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書名の「羽生」は、羽生善治という人の名前ではなく、その上に現れた思考の様態や運動、システムに付けられた名前のことなんだ。だから生立ちや性格、趣味嗜好には言及されない。しかもその「羽生」は「あった」ものではなく保坂和志が「見出した」ものだ。実際例えば棋風についてはほとんど保坂が小説の文体を語るのと変わりがない。あるいは羽生は将棋の可能性を広げる方向で指すという指摘も、最も豊かに羽生を読もうという本書の姿勢自体とパラレルだ。要するに保坂和志の読み方そのものが出てるってことだけど、結局そうでなくては面白くない。
面白いのに、例えば柄谷行人の柳田國男論とか読んでるときほどにわくわく感がないのはなんでだろ、とずっと思ってた。
ひとつは保坂和志を6年ぶりに読んでみたら、昔よりもはるかに言ってることが「よくわかる」という点で、自分の中で適切に、正確に位置を占めて収めることができるようになっている。それはつまり自分を超えず安心して読めるということで刺激はあまりない。
それから、柄谷行人だったら徹底して、従来どう語られていたのかという点を指摘した上で、それを更新するという見せ方をしてくれる。一体今まで人々がどのような読み方、制度に縛られてきたのかを明らかにしてそこから解放する。そこがないとやっぱり批評としては楽しくないけれど、保坂和志は小説家だしいいのか別に。
- 作者: 保坂和志
- 出版社/メーカー: 朝日出版社
- 発売日: 1997/05/01
- メディア: 単行本
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