やしお

ふつうの会社員の日記です。

人間にもセーフモードがほしい

 人間はロボットじゃないから、判断力は簡単に低下する。
 病気、睡眠不足、貧困、暴力とかで、心が簡単に弱々しくなる。心が弱ってる時は、「都合の悪い可能性」を直視できなくなってしまう。だって、それを直視してしまったらもう、心が壊れてしまうから。


 「損して得取れ」って言葉があるけど、それは余裕がある時にしか取れっこない戦略だ。
 HPが10しかないのに「一旦ダメージを50食らう」なんて選択肢ない。HPが100ある人に「防御コマンド繰り返しててもジリ貧ですよ」「一旦ダメージを50食らって次のターンで攻撃しなきゃ勝てませんよ」とか言われたって、HP10の人は「そんなこと言われたって私には無理だよ……」と呟いて、防御コマンドを繰り返すしかない。
 誰だって「自分は損している」「自分は馬鹿だ」なんて思いたくない。「自分は最良の選択をしている」と自分で信じたい。だから、本当は追い込まれて選択しているだけの「防御コマンド」だとしても、「この選択が最良なんだ」って信じたい。だから、「一旦ダメージを50食らう」という選択肢はもう直視できない。
 そんな時にもし、一発逆転のコマンドが提示されたら? それがものすごくリスクが高い選択肢だとしても、ひょっとしたらリターンが0の選択肢だとしても、自分の心を守るための処置として、そこに賭けてしまうのは自然なことだ。
 そういう非合理はたぶん、人間のバグじゃない。人間の合理的な反応として、人間は非合理的な選択をしてしまう。


 癌の患者が、確立された医療を拒否して民間療法に走って死んでしまう。「科学的なリテラシーが足りないからだ」という。
 長時間労働の人が、上司の言いなりになって最後は過労死してしまう。「転職すればいいのに」という。
 お金がないのに、FXや仮想通貨に突っ込んで破産してしまう。「情弱なのは本人が悪い」という。
 DVの被害者が、その生活から逃れられない。「そんな人と結婚したのは自分だし離婚すればいいのに」という。


 「自己責任だからしょうがない。」
 その批判は、HPが100ある人が言えることだ。


 HPが10の人に、一発逆転のコマンドをちらつかせる人がいる。逆転の可能性がゼロの、にせものの「一発逆転のコマンド」を。
 それは善意の時もあれば、悪意の時もある。


 「ブログで稼ぐ時代」という煽りを信じた大学生が退学してプロブロガーになってしまうという話だって、「自己責任」と言ってしまえばそれまでだ。でも、大学生くらいって精神が安定していなかったりする。具体的で世間に正当に評価されるような何かを持っている大学生なんて少ない。自信がない中で「何者でもない自分」を受け入れれられずに、虚勢を張る学生なんて吐いて捨てるほどいる。これだって一種の、すごくありふれた「判断力がちょっと低下している状態」の一つじゃないか。
 そんな曖昧な心につけこんで「お前は何者かになれるよ」とささやく大人がいる。


 判断力の落ちている人がそうした情報にさらされることが、この世界にとっていいことだなんてとても思えない。でも現実にはそれを止める手立てがない。
 「成年後見制度」というものがある。知的障害、精神障害認知症などで判断能力が不十分な人の、法的な権利(財産にまつわる意思決定する権利など)を制約することで、その人を保護する制度だ。人間のセーフモードみたい。
 でも、ここで言うマイルドな判断能力の低下を保護するような制度はない。実際「どこからが判断力が低下してる」って線引き、できっこない。
 だけど、本当に、マイルドなセーフモードがあったらいいのになと思う。別に具体的な政策提言なんて出来ないけど、単に「マイルドなセーフモードがあってほしい」という願いを勝手に書いたっていいだろう。
 被害者を守れないなら、加害者を排除するしかない。善意からでも悪意からでも、無責任に「一発逆転のコマンド」を囁やけなくできればいい。だけどそれも、現実的には「何が害悪な囁きか」の線引きが難しい。


 今日は早く寝ようと思っていたのに、寝る間際にこんなことを書いているのは、さっき↓の記事を読んだからだった。
情報弱者の貧困層をバカにする人、搾取する人 | 文春オンライン

この原稿を書いている私自身も貧しい家庭で育ったのですが、母はいつもお金に困って精神的に追い込まれていました。母は96歳のオーナーが経営する理容室で17年勤めていますが、職場環境もかなり劣悪で、出勤しているにも関わらず給与をもらえない日がけっこうな頻度である状況です。週5でフルタイムで働いても月に数万円しか稼げませんし、誰がどう考えても転職した方がいい状態なので娘の私から何度も転職を薦めたのですが、「もう考えるのも疲れた。死にたい」「転職先を調べたり、新しい環境に慣れるまでが億劫だ」「転職するだけの気力がない」と言い続け、しまいには発言力のある人から「儲かるよ!」と勧誘され、マルチ商法に手を出した時期もありました。


 学生だった最後の数年、父と二人暮らしをしていた。父は以前の勤め先をリストラされてからしばらく色んな職に就いたりしたけど、最後は新聞配達とガソリンスタンドのバイトを掛け持ちしていた。僕もバイト代を家計に入れてはいた。今思うと父はかなり睡眠不足だったし、ぼーっとしていたし、酒量も増えていた。でも文句も言わずに働いてくれた。
 色々あって、最後の1年間は僕が家計管理していた。知らない間に父はカードとかから借りて多重債務者になっていた。家計のやりくりがきちんと出来ているとは言えない状態だった。きちんと管理して回るようにしたいと思って、当時の自分なりに必死でやり繰りした。それでも父が約束を破って買い物をしたりして苛立っていた。散在とは全然言えない、ささやかな買い物だった。今なら、今のHPが5000くらいある自分なら、そんなことで目くじら立てるなんて絶対にないようなことで苛立っていた。
 つらくて具体的には書けないけど、かなり父に怒ったりしてしまったことがある。本当に自分は馬鹿だった。


 後で別の人経由で知ったのは、父がスタンドのバイトで、若いバイトからつらく当たられていたらしいということだった。実際、睡眠不足の状態で、もともと要領がいいというタイプでもなかったから、仕事のできるバイトからすればそういう標的にされるのも、よくある話と言えばそれまでかもしれない。実はシフトを削られたりしていて、それを隠していつもの時間に外出していたらしいということも後で聞いた。そういうことを父は、当然だけど、僕には一言も言わなかった。仕事の愚痴を言うタイプの人ではなかったし、弱音を吐く人でもなかった。まして息子には言えない、というのは当然かもしれない。


 僕が就職して4年後、65歳で父は死んだ。一人暮らしのアパートですごく寒い冬の日に、たぶん体調不良の中で暖房代をケチって、薄い布団に眠ったまま死んでいた。僕が見たときにはもう警察に引き取られて空っぽの部屋だった。
 就職した後で、そのアパートの部屋で父に会った時、「あの頃はごめんね」と父に言われた。苦労させて悪かったという。その時はなんて返していいのか「いや、別に……」みたいなことしか言えなかった。本当に後悔している。「あの時のあなたは立派だった」「一人息子をあの状態できちんと卒業させたのは凄いことだった」「心の底からそのことに感謝しているし、それを詰るようなことを言った自分の方こそ完全に間違っていた」と、きちんと言わなかったのは、本当に、ひどいことだ。でも取返しがつかない。
 伝えるべきことは生きている今、きちんと伝えないといけないんだと、当たり前のことを父が死んでしまって心底理解したけれど、遅かった。


 上の文春の記事で筆者は、
「こうした焦りは、実際に貧しい生活を経験した人にしか分からないかもしれませんが」
と書いているが、本当にその通りだと思う。経験してみないとこの「おかしくなる」感じは分からないんじゃないかという気がする。たぶん、想像することはできるけれど、この「分かる」という感覚にまでは、経験してみないと難しいんじゃないかと思っている。
 しかもそれは、抜け出してみた時に初めて「あの時の自分はおかしかった」と気付くような種類の、真っ只中にいる時は本当にそれが「正しい」と信じてやってしまっているような、そんなおかしさだ。


 文春の記事は(記事の中では名指しされていないけれど文脈からすれば明らかに)イケダハヤトさんが、オンラインサロン等々で判断力が低下している人を煽ることで稼ぎを得ていることの正当な批判になっている。もし自分の身内がそういう目にさらされたら、「無責任に煽るんじゃない」と怒りを抱くのは当然だ。
 ただ、これは勝手な想像だけど、イケダハヤトさん自身もその「判断力が低下している」状態なんじゃないかと勝手に疑っている。全力で本人は否定するに決まっている。だけど、当時は完全に自分は合理的で頭がいいと信じてやってたことが、「抜け出してみて初めて『あの時の自分はおかしかった』と思う」という経験を実際にしてしまった自分にとって、その疑いは結構リアルなものだ。じりじりした焦りの中にいる人にとっては、ものすごく引いた客観視点で自分をきちんと見つめて、正当性や妥当性、合理性を判定することがすごく難しい。
 イケダハヤトさんのオンラインサロン等々が、外側から客観的に見て「搾取」そのものでしかないとしても、本人が悪意によって自覚的に仕掛けているか、というと案外そうじゃなかったりするのかもしれないと勝手に思ってる。それは民間療法を勧める医者とか、ブラック企業で部下を追い込む上司とかもそうかもしれない。しかも加害者の側も心が弱っているから、その悪事を自分で認められない。
 加害者と被害者の両方共がそういう渦の中にいる、しかもそれは、別に刑事事件でも何でもない、その両者ともをセーフモードに置かないといけないんだけど、そんな仕組みはない。そういう光景なんじゃないかと思っている。

映画のチケットを買い間違えることが増えた

 日付を間違えたり、館を間違えて映画のチケットを取って無駄にしてしまうことがちょくちょくある。ネットで事前購入できるようになってから便利になって嬉しい一方で時々失敗してしまう。月に7~10本くらい映画館で映画を見ているけれど、年に1、2回やってしまう。
 どうしてそんなことが起こってしまうのか、原因をきちんと書き出して間違えないようにしたいと真剣に思っている。

日付を間違える

 発券機でチケットを出そうとして画面に「発券できません」と表示される。驚いてスマホで購入確認メールを見ると前日のチケットだったと知る。この時はもう買い直す気力もなくて、そのまま家に帰った。
 あるいは席に座って上映開始を待っていると、他のお客さんが困惑した顔で「この席のはずですが」と言う。自分のチケットを見ると上映時間も席も正しいけど、日付が明日になっている。この時はほんとはダメだけど、どこか遠くの誰もいない席に移った。


 映画館のウェブサイトで、ページ上部に日付選択があって、最初は見る日をちゃんと選択しているんだけど、映画名をクリックして映画の情報を見てから元のページに戻ると、日付選択がクリアされて当日になっている。でも上映時間やスクリーン番号は同じだし、画面上には日付が出ていないので気付かない。日付はさっき選択したまま変わっていないと思っているから、そのまま購入を進めてしまう。その結果「見る日より前の日付のチケットを取ってしまう」という事故が起こる。


 それから3連休とかだと、この日にここでこれ見て、次の日はあっちでこれ見て……とかやってると、日付を間違えたりする。川崎で見ることが多いけど、川崎にはチネチッタ、TOHOシネマズ、109シネマズとシネコンが3つある。いっぱいタブを開きながら日付を変えつつ時間を見比べて「どうしよっかなー」とかやってて日付を間違える。


 ネットで買えるようになるまでは、いい席を取りたいなと思うとチケットカウンターに上映2時間くらい前に行っていた。当日にカウンターで買えば間違えようがない。ネット購入になってからいい席が早々に埋まっていくので前日や数日前に買うようになった。特に109シネマズの「プレミアムシート」という広くてリクライニングできるシートなんかは席数も少ないし、公開直後の人気の映画だったりするとどんどん埋まっていくので3、4日前にチケットを買ったりする。それで日付を間違えちゃう。

館を間違える

 錦糸町のTOHOシネマズはオリナス楽天地という歩いて10分くらいの2箇所に分かれている。楽天地シネマズがTOHOシネマズに買収されて去年リニューアルオープンしたからだけど、完全にオリナスだと思い込んでたら楽天地で、ダッシュで向かうという失敗をしたことがある。その日は自分の前にもダッシュしてる女性二人組がいたので、なんか仲間意識が芽生えた。
 普段行っている川崎でも、前に一度だけTOHOシネマズと思い込んでいたらチネチッタダッシュで向かったことがあった。
 あと岐阜で、TOHOシネマズ岐阜と、TOHOシネマズモレラ岐阜がある。この前のお正月に岐阜に帰って甥っ子と映画を見に行った時、モレラに到着した瞬間に(あっ、「モレラ岐阜」で買わなきゃ行けなかったんだ!)と気付いたけど、車で40分くらい離れているからもうリカバリーのしようがなかったから、2人分のチケットを無駄にしてしまった。
 これも当日にチケットカウンターで買っていた頃は起こりようのない失敗だった。


 そういうミスがあると結構ショックで、これが老化なのかなあみたいに思ったりするけど、しょうがない。一人の時はまだいいけど、誰かと一緒だと本当に申し訳なくてつらい。違和感を覚えたり自然に意識が向いたりするような瞬発力が失われて、思い込んだまま気付かない。ある種の省力化とも言える。「かもしれない運転」ができなくなって「だろう・はずだ運転」になってしまって事故を起こすのと似ている。経験則的な推定を適用して済ませてしまうことで、瞬発力の低下を本人の知らないうちに補ってしまうというのが、老人が自動車事故を起こすメカニズムだったりして、その軽い症状が起きてるんだろうか。映画のチケットくらいならいいけど、航空券とかだと大変なことになっちゃう……
 チケットカウンターで買えば日付の間違いも場所の間違いも防げるけど、みんながネットで買ってる今、自分だけ昔に戻すという選択は難しい(席埋まっちゃうし……)。だからこうやって、失敗するパターンを洗い出して類型化して、「こういう時は間違えやすい」と意識して、決済ページに移る前にもう一度「場所・日付・時刻」をチェックするのを習慣化するしかない。世の中の便利に適合するのに工夫や意識や努力を要するというのは、なんか老人の仲間入り感があってちょっと面白い。

無責任な人=自己愛が強い人

 靴職人の花田優一さんが、受注した商品をいつまでも納品しない、問い合わせにも誠実に対応しない、弟子を取ったがその弟子に雑用とクレーム処理を押し付ける、その一方でテレビ番組への露出を増やしてタレントへの転身を希望しそこで不誠実な言い訳を繰り返してしまう、という話が最近あった。


 それから他に、「THE夏の魔物」というロックバンドのリーダーを務めていた成田大致さんが、自身が主催したフェスの借金(バンドメンバーとは無関係)を理由に突然LINEグループ上でメンバーへ脱退を強制したり、メンバー間の話し合いに応じず代わりに自身の母親を登場させたり(成田さんは32歳)、その揉め事の最中にイベントへ遊びに行った様子をインスタに上げたり、揉めている当のメンバーにライブ参加をツイッター上で誘ったりした、という話もあった。
 メンバーの大内雷電さんが内情をツイッターで明かし「これ以上は彼に関わらない」と宣言したことで明るみに出たのだった。







 この話を挙げたのは、不誠実な連中だ許せん! と怒りたいからじゃなくて、こうしたタイプの人と仕事やプライベートで付き合った経験のある人にとって(ああ、すごいわかる……)という感じがすると思ったからだった。(そうそう、こんな感じ)みたいな。
 どう考えても筋論として自分が悪いのに、悪びれた様子も見せずむしろ「お前が悪い」と責任転嫁をしてきてびっくりさせる。開き直りとしか思えないことを言ったり、言い訳にならないことを言って、自分が悪いのに逆ギレする。
 妙にプライドが高く「自分の方が分かってる」アピールが目立つかと思えば、急に自分を卑下する。随分甘いことや調子のいいことを言って人と約束をするのに、その期日が来ると黙ったり逃げたりする。
 「でも悪いやつじゃないんだよな」「でも魅力的なところもあるし」「でも頑張ってるし」と思って何とか付き合いを続けようとすると、この不誠実さや無責任さで心をごりごりに削られていく。一旦話し合いの場になれば反省を口にしてしおらしくもするから、ああ反省したのかなと信じるとまた裏切られる。それでも悪意があるようには見えないし、こちらを嫌っているとも思えないから混乱する。
 「もう一切関わらない」と宣言した大内雷電さんのツイートを見た時に、(もともとこのバンドやこの人のことを全然知らなかったけど)そうなのよね、それ以外の正解がほんともうないんだよなあ、としみじみ思ったのだった。自分とほぼ同い年の32歳の大の大人が、と思うとより一層心に来る。


 高校生・大学生くらいだと結構そういう人もいる。(自分もそういう面が多分にあったかと思う……。)花田優一さんも23歳なので、大学生くらいかと思うと、まあそんなもんかもしれない。
 プライドの基礎工事が弱いんじゃないかと思っている。実力があってきちんと成果を出して評価して貰って、そのことでプライドを持っているわけじゃない。世界で活躍してる選手とかでもなければ、せいぜいバイトや部活や趣味で頑張ってるくらいかもしれない。周りの人からそこそこ評価して貰えても、それで本当に自信が持てるわけではなく不安なので「自分はすごいんだぞ」とアピールする。他人を自分の不安を解消する道具にしてしまう。余裕がないから自分自身でもそのことに気付いていない。
 それから筋の通し方というのも、学校で教えてくれるわけじゃないから、組織で働いた経験がないと習得するのは案外難しい気がする。バイトや部活で「指示されたことをこなす」だけであれば別に筋論を自力で組み立てる能力は必要ないし習得もされない。会社でも反社組織でもいいけれど、ある程度人数のいる空間で上司やレポートラインを持って、筋違いのことをすると怒られたり訂正される環境でないとなかなか筋論の感覚が分からない。


 精神科医の笠原嘉が1984年に書いた本をこの前読んでいたら、自己愛性格(ナルシスティック・パーソナリティ)についてDSM-IIIの該当箇所を訳されていた。

全く自己志向の性格である。他人のことは眼中にない。自分が世の中にとっていかに大切な存在か、いかにユニークかについて尊大な感覚を持つ。限りなく成功しつづけるという空想を好む。つねに他人の注意と賞賛を得ていたいという精神的露出症があり、人が自分についてする評価に敏感で、自負を傷つけられたときに過度に反応する(怒り、狼狽、無視等)。他人は利用するべき存在であり、またそうすることに彼自身長けているが、自分から他人への反対給付はしない。つまり他人の権利の方はしばしば眼中にない(平気で人の書いたものを剽窃する。学校の規則など平気でやぶり、何の罪責感ももたない)。対人関係はまずいが、それはたいていは共感能力の欠如、つまり他人がどんなふうに考え感じているかを察知する能力が低いためで、たとえば急に病気になった友人がデートをキャンセルしなければならなくなったとき、この性格者は、当然のことのように、怒りないしは当惑を示してはばかることがない。そしてまた、他人は当然自分を高く評価しているものと思いこんでいる。自分が望むところを相手がしてくれなかったとき、怒りとおどろきを示す。しかし、またしばしば、ある人物に傾倒し賞賛のかぎりをつくしたりもする。しかし、すぐまた反転して、今度は完全にマイナスの評価を下す。この両極の間のどこかにとどまる中間的態度がとれない。

笠原嘉『アパシー・シンドローム』(岩波現代文庫:p.154)

アパシー・シンドローム (岩波現代文庫)

アパシー・シンドローム (岩波現代文庫)


DSMは、アメリカ精神医学会が出している「精神障害の診断と統計マニュアル(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)」のことで、その1980年に出版された第3版が「DSM-III」。最新版はDSM-Vで、2013年に公開されている。


 「無責任」というのも、自分の失態を取り繕おうとして起こる。そして失態を素直に認められないのは、自己愛が強いからだ。自己愛の強さはプライドの基盤が不安定なところから来る。「自分はすごい」と他人に無理やり認めさせようとするし、失敗をしても「自分はすごくない」を認められないから逃げ続ける。原因究明と対策の実施がいつまでもできない。一方で「自分はすごい」をアピールできる相手を見つければ依存するし逃さないようにする。
 相手のことを信じたいと考える(普通の)人は、そうした人達相手でも良いところを拾い上げて評価しようとする。プライドの基盤が脆弱な人にとっては都合のいい存在なので甘えられる。これは悪気があるわけではなく、一方的に他人に甘える不誠実さにただ無自覚なだけだ。しかし友人をばっさり切るのは冷酷な人みたいで嫌だと思って、ずるずる付き合うと疲弊していく。離れようとすると「自分を捨てるのか」「嫌いになったのか」と詰られる。
 しかし相手が変わってくれるかもしれないと期待するのは間違っている。まずは自分自身の精神と生活をきちんと守ることが大切だ。だから、悲しいけどばっさり切るしかない。「まあでもあの時は楽しかったしいいか」と良い思い出にして、恨みでエネルギーを消費しないようにしながら、一切の関係を断ち切って過去の存在に押し込めるしかない、というのが現時点での経験則的な結論になっている。