やしお

ふつうの会社員の日記です。

小川剛生『兼好法師』

https://bookmeter.com/reviews/80135455

歴史上の人物の定説が時々変わることがあるけれど、それは必ずしも直接的な新資料が登場して変わるわけではなくて、当時の背景(社会体制、統治形態、価値観など)をより正確に把握した上で「この資料をどう解釈するのか」という妥当性がより高い説が提示されて、多くの学者がそれを承認して自分の研究にも採用していくことで、だんだん定説になっていくんだなと思った。


 本書は単純に「兼好の生涯の歩みを断定的に紹介する」「物語として提示する」ものではなくて、従来の説がどういう過程で生まれてきて、でもそれは例えば当時の人事制度から考えるとあり得ない、慣習から考えてあり得ない、それは「よくわからないこと」を現代の価値観や慣習を投影させただけの解釈でしかなかった、ということをはっきりさせて否定した上で、現状でこう解釈するのが最も妥当性が高い、という説を提示していく、そんな歴史学の研究プロセスを見せるような本だった。

カフカ『訴訟』

https://bookmeter.com/reviews/80135425

イタリア人の言葉は断片的にしか聞き取れないし、大聖堂の絵は暗くて懐中電灯で照らした一部しか見えない。このエピソードはちょうどこの小説全体と同じで、細部はものすごくクリアーなのに、全体は全く分からない。「知っていそうに振る舞う人」はいても誰も全体は知らないし、細部を統合しても全体にはならない。

訴訟 (光文社古典新訳文庫)

訴訟 (光文社古典新訳文庫)

魚住昭『野中広務 差別と権力』

https://bookmeter.com/reviews/80135396

野中広務の伝記なんだけど、「彼がどういう人物だったか」というより「なぜ彼が大きな権力を手中にできたのか」が主眼になってるから、生い立ちから中央政界入りして自民党内で力をつけていく過程も「彼の能力が凄かったから」で説明することはなくて、当時の環境や制度、価値観といった背景のシステムを丁寧に説明して、野中広務がそこにどうフィットしたかを描き出してくれる。すごく面白かった。平成前期の政治状況を振り返るにもいい本だ。


全編に渡ってすごく面白くて、野中広務という一人の人物を軸に据えているけど、かつての京都の被差別部落だったり、京都府政だったり、55年体制が終わっていく中央政治だったり、背景となる利害関係をすごく丁寧に描いてくれるのがすごく面白い。会社で普通は定年間際で達する級に20代でもう達していたり、30代前半で町長になってものすごい実績を残して、猛烈に優秀だけど、それでも衆院議員になったのは50代になってからで、でもそこから中枢に上り詰めるのもやっぱり早いという。


 あと麻生太郎野中広務のエピソードが書かれていて、とても印象深かった。

 自民党代議士の証言によると、総裁選に立候補した元経企庁長官の麻生太郎は党大会の前日に開かれた大勇会河野グループ)の会合で野中の名前を挙げながら、
「あんな部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」
と言い放った。

(p.385)
 2003年9月9日に野中広務は引退宣言をする。その後の9月21日の自民党総務会でのこと。

 立ち上がった野中は、
「総務会長、この発言は、私の最後の発言と肝に銘じて申し上げます」
 と断って、山崎拓の女性スキャンダルに触れた後で、政調会長の麻生のほうに顔を向けた。
総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の三人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんてできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」
 野中の激しい言葉に総務会の空気は凍りついた。麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだった。

(p.392)
 野中広務は事実として被差別部落の出身で、そのことによって差別を受けながらも、町議、町長、府議、副知事とステップアップして58歳でようやく衆議院議員になる。この本の前半でその詳細が描かれていくのを見ているから、自身のキャリアや信条が全否定されればそりゃ激怒するのは当然だろうと思う。
 ちなみに麻生本人は国会でこの件について質問されて「言ってない」と否定している。
衆議院会議録情報 第162回国会 総務委員会 第3号

野中広務 差別と権力 (講談社文庫)

野中広務 差別と権力 (講談社文庫)