やしお

ふつうの会社員の日記です。

山口厚『刑法入門』

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/41941174

刑法の基本的な考え方の話。でも体系の整合性に終始しているというより、個別具体的な事例の印象と、その印象を裏切らないようにどう体系の整合性を保つのか、という帰納的な話が展開されていく。長谷部恭男「憲法と平和を問いなおす」ではむしろ、印象や感覚で出発するとかえって裏切られる、という展開の仕方をしていたのとは対照的で、これは憲法がルール(準則)よりコンセプト(原理)の領域にあって、一方刑法は準則と原理に跨って存在しているという違いによるものだと思う。あと公理(非難の解釈)が一意でなく体系全体がふわふわしている。


 以前から、「反省」があるかないかで刑の軽重が違ってくるという点に違和感を持っていて、そうではなくてシンプルに、ある結果に対して責任を取ればいいのではないかと思っていた。「反省」など結局、どのようにしたって計量のしようがないもので左右されるというのはあまりに心もとないのではないかと思っていた。ところで「反省」の有無で刑の重さを左右するというのは、「反省」している者の方が再犯の可能性が低く教育・社会化の期間が短くできるという教育刑としての面からしか説明できないのだとすると、この「反省」の有無を否定するのは、教育刑の側面を否定するということに帰結するのだろうか。ではしかし、教育刑でない理由で、人の自由に制限を加える刑罰がどのように正当化されるのか……といったあれこれをぼんやり考えて、結局放棄したことがあった。
 そのあたりを整理したいと思い出して本書を読んだわけだけど、根本的にそのあたりをすっきりさせてくれるまでには至っていない。というより、十分コンセンサスがとれそうな仮定を置いていないようだということが理解できた。


 本書に従うと、まず刑罰の正当化根拠には応報刑論と目的刑論がある。応報刑論は刑罰による社会的な効果は棚上げにして、犯罪の反作用=正義の実現として刑罰を正当化する。一方、目的刑論は社会的な効果によって刑罰を正当化し、犯罪者の再犯を防止する特別予防、未犯罪者の犯罪を防止する一般予防が含まれる。
 応報刑論は正義の実現を目指すが、それは取りも直さず、ある特定の倫理観を正義として国民に押し付けるものであって、それを絶対的に肯定する論理がない。では目的刑論の特別予防を根拠とすると、教育が必要ない(再犯の恐れのない)犯罪者には一切の刑を課さない/教育が必要な犯罪者にはどこまでも刑を課してよい、を導くこととなって上下両方向に歯止めがきかない。このうち下方向への歯止めは一般予防を組み合わせることで実現できる。教育が必要ない犯罪者への刑は、一般予防の効果を保てる(人々が損得勘定から犯罪を自重する)ラインまでしか引き下げられない、と下限を設けられる。
 しかし上方向には一般予防と特別予防の組み合わせでは歯止めが効かない。予防効果はどちらも結局「必要があればどこまででも刑を課してよい」を導くためである。刑罰は人の自由を国家が制約するものであって、その制約が上限なしに可能では自由権が実現されないため、なんとかする必要がある。
 ここで上限を決めるために導入されるのが「非難」という概念である。犯罪について非難できる(非難可能性がある=責任がある)ときにはじめて犯罪者に刑罰を課せる。非難は犯罪それ自体に対して発生するのだから、非難としての刑罰は犯罪の軽重に応じて決まる。従って、どれだけ再犯の恐れがある犯罪者でも無限に刑を重くすることは許されず、上限が設定できる。
 ところで本書では明言されていないので著者がどう考えているのかは不明だが、この「非難」はとどのつまり、応報刑論に帰結するのではないか。本書ではこの後、「非難」の課題として以下の点があげられる。ある犯罪者に対して非難可能性をつきつめて考えていくと、その人がその行為(犯罪)を実行したことについて、結局責任などない、生まれと育ちには終に当人に責任を問えない、という点に行き着く。このときなお「非難」を成立させるために、将来罪を犯さないための動機付けとして「非難」を位置づけるという学説もあるというが、もちろんこれは目的刑論そのものでしかなく、「必要があればどこまででも刑を課してよい」を導くことにしかならない。
 つまり、本書ではそこまで踏み込まずに切り上げているが、刑法という体系全体が、応報刑論と目的刑論をあいまいにハイブリッドさせて、時代時代の世間の感情とおおむねバランスするように調整されてゆく雲みたいなもの(雲だとばれない程度に粘り気はある)でしかないということを意味しているのではないのか。


 これは、そもそもあらゆる体系が無根拠でしかあり得ないという性質に由来している。それは公理・仮定において主観的でしかあり得ない、演繹的な手続きで論理をさかのぼってゆく作業は永遠に続けない限りはどこかで打ち切らざるを得ないか、もしくは(先ほど「非難」が応報刑論でなければ目的刑論に転化したように)どこかで循環させて空中に置くしかないという、至極当然な体系の性質を、この「非難」という仮定で露出しているだけの話かもしれない。実際、本書も<このように、非難の意味については、なお議論百出という状況です。永遠の課題ということなのでしょう。>(p.56)という切り上げ方にちょうど現れているってかんじ。
 別に本書がダメってことじゃなくて、刑の体系がどうしようもなくそういう形になってる、って話。


刑法入門 (岩波新書)

刑法入門 (岩波新書)

大西巨人『神聖喜劇(一)』

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/41936698

大前田-神山がジャイアン-スネ夫キャラで現れて、お話作るのに都合いいしねと思ってると一気にはみ出して収まりがつかなくなってく。まだ1巻なのに。東堂が視点人物としてそれらを捉えようとするとき、あくまで具体的な言葉が先行するテクスト(引用)とどう関係を結ぶかに拘泥し続ける。大西巨人は小説もエッセイも一貫してこうで、自説を支える引用って範囲を超えちゃう。個人の思想の独立性より、言葉が不可避的に生じさせる関係性の方を根本で恐らく無意識に信じてるんだ。今たぶん意識的に近いことしてるのが青木淳悟の「男一代之改革」とか


 9年前に通読した時と比べて、はるかにクリアーに読めているので嬉しくなるが、「クリアーに読めている」というのはある種の制度に囚われていると疑った方がいいので、気をつけて読まないといけない。


メモ

  • 時間が異様に停滞していく。物語が進むことに抵抗していく。誰かの言動ひとつふたつが別のテクストをどんどん召喚していく。それは既にこの小説のなかで書かれた言葉なり、現実に存在するテクスト(詩歌、随筆、法律等々)なり、過去の記憶に基づく挿話なり。埴谷雄高の評に<「百歩を一万歩分で歩く」手法>(p.573)とあるのはこれ。
  • 物語は脱線するが、必ず対馬の教育兵としての生活の時間軸へ戻ってくる。それが背骨になっている(少なくとも1巻までは)。そこまでは解体していないためエンタメとして読める。
  • ただしテクスト上の現在は背骨としての対馬-教育兵の時間軸ではなく、戦後にある。全体が過去のこととしてパッケージングして書かれていることが明示されている。例えばp.34の<一人の婦人作家>の<戦後の作品>への言及。
  • 召喚された別のテクストがその背骨を侵食するようなこともない(少なくとも1巻までは)。そうしたことをしているのは例えばフォークナーの「アブサロム!アブサロム!」。
  • 恐らく大西巨人自身が、当人の認識の独立性みたいなものを根本では信じていない。それが過剰な引用に繋がっていく。筆者の別のエッセイ類も同じ態度が貫流している。物語を支えるため、自説を支えるためといった、補助的な役目としての引用の範囲を逸脱している。だから東堂太郎という人物の造形として引用過剰というスタイルを選択しているわけではなく、掛け値なしに全身で書こうとして結果的にこうなっているように見える。
  • しかし東堂が感情や印象を比喩や形容詞で表現することも妨げていない。だから、正確に言うと、当人の意識としては「表現できること」にさして疑いを持っていないのに、現実(テクスト的な現実)としてはその不可能性(というのが言い過ぎなら困難性)が出てきてしまう、それは本人が言葉にこだわってしまうところを起点に発生してしまう。
  • 「東堂太郎の超人的な記憶力」はキャッチーなので本作の紹介文として頻出するが、この点は、単に書物を自由に参照できない(軍隊生活で書籍の持ち込みが5冊に限定されている、決まった時間にしか読むことが許されていない)、という舞台設定から自動的に導かれた便宜的な設定でしかないと思われる。だからこの点に立脚して作品を云々しても豊かな読みからは離れるのではないか。
  • 戦地でない召集という舞台設定はかなり貴重。大人たちが教育の程度や職業などとは無関係に、およその年齢でくくって同じ場所に放り込まれて生活する、などという舞台は現代にはほとんど存在できない。子供だと公立小中学校が該当するが、高校、大学、職場では教育程度等々のフィルタリングが働いてしまう。あとは老人ホームを舞台にすればなんとか可能かもしれない。
  • 単純に、戦時中の当時の補充兵、教育兵の生活のルポとして面白い。あるいは軍規その他ルール、仕組みの資料として面白い。
  • 定形として、同班同年兵の誰か(冬木、鉢田その他)にフォーカスがあたる→当人の職業なり言動なりの紹介が入る。形式として安易なためやや退屈。今後、その形式を逆手にとるような形式への意識が見られるかどうかチェックする。
  • 定形として、章や節を閉じる際に、「テンコオォォォ」等の叫び、声が挿入される。8千枚の超長編には似合わない短編に近い切り上げ方。たった一回きりで使うならともかく頻出するのは長編の言葉の密度に対する意識(というか信頼)が足りないように見える。これも都合よく利用しているのか、それとも今後ずらして自ら裏切っているのか確認する。
  • 時々ふいに下ネタが挿入される。他の兵や上官の言葉の中に留まらない。特に大前田が銃剣の柄を押し下げて鞘が跳ね上がる様を<この短小なチンボコの突起が、しかし無残な殺気を放った。>(p.462)の箇所はこれまでの文体上では予想できない語句の挿入で驚かされる。下ネタがぽこぽこ入るというより、それらみんなが同じ地平で語られている。
  • 台詞は福岡、長崎、鹿児島のそれぞれの方言で書き分けられている(と思うが私には十分弁別できない)。地の文は標準語だが漢語が多用されていて、また俗語もふいに紛れ込む。引用では漢文、古文、英語、ドイツ語が入り、詩歌や俗謡などが入ってくる。言葉のバリエーションを増やしている。これも物語を含む制度への組織化への抵抗として把握できる。
  • 他の人物、特に橋本の性格・性質が物語や認識のリニアな進行を阻害してくるのもそうした組織化への抵抗のひとつとして機能する。
  • 大西巨人としてはこれ以降の作品の方が、西欧語に近い日本語になって比喩も減っているような気がするが、きちんと比較検討しないとわからない。どちらかというと本作の方が不正確というかまだ観念としての「小説らしさ」に捉われているように見える。例えば対馬行きの船上での冬木の目に関する描写や、村上少尉の初登場シーン。まだ5巻のうちの1巻目なので、ここから変わるのかどうか確認する。


神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)