッシブより運用成績がいいとは限らない。プロでも「世界全体の平均」に勝てないことはよくある。

 

銀行と証券会社

  • 預金するには銀行口座が必要なように、株などに投資するには証券会社で証券口座を開く必要がある。
  • 証券会社には店舗があって対面でやり取りできる会社と、インターネット経由のみの会社がある。ネット証券は手数料が安く、営業時間に縛られない利点がある。
  • 銀行でも「投資信託口座」を開けば、投資信託だけ売買できる。

 

税金・枠組み

  • 投資で利益が出ると、税金を払わないといけない。
  • しかし大した金額でない個人は無課税にする(もしくは所得税を下げる)という制度がいくつかある。
  • 一般人の投資のハードルを下げてお金が市場に回るようにしたいとか、国が年金を十分払えないので国民に自力で用意してもらいたいとか、事務作業の簡略化などの理由。
  • そうした制度としてNISAや確定拠出年金がある。

 

NISA

  • NISA=少額投資非課税制度。売却益・配当が非課税になるが、投資枠には上限がある。
  • 証券会社や銀行で「NISA口座」の開設が必要。
  • 一般NISA、つみたてNISA、ジュニアNISAといった種類があり、投資枠の大きさや対象期間などに違いがある。

 

確定拠出年金

  • 年金制度:3階建てで構成される。1階:国民年金(国民全員が入る)。2階:厚生年金(会社員や公務員が入る)
  • 3階部分には確定拠出年金、企業の確定給付型年金などがある。
  • 確定拠出年金:「Defined Contribution Plan」の略でDCとも呼ぶ。定期的に(毎月とか)お金を拠出し、本人が何に投資するか選んで運用する。
  • 企業型DC:企業が掛金を支払う。
  • 個人型DC(iDeCo):個人が掛金を支払う。
  • 60歳になる/障害者になる/死ぬと取り出せる。
  • 掛金は全額が所得控除の対象で、運用益も全額が非課税。
  • なので「毎月の掛金をどれくらい設定するか」は、「お金の自由度は減るが税金を減らせる」⇔「税金はそのままだが自由度も維持できる」のトレードオフになってくる。
  • 「企業型DCに入っている人はiDeCoに加入できない」という制限があったが、22年10月から併用可能になる。
  • この辺の制度は(NISAその他含め)年々追加されたりルールが変わったり、自分の状況変化(会社員じゃなくなったとか)時の手続きが複雑だったり、把握するのが本当に面倒くさい。こういうことに時間を費やしたくない。

 

保険

  • 保険には大別して「貯蓄型(積立型)」と「掛け捨て型」がある。
  • 貯蓄型は一種の金融資産。毎月積み立てて(病気や怪我せず)満期になるとお金が返ってくる。保険会社が運用する分多く戻ってくるが、手数料は当然引かれて利率は低い。自分で運用できるならあまり入る意味はない。
  • 保険は「自分が不幸になると勝つギャンブル」で、ギャンブルである以上は胴元(保険会社)が必ず得するようにできている。
  • 生命保険会社の商品は種類が豊富で、一見お得そうなものもあるが、加入者が「得する」ということは基本ない。
  • 自分の預金で不測の事態をカバーできるなら、保険はほどほどでいい。自分が死んで経済的に困る人(子供とか)がいなければ、死亡保障を手厚くする必要もない。
  • 保険会社の他に共済もある。こくみん共済(全労済)、県民共済など。保険会社と異なり非営利目的で掛け金がかなり安い。あと商品構成がシンプル(種類が少ないとも言える)。
  • ちなみに「人を怪我させたり人の物を壊して損害賠償を払う場合」に使える個人賠償責任保険は入った方がいいと思う。「自転車で高齢者と衝突・相手が植物状態になってしまい賠償金1億円」みたいな事例もあるし。こくみん共済だと+140円/月でつけられる。

 

ポートフォリオ

  • 自分の資産全体の中で、どの種類の金融資産をどのくらいの割合で持つか(円グラフ)の組み立てをポートフォリオと呼ぶ。
  • エアコンが急に壊れたり交通事故にあったり、まとまったお金をすぐ動かせないと困る場合がある。
  • その「いざという時に必要な金額」は「両親が現役で働いていて実家暮らし」とかなら少なくなるし、「家族全員を自分一人の収入で支えている」とかなら多くなる。
  • その「いざ」分は預金として確保し、残りの資産で運用を考えることになる。
  • とりあえず預金が100万円超えたら、リスクのある運用を少しずつ始めるくらいでいいのかも。

 

株と債券

  • 株価と債券価格には負の相関関係がある。一方が上がると、他方が下がる傾向がある。
  • 理由①:景気が悪いと株価は下がる。一方で景気悪化すると金融緩和政策が取られて金利が下がるので、発行済み債券の利率が相対的に高くなって買われて債券価格が上がる。
  • 理由②:株価が下がると運用益が減る→利回り固定の債券の方が魅力的になるので「株を売って債券を買う」動きが進み債券価格が上がる。
  • ポートフォリオを組む際に、株と債券を組み合わせると、株価が下がった場合のリスク回避になり得る。

 

年齢との兼ね合い

  • 若いうちは今後結婚するか、子供を持つか、早死するか、途中で退職するか、親の介護があるか等々、未来の不確定要素が多い。
  • 「若いうちにお金を遣う量」と「老後にお金を回す量」の振り分けの判断が若いうちは難しい。
  • 確定拠出年金は税金の面で得でも、60歳になるか障害を負うか死ぬかしないと取り出せないので、若いうちに額を増やす判断は難しいかもしれない。
  • ただどうせ掛金最大でも大した額ではないので、自由なお金(預金など)が一定額溜まったら、最大で入れてもいいかもしれない。
  • 老後の稼げない時期にリスクの高い投資で資産を減らすのは困るので、基本的に年を取るにつれてローリスクな資産の割合を増やしていくことになる。

 

個人的な状況

  • 「面倒くさいのは嫌だ」「世界市場と連動させる」という方針でやっている。
  • NISA(+特定口座)と企業型DCだけやっている。どちらもインデックスファンド(パッシブ)のみで、およそ日本株3割:海外株7割という比率。(日本が世界全体の3割もないけど。)
  • 数年前から国内・海外の債券インデックスファンドも少し入れている。年を取ってきたので。
  • 海外は株式・債券ともに為替ヘッジなしの商品を選んでいる。平均的にはそちらの方が有利かしらと思い。
  • NISAは約8年間で年利5%程度で+300万円くらい、企業型DCは約13年間で7.5%程度で+500万円くらい。元本に対しては倍くらいになっている。
  • 預金の割合は5割以上で(気付いたらそうなっていた)、もう少し投資の割合を増やしても良かったのかもしれない。
  • 保険は金融資産になるようなものは入っていない。就職前からずっとこくみん共済(全労済)で掛け捨てだけ。3000円/月。

 

  • 就職する前、20歳の時(2006年)に橘玲『臆病者のための株入門』が出版されたのを読んで、「長期・全体で見れば右肩上がりの世界全体とリンクさせる」という基本的な考え方を知ってなるほどと思った。今読んでも基本的なことは変わらないかと思う。それ以降は投資や資産運用の本は特に読んでいない。
  • 仮に運用成績が悪くても、「自分のやり方が悪くて損した」ではなく「世界がそうなっただけ」と思えるので精神衛生に良い。
  • 就職して6年後、NISAの制度がスタートした2014年から投信を始めた。
  • お金のかかる趣味はなく預金が溜まっていたので、そろそろ運用した方がいいのかもと思っていた時期に制度が始まったのでやってみた、という感じ。
  • 企業型DCは入社時点で導入されていたのでやっていた。最初は将来どうなるかも分からないので掛金を抑えていたが、徐々に増やして現在は最大にしている。
  • 頻繁に見るのは面倒なので、年に1回だけ棚卸しをしているが、大きな見直しはしていない。

 

個人的な価値観

  • 以下は職場の新人には言わないし投資/資産運用とは関係ないけど、書いていて思ったことのメモ。
  • 「お金のかかる趣味がなくて預金が溜まった」のは嘘ではないけど、それより「贅沢するのに罪悪感があった」の理由が大きかったかもしれない。
  • 学生の時に家計に余裕がなく、父親は新聞配達とガソリンスタンドの掛け持ちで、母親は回転すし屋のパートで、学費は全額免除だったけどギリギリの生活だった。(自分もバイト代を多少家には入れていた。)
  • それが就職して大手メーカーに入った途端、苦しみもなく十分過ぎるお金が貰えるようになって(なんだこれは?)と思った。
  • 親が質素に暮らしている中で自分自身にお金を遣うことに抵抗があった。
  • 両親も亡くなって数年が経って、そういう気持ちが多少薄らいだ。時間を潰すのにカフェに入るとか、短時間でもドリンクバーを頼めるとか、旅行に行ったり自宅を快適にするために家電を買ったりするのに、あまり躊躇せずに済むようになってきた。
  • 両親が共に60代前半で亡くなったのはそれぞれ相当なショックを受けたが、一方で介護の心配をせずに済んでほっとしている気持ちがあるのも事実だった。
  • あと「お金を消費して経済を回すべし」とはよく言われるが、あくまで産業資本主義の体系の中で考えるとそうなる、というだけの話で、より広い(外部の)系から見て必ずしも是ではない。
  • その辺りの感情については以前↓でもう少し詳しく書いた。

  映画『家族を想うとき』が冷静に見られなかった - やしお
 

  • 国内や海外の生活困窮者を支援している複数のNPO法人に毎年寄付している。これもその罪悪感と関連しているのかもしれない。
  • もっと寄付の額を増やすべきかと思いながら、老後の資金がどれくらい必要かも分からない、お金の心配を常にするような昔の生活に戻るのが怖いという気持ちもある。結局は自分本位だなと思うところはある。
  • 現時点では子供を持つ予定がなく、子育てにかかる費用はない。
  • しかしこの社会や自分の(とりわけ老後の)生活は、今の子供達・将来の現役世代に支えてもらうことになる以上、「自分の意思で子供を持った親達が自力で育てろ」と押し付けるのは筋が通らない。
  • 公的年金が積立てではなく現役世代によって支えられているのもその一例である。
  • 人間の再生産が一種の「社会インフラ」である以上、「子供を持つことは大金のかかる趣味」にならないよう、本来は国家が税の使途や控除を通じて調整すべき話だとは思うが、その調整が十分には見えない。(それが少子化の一因にもなっている。)
  • 子供を持たない私が「育児趣味論」で自己を正当化するのはフリーライドであって、また国家の調整が十分でないのなら、そのあたりをフォローするNPOへ寄付するなどした方がいいのではないか。
  • と書いていて思ったので、一人親家庭支援、子供食堂支援、子供の教育支援をしているNPO法人3つにそれぞれ寄付した。今後は従来の寄付先とあわせて続けていこうと思う。(実際にそうした活動をしている人達には頭が下がる思い。)
  • 認定NPO法人への寄付金は、所得税・住民税が控除されて半額近くが戻ってくる。これは「一部の税金の使途を、個人が自ら設定できる」ということになっている。

 

高卒新人に伝えるということ

 基本的には同僚に、業務外のことをあれこれ教え込もうとするのは(よほど本人が望んでいるのでなければ)「余計なお世話」なのでやらない。
 ただ高卒の新人を職場に受け入れるというのは、単に「業務をできるようになってもらう」だけではダメなのではないか。高等教育の代わりも一定程度果たして、いつか会社を辞めることになってもそれなりに大丈夫なようにするのは、一種の義務なんじゃないかと感じている。
 高卒の人は、高等教育を受ける4~6年間分を相対的に安い給料で働いてもらっている。もちろん高専~大学院の人はその間、学費を払って能力を向上させているので、入社時点での給料がその分高くないと成り立たないのはその通りでも、社内で一人が稼ぐ/貢献する金額差は給与格差ほど大きくないため、やっぱり高卒の人は「安い金額で働いてくれてる」ということになる。
 その会社に貢献してくれている分(差額)は、会社側が教育などの形で還元させなければ辻褄が合わないはずだという理解でいる。


 とりわけ老後資金の自力での準備は、公的年金制度の将来的な縮小/受給年齢の後ろ倒しが確実な中で、より必要性が高まってくる。(それでNISAだのiDeCoだの拡充されている。)今35歳の私より、18歳の高卒新人の方がより切実に必要な知識になってくるはずだ。
 プロでも何でもない自分が、しかも業務と直結しないことを同僚に「教える」のは、おこがましく恥ずかしいので嫌だけど、上記の認識から「本人が自分で勉強すればいい」で済ませるのもどうかと思って、整理して伝えることにした。

たった211ヶ月でTOEICスコア500アップ

 よく「3か月でTOEIC 〇〇点アップ」といった広告を見かける。羨ましいけど自分は残念ながら短期間での華々しいスコアアップは全然なくて、17年もだらだらかけて結果的に500点強上がって900を超えた。長すぎる。長すぎるけれど、めちゃくちゃ頑張れるわけじゃないほとんどの人にとっては、そんなもんかもしれないとも思っている。
 普遍的な学習体系にはなり得ないけど、個人的なメモを残しておこうと思って。


TOEIC スコアと実力

 初めての受験が2004年1月(18歳)で425、最近の受験が2021年8月(35歳)で960だった。それ以前の受験結果や模試の結果を考えると、「960」はマークシートの運で上振れした結果で、実力は900前半程度だと思っている。


 最初の400点台の頃は試験が本当に苦痛だった。ほぼ何言ってるか分からん話を2時間集中して聞く・読むのは苦しみでしかない。たまに分かる言葉の意味をつなぎ合わせて架空のストーリーを想像して解答する営み。今は9割分かるくらいで、疲れはしても苦しくはない。改めて振り返ると随分できるようになったとは思う。


 学生の頃は「900以上」に漠然としたあこがれがあった。いつか取れるようになれたらと思っていたのが実際に取れてみると、嬉しいというより不思議な気持ちになった。
 きっと不自由なく英語が使えるんだと曖昧に想像していたけれど、実際に来てみると程遠かった。完全に字幕に頼らずに映画を見るのは難しいし、自動翻訳を参照したりするし、喋れば語彙も文法もかなり制限される。「母国語との能力差」を痛感する。
 よく「900超えてスタート地点」と言われるが、本当にその通りだと思う。「何とか実用に堪えるレベル」「大きな苦痛を感じなくなるレベル」がこの辺だった。母国語との力量差がはっきり分かる、「自分は分かってないんだと分かるようになる」(無知の知)がこの水準なのかもしれない。


動機

 17年もやっているとモチベーションや動機にも変遷があった。
 ただ「漠然としたあこがれ」、英語できるのかっこいい、羨ましいみたいな気持ちは、バックグラウンドではあまり変わらない。それからもっとプリミティブな、母国語ではない言語を使う気持ち良さ、自分じゃない自分になる感覚の快楽、みたいなものもある。それはドイツ語や中国語を少しやった時もそうだった。


 学生の時はそもそも進級・進学に必要なのでやっていた。
 高専4年次に強制受験したのがTOEICの最初だった。スコア425はさして優秀ではないが、当時の「英語が得意とは言えない高専生学年全員」の中だと相対的にいい点数だった。同級生に「すごいね」と言われると「すごいんだ」と思うようになる。井の中の蛙大海を知らずそのものだとしても、学生は自尊心の基礎工事が脆弱なので、「できる自分」のイメージにしがみつこうとして頑張る。そのおかげで「進級に必要な程度」以上に勉強する動機になった。


 就職前の時点(最初の受験から3年後)で715だった。これも取り立てて優秀ではないけれど、10年以上前のメーカーの製造よりの職場では相対的に「英語ができる人」扱いになった。そういう設定ができると、それを崩さないように頑張ろうと動機になり得た。
 「英語ができる人」の設定でいると英語が必要そうな仕事が回ってきたりする。海外の外注先を担当したり出張したりした。そうすると現実問題としてもう少しできないと困るという動機が発生して、バーチャルだった動機が現実的になってきた。


ほどほどに頑張れるけど、すごくは頑張れない

 そもそも興味の第1位は、生きてきた期間を通してほとんど英語学習ではない。「17年」と言っても、英語学習を何もしていない期間も多い。切迫感のない薄い動機しかないのでしょうがない。
 語学学習は一定期間に高い圧力をかけてやるのが効果的かと思う。外務省の語学研修・在外研修や、海外の大学・大学院在学など、大きな必要性に迫られながら高い水準を要求される状態で数年間過ごすのが良いと思う。しかし興味も必要性もそこまでない人間は、ぼちぼちやるほかない。


 ふと意欲が湧いて新しい教材や学習に取り組んでも、毎日数時間費やしたり数年続けたりはできない。しかし三日坊主にもならず、3ヶ月くらいは継続できる。「自分がやれる程度はそのくらい」が経験的に分かったのは、英語学習を続けてよかったことの一つかもしれない。「そこそこ努力できる、でもめちゃくちゃは努力できない」という自分の程度がよく分かった。
 自分が頑張れる程度が分かると、勉強の見積りができる。


学習:TOEIC

 「TOEICのスコアを上げる」だけが目的なら、模試を数多く丁寧に解くのが結局は一番効果的だった。他のどんな試験でも同じだと思う。
 回答時間を気にせず、一問を何度も聞き直し/読み直して真剣に考えた上で回答を選んで、それから解説を読んで納得する、という作業を繰り返す。本来のスピード通りにやるのは、試験直前に数回分模試を解いて時間間隔を思い出すくらい。本番の慌ただしい作業スピードでやるより、普段は丁寧にやった方が結果的にはスピードを上げても対応できるようになる気がしている。
 今は模試を多く収録したスマホ用アプリもあり、「環境を用意する(机にノートや問題集を広げる)」ハードルもなくなってありがたい。
 ただしこれは「基礎的な文法と語彙が身についていること」が前提になっている。解説を読んで意味がわからないのは、模試による学習が可能な水準にない。


 TOEICは英語能力総体に対して、極めて限定的な範囲しか見ていない。シチュエーションひとつ取っても、「旅行中の家族」「恋人の愚痴を言い合う友人」「激しく非難し合うヤクザ」などは出てこない。文化依存的な慣用句もネットミームも出てこない。TOEICで高スコアが取れても、映画やドラマが字幕なしで見られるようにはならないのは、こうしたスコープの違いにもよる。
 ただ「国際的な意思伝達のための英語の試験」(Test of English for International Communication)の名前には忠実な気がしている。「必ずしも英語を母国語とするわけではない人(例えばアジア人)同士で、何とか意思を伝えるための言語能力」という目的に対しては、TOEIC用の勉強も割と有効ではないかと感じている。


学習:現在

 週2でフィリピンにいる先生とオンラインで30~60分英語でお喋りするのと、平日の会社往復の計40分徒歩の時間や入浴中にNHK Worldのポッドキャストのニュースを聞くくらいしか今はしていない。
 英会話の前後に予復習したり、ポッドキャストシャドーイングまでしっかりやれば学習効果が上がると知っていても、ハードルが上がったり面倒臭さが出てくると絶対に続かないとも知っているのでしょうがない。能力の維持には役立っているが、向上にはなっていないという実感がある。


 フィリピンの先生は、お互いの暮らしなどの雑談をしているだけで、むしろ相手の状況や生活そのものへの興味によって持続できている。
 PCもスマホも持ってるし、映画なんかも同じものを見ていて話ができたりする一方で、冷蔵庫も電子レンジも使ったことがなく、散髪も数十円だと聞くと、同時代に生きていても大きく異なる暮らしがあるんだとつくづく思う。
 それで英語学習というより、フィリピンの歴史や暮らしや文化への興味が高まって↓のエントリを書いたりもしたのだった。
  フィリピンの事情あれこれ - やしお


 NHK Worldは日本のニュースの割合も多く、背景がある程度分かっている話なので聞きやすい。あと例えば「緊急事態宣言」とか「内閣官房長官」とか英語でそういう言い方するのねと思ってちょっと面白い。福島第一原発の状況も、国内のニュースで見かけなくなった後もかなり長いこと伝えていて、国内外の関心のズレも少し見えたりすることがある。相撲も本場所中はたまに結果が紹介されて、実況で他の力士は四股名そのままなのになぜか翔猿関だけ「トビザル、フライングモンキー」と呼ばれていて謎だった。
 ニュース自体がコンテンツとして関心を持続させやすい上に、そうしたあたりが関心のプラスに働いて、続けやすいと感じている。


学習:以前

 長くやっている中で、その時自分に不足していると感じたものを行き当りばったりにやったりやめたりしていた。結局は「英語上達完全マップ」を参考にしてやればいいんだと思う。
  英語上達完全マップ


 言語の学習は「近道がない代わりに無駄足は存在する」というイメージ。時間の投入を避けて能力だけ上がるといった美味い話はなく、その手の美味い話(学習法)は「わかった気にさせるが、能力の向上はあまりない」というものになっている。
 ただ究極的には(それが無駄足かは分からないので)自分が「これをやるべき」と信じたものを一定期間、賭けてやるほかないんだろうと感じている。


学習:発音

 中学生の時に、手もとにあった中学生向け辞書に発音記号の解説が収録されていて、発音記号と口の形と息の使い方の対応関係を覚えた。当時はよく辞書を引いて単語の発音(とアクセントの位置)を丁寧に確認していた。当時そんなことをしたのは、「音源で聞いた英語と同じになる」のが面白かったとか、他の人が「すごいね」と言ってくれて嬉しかったとか、そんな単純な理由だと思う。


 ただ「日本人発音」でもより正確・豊かに英語を運用できる人の方が(発音だけ流暢な人より)ずっと良い。他の能力が低いのに発音の良さだけで「でもこの人より上手いし」と自分を慰めるような感情を抱いた過去の自分が恥ずかしい。
 「正しい発音」という言い方は、言語が持つ幅を無意識に排除している。例えばニュージーランド英語やインド英語は発音の点でアメリカ英語と大きな隔たりがあり、またイギリス英語やアメリカ英語と一口に言っても人種や社会階層による差異が存在するが、どれかを「間違っている」とは言えない。
 そうした認識から、あまり「発音を上手にやれ」という言い方をしたくない、という気持ちもあったりする。せいぜい「辞書が示す発音」としか言い得ないけれど、それを学習初期に丁寧に・正確に習得するのは、言語学習の楽しみや意欲に貢献してくれたり、発音に起因するコミュニケーション阻害(通じない)の可能性を低減できるといった点で、良かったかなと思っている。


学習:文法

 中学生の時は文法という概念がよく分かっていなかった。語順問題などは雰囲気で解答していた。(それで80点くらいは取れていたのが良くなかった。)
 高専に入ってから授業で「5文型」「品詞」の概念をようやく知って、目から鱗が落ちた感覚だった。雰囲気で解答するもの、言語はしっくりくるかどうかの問題と曖昧に思い込んでいたのが、そうではなく「ルールに基づいて決まる」のだと理解してから、ようやく英語と多少お友達になれた。日本語と異なり英語は、(文字/単語/発音といった見た目の違いだけでなく)語順が意味に与える要素が大きい言語で、英語を読むこと(構文解析)は「主語と述語動詞をまず確定させるゲーム」なんだと今さら分かったのがその時期だった。
 理解が遅すぎる気もするけれど、義務教育で英語をやっていても、実はそこがよく分からずそのままになっている人は案外いるのかもしれない。教育にしっかりお金がかけられる/親の教育水準が高い子供だと、小学生くらいで当たり前のこととして理解できていたりするんだろうか。


 体系的な文法書に加えて、『ネイティブスピーカーの英文法絶対基礎力』を読んだのは有益だった。文法書は「ルールがこうなっている」を教えてくれて、後者は「そのルールをプレーヤーはこういう感覚で運用している」を教えてくれる。
 ただこの種の「母国語とする人の内在的な論理・言語感覚」を解説する本は膨大にある。「読むとなんか近付いた気がする」効能が気持ちよくなってこの種の本ばかり読み始めても、英語能力の向上自体には寄与しない。1冊をしっかり読んで終わりにするくらいがちょうどいい気がする。


 後は『瞬間英作文』が、基礎的な文法をすぐに出力できるようにするのに便利な訓練だった。ただシリーズの上位版は「複雑だけど英語感覚では使わない英作文」の割合が増え、本来の目的から逸脱してフラストレーションが溜まるので、別の教材に移るのが良いと感じた。


学習:語彙

 「もう少し語彙を強化したい」と「文法を強化したい」という気持ちは割と交互にやってくる。文法と語彙は読む能力の両輪で、一方を上げると他方の低さが気になってくるからかもしれない。ひとつの言葉(単語)は複数の意味や品詞を伴い、幅を持って広がっている。そうした単語が文章の中に現れると、特定の意味や役割へとその幅が収斂する。それを「読む(同定する)」には、その単語の持つ意味と品詞を知っていることと、文章のルールを知っていることの両方が必要になってくる。
 読む能力の低さに対して、「語彙が足りないからだ」と感じる時期と、「文法が足りないからだ」と感じる時期がかわりばんこにやってきて、その気持ちに従って勉強していた。それもだんだん進んで基本ができてくると、次第に文法の例外処理・特定処理と、特定の単語が紐付いた細かい世界に入ってきて、結局は語彙の強化と文法の強化が等価になってくる。


 20~22歳くらいに割と熱心に単語集をやって、そのおかげで400点台の「何言ってるか全くわからん」から、700点台の「おぼろげながらわかる/わかるときがある」になって、TOEIC受験の苦痛がずいぶん軽減された。
 単語集は評判のいいものから自分の語彙レベルに合致したものを選べばよくて、今はアプリもあって便利。


 あと「語源で覚える」系の学習法は根強く人気で、実際読むと面白いけど、語彙形成にはあまり役立たない気がする。定期的に流行る印象があり、流行り物には一通り手を出しているのでいくつか読んだこともあるけれど、「既知の単語同士を有機的に結び付けて知識を体系化する」には有効でも、「語彙の量を増やす」目的にとってはむしろ「とにかく覚える」しかない。これ系ばかり読み漁っても「英語雑学に詳しい人」にはなれても「英語が使える人」にはならない気がしている。


学習:会話

 TOEICのスコアが上がっても、驚くほど喋れなかった。仕事で使うようになってくると困ったことになった。オンライン英会話に一度挑戦したものの、あまりに喋れなくてつらくて辞めてしまった。心理的ハードルの高いことは日常的に続けられない。
 先述の瞬間英作文の後、英語として意味のある文章をと思ってスタディサプリもそこそこ(1年以上は)やったりした。とてもよくできたアプリだった。あとインプット量を増やそう、プレ多読だ、と思ってラダーシリーズを30冊くらい読んだりもした。
  ラダーシリーズ特設サイト


 ただ結局、出力の量と密度を一定期間増やさないともう無理なのでは、と思うようになってきて、そこそこの金額を出して、パーソナルトレーナーがついて2ヶ月特訓するサービスに申し込んだ。申込み後に偶然仕事とプライベートが多忙になって、生きてきた中で一番忙しい状況になってつらかった。
 結果的にかなり発話に苦がなくなった。その後の海外出張で上手くやれるようになったし、オンライン英会話も続けられるようにもなった。人生の中でもかなり上位の喜びがあった。そのあたりは以前に↓で詳しく書いた。
  英語を勉強して嬉しかったって話 - やしお


 ただ発話能力が向上してもTOEIC(R&L)のスコアはほぼ変わりなかった。出力がなめらかになっただけで、スコアアップに寄与する知識の総量は増えていないのかもしれない。TOEICのスコアが上がっても喋れるようにはなれないし、喋れるようになってもスコアは上がらない、互いに独立している。
 発話能力の開発は、発話頻度を高めて、その中で自分なりの表現の「型」を身につける、ということかと感じた。型のバリエーションが増えれば、組合わせ爆発の一種であたかも自由に話しているようになれる。(が、自分自身はそこまで全然到達していない。)こればかりは文法や語彙の勉強を続けるだけではどうしても身につかなくて、対人の会話を一定程度こなさないと難しい。スポーツでも、ルールや基礎練だけでなく、練習試合をある程度重ねないと上達しないのと同じかと思う。
 そうして型が多少身について、ある程度伝えたいことが伝えられるようになれば、自信がついてより話せるようになってくる。


 英語でも日本語でも「喋ること」には一種の「根拠のない自信」が必要になる。
 自分が喋ることで相手がどう反応するかを事前に知ることはできない。相手に理解されず「は?」という反応が返ってきたり、空気がおかしくなる怖さがある。その恐怖が強いと(言語能力の問題だけでなく)何も喋れなくなる。「喋っても何とかできる」(言い換えたり追加で説明できる)という自信や安心感がなければ話し始めることはできない。
 仕事などでも「自分ならたぶん何とかできる」という安心感がないと、自発的な発言も行動もできない。経験を積んで「自分が何とかできた」体験が増えていくと自信が形成されていく。(上司が高圧的・否定的で心理的安全性を毀損するタイプの人だと、自発的な行動ができなくなるのと同様、相手や環境にも大きく左右される。)お笑い芸人でも、どこからでも笑いに持っていける、場をコントロールできると経験的に自信がある人は実にのびのびと融通無礙に、話し始めたり、話に介入したりしてる。


 それから、当たり前だけど出張前などに事前準備をするかどうかで「どれくらい喋れるか」が大きく左右される。専門用語・業界用語の語彙リストを整理して、関係書類も読み込んで、想定される会話をひとり言で喋るなどしておくと、当日だいぶ楽になる。時間が無くてサボると「やっぱダメだ」となる。日本語の出張や打合せでも同じことだけど、言語的なハードルが大きい分(日本語と違ってアドリブが効きにくい分)余計に重要になる。


できて良かったこと

 レベルがだいぶ低い・母国語の水準には到底及ばないとしても、「英語だからヤダ・ムリ」とならずにコンテンツや人や機会にアクセスできるようになったのはとても嬉しい。


今後

 現状やってる週2のオンライン英会話と、平日のポッドキャストは続けていきたい。
 後はもう少し語彙を増やしたいとか、もう少し複雑な構文解析の練習をしたいとか、思い付くところは多々あるけれど、読んでない本が300冊以上家にあるとか、書きたいと思って放置しているお話があるとか、映画も色々見たいし、英語以外にやりたいこともたくさんあるので、しょうがないからソリティアなどをしている。

国政選挙で勝つということ

 自民党総裁選と衆院選を控えて、最大野党の立憲民主党も政策アピールに入っていて、その政策が刺さらない、粒度が変、センスがない、安保も経済もない、と左右両サイドからネットで叩かれる光景をよく見かけて、ちょっと思ったことのメモ。


選挙戦

 「選挙で勝つ」には「票をたくさん集める」が必要で、その票には大きく分けて、投票時点での世の中の空気感や、党や候補者のイメージに左右されて入る浮動票と、特定の党や個人に固定的に投票される組織票とがある。投票率が高ければ浮動票の比率も高まり「風が吹く」と言われるような大勝/大敗が起こり得るし、低ければ組織票の比重が大きくなる。
 浮動票と組織票には、それぞれ党自体の方針で確保されるものと、候補者・国会議員や地方組織・地方議員の働きによるものとがある。



 この4つのエリアそれぞれで対応が必要になる。(ただ各エリアで確保できても調和が取れていない/方針がちぐはぐだと政権交代後に内側からその矛盾によって瓦解するので難しい。)


【①一般向けイメージ形成】細々した政策が出される状況

 9月に入って立憲民主党が細々した政策を小出しにしている。①エリア(政策一般向け)でのイメージ形成に対して有効でない見せ方なのでがっかりされたり馬鹿にされたりする。
 ただこれは、

  • 衆院選が11月初旬の見込みで時期がやや遠い
  • しかし自民党が総裁選で盛り上がる中で、一定程度はニュースに出続けないと完全に埋没してしまう
  • 一方で大きな政策を今発表して衆院選前に話題がなくなると困る

といった状況でそうしているので、やいのやいの言うのは10月に入ってからでいいんじゃないかと思っている。(それでフタを開けたら何も出てこなくてズコーみたいなこともあり得るかもしれないし。)


【①一般向けイメージ形成】フリをして安心して選んでもらう

 「政権交代で選んでもらう」には「任せても大丈夫そう」のイメージが必要なんだとすると、それには「まるでもう政権を取っているかのように振舞う」がある程度必要になってくる。


 その昔、紡織会社だったカネボウが化粧品業界に新規参入した時、業界トップの資生堂が口紅のキャンペーンをやればカネボウも口紅のキャンペーンをやって、資生堂がアイシャドウをやればカネボウもやる、そうすると現実の売上が10対1くらいでも、消費者からは10対10に見える、それで選んでもらえるようになって、現実の売上も10対3とか4にまでなってくる、という話を思い出した。(佐藤雅彦が著書で紹介していたと記憶している。)
 最近KFCが「月見といえばケンタッキー」と月見サンドのCMをしていて、見るたびに(そんなわけないだろ)とちょっと笑ってしまう。月見バーガーマクドナルドは30年前、KFCは5年前から始めている。どう考えても「月見といえばマック」でしかない。ずいぶん厚かましいけど、言ったもん勝ちだからしょうがないね。


 例えば会社でも、課長になる人は、なる前からある程度課長みたいな振る舞いをしていたりする。平社員なら係長、係長なら課長、課長なら部長と、一つ上位のフリをそこそこしていると、「じゃあ次は誰を選ぼうか」となった時に、そこに「もう準備ができてる人」がいれば自然と選びやすい。判断を下したり意見を出したり(越権にならない程度に)して「自分が上位役職の立場にいたらこうする」が示せていて、それが周囲が納得できるものなら、機会があった時に選びやすい。


【①一般向けイメージ形成】フリをすることの下手さ

 そういう点だと、立憲民主党やその所属議員による対外的な発信は、かなり「センスがない」ように見えてしまう。
 つい最近も「ワクチン2回接種が50%超えた」ニュースに対して蓮舫代表代行が

『2回目接種が全国民の5割』との見出しに違和感。
64歳以下で見ると東京は33%、北海道20%、京都22%、大坂24%と2割から3割。
菅総理もワクチン接種は進んでるとよく言われますが、未だ予約も取れない方々への接種をより進めるべきです。

とツイートしていた。
  https://twitter.com/renho_sha/status/1437582963105955845


 「与党の政策に批判を加えるのが野党の仕事」というのはその通りだし、その仕事に忠実とも言えるけれど、「為政者として選んでもらう」という意味だと、任せて安心のイメージからは遠い。実質的な内容は同じでも、「5割達成できた。しかし若年層で予約が取りづらい状況がまだある、何とかする(こうする)」という言い方をしていかないとダメなんだろうと思う。
 その意味では国民民主党の玉木代表は、昨年のコロナ禍来「こうする」という発信を大量にしていて、それに近いことをしている。


 「野党の立場でやれる権限ないだろ」とツッコむ人達が出てきても、結局イメージ形成は最低限必要なこととしてやっていかないとどうしようもない。「カネボウなんか資生堂の10分の1だろ」とか「お前は課長じゃねえだろ」とか言われたり思われたりしても、イメージを与えないと選んでももらえない。
 「野党は批判が仕事だから」「我々は後発だから」「自分は平社員だから」と思って、「誠実に」その役割の中に留まっていると、選ぶ側も不安で選べない。(一概にそれが悪いということはなくて、その立場に留まるためにそうする選択肢もある。)


【①一般向けイメージ形成】社会党のジレンマ

 一方でそれをやろうとすると、社会党のジレンマみたいなものがあるのかもしれない。
 55年体制下でずっと与党だった自民党に対して、社会党は「政権批判枠」で一定の支持を集めてずっと最大野党として存在していた。社会党の政治家にとっても安定的な地位だったという。55年体制が崩壊し、自民党と連立を組んで与党入りすると、政策を現実的なものへ転換せざるを得なくなり、連立から抜けて野党に戻った後(名称は社民党に)は支持を失って、今では国会議員がわずか2名(衆参各1名)になってしまった。(その主要因は①一般向け政策だけでなく③利益団体向け政策に関わる。)


 「大衆迎合的・権威主義的でないこと」「体制批判的であること」によって支持を集めている政党は、耳目を集めたり現実的にやろうとする中で、そのアイデンティティを一部失う。その「変節」を自他ともに許せないと、そこに縛られてしまう。


 どうしたって「国民が一人一票持って選挙で選ぶ」システムになっていて、そのほとんどの人がイメージに従って判断する以上は、そのイメージ形成、一種のポピュリズムに近いことをベースで(与野党関係なくどの政党も)やらないと、そもそもスタートラインに立てない。
 でもそのポピュリズムへの嫌悪感や反発心がどうしても拭えなかったり、そうすることで既存支持層を失うことへの恐怖があると、「あたかも政権を取っているかのように振舞う」ができず、党もそのメンバーも「フリをするのが下手」になるのかもしれない。


【①一般向けイメージ形成】民主主義の対立

 水島治郎『ポピュリズムとは何か』に、民主主義の中では「間接民主主義」と「直接民主主義」の対立が内在している、という指摘があってなるほどと思った。エリートと民衆の対立、と言い換えることもできるかもしれない。


 主権者(国民)が代表者(議員)を選んで政治を委託する間接民主主義と、代表者を介さず直接意思を反映させる直接民主主義がある。政治システムとしては前者が採用されていても、それに対して「我々の意思が反映されていない」という不満はどうしても発生する。そこでそれをダイレクトに掬い上げるような人物(政治家)が出てきて熱狂的に支持されたりする。それをやるとポピュリズムと呼ばれて非難される。立憲主義の制約を受け入れるスタンスと、それを否定して直接大衆の意思を反映させるスタンスの対立がある。


 「大衆ウケすること」と「本当にやるべきこと」が乖離するというのはよくある。それは「現実は複雑だけど、その複雑さを理解して耐えられる人は少ない」のが根本にあるからかもしれない。
 例えば安全保障にしても、たいがい隣国はお互いを嫌い合っているので、ナショナリズムを煽った方が大衆ウケはいい。しかし現実には、相手を刺激せず、相手に口実を与えず、相手の挑発には細かく必要なリアクションを返し続ける、という地味で忍耐強いアクションが政治的には必要で、それは大概「弱腰」「無意味」と非難される。


 こうした乖離がある中で、「本当に必要なこと」をないがしろにして、「大衆ウケすること」を選んで、そのことで高い支持を集めると、ポピュリズムとして知識人層からは非難される。
 この非難は、それを支持した人々(大衆)への非難に転化して、一種の啓蒙主義・エリート主義に陥りがちになる。「〇〇党を支持する愚かな連中のせいで」という言い方はネットでもよく見かける。


 例えばタイでも、農村部を大票田にしたポピュリズム政権(タクシン派)が生まれ、都市部の知識層がそれを否定する、という構図があった。それでタクシン派を排除する形で軍部のクーデターが起きた時も、知識層は積極的に否定しなかった。しかしその結果、軍部と王室が結びついた体制が定着して民主制が失われる結果になって、かえって知識層の望まぬ状況に陥ってしまった。
  タイの王政と軍政 - やしお


 民主主義を擁護しようとして民主主義の否定になってしまう、というようなアンビバレントな構造が割と一般的に生じてしまう。ただそれは、一見矛盾しているようでも、間接民主主義を擁護しようとして直接民主主義の否定になってしまう、という形で弁別すれば割と理解しやすいし、どうするのが良いのか分かりやすいのだと思う。


【①一般向けイメージ形成】「民度が低い」という切り捨て方

 以前、宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち』を読んだ時に、「IQは100程度ないと今の社会では生き辛い」という言及がとても印象に残っている。IQの定義上、100が正規分布の平均値なので、「半数の人が実はちょっと生き辛い」という意味になる。100が言い過ぎでも、全人口の2割弱にあたるIQ70~85は「境界知能」とされ、安定的に職業につくことが難しかったり、困難を抱えていても障害と認められず十分な支援も受けられず、生き辛くなっているという。


 複雑な現実やシステムに対して、正確に理解せずに受入れている人はものすごくたくさんいる。IQの高低に限らず、興味や関心の差もある。自分もmRNAワクチンの機序も正確に知らないまま接種したし、税制も詳しく知らないけど税金を払っている。あまりに現実が複雑で細分化されているので知るにも限度がある。(だから専門家や報道機関が平易かつ正確に広く啓蒙していく、という活動が必要になってくる。)
 現実としてそうした全員で生きていて、その上で「一人一票」のコンセプトでやっているのに、そこをバッサリ切り捨てるのはどうなの? と思っている。


 先日「吉村大阪府知事のコロナ対策を『評価する』が大阪市で8割」というニュースに、「大阪市民がダメなんだということを感じさせてくれる」「大阪市民はちょろい」「頭がおかしい」「集団催眠」といったはてなブックマークのコメントが散見された。
 吉村府知事にしても小池都知事にしても、「やってる雰囲気を見せる」「メディアに露出する」といった手法で、現実の施策のまずさを糊塗する、ポピュリスト的な政治家だとは思う。為政者に対して「実際にちゃんとやれ」と批判する、あるいはメディアに対して「まずい面も報じろ」と批判するのはわかるけれど、そうした政治家が選ばれた現実に対して「○○市民の民度が低い」と切り捨てるのは、随分ナイーブだと思う。むしろ「ポピュリストに負けないように他の政治家・政党もイメージ戦略をちゃんとやれ」と言う方が建設的な気がする。
 「馬鹿な人達のせい」で片付けるのは、自分はそうではない側にいると自分を慰める以上の効果はないと思う。


【①一般向けイメージ形成】ポピュリズムとPR

 高木徹『国際メディア情報戦』ではアメリカ大統領選を始めとして、海外の政治家や政治的プレーヤーがいかに国内・国際世論の形成に腐心しているかや、そのためのプロとしてPR会社がどのように働いているのかを具体的に見せてくれてとても面白かった。
 そこでは政治家がイメージ形成をするのは当然だという前提がある。中身を伴わずにイメージ形成が自己目的化すれば批判されるとしても、イメージ形成そのものは最低限やるのが当然で、その面を怠って負けて「でも言い分は正しいから」と慰めていては意味がない。
 イメージ形成は、ポピュリズムに近い面もあり不誠実に思われたとしても、現実には中身ではなくイメージで判断する有権者が多くいて、その存在を非難しないという態度を取るのなら、お互いが徹底してやっていくしかないのだろう。


 ちなみに『国際メディア情報戦』では、日本で(広告代理店ではなく)PR会社が機能しないのは、マスメディアが成熟していないからだという指摘がされていた。PRは、世の中を動かすために、メディアや政策決定者などとパイプを形成して納得させ働きかけていく営みになる。それは大前提として「報道の自由」や「経営と編集の分離」といった原則がある程度働いていなければ成り立たないゲームになっている。
 日本では、取材してもらう引き換えに広告(お金)を出す、政治家の会見では質問内容を事前に出させて不意打ちした記者やメディアを罰として排除する、といった手法でメディアが容易にコントロールできてしまうので、そもそもPRという面倒な手法を取る必要がないという。
 日本の政治家がイメージ形成の面で未熟なのは、報道機関の未成熟によるところも大きい。


【②地元向けイメージ形成】川上戦略

 辻立ち、選挙カーで名前連呼、有権者と握手、地元イベントへの顔出し、そうした選挙の常套手段は「馬鹿馬鹿しい」と言われがちでも、「名前に聞き覚えがあるから」「頑張ってるから」「気にかけてくれたから」で投票する人達がそれなりにいるという現実がある。
 マスメディアを上手く使って世論形成するタイプのポピュリズムとは、規模やターゲットとする対象が違っても、実際の内容ではなくイメージを生み出すという意味では地続きになっている。
 政策の内容で選ばれるのが正しいんだ、という理想論一辺倒でイメージ形成を怠った結果、負けたのでは意味がない。ベースとしてどの政党でもどの政治家でもそこを疎かにすることはできない。(そうは言っても、もう21世紀も5分の1が過ぎたし、もっとスマートなやり方が開発されてほしいと思うけど、人口の3割が高齢者の国では難しいのかもしれない。)


 旧民主党は、この種の地元でのイメージ形成も苦手で、都市部の浮動層だのみ、「風」だのみだった。2003年に小沢一郎自由党と合併し、2006年から小沢が代表になってから、地方重視の「川上戦略」が持ち込まれた。『民主党政権 失敗の検証』の中で、トヨタ労連出身で経産相を務めた元参院議員の直嶋正行が、以下のように振り返っていた。

「いなかでの会話の伝達速度はすごい。特に市街地から遠い農村地帯は、娯楽もなく高齢者が多い地縁血縁の社会なので、そこまで行って演説すると、感動して離れて住む息子・娘夫婦や知り合いに即座に電話して、あっという聞に伝播する」


 実は参院選一票の格差衆院選よりも大きい、という特性がある。参院は、全国ひとまとめの比例代表都道府県ごとの選挙区、という仕組みで、当時の選挙区選出は146人、半分ずつの改選なので1回の選挙で73人、47都道府県に1名ずつ振り分けた残りの26人を人口の多い都道府県に割り振っても、人口の大きさと議員の人数が比例するほどの割り振りにはどうやってもできない。
 人口最小の鳥取県で1人、最大の東京都で5人選出でも、人口の差が25倍程度あり、一票の格差が5倍あった(衆院は最大2倍程度)。(その後、鳥取と島根、徳島と高知がひとつの区にまとめられたり、東京などの定数が増やされたりして多少是正されたが3倍ほどある。)
 国会の中は多数決なので「人口の少ない1人区の県」を取りに行くのが効率がいい。それが小沢一郎の選挙戦略のひとつだった。
 参院選コスパのいい1人区をしっかり取ってねじれ国会にして、予算案や法案がスムーズに通らないようにして、首相退陣に追い込んだり「混乱を収束できず政権運営できない与党」のイメージを創り出して、衆院選で勝って政権交代、という流れになっていく。


 2007年参院選は大勝したが、次の2010年の参院選では、小沢が政治資金疑惑で幹事長を辞任していたこともあり、地方重視の「川上戦略」が失われた。小沢は全選挙区の過去の投票率政党支持率世論調査の結果など細かくまとめたデータを秘書のカバンに常備させていた(この辺は小選挙区制の導入を推進した張本人で、最年少で自民党幹事長を務めた人という感じ)が、そのノウハウやデータは党内に開示されなかったという。


 現在79歳で立憲民主党の所属議員である小沢一郎は、今年6月頃から総選挙に向けて特に地盤の弱い新人候補などへの指導を進めていたと報道された。

小沢氏は6月に『新人ドブ板選挙指導』に動き出していた。全国行脚は福岡、長崎、鹿児島、大阪、山梨…。行く先々で唱えるのは『小沢選挙7カ条』だ。
政権奪取のラストチャンス
「7つとは、①川上(山間)から川下(街)へ ②1日50カ所辻立ち ③ポスターを3000~5000枚貼る ④10人ほどのミニ集会開催 ⑤路地に入りやすいよう選挙カーは小型車にする――等々です。コロナで1対1、ミニ集会はなかなかできにくいが、とにかく『できることをスグやる』と指導する。例えば、マスクなど対策を万全にしての辻立ちなど、『小沢選挙7カ条』もコロナ版に多少改訂しています」(立憲民主党議員)

  小沢一郎「最後のドブ板選挙」2021夏…与野党逆転へ全国行脚


 そうした動きがどの程度奏功するのかはよく分からない。


【③利益団体向け政策】組織票

 イメージ形成は、ターゲットが都市部か地方かという違いはあっても、基本的には浮動票を取り込むための営みになる。選挙では当然、組織票も取り込んでいかないと(特に投票率が低い場合)勝てない。
 こうした組織票固めという点でも、旧民主党内で小沢一郎が大きな役割を果たした様子が『民主党政権 失敗の検証』では紹介されている。
 小泉政権が改革路線で都市部浮動層を取り込んだ一方、自民党の従来の支持基盤だった建設業界・郵便局長会・農協など地方に根付いた利益団体を動揺させた。小沢はそこを取りに行ったことで2007年参院選を大勝に導いたが、もともとの民主党の支持層だった都市浮動層向けの政策とは逆方向なので、党の中で矛盾を抱える要因にもなったという。(①と③で矛盾する状態)


 立憲民主党の最大の支持母体は連合だが、共産党との連携や「原発ゼロ」政策への反発から連合傘下の産別が国民民主党支持に回って分裂していたり、そもそも連合の組織票としての実力(実数)が共産党より実は劣っているといった指摘もあったりする。その辺、もう連合は切っていく方向に行くのか、本格的に自民党公明党との関係・役割分担に近い形で立憲民主党共産党との関係を構築していくのか、といったグランドデザインや大きな方針はよく分からない。どのくらい党本部が組織票をグリップできている状況なのかも外側からはよく分からないが、報道される内容からはまだ流動的な状況のよう。


【④地方組織】

 地方議員が、自身の握っている後援会や団体に、国政選挙で自党の候補者へ入れてもらうようお願いすることが、個別の選挙区での組織票になってくる。国政選挙で候補者を下支えするのは地方議員だとして、立憲民主党はようやく今月に入って全ての都道府県連が整ったという状況。


 ↓の記事は、地方議員から見た組織票について解説するもので、とても面白かった。国政選挙で必死に汗をかいて国会議員・候補者を支えるだけのインセンティブが、野党の地方議員にとって自民・公明・共産などに比べると働いていない、そういう組織設計になっていない、という指摘がされている。
  自民党の圧倒的組織票とは
 

選挙制度と政府の規律

 衆院選小選挙区制(比例代表もあるけど)なので、政府・与党・官僚に規律を持たせるには結局「政権交代があるかも」という恐れを抱かせる以外にはない。


 中選挙区制では1つの選挙区から2人以上の議員を選ぶ。1つの党(自民党)で過半数を取ろうとすると当然、1つの選挙区に自党の候補者を複数立てないといけない。同じ党の候補者同士が戦うので「私は○○党の候補者」というアピールは意味をなさなくなってくる。今は選挙のたびに各党がマニフェストを作って出すけど、当時は党の公約がほとんど形骸化していたのはここに起因する。候補者は独自色が必要でアピールポイントを磨かないといけないので、政策や政治力を高めるようなインセンティブが働き、「昔の政治家の方が尖ってた」印象があるとしたら、これもそこに起因する。
 各候補者個人を支援する組織が党内に必要となり、それが派閥になる。たとえば旧群馬3区は福田赳夫中曽根康弘小渕恵三と首相経験者が揃った激戦区で(上州戦争)、それぞれ福田→清和会、中曽根→政科研、小渕→経世会(平成研)と派閥が異なっていた。党の中で派閥が存在し、自民党総裁=首相に隙があれば公然と「○○おろし」が始まる。そうした党内党による緊張感が発生する。


 一方で小選挙区制では、1つの選挙区で1人を選ぶので、1つの党からは1人の候補者しか出さない(県連と党本部が対立して調整できなかったなどの事情がなければ)。また全ての政党それぞれで候補者を出すと票の食い合いが起こるので、与党と野党それぞれで候補者の1本化が図られる。候補者個人の戦いというより、「与党と野党の戦い」になる。小選挙区制が、二大政党制になる、政権選択になる、という理屈がここにある。(比例代表もあるため完全な二大政党への集約にはならない。)
 候補者にとって「党の公認を得る」ことが何より重要になり、派閥より党執行部(党首)に権力が集中していく。
※そのあたりの基本的なシステムの解説は、飯尾潤『日本の統治構造』が分かりやすい。


 しかし現実には、旧民主党が下野した後、「野党には政権担当能力はなく政治が混乱する」という忌避感を生んで、世論調査でも選挙結果でも政権交代の可能性が感じられず、政府与党の政治家も官僚も弛緩してしまった。
 国家公務員が「全体の奉仕者」ではなく権力者(与党とその友好関係にある個人や団体)の奉仕者に成り下がってしまうというのは、国家にとっても国民にとっても不幸でしかないので、政権交代が起きて「たまに仕える政治家が変わる」状態を高級官僚も当たり前のこととして体験してもらわないとどうしようもない。




 というわけで、与党政治家と官僚に規律がないのは国民の不幸なので、自分自身の投票行動としては、政権交代が起こる方向に向かっている。立民枝野代表もその種の野党第一党としての役割は自覚的で発言も誠実だけど、この動機が一般化されるとは思われない。


 立憲民主党の本当の内情までは分からないし、11月までにどこまでできるのかは見てみないと分からない。ただ現時点で外側からは4象限とも準備が十分なようにはあまり見えない。(細かい調整はあっても)準備のできた状態を維持している与党に比較すると心許ない。「口では政権交代を唱えつつ、今回は体制構築までが目標」なんじゃないかと思えてくる。
 せめて①の一般向けイメージ形成くらいは、PRの専門家のトレーニングを受けるなりして(特に党幹部の個々人は)最初からできていてほしかった。根本的にお金がないのがいけないのかもしれない。お金がなければ人手も賄えず時間もなくなり準備もままならない。それでも、ちゃんとやってほしい気持ちある。