やしお

ふつうの会社員の日記です。

「オリンピックを楽しんだ奴が金を払え」へという個人間対立の深まり

 新型コロナ対応における政府の「不作為犯」ないし「未必の故意」によって、個人間の無用の対立が発生した。「オリンピックでかかった金は、テレビ観戦で楽しんだ奴が払え」という言説をここしばらくネットでよく見かける機会があり、それもこの一種だった。あるいは「旅行に行った人」や「自粛要請に従わず営業する飲食店」を責めることも同様だ。
 ベースで以下のような価値判断があり、私は個人(ないしは個人事業主)より政府を非難する。

  • 責任は根本要因をもたらした側が負う
  • 責任は主体の大きさに応じて負う
  • 啓蒙主義的な思考は取らない

 

責任は根本要因をもたらした側が負う

 そもそもオリンピックがこの状況下で開催されていなければ、「テレビで楽しんだ人々」への憤りや憎しみは発生していなかった。最初から、「自粛」ではなく県外移動が制限されていれば、「旅行に行った人」はそうしなかった。「自粛」ではなく金銭的補償とセットになった営業制限がされているなど、環境や基盤が整備されていれば、飲食店も無理に店を開けることもなかった。破滅的な結果に至る可能性を認識しながら、やるべきことをやる/やめるべきことをやめる決断や行動を取らないというのは、「不作為犯」ないし「未必の故意」に近い。
 やはり責めを負うべきなのは、あくまで「オリンピックを開いた側」や「環境・基盤整備を怠った側」であって、矛先を個人に向けるのは、むしろそこを怠ってきた側の思う壺となる。その本来責任のある者達は、「自粛しない若者が/飲食店が悪い」など市民個人(ないし個人事業主)に責任を帰する方向へと事あるごとに誘導しようとしてきた。市民間で互いに憎しみ合って対立を深めてもらう方が都合が良いと不実な為政者は考える。

責任は主体の大きさに応じて負う

 政府>自治体>大企業>中小企業>個人事業主・個人 といった主体としての大小があった時、その大きさに応じて責任を負う。この大小は、単純に組織体(構成人員)の大きさによらず、影響範囲の広さによる。その問題を回避・解決する能力や可能性の大きさによる。個人を責める人々も、「基盤整備をしなかった側」への批判もした上で、なおかつ「現にそうなってしまった状況」において、状況をより悪化させる方向へと行動する人々も批判している、ということかと思う。政府も批判しつつ、個人も批判している、それは一見すると平等である。しかし主体の大小を考慮に入れると、平等であることが不平等であり得る。

啓蒙主義的な思考は取らない

 他者の行動を変えたい場合に、他者の価値観や思考そのものを直接変えることは難しく、環境を変えることで行動を変える方が容易い。また「お前は愚かで間違っているから、行動を直せ」と直接的に非難することは、自分の方が相手より「正しい」「分かっている」と自尊心を慰撫できたとしても、相手の行動を変容させるより、ただ反発と断絶を招く。
 もう何年も前に死んだが、私の両親が生きていれば、彼らもきっとオリンピックをテレビで楽しんでいただろうとふいに思った。彼らに「お前らは加担している、金を払え」という言い方を私はするだろうかと考えた。新聞紙上で連載の「コボちゃん」で、お父さんがテレビでオリンピックに熱狂して、次はテレビの感染拡大のニュースで「どうするんだ」と憤り、またオリンピックに熱狂して、今度は振り返ってコボちゃんに「宿題やってるか」と言い、コボちゃんから「切り替えが早いね」と言われる、という4コマ漫画が、オリンピック一色の紙面の横に載っていて、少し前に話題になった。私の両親にしても、コボちゃんのお父さんにしても、知的水準が必ずしも低いわけではなかったとしても、こうした反応が一般的だろうと思う。そこを「意識が低い」「加担している」と責めて反発と断絶を深めるには及ばない。

非難はしないが指摘はする

 個人を非難しないということは、問題を指摘しないことと等価ではない。「あなたがそうすることは仕方がない、しかしあなたがそうすることで、こうした効果(悪影響)が発生し得る」と言うことは可能であるし、そうした指摘も同時になされるべきである。オリンピックを楽しむことでテレビの視聴率が上がったり、ポジティブなツイートが増えれば、そうしたデータから「だから実際には支持されている/反対派なんて少数派だ」という欺瞞・自己弁護に逆用されたりする。旅行も飲食店の営業も感染の機会の増加をもたらす。

選手への非難

 オリンピックに参加した選手への「加担した」という非難もよく見かけた。これも先述の視点から、私は積極的にその種の非難はしない。そもそもオリンピックが1年延期ではなく中止ないし2年延期であれば、この非難は起こらなかった。スポーツ選手(とりわけ人気スポーツの選手)は、一個人であるが、影響範囲の広さという意味では一個人に留まらない。一方で「その問題を回避・解決する能力や可能性の大きさ」、責任主体の大きさという意味では、言うまでもなく政府や組織委員会などに及ぶべくもない。
 スポーツ選手が利己的な判断として出場することは当然と考えるし、他方で不参加を表明する者もまた立派だと考える。但し「私が出場することで感動や勇気を与えられるから」という理由は欺瞞である。あくまで自己利益(自己の喜び)の追求として「私は他のイベントや国民生活その他を犠牲にしてでも、そうしたいのでそうする」と言わなければならない。この欺瞞の物語はしかし、スポンサー・主催機関・マスメディアなどが自己の利益の正当化のために振りまいたもので、選手個人に「それは欺瞞である」とは指摘しても、選手個人がその物語を無意識に内面化させてしまうことには同情する。

マスメディア

 マスメディアは私企業であるが、国民の知る権利を保障するという大義を自他共に認めている。しかし現実には、人が聞くべき話より聞きたい話、感情を慰めて快楽を与えるような情報、視聴率の取れるストーリーを流してしまう。それまでは感染の危険性を煽り、不安感や怒りを与えておきながら、一旦オリンピックが始まれば選手の活躍一色になる。論が矛盾し支離滅裂であっても、俗情と結託するという点では姿勢が一貫している。一般的な私企業と比較して影響力も大きいという点で、行政府・立法府に次いで非難され得る。




 「災害」の最中に、政府が積極的な判断・行動を放棄することで、市民の間に感情的な対立・分断を引き起こす(さらに政府はそれを肯定する)。その状況を体験した以上は、記録して記憶しておきたいと思った。

平野久美子『テレサ・テンが見た夢』

https://bookmeter.com/reviews/99999811
テレサ・テンは、母親経由で大好きになった。単に「歌謡曲の歌手」ではなく、その生涯は台湾・華人社会の歴史と強くリンクしている。父親は共産党に敗れ台湾に渡った国民党の軍人で、貧困の中で育つ。偽造旅券事件も個人の問題ではなく、台湾(中華民国)が国連から脱退し、国際的に孤立していたことが背景にある。高等教育を受けず、大人になって複雑な現実に直面しても、考える枠組みを持てずに大きな苦悩を抱えるスターの悲しさも描かれている。未だにベストアルバムが毎年出続けていて、現在185thアルバムまで出ているのだから驚異的。

磯田道史『近世大名家臣団の社会構造』

https://bookmeter.com/reviews/99999790
武士と一口に言っても、内部は侍・徒士足軽の3層構造になっていて、各層の経済構造や世代交代・階層移動の様子は大きく異なっていたという。それも江戸時代の初期か後期かでも変化がある。一つの家・人物など個別具体例ではなく、地域も超えた一般構造を見せる本は珍しくてとても面白かった。地位と収入が保証された侍、地位は低いが農業収入のある足軽に比べて、副収入も乏しく経済的に困窮した徒士が、幕末期に変革の中心的存在になった、という指摘が面白かった。


 ただの控え、記録みたいなものが、後々貴重なデータとして統計的な解析に使われている。今だと物理的な紙にも残さないし、電子データが失われていくと、後世の解析でどうなるんだろうか。個人的に詳細な家計簿をずっとつけているけど、これなんかもおじいさんになったらネットで公開するとかしてもいいのかもしれない。
 もとが博士論文なので仕方がないというか、過ぎた要求だけど、内容に繰り返しや言い換えが多くて非常に冗長で、データ量を減らさず3分の2に圧縮できるはずなところが、読んでいてちょっと面倒だった。