やしお

ふつうの会社員の日記です。

属性でしか人を見ない

 職場で新人の指導担当になった。
 その人は、新人である、女性である、20歳である(平成生まれである)といった属性を持つ。職場の中には、そうした属性が喚起するイメージに全く忠実に従って接する人がいる。「新人だからこう」、「若い女性だからこう」といったイメージを元にして接しているのが、はたからよく見える。
 全く得体の知れない相手に探りをいれるため、属性のイメージを最初だけ手掛かりにするというのではない。いつまで経ってもそうした属性でしか見ないようだ。相手のことがわかってきても、「○○出身である」、「親が40代である」といった属性がわずかに増えるばかりだ。


 その「属性で人を見る人」のことを改めて考えてみたら、以前からそうだったといくつも思い当たるところがあった。
 6年前に私が配属されて以来、ずっと彼の中で私は「新人」という属性が張り付いたままになっている。3年目の時点でも他部署の人に「うちの新人が」と言うのを横で聞いて驚いたこともあった。
 それから今でも、彼の雑用の振り方に苛立ちを覚えることがたびたびある。雑用が嫌いなわけではない。いずれ誰かがやる必要があるのなら、誰が(私が)やっても構わないと思っている。ただ、私に振る必然がない雑事を、当然のこととして振る態度が気に食わないのだ。あなたがやるのが現状で最も効率がよい、といった判断が控えているように見えれば喜んでやれるところが、「雑用はこいつの担当」という属性を思い込んだ上で振られるから落胆する。「今自分の手が一杯なのでやってくれると助かる」の一言でもあれば済むことだ。
 その人はグループのリーダーを務めている。よく他のメンバーが「あの人は、俺が『○○担当だから』と決めつけて、状況も見ずに関連する仕事の全てを振る」と愚痴をこぼすのを聞く。
 属性で判断すれば、その当人やそれを取り巻く状況を見る必要がないため、楽であるし早い。もちろんそれで上手くいくときもある。


 当人の属性だけを材料にして接する態度を見せられれば相手は、ああ、この人は自分のことなんか見ていないのだなと思う。
 それを回避したくて、新人について「若い女性だから」といった属性を「この人」として見るより前に立てないように最初に気をつけた。初めにそうした態度を選択するとそこから抜けることが難しいからだ。例えば修士卒の男性の新人だったとしても同様に接するだろうというつもりで接する。それで気負わずに、妙な気を遣うこともなく付き合っていけている。
 荷物を運んだり何か作業するときも、最初から「女性だから無理だろう」と思うのはやめて、「とりあえずやってみて。無理だったらそう言って」と言うようにしている。「女性だから」と気を使い始めると際限がなくなる、スマートにその程度を保てるほど自分は器用ではないと思って、出来る限りフラットに接するように心がけている。
 「新人だから」という属性にしても、固定化した見方になっていないか気を付ける。「新人」と一括りにしても日々内実は変わっている。昨日よりもできることが増えている。それから個人差もある。もともと物事のこなし方を心得ている人から、まるで世間慣れもしていない人まで千差万別だ。本人の知識量なり理解力なりに応じた接し方に変えるのは当然のことだ。


 そうして自戒しつつ接している。しかし一体、属性で見るという態度から自分が免れているなんてことがあるのだろうか。グループリーダーも私も、他の誰もが、程度の差があるばかりで、結局属性で人を見ているのではないかと疑っている。
 とは言えその程度の差こそが肝心なのだと思い直す。属性を絶対視しないこと、属性で自分が見ているのではないかと疑い続けること、その態度の差が問題なのだ。属性を必要に応じて括弧にくくれること。属性で見てしまうことから逃れられないのなら、あたかも連続しているように見えるまで属性の数をむしろ猛烈に増やすこと。自身の制約を見つめた上で、戦略的に態度を選択できれば良い。


 ところで現実には往々にして、そうした属性で扱わないと不機嫌になる人が案外多くいる。「私は若い女性だ」、「私は○○オタクだ」、「私は日本人だ」等々の属性を前面に立てて迫ってくる。アイデンティティを属性に担保させなければ生きられない人たちにとっては、その属性が尊重されないとき、自分自身が否定されるのと同じだから反発するのは当然なのだ。そうした人だと判断がつけばかえって楽で、その人を見ようとはせず属性だけを見ていればいい。後は急に属性を変えてまた押し付けてくるので、その変わり目を逃さず捉えるように気をつけるだけだ。
 そうした人たちが現にいるからこそ、属性でしか人を見ない人が養成されてゆく。属性で見ておけば上手くいくのだから、それを成功体験として自分の態度決定の糧にして安住する。