やしお

ふつうの会社員の日記です。

無責任な人=自己愛が強い人

 靴職人の花田優一さんが、受注した商品をいつまでも納品しない、問い合わせにも誠実に対応しない、弟子を取ったがその弟子に雑用とクレーム処理を押し付ける、その一方でテレビ番組への露出を増やしてタレントへの転身を希望しそこで不誠実な言い訳を繰り返してしまう、という話が最近あった。


 それから他に、「THE夏の魔物」というロックバンドのリーダーを務めていた成田大致さんが、自身が主催したフェスの借金(バンドメンバーとは無関係)を理由に突然LINEグループ上でメンバーへ脱退を強制したり、メンバー間の話し合いに応じず代わりに自身の母親を登場させたり(成田さんは32歳)、その揉め事の最中にイベントへ遊びに行った様子をインスタに上げたり、揉めている当のメンバーにライブ参加をツイッター上で誘ったりした、という話もあった。
 メンバーの大内雷電さんが内情をツイッターで明かし「これ以上は彼に関わらない」と宣言したことで明るみに出たのだった。







 この話を挙げたのは、不誠実な連中だ許せん! と怒りたいからじゃなくて、こうしたタイプの人と仕事やプライベートで付き合った経験のある人にとって(ああ、すごいわかる……)という感じがすると思ったからだった。(そうそう、こんな感じ)みたいな。
 どう考えても筋論として自分が悪いのに、悪びれた様子も見せずむしろ「お前が悪い」と責任転嫁をしてきてびっくりさせる。開き直りとしか思えないことを言ったり、言い訳にならないことを言って、自分が悪いのに逆ギレする。
 妙にプライドが高く「自分の方が分かってる」アピールが目立つかと思えば、急に自分を卑下する。随分甘いことや調子のいいことを言って人と約束をするのに、その期日が来ると黙ったり逃げたりする。
 「でも悪いやつじゃないんだよな」「でも魅力的なところもあるし」「でも頑張ってるし」と思って何とか付き合いを続けようとすると、この不誠実さや無責任さで心をごりごりに削られていく。一旦話し合いの場になれば反省を口にしてしおらしくもするから、ああ反省したのかなと信じるとまた裏切られる。それでも悪意があるようには見えないし、こちらを嫌っているとも思えないから混乱する。
 「もう一切関わらない」と宣言した大内雷電さんのツイートを見た時に、(もともとこのバンドやこの人のことを全然知らなかったけど)そうなのよね、それ以外の正解がほんともうないんだよなあ、としみじみ思ったのだった。自分とほぼ同い年の32歳の大の大人が、と思うとより一層心に来る。


 高校生・大学生くらいだと結構そういう人もいる。(自分もそういう面が多分にあったかと思う……。)花田優一さんも23歳なので、大学生くらいかと思うと、まあそんなもんかもしれない。
 プライドの基礎工事が弱いんじゃないかと思っている。実力があってきちんと成果を出して評価して貰って、そのことでプライドを持っているわけじゃない。世界で活躍してる選手とかでもなければ、せいぜいバイトや部活や趣味で頑張ってるくらいかもしれない。周りの人からそこそこ評価して貰えても、それで本当に自信が持てるわけではなく不安なので「自分はすごいんだぞ」とアピールする。他人を自分の不安を解消する道具にしてしまう。余裕がないから自分自身でもそのことに気付いていない。
 それから筋の通し方というのも、学校で教えてくれるわけじゃないから、組織で働いた経験がないと習得するのは案外難しい気がする。バイトや部活で「指示されたことをこなす」だけであれば別に筋論を自力で組み立てる能力は必要ないし習得もされない。会社でも反社組織でもいいけれど、ある程度人数のいる空間で上司やレポートラインを持って、筋違いのことをすると怒られたり訂正される環境でないとなかなか筋論の感覚が分からない。


 精神科医の笠原嘉が1984年に書いた本をこの前読んでいたら、自己愛性格(ナルシスティック・パーソナリティ)についてDSM-IIIの該当箇所を訳されていた。

全く自己志向の性格である。他人のことは眼中にない。自分が世の中にとっていかに大切な存在か、いかにユニークかについて尊大な感覚を持つ。限りなく成功しつづけるという空想を好む。つねに他人の注意と賞賛を得ていたいという精神的露出症があり、人が自分についてする評価に敏感で、自負を傷つけられたときに過度に反応する(怒り、狼狽、無視等)。他人は利用するべき存在であり、またそうすることに彼自身長けているが、自分から他人への反対給付はしない。つまり他人の権利の方はしばしば眼中にない(平気で人の書いたものを剽窃する。学校の規則など平気でやぶり、何の罪責感ももたない)。対人関係はまずいが、それはたいていは共感能力の欠如、つまり他人がどんなふうに考え感じているかを察知する能力が低いためで、たとえば急に病気になった友人がデートをキャンセルしなければならなくなったとき、この性格者は、当然のことのように、怒りないしは当惑を示してはばかることがない。そしてまた、他人は当然自分を高く評価しているものと思いこんでいる。自分が望むところを相手がしてくれなかったとき、怒りとおどろきを示す。しかし、またしばしば、ある人物に傾倒し賞賛のかぎりをつくしたりもする。しかし、すぐまた反転して、今度は完全にマイナスの評価を下す。この両極の間のどこかにとどまる中間的態度がとれない。

笠原嘉『アパシー・シンドローム』(岩波現代文庫:p.154)

アパシー・シンドローム (岩波現代文庫)

アパシー・シンドローム (岩波現代文庫)


DSMは、アメリカ精神医学会が出している「精神障害の診断と統計マニュアル(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)」のことで、その1980年に出版された第3版が「DSM-III」。最新版はDSM-Vで、2013年に公開されている。


 「無責任」というのも、自分の失態を取り繕おうとして起こる。そして失態を素直に認められないのは、自己愛が強いからだ。自己愛の強さはプライドの基盤が不安定なところから来る。「自分はすごい」と他人に無理やり認めさせようとするし、失敗をしても「自分はすごくない」を認められないから逃げ続ける。原因究明と対策の実施がいつまでもできない。一方で「自分はすごい」をアピールできる相手を見つければ依存するし逃さないようにする。
 相手のことを信じたいと考える(普通の)人は、そうした人達相手でも良いところを拾い上げて評価しようとする。プライドの基盤が脆弱な人にとっては都合のいい存在なので甘えられる。これは悪気があるわけではなく、一方的に他人に甘える不誠実さにただ無自覚なだけだ。しかし友人をばっさり切るのは冷酷な人みたいで嫌だと思って、ずるずる付き合うと疲弊していく。離れようとすると「自分を捨てるのか」「嫌いになったのか」と詰られる。
 しかし相手が変わってくれるかもしれないと期待するのは間違っている。まずは自分自身の精神と生活をきちんと守ることが大切だ。だから、悲しいけどばっさり切るしかない。「まあでもあの時は楽しかったしいいか」と良い思い出にして、恨みでエネルギーを消費しないようにしながら、一切の関係を断ち切って過去の存在に押し込めるしかない、というのが現時点での経験則的な結論になっている。

Switchに縛られていたこのあたしが解放される

 Switchのソフトが新春セールで安かったから「ぷよぷよテトリス」と「オクトパストラベラーズ」を年明け早々に買って、もともと「ちゃんと一つのソフトを終わらせてから次のを遊ぶ」って決めてて、「ぷよテト」から着手して一応ストーリーモードみたいのがあるからやって、でもテトリスは得意だけどぷよぷよは苦手なので何となく気が重くてあまり進めてなくて、たぶん「オクトパストラベラーズ」は始めたら結構熱心に時間費やしてやるんじゃないかなって予感があって早くやりたい気持ちがあること山々だけど、「ぷよテト」をあんまりやりたくない気持ちがその前に立ちはだかっているので結局最近はあまりSwitch自体を起動していない。
 去年はたぶんSwitchをやり過ぎたせいで読書量も減っていて、だから今年はあんまりやらないように、30代の大人としてふさわしい節度を持ってSwitchと向き合いたいと思っていたのだが、まさかこんな形で実現するとはね。


 仕事でも「先にやった方がいいけど、ちょっと気が重い仕事」のせいで他の仕事が手がつかなくなる、そんな良くない状況は普通に発生したりする。この作業にはこの工具を借りないといけないけど借りる相手が全然知らない人だからちょっと気が重い、この問題を調査するにはまず営業に客先でどういう状況だったか聞かないといけないけど営業からは絶対「早く何とかしろ」って煽られるから気が重い、みたいな。仕事の経験が長くなってくるとそうした「ちょっと気が重い」が減ってくる。「これくらいなら自分でこなせる」「自分なら大丈夫」という大雑把な自信がついたり、経験的にすぐやった方が楽だと実感を持ったりして、以前ほど気の重さがなくなったりすぐ着手できたりする。


 この「気が重い作業でぐずぐずして後がつかえる」状況は今まで「良くないこと」としか考えてなかったけど、まさかこのシチュエーションを発生させることでSwitchとのほどよい距離が保てるようになるだなんて。世界はワンダーがまだまだ詰まっているよね。
 もともと「一つのソフトを終わらせてから次に遊ぶソフトを買う」ってルールを自分に課していたのは、そうでないと「積みゲー」になっちゃうだろうなと思ってたんだけど、新春セールのおかげで「積みゲー」が発生したことで「ゲームしなきゃいけない」という変なプレッシャーが生まれて、何となく気が重くなってしまったのだった。縛られることで逆に解放される、そんな状況だ。どうせ早晩「オクトパストラベラー」を始めてまた縛られるのは分かってるから、つかの間の解放でしかない。新春セールに感謝しようかと思ったけど、新春セールに触発された私の貧乏根性と、セールで「ま、買ってもいいか」と気軽に思える私の財力が背景にあるのだから、とどのつまり私は私に感謝。
 みんな自分自身の素晴らしさに感謝しよう。自分の素晴らしさを積極的に賛美しよう。

人の人格が成長するのを見たのかもしれない

 小学生の甥っ子の兄弟のうち、弟の方が大変になっているという話を以前に書いた。


甥っ子が承認欲求のおばけになっていく - やしお
ゴネ得の人はそれ以外の方法を知らないのかもしれない - やしお

 自分の願望を実現しようとする時に、他人を気持ちよくする(他人にとってのメリットを勘案する)ことで実現しようとする方法と、他人を虐げる(他人にとってのデメリットを突きつける)ことで実現しようとする方法があるとすると、兄の方は前者で、弟の方は後者の戦略を採用しているように見える。後者の方法は、たとえば「○○してくれないと泣き止まない、うるさくする」とか、「○○してくれないといじわるする」とか、あるいは明らかにフェアでない自分だけが有利な選択肢を提示するとか。
 後者のやり方だと、当然その利害関係者は反発することになる。そんなのはずるいじゃないか、相手の迷惑も考えようよ、となってしまってその願望が実現されない。「お前が悪い」と言われてしまう。それで怒ってますます強硬に要求するし、でも実現しないしで悪循環になっていく。


 去年の1月と7月に姉の家に泊まって甥っ子と遊んだりした。1月の時にひどかったので一つ目の記事を書いて、7月の時にさらに悪化していて二つ目の記事を書いたのだった。一つ目の記事では「承認欲求」、二つ目の記事では「ゴネ得」という言い方で見ているが、根本的には上で引用したメカニズムが働いているように見えた。

  • 交渉の仕方には2種類ある。相手のメリットを提示する方法と、デメリットを突きつける方法。
  • 甥っ子の弟は後者の方針を取っているように見える。
  • 「ゴネ得」は後者の一種である。相手を疲弊させることで自己の要求を満たす方法。
  • 後者は、周囲を不幸にさせるため、周囲の理解を得られない。
  • 周囲から肯定されないことで、承認欲求が満たされず、ますます求めるようになっていく。
  • 「今自分が何をしているのか」や「いかに自分が凄いか」を周囲に無理やり認めさせようと要求する。
  • 承認欲求が満足されない→「自分の願望を周囲の人間が叶えること」でそれを満たそうとする→「ゴネ得」の方法で要求を実現しようとする→周囲の反発を受ける→承認欲求が満足されない→……というサイクルに陥り悪化していく


 今年も年始に姉の家に泊まった。甥っ子の弟のことは心配だったし、7月の帰り際に怒ってしまって(二つ目の記事に書いた)、それ以降電話もしていないしどうかな? と思っていた。もっと悪化していたらどうしようと思った。でも半年ぶりに会ったら、だいぶ改善されているように見えて、ちょっとびっくりした。もちろん3日程度しか一緒にいないのだから、全部が分かるわけではないけれど、それでも以前に比べれば随分穏やかになっていた。
 無茶苦茶な理屈をどんどん立てて無理やり自分の要求を押し通そうとする場面が随分減っていた。たぶん知らない人が見れば、それでもかなり我儘に見えるし大声でうるさいのは変わっていないけど、以前はもうギャン泣きしたり殴ったり大声で喚いたり凄かった。そういう激しさが落ち着いていたようだった。以前よりもあっさり自分の要求を取り下げている。特にゲームしている時がひどかったりしたけど、だいぶ良くなっている。


 年2回くらい、数日会うだけの叔父だから、具体的に何が彼に作用して変わったのかは分からない。単にその数日だけ良くなっている(あるいは僕がいたから遠慮している)だけだった可能性だってある。姉とそのことを話す機会が今回は無かったから、普段も以前より良くなっているのかは分からない。
 もしかしたら彼の中で、自分のプライドを担保できる何かが見出されたのかもしれない。何かしら「自分はすごい」と信じられるものがあれば、自己顕示欲を無闇に振り回さなくても安心できる。もしそれで落ち着いているのだとしたら、彼自身も周囲も幸福だと思う。
 あと弟は前まで家の中でずっと全裸だった。(真冬でもそう。)兄の方はちゃんと服を着ている。兄は小5で30kg、弟は小4で60kgあって、その体格の違いで体感温度も違うのもあると思うけど、パンツすら履かないでいた。姉(母親)も「服を着ろ」と言うのだけど履かない。それが今回はちゃんとパンツを履いていた! 人間に近付いている。もともと「パンツを履かない」というのも、ある種の抗議に近いものだったのかもしれない。自己顕示欲の満たされなさから来ていたりもするんだろうか。あと「太っている」というのもきっと、周囲からそのことで揶揄されたりして、プライドを傷つけられる要因になっていたりするんだろうなと思うと悲しい。


 甥っ子の弟は、大人になってもこのまま「ゴネ得」でゴリ押しするタイプの人になるんだろうか、承認欲求のお化けみたいになってしまうのだろうか、と不安な気持ちを持っていた。子育てに参加しているわけでもなく、遠くに住んでいてたまに会って遊んだりプレゼントあげたりしてるだけの親戚が、どうこう言う立場にはないとは思うけど、でも赤ちゃんの頃から知ってる人のことなので、心配はそりゃするよ。
 いきなり180°別人になるわけではないから、まだゴリ押しのゴネ得みたいなところは無くはない。より「一般的な状態」に近付いた、というだけだ。でも、ああ、こうやって人の人格って形成されるんだなあ、他者とのより良い関係を構築できるように変わっていくのかなあ、と思って、うれしかった。
 自分自身を振り返っても、学生の頃はかなり性格がひどかったような気がするし、ちゃんと「他者を他者として扱う」ということができていなかった。「他者を満足させることで自己を満足させる」という基本方針ができていなかった。20歳を過ぎてもそうやって変わるんだから、子供は半年くらいでふっと変わったって別に不思議なことじゃない。


 あと関係ないけど、甥っ子の兄と一緒に映画を見に行った。弟の方は興味がないから行かないとのことで二人で行ってきた。レンタカーの助手席にいたお兄ちゃんが急に「気持ち悪い。吐きそう」と言ったかと思うと、急にしゃーっと吐いて、(えっ)と思ってびっくりしたけど、なんか懐かしい気持ちになった。そういえば自分も小学生の頃はよく車酔いして吐いたりしていたなあって記憶が一気に蘇ってきて懐かしかった。隣で吐いてる本人にしたら(懐かしがってんじゃねーよ!)という状況だろうけど。「レンタカーの新車っぽい匂いが苦手」と言っていて(わかる!)と思った。
 お兄ちゃんは吐いたらすっきりしたらしく、その後はぴんぴんしていた。映画を見ている間も平気そうだった。車はマットを洗って消毒したら臭いもなくきれいになったから大丈夫だった。
 帰宅した直後、お兄ちゃんは母親(僕の姉)に「車で吐いた」と自己申告していた。僕は姉に「レンタカー大丈夫だった?」と心配されたり申し訳なく思われるのも嫌だなと思って(そんな大した話じゃないし)、姉には言っていなかった。そうした「自分にとって都合の悪いこと」を先回りして報告できるのはすごいなと思った。テンションが上がってて嬉々として報告してただけかもしれないけど。


 あと勉強はどうも弟の方ができるっぽい。今回姉に言われて二人とも冬休みの宿題を見てあげたけど、弟の方が理解しながら解いているという感じだった。お兄ちゃんは漢字のテストが20点だったという。ただ字がすごくきれいなので「でも字が上手」と言ったら、別に嬉しそうな顔をするわけでも照れるわけでもなかったけど、その後で弟に勝手に書かれた回答を消しながら「もうー、こんな字じゃ汚いもんねえー」と言いながら書き直していたから、(あ、やっぱり誉められるとそこに誇りを置くんだな)と思った。誰だってそうだし大人だってそう。
 この「弟の方が勉強ができる」というのはたぶん今の時点でももう兄にとってコンプレックスになっているのかなと思う。弟の方は他人からデブとか言われて傷ついたりしてる。一撃の致命傷じゃなくても、じわじわ毒みたいに効いてくる。それはもう誰もが多かれ少なかれ持つことだけど、上手に「まあ良くないところもあるけどそれも含めてトータルで自分に満足してる」と自分を肯定できる状態になっていってくれればいいなあと願っている。年に数日しか会わない叔父ができるのはせいぜい、彼らのいいところを見つけたら積極的に「あんたはここがええがね」「よーできとるがね」と言ってあげるくらいしかない。
 姉とは標準語で喋るのに、どういうわけか甥っ子たちには昔から岐阜弁むきだしで喋っていて習慣化してしまった。最初小さい子供とどう接していいか分からなくて、たぶん照れ隠しかキャラを作るかして喋っていたら(方言の方がババア感が出て遠慮なく喋れて)、そのまま定着してしまってもう今さら直せない。