やしお

ふつうの会社員の日記です。

課長になって中間管理職みを味わう愉悦

 日本の大手メーカー、いわゆるJTCで課長になって4ヶ月が過ぎた。世の中でよく言われる中間管理職みは確かにあるって実感と、それを生じさせる要素や機序も少しは見えてきて面白いなって気持ちもあり、忘れないようにメモしておこうと思って。


基本情報

 新卒で入社(22歳)→品質管理系の部署で係長クラス(33歳)→別の生産管理系の部署で係長クラス(37歳)→前の部署に戻って課長(39歳)、という流れ。
 課の人数は自分を含めず20名いる。課には機能別ではなく、担当製品で分けた2つのグループがある。


巷間で言われる中間管理職み

 よく世の中で語られる中間管理職のつらさは以下のようなものがあるだろうか。

  • 板挟みの立場:経営層と現場の間での板挟み、裁量が小さい割に責任が大きい。
  • 心身への負担:労働時間の長さや業務負荷の高さ、プレッシャーの大きさ。
  • 報酬面での不満:残業代のなさ、業務量や責任に対する報酬の低さ。
  • 人間関係上のストレス:メンバーのモチベーション維持。組織内・組織間のコンフリクトの調整。

 それぞれ実際にそういう面はあるなと実際なってみて感じた。


労働時間

 労働時間はかなり増えている。9年前から毎月の時間外労働と、6ヶ月移動平均の推移を記録していた↓



※課長になるちょっと前に60h超の月があったのは突発的なビッグトラブル対応のためでイレギュラーだった。


「月に40~50時間の時間外労働」だと「月に5~6日余計に働いている」のと同じで、日々のプライベートの可処分時間がかなり減っている。
 昨年に小説が出版され、プロの作家業も始めた。次の本の企画と、さらにその次の企画と2冊が待ち行列に入っているのに、執筆ペースがめちゃくちゃ遅くなっている。このブログやカクヨムにも書きたいことがあっても全然書けていない。この課長になったよ記事も、当初は2ヶ月目くらいに書こうとしていたのに、もう4ヶ月が経ってしまった。10年ほど前、30歳くらいの時はほぼゼロに抑えていた時期があった。あの頃はブログ記事を2日おきに結構な長さで書いていてびっくりする。
 絶対に睡眠時間を削りたくない(早死にしたくない)。帰ったら夕食→洗い物→入浴→歯磨きを「途中でうだうだする時間」を挟まずにすみやかにして23時くらいに寝て、朝6時~6時半に起きて、朝に会議が入っていない日は9時くらいに家を出て、その朝の時間に書き物をしている。
 夕食の用意がいつも妻側の作業になってしまって申し訳ない。
 通勤中にホームの待ち時間や電車内、昼休みの一部なんかの数分~5分のこま切れの時間を読書に充てている。


日々の働き方

 平均的には1日あたり、

  • 会議・打合せ:3〜5時間
  • メール:80~100通=2~3時間
  • 承認関係:30分~1時間
  • 打合せではない課員との会話や進捗確認:1~2時間
  • 自分でやらないといけない作業:1~2時間

くらいのイメージ。
 夕方になると会議やメール受信も減ってきて、その日に溜まった仕事を片付けていき、だいたい2〜3時間/日の残業、日々でやりきれない分、土日のどっちか半日に在宅で業務、というパターン。
 イレギュラーに大きなトラブルが発生したら、担当者と一緒に入って軌道に乗るまで/十分に担当者のみで対応可能な粒度になるまで伴走するので、突発的にはそうした業務が発生するが、その突発がそれなりの頻度である。


 前の部署で係長クラスをやっていた時は、平均で会議6時間、メール120通くらいだったので、その点はむしろ減っている。以前にそれを一度体験しているので「大量に情報が流入してきて、どんどん判断して人に振る」のに慣れたことで耐えられている気もする。
※なお前の部署で結構きつかった時の記事↓
  中年会社員が部署異動してつらかった話 - やしお

 一方で「最終的に課のケツ持ちは自分」があると、今まではざっと横目で見ておけばよかったのが、しっかり「これって大丈夫だっけ?」と見ることになるので時間がかかる。


「自分でやらないといけない作業」というのが、目標管理や予算管理だったり、業務やプロジェクトの(途中で誰かに引き渡すとしても)端緒で自分自身がまとめたり、といった誰かに振るわけではない業務が一定程度ある。


組織規模

 20名という課の組織規模が少し大きいことも、労働量が増える要因にはなっている。「一通りの課のインプット/アウトプットを課長が知ろうとする」、「課員と一定のコミュニケーションを取ろうとする」と残業が非常に増えてしまう。
 課を分けて規模感としては半分ぐらいの方が良いのかもという気がする一方で、課で分けてしまえるほど業務内容が分離しておらず、横串の活動も多いし、両グループのメンバーで対応している製品群もあって一体的・機動的に動けた方が良い気もしていて悩ましい。
 管理職向けの研修で、外部の講師からも「一般的にはせいぜい10名程度が良いとされています」という話もあった。実際、課員が3~5名しかいない課もあり、「それで同じ給料か~」という気持ちもあるはある。20人もいると四半期ごとの課員の評価や面接だけでも大変。
 ただ人数が少ないと課長がプレイヤー寄りになったり、課員間での複線化が困難だったり、また別の忙しさもあって、実は労働時間自体はそう減りもしなかったりするのかな? とも思う。


給与

 課長になると労働基準法上の「管理監督者」となることで、残業代(時間外給与)がなくなる。なので時間外労働が増えていくと、どこかのポイントで課長より課員だった頃の月給が高くなる逆転が発生する。その分水嶺をざっくり計算して、課長になる前の水準で今の時間外労働だと、課長就任前ととんとんか逆転してるのが実状。これは「しっかり自分自身の業務もマネジメントして課長の時間外を減らせ」という意味合いでもあるのかと思う。
 今の給与体系だと「課長でも係長クラスでもなく一般社員として働く」のが「コスパ」としては一番いい気もする。
 ただし賞与を含めて年収で考えれば逆転は起きていない。


 (それが事実かは不明だが)「日産がホンダとの統合(子会社化)を拒んだのは、日産の役員報酬が高く、その報酬の維持を望む判断が役員に働いた結果」といった噂を思い出すと、「報酬が高過ぎると、組織の利益よりも自己の利益の確保を優先してしまう」ような機序があり得る。その意味では、むやみに課員と課長の報酬差を広げる弊害もありそう。
 課長の給与水準をぐんと高くすると、「課長の座」を無理やり維持しようとする人が出てきたり、また人事権者の側も生活影響やモチベーション維持を考えて交代に躊躇してしまったりする。課長側も後継者育成のインセンティブが働きにくくなったり、カジュアルな交代が起きにくくなったりする。組織の健全化という意味では、ある程度、管理職が循環していく方が良かったとしても、給与の大きな差がそれを阻害するような方向に働き得る。


 あまり報酬面での旨味がないと課長を目指す人が少なくなるし、あまり旨味を増やし過ぎると課長にしがみつく人が増えて適正な循環や後継者育成が起きなくなる、というバランスでの設定があるのかもしれない。
 管理職の流動性をもっと高めている会社だと、ほぼ報酬差をなくして、課としての単位も緩めて、「ただの役割分担」としての管理職で都度都度変わっていくみたいな人事制度・組織体制を取っている事例をテレビでしばらく前に見た気がする。
 従来の大企業らしい会社組織と、そうしたフラットな組織体制とのあわいにいるのだろうか。


 ただもっと俯瞰して見ると、肉体的・精神的にはるかに大変なのに薄給な仕事は世の中にたくさんあって、今の会社は給与水準がそもそも高いので、文句を言う筋合いにはない気もしている。会社の中だけで見ると相対的にコスパが良い/悪いみたいに見えたとしても、そもそもお前ら恵まれてる側じゃん、というのを忘れるとおかしくなってくる。


業務①:人事評価・成績評価

 この領域は課長になって初めて発生して、かつ最も中間管理職みのある業務だと感じた。
 自分でコントロールできる範囲がかなり限定されているのに、あたかも自分が決めたかのような言い方をしないといけない、というところに「中間管理職み」を強く感じている。


 被評価者(課員)に対して、毎半期ごとに人事評価(成績)を伝える。この時、「自分は決めてない」「上が決めたから」といった言い方は禁じられている。自分が課員の立場で上司からそんな言われ方されても納得できないし困るし意欲は下がるから、そんな説明が許されないのは当然だ。
 他方で、現実には課長が決められる領域は限られる。労務費の総量がコントロールされる以上、課長たちが好き放題に課員の評価を上げて給与が上がっていくのを、そのまま認められるはずはない。そのため部門間の調整が入る。課長としてはマネジメントとリーダシップを通じて課全体/課員個々のアウトプットをしっかり高めて、それで部門間調整でパイをしっかり取ってくるようにしなさい、という話ではある。自分を売り込んだりアピールする行動様式に慣れていないのでちょっとつらい。


 さらに、たとえ課長本人の中で課員の評価が低かったとしても、簡単に下げることはできない。本人のモチベーションへの影響、給与減による生活影響を考慮すると、部門間調整の中でも頑張ってアピールして維持または上げられるようにしていかないといけない。
 というわけで、好きに上げることも、好きに下げることもできないが、あくまで「私があなたを評価して決めた」と納得性の高い理由を示した説明が求められる。


 そうした制約の中で、課長は以下のような作業を通じて、評価者/被評価者の納得感を醸成していく。

  • 課の半期ごとの活動とその目標を具体的に設定する。
  • 職責(役割)の領域とレベルのマトリクス(評価軸)を、具体的に納得のある形で設定する。
  • それらと課員個人のアウトプットをきちんと繋げて、客観性のある「だからあなたの成績がこうなる」を作る。

 これをしっかりやれば、「自分が決めたわけじゃないけど、自分が決めたみたいな言い方をしないといけない」という課長の内部で心が分裂する状況も低減され、課長と課員の双方にとって苦痛な状態はかなり避けられる。
 まだそれを融通無碍にやれるレベルに自分は至っていない。技術を上げる必要がある。


 その昔(10~15年前)は、ほとんど年功序列的な賃金体系で、成績評価と給与の紐付きが薄い仕組みだった。若手もベテランも業務量ないし価値創出の水準の差分以上に、ベテラン側に賃金が傾斜配分されていた。それだと「長くいた方が得」となり、終身雇用制と表裏一体の仕組みだった。
 それと比較すると、納得感という点で今の人事制度の方が健全だとも感じる。
 ただその納得感の構築が課長に大きく依存していて、作業負担がかなり大きいのも事実ではある。(こういうのこそ生成AIがそれらしい叩き台を作ってサポートするのが得意な領域だとも思う。)


業務②:承認行為

 課長になると担う承認行為がたくさんあり、これも中間管理職っぽい。担当者や係長の時は触れていなかった予算や勤怠管理に関するものも多い。通常業務の技術書類等々への承認も含めると日々かなりの量になる。自分でなくてもいいような承認を下位者へ代行するよう振り分けて、少し自分の負荷を分散させようとしている。


 明示的な承認行為でない、暗黙の承認もたくさんある。
 担当者間のメールのCCに課長が入っていて、特に容喙されずに進行している場合、それは「暗黙的に課長が承認している」と見なされる。なので目を通して、「ん?」と思ったことはきちんと確認を入れていく必要が生じる。


 明示的/暗黙のどちらも、中身を見てチェックする作業を丁寧にやるほど膨大な時間がかかる。現実問題としてやり切れないし、マイクロマネジメント的になる。一方でいざという時に「お前がケツモチだろう」にはなるので無視もできない。というバランスの中でやっている。これも管理職によって「ほぼ見てなくて担当者任せ」の人から、「ほぼ全部自分で入り込んでる」人までバランスのとり方は人それぞれになっている。


業務③:予算管理

 これも担当者~係長の頃は全体像を知らなかった領域なので新鮮だった。
 正社員の時間外給与、派遣社員の給与、出張の宿泊費・交通費、備品など少額の物品購入、設備の取得やメンテ費用など、四半期ごとの予算を年度で立てて、実績を管理して、必要に応じて増減などのコントロールして、といった作業が発生する。これは会社によっては「そんなことまで課長がしてるの?」かもしれない。
 例えば時間外勤務も、昨年度の実績がこれくらい、管理部門からの削減要求がこれくらい、みんなの業務がこれくらい、なので○時間を目安に抑えてね、みたいな感じでやってる。
 とりあえず自分が何も知らないのは気持ち悪いなと思って、勉強のために自分で中身の精査などはやってみたものの、今後は標準化してそれぞれ担当を決めてやってもらうように仕組み化していこうと思っている。(正直、チェックは課長がやった方が良いが、細かい調整まで自分の手でやる必然性は薄いとも感じる。)


業務④:環境整備

 職場環境に関して課員からのクレームはまずは課長に来るんだなと改めて思った。例えば職場レイアウト上の文句や、他のメンバーに対する疑問が投げかけられると一瞬「よろしく周りで解決してくれ~」と思うんだけど(態度には一切出さずに真剣に受け止めるけど)、よく考えると言う相手は課長しかいないな、担当者間で対立するより一旦上げてクッションにしてもらった方が何十倍もありがたいかと思い直す。
 自分で対応すると停滞するので、きちんと必要性と方向性を伝えつつ粒度を落としてパッケージングして、課のメンバーに作業を渡してやってもらう。そこまでの業務負荷も無視できない程度は発生するけど、それくらいは必要かと今のところ思っている。


 よく世の中の中間管理職が、「部下に仕事を渡したくても拒否されるので上司が自分でやっていて疲弊する」という話を聞く。そういうことがあまりないので、本当に恵まれている。
 こちらも「やる意味がそもそもない」ということならお願いしない(し、やる意味ないと言われて納得すれば取り下げる)けれど、「いや、それ私の仕事じゃないんで嫌です」みたいなことはあまり言われないのでありがたい。


 環境整備を広く捉えれば、課内の人間関係を良好に保つこともその一つになる。
 これも本当にありがたいことに、課の中で感情的な対立があって業務を一緒にできない人がいる、といった特殊対応がない。社会人なんだから好き嫌いは別にして仕事するのは当たり前だろ、と言われればそうだけど、現実にはそれが難しい人もいるだろうし、そうしたメンバー間の対立を抱えてかじ取りする課長だと非常に気苦労が多いだろうとも思う。
 課長になる以前に担当者~係長として過ごしていた部署で、ほぼ全員お互い知っている人なので、一から人間関係を構築していく必要がなかったのもありがたかった。あぐらをかかないように、雑談がてらでもなるべく課員の話を聞くようにしている。自分が担当者だった時は「自分が何やってるかを課長が理解してくれている」と感じられるだけでも気持ちが楽だったのを思い出しながら。


 課員が業務をむやみに拒否しない、課内の人間関係が良好であるのは、会社が長年構築してきた雰囲気だったり、一定以上の給与水準によってそうした人材を確保してきたおかげで享受できているベースの環境なので、それはイージーモードでやらせてもらっているんだと思う。
 世の中には、そもそも社員が時間通りに出社してくれない、黙っていなくなる、備品を盗むといった水準で苦労している職場もたくさんあるのだろうし。


機械みたいな感じ

 よく日本の会社だと「学生時代や若手社員時代に専門分野で活躍していたのに出世したら非創造的な雑務で使い潰している」みたいな話がされることがある。ここまでの中間管理職みのある業務を並べてみると、確かにって感じではある。


 日々大きな戦略を考えている、などということはなく、ほぼメールや打合せで「反応」しているだけに過ぎないとも感じる。自分が言っているというより、立場と状況が自動的にそう言っているみたいな時もあって、それは担当者や係長でもそういう時はあるけど、課長の方がよりそういう範囲が大きくなっている。生成AIが喋ってるみたいだなと自分で自分の発言に感じる時もある。人間というより一種の機械というか機関とも感じる。


 ただ、結局「反応の癖」みたいなものはにじみ出ていて、それが無視できない程度に組織の雰囲気や価値観の形成に効いているんだろうとも思う。管理職の仕事は判断することともよく言われるけれど、判断を通じて組織に価値観を浸透させる機能の方が重要なのだろう。
 課長からツッコミや否決、修正要望が来ると、担当者にとっては手間なので、「あの人だとこの辺に引っかかるだろう」と先回りして最初からアクションを取るようになる。上司の価値判断が部下に内面化されていく。
 ただしこの価値観の浸透が起こるためには以下の条件が必要になる。

  • 決定権者の判断に予見性がある。考え方、理屈、判断のベースが一貫していて説明可能である。(結論に固執するという意味ではない)
  • 下位者の側に決定権者の判断を内面化できる能力がある。「あの人だったらこう言うだろうな」をある程度正確に考えられる。

 その意味ではころころ課長が変わると大変。
 そう考えると「反応してるだけで虚しい」ともあまり思わない。


 私自身は「専門領域で卓越した創造性を発揮していた」とは言い難いのと、こういう仕事を嫌いではないと感じているので良いけれど、それが苦痛な人/専門領域で活躍させないといけない人に対しては、課長人事の流動性と、マネジメントとは別にプロフェッショナルとしてのキャリアパス(給与水準)を用意することで、人事制度としてはカバーされている仕組みになっている。


人員の流動性

 ここまで所々で人事的な面での流動性が高くなっているといった話を書いていた。
 入社した16年前の時点では、年功序列的な性格が強い賃金体系だった。それは「早く退職すると損」を意味するので終身雇用とセットになる。
 管理職に至るまでに職層がいくつか分かれていて、職層が上がるには昇格試験に合格する必要があった。年数の経過によって貯まるポイントがあり、一つの職層の中でもそのポイントの多寡によって給与が増加するため年功序列的な賃金体系となっていて、また昇格試験の受験資格として一定のポイントが必要な仕組みだった。ポイントの溜まり方に若干の速度差があっても、おおよその年齢に至らないと受験資格が得られない。
 普段の評価が高く、ポイントの配点が多かったり、途中の昇格試験に一発で合格し続けたりすることで、よほど早いと40代前半で管理職になり、多くは40代中盤~50歳前後で昇格といった感じだったと記憶している。その差にやや実力主義が存在していても、大きくは年功序列となっていた。
 試験の合格と、管理職としての適正は必ずしもイコールではない一方で、管理職試験合格者でなければ課長には就けられない制約があり、「若くて適性があっても管理職には就けられない」「周囲から見て(あの人は課長はちょっと難しくないか)と思われていても他に有資格者がいなければ課長になる」という状況だった。もちろん部長や課長として優秀で相応しい人もいっぱいいたけれど。


 現在は、実際に割り当てられた職責に応じて職層が定まり、その職層に就くには試験が必要ではない、といった人事体系になっている。管理職人事もそこに縛られずに、課長も比較的若い人がなるケースもあれば、50代のベテランがなるケースもあり、年齢のファクターに左右されなくなってきた。現実的には30代後半でかなり若いという感じで、まだ20代後半で課長という事例は近辺で見かけないが、仕組み上は可能なのでそのうち出てくるのかも。
 以前は5年、10年と課長を続ける人もざらにいて、若いうちに辞めると不適格の烙印っぽさもあった気がする。今は数年で課長を辞めて担当者に戻ってまた別の部署の課長になって、といった事例も普通に見られるようになってきて、「降格人事」ではなく「役割分担」という雰囲気になっている。
 管理職人事の流動性が上がっていると感じる。


 管理職の流動性だけでなく、全体としての流動性も上がっている。事業部間の人事異動も中途入社も昔は珍しかったのが今はとても増えている。自分の課のメンバーも4割が他の事業部の出身、1割がキャリア入社。5割が生え抜きは多いようにも見えるが、そのほとんどが若手社員という構成。


 これは外部要因としての少子化影響や、会社自体の業績影響、要求スキルの流動性上昇(リスキリング要求の高まり)などが起因しているのかもと想像している。社会全体の労働市場流動性が上がる中で、新卒を大量に確保して終身雇用を維持するという昔の大企業ムーブがもう不可能になっている。
 キャリアに魅力を持ってもらえるように、社内でも違う業務にチャレンジできるようにするし、社外に出ていく人もいれば入ってくる人もいる。


 個人的には選択肢が増えて良いかなと感じている。
 昔のように「ゆっくり一つの仕事を極めていって40年を過ごす」スタイルが許されづらくなっているのは、人によっては苦しいかもしれない。ただ流動性が低くて閉塞感が強い組織よりは過ごしやすくなったなと感じている。
 それでいて「会社側が簡単に労働者のクビを切れない」という安心感が一定程度はあるのもありがたい。(会社側が人員を縮小させたい時は早期退職の優遇策を出す。)


 これも別の大手メーカー、JTCの事例を報道などで見ると、今も昇格試験に縛られていたり、流動性の低さによるつらさがまだまだ大きい会社もあるようだ。今いる会社は国内では大手とは言え、世界的に見れば中小企業といった規模感なので、そうせざるを得ずにいるということかもしれない。


やりがい

 これが結構楽しい。
 最初はひょっとして何かテンションが上がっていて後から嫌だ嫌だになったりするのかなと思っていたけれど、4ヶ月経った現在でも面白い、楽しいと感じている。

  • 一つポジションが上がってアクセスできる情報が増えたり、「そうなってたのね」と仕組みが知られて面白い。
  • 課の単位でやるべきこと・やりたいことの方向性を自分で(完全に自由ではなく制約はあっても)決められる。
  • 課内の業務の改善ができる。改善が進む気持ちよさがある。
  • 変な案件をしっかり整理してパッケージングして人に渡す繰り返しの快楽がある。(作業パズルゲームみたいな)
  • 相談を受けて頼ってもらえている感がある。(頼りがいがあるかは不明だがそういうポジションなので)

 

 たぶんそもそも、ある程度指示を出せる相手がいて、どんどん指示を出していく作業そのものに、一定の中毒性があるんだろうと感じている。
 そういえばゼルダ無双を遊んだ時に「最初は大量のザコ敵をばんばん倒せて楽しい」だけだったのが、だんだん「あっちはこいつに担当させて、その間に自分はこれをやって、終わったら今度は自分がそっち行って、あいつにはこれを指示して……」みたいになってかなり忙しかった。これでゲームとして成立する=楽しいと思わせられるんだから、指示出しにはゲーム性があるのかもしれない。


 ゲームでも自分のレベルに対して「簡単にやれること」ばかりだと飽きてくるので、「少しチャレンジングだけどやればクリアできること」だとちょうど楽しめるのと同じで、今の自分にとってこの部署の課長業がそのレベル感で合っているんだと思う。
 これが前の部署だと、そもそも担当者として経験のない分野で係長レベルで精一杯だったし、グリップ感が十分に得られなかったし、課長やれと言われても絶対に無理って断ってた(しそもそも任せられるわけない)から、「この部署だったから」はある。


 期初に、課の方針・ミッション・注力領域などの説明をした。過去こうで、この数年で内外の環境変化がこうで、将来こうある必要があって、だから今期はこの領域に注力したい、それで今期の課の目標はあれやこれや、という話をした。「ちゃんと未来に向かって進んでる」感がないと仕事しててもつらいよねとも思って。
 もともとこういう改善をしたいと思っていたこともあって充実感を覚えた。


 一方で、課を超えたプロジェクトを企画したり主導したりしないといけないと、やや気が重くなるのも分かった。あるいは組織の役割そのものを変えていくような議論を進めるような時にも少し気の重さを感じた。
 こうした領域は今まで体験していなかったので、「まあだいたい自分ならできるだろ」という成功体験の積み重ねで生じる安心感がまだないので、ちょっとナーバスになるんだなと思う。
 20代前半の時に、品質問題で客先へ訪問して原因や対策の説明しないといけなくなると、前日にはもう本当に食事がしんどいくらいに気が重かった。今ならもちろん緊張はしても、「これくらいしっかり準備をしていけば、後は何とかなる」という気持ちで大丈夫なので、そうやって慣れていくのだろう。


中間管理職み

 課長になってから、残業がすごく増えて、責任も増えて、専門領域と関係ない管理業務も増えて、それでいて給与面がものすごく上回っているわけではない、という状況を見ると、世の中で言われる「中間管理職のつらさ」そのものになっている。ただその中身、どう発生しているのかを見てみると、ある種のバランスで成立してるんだなとも思った。


 ここまで書いたように、この記事で最初に上げていた中間管理職のつらさについて、「そうそう」という面と「そうでもない」という面がそれぞれある。

  • 板挟みの立場
    • そうそうの面:自分で決めていない・決める裁量のないことを、あたかも自分が決めたかのように言わないといけない。特に人事評価で感じる。
    • そうでもない面:そこを調和させて納得感のあるストーリーを建築する営みの余地は案外あって、面白みややりがいを感じる。
  • 心身への負担
    • そうそうの面:労働時間がかなり伸びている。より上位への説明責任や課のケツモチ責任が課せられるプレッシャーはある。
    • そうでもない面:プライベートの可処分時間は0ではない。40時間超という時間外水準は業種によっては大した事ないかもしれない。(私は週休3日・1日6時間労働くらいにしてほしいと望んでいるので週休2日+1日8時間+月40時間超の時間外の労働は長過ぎると感じるが……)
  • 報酬面での不満
    • そうそうの面:残業代がなくなる+労働時間が伸びることで課長になる前と月収で逆転が起きる。大変さとのバランスだと一般社員の方が「コスパ」が良いと感じる。
    • そうでもない面:そもそも年収で考えればいい収入を貰っている。一般社員と管理職の給与差も大き過ぎると管理職のしがみつきを生んで不都合もある。
  • 人間関係上のストレス
    • そうそうの面:メンバーのモチベーションの維持や不満の解消を気に掛ける必要がある。
    • そうでもない面:ある程度みんな自分でコントロールしてくれている。

 

 古い大企業ではありながらさほど大きくもないため、旧態依然とし過ぎずに(古さを維持できるほどの余裕はなく)、かつ人や給与面の水準が高く維持できているおかげで、この環境が享受できているのだと思う。この「そうでもない面」がなくて「そうそうの面」しかなければ、かなり苦しみに満ちた中間管理職を過ごすことになったのだろう。


 1年でころころ課長が変わると課員としてはやりづらいので、せめて2年、業務改善の効果などもある程度見えてくるところまでだと3年くらいはやった方が良さそう。5年は長過ぎる。
 もちろん私の能力が不十分と見なされて1年で降格だってあり得るかもしれないし、先のことは分からないけれど、2~3年くらいで、できれば内部昇格で課長を誰かに引き渡したいといった気持ちがある。「そうそうの面」しかないと辛過ぎるが、「そうでもない面」もあるし、一定の楽しさもあるので、その辺をちゃんと伝えていきたい。





いろいろ他に思ったこと

 ここまでが、主に「世の中で言われる中間管理職みと、実体験の話」で、他にも色々課長になってみて面白かったことのメモ。

  • 【内示】てっきり「課長になってほしいが、どうか」と打診されるのかと思ったら、組織変更+部課長人事を示されて「こうなっているのでよろしく」という説明で意外だった。
    • 「はあ、わかりました」みたいな返事になってしまった。
    • 確かに各種の調整が済んだ状態でないと本人に開示できないから、そういう言い方になるのかも。
  • 【開示前】内示(2月末)から全体への開示(3月中旬)まで2週間ほどのタイムラグがあった。
    • 現+新任の課長以上には先に共有されていたが、一般の社員への公開との間にタイムラグがあった。
    • 別の部署の課長がすっと寄ってきて小声で「がんばってね」と言われたり、すれ違いざまににやにやしていたり、なんとなく「こっち側へようこそ」みたいな感じがあった。少し面映ゆかった。
  • 【全体開示後】祝賀ムード感があって面白かった。
    • 課内外の人から「おめでとうございます」とにこにこ言って貰えて、なんか恥ずかしかったけど嬉しかった。
    • 組織変更と部課長人事が割と大きかったからか「決起集会」が開催された。新任部課長の決意表明? コーナーで観客が囃し立てたりしていて「祝ってる」感があって良かった。
  • 【引継ぎ】ポジションが上がると引継ぎ完了ポイントが後ろに倒れていく構造があるのかもしれない。
    • 昔、担当者として異動した時は、早々に引継ぎを済ませて、異動前はむしろ暇になっていた。
    • 今回、係長クラスで異動した時は、自分で最後まで係長業もしつつ、いなくなる前に完結させたい業務に取り組んで、新任課長になる前準備もして、とやっていたらかなり土日出勤もしつつ最後まで多忙だった。
    • 前任の課長は、前下半期の課員の成績評価業務があって、退任後も前職の業務をする形になっていた。
    • 異動日をゼロとすると、引き継ぎ完了ポイントが担当者はマイナスだったのが、ポジションが上がるにつれてゼロに近付き、課長になるとプラスになる、みたいなシフトしていく構造があったりするのかも。
    • 引継ぎの難易度が高く伴走が必要な業務が増えていくからだろうか。
  • 【1ヶ月目】いきなり突入した感があり多忙だった。
    • ルールやシステムを理解して処理する繰り返しを、やってもやっても終わらないと思いながらこなした。
    • 年度始めの行事:目標管理(期初の課の目標設定、課員の目標設定の面接など)、予算編成(設備費や労務費などの今期の編成)、人事評価(職責に応じた課員のランク付け)、新卒配属者の対応(教育の準備、各種事務手続き)
    • 組織変更・人事異動に伴う対応:各種システムの承認者変更、組織名称の変更(名刺手配、業務手順書・帳票類の変更)
    • 課長の平常業務:日々の承認行為(勤怠や設備等の購入、技術文書など)、業務の進行管理(進め方の相談や担当のアサインなど)
  • 【研修】課長は経営層の入口になっているのだと研修の内容を通じて改めて感じた。
    • 3ヶ月目から管理職向けの必須研修がいくつか始まった。最初は「なる前に教えてよ」と思ったが、一定程度経験して苦しんでからの方が「これがあれか」と実感を持って受けられる面はあるのかもしれない。
    • 実務的な研修だけでなく、会計やコーポレートガバナンスなど教養的な研修もあった。
    • 経営層からの発信を咀嚼して課員に伝える役目だから、課長に身に着けさせる意図があるのだろう。
    • それ以外に、プロ経営者ではなく内部昇格で社長が交代していく日本的大企業だと、課長が経営層への入口になっていて、一部の人はさらに上に行くからこの時点で身につけさせる必要があるという意図があるのかもしれない。
    • こういう研修プログラムにそれが垣間見えるのは面白いなと思った。

 

課長の技能

 自分が抜群に何か優れているのか? と自問すると特にない。過去の上司や他の部課長を思い返してみても、色々な領域で自分よりもはるかに優れている人がたくさんいる。

  • 技術・専門領域に長けた人
  • 組織特殊的な知識に長けた人(人を知っている、組織独自の事務やルールに詳しい、過去の経緯を知っているなど)
  • ロジックの構築力に長けた人
  • QCDにこだわり切れる人
  • 根性がある人(時間的な奉仕度が高い)
  • 課員のエンゲージメントを高めるのに長けた人
  • 人の感情の機微を把握して話の通し方や手順の組み立て方が上手い人
  • 部下を叱るのが上手い人
  • 口八丁で身を躱すのが上手い人

 

 その一方で自分がそこそこできているかなと思うところもある。

  • 他人の優れた領域を認識できる。プライドに阻害されて妙な嫉妬心で受け入れないなどがあまりない。
  • 人のことを「すごいな」「あれはいいな」と思ったら少し近付けるように時々頑張る。
  • その結果で上記のそれぞれで苦手すぎるものがない。どれもそこそこはできる。昔は不得手だったのが、むしろ人から「よくできている」と言われて驚くこともあるし、そこまで達していなくても昔より改善されていると思う領域もある。
  • 全然怒らない、優しいと言われて「そう見えるのか」と思った。昔はすぐ苛立つのが自分の欠点だと悩んでいた。相手の立場考える、罪を憎んで人を憎まずを続けたらそうなった。
  • ストレス耐性がないと思って頑張り過ぎないようにしてきた。業務量やプレッシャーの増大に十数年かけて慣れていった結果、無理せず耐えられる範囲(時間)が増えた。(過信しないように気をつけ続けないといけない)
    • トラブルが起こると「ああいやだ」というより「よっしゃ」となるのも、この品質管理系の部署には合ってるのかもしれない。
  • あまり人に興味のないタイプだと思っていた。メンバーのエンゲージメント向上というか、話を聞いてもらって「分かってもらえている」と思えるだけで救われることも実体験として分かったので話を聞くようになった。
  • 一般的にはリーダーシップとマネジメントの両輪と言われる。係長の時はマネジメント、特にリスクマネジメントを重要視して考え方をまとめつつやってある程度身についたと感じる。
    • 4年前に「考え方をまとめてた」もの→リスクの洗い出しと判断のコツ - やしお
    • 一方のリーダーシップ側も必要性を感じて、あれこれしている。内外の環境変化がこうあって、ゴールとしてここを目指して、現状がこうで、なので今これをやっていくといった課の方針の話や、それがメンバーのおかげで着実に進んでいるのを可視化して定期的に伝えていくようにしている。進んでいる感じがないと苦しくなるし。

 

 そんな感じで、すごいなと思う人達もたくさんいて、自分ができてないなと思うことも多々ありつつ、見習いながら自分を改善させていきもするけれど、結局のところ人間なので「やれるようにしかやれない」と割り切っている。
 愚直にやるしか結局はないよねと思って愚直にやっている。


気持ち的な部分

  • 工業高専出身で、学校では「お前らはエンジニアになるんだ」という教育を受けていたけど、だいぶエンジニアではなくなっちゃったという気持ちもある。自分がそういう方向での努力はしていないから残念とは思わないけれど、学生の時の自分は自分がこうなってくとは想像もしなかったなって。
  • 執筆業、作家業との両立にはちょっと悩むところもある。ただ少なくとも2年は(降格にならなければ)続けたい。きちんとメンバーが「より良い方向に進んだ」と実感が持てるように、また実際に組織全体が無理なく成果が出せる状態にしたいが、それには一定の時間が必要だろうし。
  • ポジションが上がることでの名誉欲の満足は実際にある。自分の能力や技術が一定程度は評価されて、それが他者から見える形で認められると自己顕示欲が満たされる。ただこれは役割分担で、とりわけ自分が優れているわけでもないと考える。
  • 両親はいずれもだいぶ前に死んだけれど、生きていて私の昇進を知ったら、彼らの喜びにもなっただろうかと思う時はある。

 




 以下は宣伝。
 拙著、八潮久道『生命活動として極めて正常』が、第1回 北上次郎「面白小説」大賞を受賞しました(2025年8月8日)。
 KADOKAWAからのお知らせ↓
  【デビュー作で文学賞受賞!】 第1回北上次郎「面白小説」大賞を八潮久道『生命活動として極めて正常』が受賞! 著者よりコメント到着 | カドブン
 本当に嬉しいしありがたいことです。
 まじめにふざけた楽しい短編集なので読んどくれ〜。



↓は投げ銭代わりの設置。お礼しか書いてない。

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上映時間のグラデーションと初手ギレ人の恐怖

上映開始前のスマホを怒られる

 何年か前に、シネコンで上映開始前の少し薄暗くなって企業CMや予告編を流している時間帯にスマホを操作していたら、斜め後ろのおじさんから「消せよお前!」といきなり怒られたことがあった。
 その時は「えー、映画はじまる前じゃん」と思った。そこそこ高い頻度で(月に7~10本くらい)映画館で映画を見ていると、全く同じCMや予告を繰り返し見ることになるし、CMを見るのにお金払ってるわけじゃないし、その時間は好きにさせてよ、という気持ちもある。
 ただ後から、この「どこからどこまでをスマホやおしゃべり不可の時間と見るか」は人それぞれなところがあって、自分が思う「正解」も結構相対的だなと思い直した。今は控えるようにしている。


 ネットでもちょくちょく話題になる「エンドロールで喋ってる人出てけ」も同じ形なんだろう。私も「エンドロールの間は余韻に浸りたい時もあるから喋るなら出てからにしてほしい」と思っているけれど、喋ってる人からすると「本編が終わったからOK」と思ってるのなら、CM中のスマホに怒ったおじさんと私の立場がひっくりかえって同じ形だと思った。
 CMの時間帯も、映画館が設定している「上映開始時間」の後である以上、あれは上映時間なのだからスマホ・おしゃべり一切禁止だ、という考え方もあり得る。その考えからすると、私が「真っ暗ではないCMの間はOK」と思っていたのは「非常識」になる。
 もちろん、まだ薄明るいCM時間と、真っ暗なエンドロールでは、後者の方が「上映時間だ」と思う人の割合は高いとは思う。


OK/NG範囲のグラデーション

 映画館、スクリーンでの時間の流れとしてはおよそ以下のような感じだろうか。

  • ①開場:明るい。BGMが流れていたり映画館のCMが流れている。
  • ②スケジュール上の上映開始時間:やや薄暗くなり企業CMや予告編が流れている。
  • ③消灯:真っ暗になり、「上映中の会話禁止」などのマナー映像が流れる。
  • ④製作・制作会社や配給会社のロゴ映像
  • ⑤本編上映
  • ⑥エンドロール
  • ⑦おまけ映像
  • ⑧点灯

 

 という時間軸の中で、攻めてる(?)人なら「⑤以外はスマホ・会話OK」と思っていて炎上するかもしれない。海外だと⑤の本編上映中もお喋りOKがコモンセンスな国もある。めちゃくちゃ厳しい異常者だと①~⑧すべてNGという人も存在するのかもしれない。
 どこをOK/NGと見なすかは人によりけりで、ただOK/NGの割合の多さで「この辺が一般的なラインかな」がぼんやりとあるのが現実になっている。OK/NGの回答割合で色付けしたら⑤をピークとしたグラデーションができる。OK範囲は人それぞれでバラつきがあるけど、自分が思う範囲を「世間の常識」だと本気で信じている人も多そう。


 ⑥エンドロールの時間も、映画をよく見る人はスマホおしゃべりNGが「常識」でも、たまにしか行かない人だとOKと思っている人の割合も案外多いのかなと想像している。属性によって常識が変わるというか。それでちょくちょくSNSでその話題がぶり返されるのかもしれない。


本の帯

 こういう話は至る所にあって、例えば本の帯も、あれを「書籍の一部」と考えるか「あくまで販促のための装飾で本体とは別もの」と考えるか人によりけりだと思う。デザインや紙にこだわって作られたものと思うと書籍の一部だという気もするし、宣伝文句など購買意欲をあおるための文言が入っているという点では、家電や家具に貼られた宣伝シールを剥がすのと同じように、買ったら捨てるのも不自然ではない気もする。
 じゃあ全面帯(本体カバーよりわずかに高さが短いがほぼ全面をカバーする大きさの帯で、新書や文庫で見かける。著者や扱うモチーフの写真が大きく入っているものなど)はどうなるんだろう。ほとんどカバーとして扱われることを想定しているようなつくりだからどっちに入るんだ、などのグレーゾーンがある。


 私はずっと帯を捨てていたけれど、高専生になって書店でバイトするようになって捨てなくなった。「帯も込みで商品」「帯は絶対に必要だと思っているお客さんはかなりいる」という認識になって、自宅でも帯を取っておくようになった。ただ本棚に入れる時は邪魔なので、別に保管していた。ところが20代半ばくらいになって邪魔だなと思って全部捨ててしまい、その後はまた「帯は捨てる」運用に戻っている。


 昨年に本を出して作家になってからは、時々献本をいただくこともある。これはなんとなく貰い物を捨てるのも忍びなくて帯はそのままつけている。これもたくさん貰うようになったら変わるのかも。


 もっと踏み込んだ人だと書籍のカバーも捨てている。私は小学生のころ『名探偵コナン』の単行本を持っていたけれど、全部カバーを捨てていた。なのでカバー袖の名探偵図鑑は失われていた。
 あれは装飾であって、本そのものではないから、買ったら捨てるのが当然だとなぜか思い込んでいた。遊びにきた友達に「なんでカバーないの?」と言われて、「あっ、捨てるもんじゃないのか」と思って捨てないようになった。古書店新古書店に当時行く習慣があれば、「カバーがないと値が下がる=一般的にあるのが普通と思われているもの」と気付いたかもしれない。
 書籍カバーは1960年代以降に一般化していったそうなので、その昔を知っている人の中には「ないのが普通」という感覚もあったりするのかもしれない。


家具家電のシール

 比較対象に挙げた「家電や家具のシール」にもグラデーションがある。私は機能などをうたったシールは宣伝のもんと思って剥がすし、剥がれづらいシールで剥がし跡が残ると腹が立つ。でも貼ったまま使っている人も多い。「剥がした方がすっきりしてよい」「別にそのままでも使えるんだから剥がすのも面倒だし」の価値観の差はある。
 一方で安全上の注意文の書かれたシールなどは私は剥がさないけれど、これも剥がしガチ勢は全部剥がしてるのだろう。


 新車のシートにかかっているビニールカバーをつけたまま乗り続ける人がいると知った時はびっくりした。だってあれはもう完全に外すことを前提に製造されてるやつじゃん、とは思ったけど、そう思わない人だっているということなのね。
 家電のアクリルパネルや金属面などの傷つきやすい箇所に貼られているビニールの保護シートは、剥がさないままの人も結構多いから、その延長上とも言えるのかもしれない。「えー、だって自動車のシートは体が触れるとこだし気にならない?」と思ってしまうけど、それは私の「常識」でしかない。


「常識」が定まらない領域

 しばらく前に、「メゾンマルジェラのスーツの背中の仕付け糸をお母さんが切ろうとしたら、息子に大激怒された」話が話題になった。あれは知らなきゃ絶対取りそう。「ダメージジーンズをきれいに縫い上げてあげる」に近い。
 ブランドの思想として、商品にブランド名は出さない、タグを仕付け糸でつけているだけだから外して使ってもらえればいい、ただ良いものであればそれで良い、という考えから出発して(堤清二無印良品の創業に込めた思いとそっくり)、その仕付け糸がブランドアイデンティティになって「マルジェラの証なんだから取らないで!」と反転していったという。
 一方でそれを知った上で外すという人もいるので、知らない人は外す→初級者は外さない→通は外す、みたいな流れかというと、そこまで単純でもなく、ハイブランド製品をどう捉えるかという価値観の話なので、よくよくそこまで知った上でやっぱり外さない、という人もいるだろうし。
 一つの「常識」に収斂せず、グレーゾーンとして残っていく領域もある。


 色んなところに「常識」の衝突があるなと思って探すと面白いかもしれない。


いきなり怒る人こわい

 それはそれとして、いきなり怒る人は怖い。
 映画の話も「スマホを使わないでくれると助かる」という言い方ではなく、「おいお前!」のトーンでいきなり来るから怖い。電車でも腕が当たった、座席をはみ出してるなどでトラブルに発展する場面を見かけることもある。


 これは何か不快なことが発生した時に、その「不快さ」を絶対視する、前提として扱うことで起こる。不快さを感じたとして、「この自分の負の感情は正しい」と見なすと、その感情を発生させた要因は「間違っている」と見なさざるを得なくなる。
 映画の人も、感情を相対化させられれば、「スマホの明かりが気になるな」と思っても、「まだ真っ暗じゃないし、企業CMやってる時間だから、この人にとっては上映時間だとは思ってないのもまあ分かる」と考えて、「スマホ消してもらえると嬉しい」くらいのトーンで言うか、何も言わずに受容するかできただろうと思う。
 でも感情を絶対視してしまうと、「この時間も上映時間のはずだ」「少しでも暗くなったのだからスマホは消すべき」「それが常識のはずだ」「なのにこいつは身勝手に他人へ迷惑をかけている」「許せない、許すべきではない」という方向に感情を正当化する理屈を繋げていってしまう。私は正しい/こいつが間違っているの理屈を見つける→怒り→さらに理屈を見つける→怒り、と怒りが増幅されていく。


 比較的日本の社会が「私が我慢している以上、お前も我慢しろ」「楽してるやつは許されない」「誰か一人が得するくらいなら全員損した方がマシ」の価値観をベースに動いているのと繋がっているのではという気がしている。


ダメージコントロール

 そうした人に出会った時は、黙ってその場を離れるか、離れるのが難しければその人の不快源を黙って除去するようにしている。反論はしないけれど、謝りもしない。かえって謝るとさらに相手がエスカレートしてくる時もある気がして。
 そりゃこっちだって「えー?」って気持ちはあるけれど、刺されたくない。ひたすら被害者意識で他者への怒りを溜めこむタイプの人は一定数いる。そういう人と言い争っても、相手が納得してくれて妥協点に至る可能性は低い。言い争えば相手はますます「自分は正しいのにこいつが」になっていく。さらに恨みを募らせて、最悪刺されたりする。絶対に嫌だ。SNSだと「正論でぎゃふんと言わせてやった」系の話がバズったりもするけれど、それで死にたくない。
 そうした破滅的なケースに至らなくても、言い争いになるとその後も気持ちを引きずってしまって本当に嫌になってくる。言い争いになれば、こっちも「自分の方が正しい」ロジックを積み上げ始めて、相手が受け入れなければより大きな不満になる。ストレスコーピングの側面もある。


 一方で自分が納得していないのに相手の言い分をスルーするストレスの方がでかすぎて苦しくなってしまう人や場面では対決すれば良いとも思う。行きずりの人ではなく、親族や知人、職場の人など関係を継続する必要がある場合も、スルーでは解決できないし。


初手ギレ人への教育?

 この前マクドナルドにいたら、隣の席のじさまに「お前貧乏ゆすりやめろ!」と周りの人がびっくりして振り向くくらいの大声で怒鳴られたことがあった。自分も隣の人が貧乏ゆすりや、髪をずっといじってたり、ペンを回してたりすると気になる時もあるから気持ちは分かる。ただ何かに集中してると完全に無意識にしてる時があるのも分かるから、私は他人には何も言わない。
 この時もすぐに席を立って、別のフロアに移動した。


 たぶん私は「言いやすい」ないし「舐められる」見た目をしているのかと思う。大柄でもなく、いかつくもなく、タトゥーは入っていないし、「外国人っぽい」見た目でもない。よく女性や子供が怒りの対象にされやすいという話もある。言いやすい、返り討ちに合わなさそうな人に「正しい」怒りをぶつけてくる面はあるのだろうと思う。
 しっかり言い返す人がいるおかげで、「見た目が言いやすそうでも返り討ちに合う」可能性を初手ギレ人にも認識させて、失敗体験をちゃんと積ませているのだとしたら、世直しコスト、教育コストをその人達に負っていて、回避する方針の自分はフリーライダーなんじゃないかという気もして申し訳なくなってくる。


 ただそれは「初手ギレ人は失敗体験を積むことで被害者意識=自己正当化の正義感を捨てて、妥当な現実認識に転換する」という前提を正とした時に成り立つ話なのだとすると、必ずしもそうではないのでは、という気もしている。
 むしろ「初手ギレ人は失敗体験を積むと、世界はやはり間違っていて自分を攻撃している、という認識を深めてしまう」も十分に成り立ちそう。
 みんなご安全にだよ。



 年齢を重ねてくると前頭葉の働きが弱くなって(?)感情の抑制が効きにくくなるともいう。
 そうだとしても、常識のグラデーションを意識して、自分の感情を絶対視せずに相対化することで、怒りのスパイラルに巻き込まれずに初手ギレ人に自分がならずに済む方向には働くのかと思う。自分もジジイになってゆくので、いろんなとこにある常識グラデーションを見るようにしていこうと思って。



 以下は投げ銭がわりの設置です。お礼だけが書かれています。

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作家業で稼げなくてもぼちぼち頑張ってるって報告

 昨2024年4月に小説が出版されて職業作家(兼業)になったその後の行方についてのメモ。


小説『生命活動として極めて正常』

 昨年4月に短編集がKADOKAWAから出版された。いろんな人が好意的なレビューしてくれて嬉しかった。

 

 他にもレビューや感想を書いてくれた人も、単に「読んだ、面白かった」と言ってくれた人も本当にありがたい。
 Amazonのレビューで、これを見た時は本当に嬉しかった。
  楽しすぎた。

仲良い友達にプレゼントで買ったけど、自分でも欲しくて2冊買った。
ネットでしか読めない、進研ゼミのやつも大好きで、バイトの帰りいつも読んでる。
進研ゼミのポーズも友達とやった。
相撲のやつも面白かった。
ありがとう。


「進研ゼミのやつ」は、2013年にはてなブログで書いた(カクヨムに転載した)作品、

「相撲のやつ」は、2024年に書いた作品のこと。

 10年以上前の作品も、直近で書いた作品も読んで「面白い」と言ってもらえるのは、存在が肯定されているような気持ちになった。


 妻の友人から初ファンレターを貰ったのも嬉しかった。落ち込んでいた時に読んで元気になったという。
 決定的に人生や考え方を変えるなんて大袈裟な影響でなくても、面白かった、ちょっと気分が上がった、くらいで本当に「ああ、書いてよかったな」と思えてくる。


 刊行後に何かを受賞したり、イベントに出席したり、といったことは何もない。



小説新潮2024年9月号のコラム〈わたしの相棒〉

 KADOKAWAの担当編集者経由で、新潮社の担当者からコラムを依頼されて書いた。


 3つのお題から1つ選んで書く、文芸誌1ページ分のとても短いコラム。「私の相棒」というお題で、BlackBerryとの思い出を書いた。
 短く書くのは非常に難しいと感じた。BlackBerryとの心温まるエピソードがまだたくさんあるけれど入れられないから、取捨選択をしながら、あまりに密度が高すぎる文章は読みづらいのでギュンギュンにしないように、薄くもなり過ぎず、あまり固くもなり過ぎず……といったことを考えながら書いていた。


 声をかけてもらって、文芸誌で何かを載せてもらう体験も初めてだったし嬉しかった。小説家の桐野夏生が好きだったから、(同じ雑誌に桐野夏生と自分が……)というのも感慨深かった。


次の本の企画

 過去にこのブログで書いた記事を元にした本の企画が2つ、それぞれ別の出版社・編集者から来ていて、今は先の企画について執筆を進めている。


 最初に編集者から話をもらった時に、自分が書く意味あるのだろうか(他により適した著者がいるのではないか)、読んで面白いと思えるものになるのだろうか、と疑いもあった。編集者と企画の内容をしっかり話して、詰めて、修正・擦り合わせをしていった結果、どちらも意義深い本になる、面白い本になるとちゃんと自分で信じられる企画になったので良かった。
 調べごとが多かったり、会社員としての時間外業務が多かったりで、執筆ペースが激遅(3,000字/週くらい、構成をつくる期間なども含めると2,000字/週くらい)なのが辛いけれど、絶対に面白い本になると思いながら地道に進めている。


 小説家として作家業をスタートしたと思ったら、小説ではない本の話が来て(あれま)と思った。ちょうどブログで(その後カクヨムで)小説を書いていたら、小説でない話をブログで書くようになって、そっちの方が多く読まれていたのと同じ流れかも。


小説の次作

『生命活動~』のレビューや感想で「次作にも期待」と書いてくれた人も多くて嬉しい一方、こればかりは「紙の初版が売れて重版がかかる」実績がつくれないと、なかなか次の小説の出版は現実的には難しい。
 数年前から「これは絶対面白い(と自分で心底信じている)」話をちょっと書いたり準備したりしていたので、これはたとえ本として出版されなくてもいいから、ちゃんと書いて完成させる。(今ある2冊をまずはちゃんと終わらせないといけない。)


 昨年の大相撲九月場所の日程に合わせて15日間、毎日18時(大相撲中継が終わる時間)にカクヨムに相撲のお話を連載した。
「セックスしないと出られない部屋」という相撲部屋が誕生した経緯と、その部屋での弟子たちの暮らしや成長、部屋の消滅の経緯を書いた話だった。

 2017年にTwitterで「優勝20回以上の大横綱になって引退直前にしこ名を『セックスしないと出られない』に変更し、一代年寄になって独立して部屋を興せば『セックスしないと出られない部屋』がつくれる」といったことを書いていた。昨年から久々に相撲を見るようになってこれを思い出し、改めて書こうと急に思い立った。


「元祖セッ部屋」を書いてみて、どうしても「設定」が好きなので、好き放題に設定を書いてしまって、ちゃんとお話(小説というより物語)として構築する作業を疎かにしているんだなあとつくづく思った。改めて書こうとしてる小説は、物語としての構築も勉強し直して取り組もうとしている。ちゃんとやった後で、また好き放題するかもしれないし、物語をちゃんとの方向になるかもしれないし、そもそもちゃんとやろうとして結果的にはちゃめちゃになるかもしれないし。


お金のこと

 昨2024年は『生命活動~』の初版印税、電子書籍の売上、小説新潮のコラム原稿代のみで、会社員としての賞与1回分に満たないくらい。全然「作家業として身を立てる」という水準ではない。本が一冊出ただけでしかないから当然だ。
 青色申告の65万円控除を受けようと思って、昨年に開業届も出して、会計クラウドのサブスクも契約して、確定申告も今年の1月中に終わらせた。
 今まで認定NPO法人への寄附金控除でしか確定申告をやったことなかったけれど、会計ソフトも使いやすいし、書類を印刷して郵送や持ち込む必要なしに電子送信できて楽だった。昔は苦行だったと聞くから改善されたのはありがたい。


 個人事業主としては赤字。売上も費用も小さいうちに、自分で確定申告をできたのは良かった。会社員だけやっていると分からないことを知られたのも面白かった。



 このブログの更新頻度が減ってしまったけれど、書いている文章の量は変わっていない。ブログに書きたいことも多々あってメモを残している。
 そんなこんなで、暮らしの主な収入源にはなり得ていないものの、会社員と作家業でそこそこ頑張って生きてる。