やしお

ふつうの会社員の日記です。

平家物語の建付け・構造

 今年の2月に兵藤裕己『平家物語 <語り>のテクスト』を読んですごく面白かった。平家物語のバリエーションの違いや生成される過程も考えて、平家物語がどういうテクスト・構造になっているのかを見ていく営みになっている。
 その頃はアニメの『平家物語』もやっていたり、大河ドラマの『鎌倉殿の13人』も源平合戦あたりだったり、その後アニメ映画の『犬王』が公開されたり、ちょうど平家物語に絡む作品も多く公開されていた時期でもあった。


 すごく面白かったけど、本書はシーケンシャルな(あまり整理されていない)書かれ方になっていて、もう少し全体を自分なりに整理して把握したいと思って、まとめ直し始めていたものの途中で放置してしまった。整理しきれていなくても、自分で参照できるように(年をまたがないうちに)置いておこうと思った。
 本書は1998年の刊行で、ひょっとすると実証的な部分でその後研究が進んで否定されている事実関係などもあるのかもしれない。


平家の主要人物

 登場人物が膨大で、ある程度名前とキャラが一致していないと理解が難しいのでまとめておく。(清盛起点での世代別)
 ついでにアニメ『平家物語』、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の声優・俳優も記載する。


【清盛】

 

【清盛の子】

  • 平重盛 (声:櫻井孝宏) :平家の棟梁。善の象徴。後白河法皇に近い立場。妻の兄(藤原成親)が鹿ケ谷の陰謀(平氏打倒の謀議)に参加し処罰されたことで平家一門の中で立場が悪化。源平合戦が始まる前に病没。
  • 平宗盛 (声:檜山修之、演:小泉孝太郎) :重盛の異母弟。重盛没後に平家の棟梁。重盛との比較で愚鈍な人物像で描かれる。壇ノ浦で息子・清宗と一緒に捉えられ処刑される。
  • 平知盛 (声:木村昴、演:岩男海史) :宗盛の弟。兄・宗盛が文人気質で政治担当、弟・知盛が武人気質で軍事担当、という対象。壇ノ浦で入水。(ちなみに声優の木村昴は鎌倉殿では俳優として以仁王を演じている)
  • 平徳子建礼門院 (声:早見沙織) :高倉天皇の妻。安徳天皇の母。壇ノ浦で入水するが助けられ、京へ送られ仏門に入り平家一門の菩提を弔う。
  • 平重衡 (声:宮崎遊) :宗盛、知盛の弟。文武兼備で人々に愛される人物として描かれる。清盛の命で南都焼討を指揮。一ノ谷の戦いで捕らえられ鎌倉へ送られた後、源頼朝に厚遇されたが、寺院勢力の要請で南都焼討の主犯として奈良で斬首。

 

【清盛の孫】

 

【清盛の曾孫】

  • 平高清・六代 - 維盛の子。母と京都に潜伏していたところ平氏滅亡後に捕らえられるが、文覚の歎願で処刑を免れる。出家したがその後文覚が流罪となったのに伴い処刑されたとされる。

 

時系列

 

治承・寿永の乱以仁王の挙兵~壇ノ浦の戦いの一連を指す
1180年

1181年

1183年

1184年

1185年

1186年

 


概要

  • 基本的に平家物語は「平家は悪行の因果で滅んだ」がコンセプト、「平家の怨霊を鎮魂する」が成立理由。
  • ただ実際のテクストや成立過程をつぶさに見ると、そこまで単純ではない。
  • 様々な転倒や矛盾を含んでおり、その辺りを見ることで平家物語を把握していく。

 

鎮魂のための平家物語

  • 平家滅亡@壇ノ浦 →3ヶ月半後に大地震@京都 →6年後に後白河上皇発病
  • これらは「平家の怨霊」が原因と考えられた。
  • 「平家怨霊の沈静化」は京都社会の政治的課題となった。
  • 延暦寺は国家的な鎮魂儀礼の場だった。平家物語延暦寺周辺で成立したという仮説が有力。
  • 平家物語は、平清盛を「過去最大の朝敵」と位置付ける。清盛の亡霊に「悪行のせいで必滅したんだよ」と言い聞かせる体裁を取る。

 

悪と善の象徴

  • 平家物語では「清盛(悪)-重盛(善)」の構図。
  • 重盛は父である清盛を諌め、秩序を守護する者という位置付け。
  • その構図を補強するために史実も歪曲している。
    • 「殿下の乗合」事件での摂政への仕返しは、史実では重盛が企てているが、平家物語では清盛に改変されている。
  • 「弟の宗盛は重盛より劣る」という構図で、宗盛は重盛の死後その代役(清盛の諫め役/秩序の守護者)を果たせない。

 

源平の構図

  • 「源平は共に朝廷に仕えて拮抗すべき存在」という前提がある。
  • しかし保元・平治の乱で源氏が没落→平家が繁栄を極める→「源平拮抗」のバランスが崩れている、という状況が平家物語のスタート地点。
  • 「平家は朝廷を軽んじるが、それを戒めるべき源氏が没落している」という構図。
  • 「源平が拮抗して交代する」構図は源平合戦以降の歴史にも引き継がれる。時の権力者はそれを意識している。
  • 「源平の権力抗争・交替」の枠組みに収めて、朝廷を支える正統制を持つことで、中世~近代の天皇制国家が強化される。
  • 運動会や紅白歌合戦で紅組(平家)と白組(源氏)に分かれるのもその名残り。
  • ※アニメ映画『犬王』の冒頭で一瞬、運動会や紅白歌合戦のシーンを出しているのも「現代と源平合戦の繋がり」の提示になっている。

 

源平合戦

  • 治承・寿永の乱は、現実には当初から源平合戦として認識されていたわけではない。
  • しかし平家物語では過去に遡って「源平の抗争」の構図を適用する。
  • 頼朝挙兵も、畿内社会からは当初「朝廷への反乱」と受け止められた。
    • 京都の頼朝感が実際に「源平の抗争」に変化したのは、富士川合戦で維盛が頼朝に大敗した後、頼朝が鎌倉に留まり内乱が小康状態になったタイミング。

 

源頼朝と「朝家の御まもり」

  • 平家一門では重盛だけが将軍の器だった→重盛が死ぬと源平全体で頼朝だけが将軍の器になった、という構図。
  • 源頼朝は平家だけでなく、源氏の「おごれる者」木曽義仲源義経も鎮め、「仏法を興し、王法を継いだ」から勝利した、という理屈で平家物語の中で正当化される。
  • 現実の頼朝は平家以上に強固な武家政権を築いて全然「王法を守っている」わけではないが、平家物語では「王朝の秩序回復者」という位置付けになる。
  • 愚管抄』も平家物語とこの思想的な枠組みを共有する。
  • 壇ノ浦合戦で宝剣(三種の神器のひとつ)が失われた」事実も、もともと宝剣は「君の御まもり」だったが、鎌倉幕府・武士が今は「君の御まもり」になったから失われた、という理屈を愚管抄も打ち出している。
  • 愚管抄は、後鳥羽院鎌倉幕府の関係が悪化した時期に書かれている→「幕府は朝廷と対立する存在ではなく『君の御まもり』」というイデオロギーを立てる企てになっている。
  • 承久の乱鎌倉幕府側に破れて隠岐に流された後鳥羽院は、平家物語では悪王という位置付け。
  • 政権基盤の正統性を「朝家の御まもり」に求める。

 

「平家は悪行の因果で滅びた」コンセプトの崩れ

  • 平家物語では、平家の滅亡だけでなく源氏の滅亡も語られる。
  • 「源平盛衰を因果論(平家の悪行)で説明する」コンセプトは、平家物語の進行過程で破綻している。
  • 巻1で「平家一門は悪行で滅亡」の構想を打ち出すが、平家のおごり・悪行と無関係な章段も実際には多い。
  • 平家物語でも、挙兵時点の頼朝は朝敵の位置付けで、朝敵の先例(名前)が列挙され「朝敵は必ず滅ぶ」と語られる。
  • 頼朝が入手した後白河法皇院宣の中にも「朝敵は敗北する」と書かれる。
  • 「平家が頼朝追討に向かう宣旨」「頼朝が入手した平家追討の院宣」の双方が相対化されている。

 

「末世→仏法&王法が衰微→崩壊が加速」というコンセプトへの置き換え

 

畿内/畿外

  • 畿内はコスモス、畿外はカオス、という基本イメージがある。
  • 畿内のエリア=大和+山城+摂津+河内+和泉(現在の京都府南部・奈良県大阪府
  • 四堺:[東]名墾(三重県名張市)、[南]兄山(和歌山県葛城町)、[西]赤石(兵庫県明石市)、[北]逢坂(滋賀県大津市
  • 畿内から見た畿外は、村落共同体でいう「川向う」、境界の外、タブー視されるエリア。
  • 畿外(東国や北国)での朝敵の蜂起は「日常世界を脅かす非日常の霊物」のイメージ
  • 境界に巫系の芸能民や宗教民が集住する。逢坂には蝉丸、明石には覚一という琵琶法師の二大元祖がいるのはそのため。

 

畿内の秩序

  • 王朝の秩序=王法(公家)+仏法(寺家)
  • この秩序を崩す者は悪という認識。
  • 清盛の福原遷都が「最大の悪行」の位置付けなのはそのため。
    • 院政期は、律令制の空洞化により、大寺院の世俗化が進行していた。
    • 公家の政治権力は平家の圧力下にあったが、寺院勢力は抵抗していた。
    • 平安京は周辺の大寺院にとっての王都。特に延暦寺は北東(鬼門)に位置して国家護持が役割だった。
    • 福原遷都は寺院勢力にとって政治・経済力を削がれることを意味したので遷都に抵抗した。
    • 福原遷都=仏法の侵害=王朝の秩序を崩す行為=悪、という理屈。

 

畿外=怨霊の集積というイメージ

  • 畿外は「敗者や王権からの疎外者の怨霊の本拠地」としてイメージされる。
    • 平家物語の「朝敵の列挙」も、ただの因果論の事例紹介ではなく、畿外の怨霊の集積・王朝の歴史を語っている。
    • 官人が天皇に無断で機外へ出ると罰せられるのも、畿外は王権の埒外で、そこに行くことが謀反・反逆と見なされるため。
  • 怨霊が人に奢れる心を発生させる→その人が朝敵になったり悪行をする→そいつも畿外に追放されて怨霊になる、という負のスパイラルがある。
    • 天魔が成親に悪心を起こさせる→鹿ヶ谷事件(治承・寿永の乱)が発生→主謀者らが追放されてさらに天魔・怨霊が再生産される
    • 崇徳院左大臣頼長(後白河院政からの疎外者)の怨霊→清盛に悪行を引き起こさせる。
  • 国を乱した者は死後に怨霊となり秩序世界を脅かす。
    • 1179年の竜巻@京都:俊寛(鹿ケ谷事件で鬼界ヶ島に流罪となり非業死)の怨霊による。平重盛の死も関連付けられる。
    • 南都焼亡:直接的原因(付近の民家に火をかけた)は平重衡だが、風で燃え広がり興福寺東大寺が焼け落ちたのは偶然ではない、という捉え方。

 

畿内と畿外の反転

  • 「平家=秩序世界の中枢」のはずが実は朝敵だった、という内と外の相対化・反転がある。
  • 中世世界では「畿内=王朝の歴史 vs 畿外=王朝からの疎外者・敗者の物語」の構図が反転する恐れにリアリティがあった。
  • 「地方(東国)=異端=混沌 vs 中央=正統=秩序」の枠組みも、「中央も異端だった」という転倒が起こる。
  • それで境界での呪術・巫術が必要とされる。
    • 延喜式律令の細かいルールをまとめた法典)では疫病流行の際に畿内堺で疫神祭をすることになっている。

 

平家物語のバージョン

  • 平家物語」にも様々なバージョンがある。
  • 大きくは「読み本」と「語り本」がある。
  • 読み本:延慶本と同系統の本の呼称。長門本源平盛衰記など。分量が語り本の2倍近く、ボリュームがある。
    • 延慶本:記録や説話類の寄せ集めのような構成。古い形態と考えられる。
  • 語り本:現在一般に読まれている平家物語。当道(語りの芸能の座組織)周辺で伝承。正本系と非正本系に分かれる。
    • 覚一本:当道の正本。南北朝時代に当道を整備・確立した覚一検校によって1371年につくられる。
    • 非正本系:百二十句本、屋代本など
    • 正本系と非正本系では「建礼門院の物語」の扱い方が大きく異なる。覚一本(正本系)は本編から抜き出し、巻12の後に別巻(灌頂巻)を立てる。百二十句本や屋代本(非正本系)では編年的に巻11,12に組入れている。

 

語られる平家物語

  • 平家物語は「書かれたテクスト」ではなく「声に出して語られるもの」で、その都度生成される。
    • 装束描写:着衣の順序に従って描写される。これは武将の口寄せ語りの様式を原型的に受け継いでいる。
    • 人名の列挙:琵琶法師の語りの声として響くと「こちら側を脅かす霊の堆積」としてリアリティを持って立ち上がってくる。「書かれたテクスト」として見てしまうと単に「実例の列挙で説得力を持たせている」だけに見えてしまう。
  • 乱の後に日本各地(京都中央や源平合戦の起こった地域)で、平家滅亡の語りが同時多発的に発生する。
    • 統一的に編集・整理される前に、念仏の聖や尼のネットワークを通じて語りが形成されていく。
    • 高野山、東山、大原、西山は平家と縁の深い聖や尼の隠棲地になっていたため、それらの地域で特に発生する。
  • 「文筆家が編集して平家物語が成立した」という通説を疑い、「編集される前の平家物語」を考える試みがかつてあった。
    • 柳田国男は1940年に「鬼界ヶ島の物語」を手掛かりに、念仏聖と琵琶法師の接点を探る試みをしている。
    • 筑土鈴寛が、柳田の視点を踏まえて、語りと文献資料が統一される場として比叡山周辺に注目した。
  • 寺院社会で成文化されたのは、単なる編集というより、領民支配のためでもあった。
    • 中世寺院は、広大な荘園の領主でもあった。軍事・政治的な領地支配だけでなく、領民のイデオロギー支配が必要だった。
    • 下級の唱道者・聖の集団がそのプロパガンダを担っていた。
    • 平家物語は、怨霊供養の唱道文や、説教の話材集とされた。

 

軍記物が農村で受容されるバックグラウンド

  • 軍記物:義経記曽我物語、保元・平治・平家物語など
  • もともと農村には「田遊び」の概念がある。
    • よそから神が来る→神が田についた怨霊と争う→神が勝つ→田が実る、というプロセス。
  • 土地の怨霊=恨みを抱えて死んだ人々。怨霊に名前がないと不安なので軍記物が利用される。それを芸能民が伝搬して広まる。
  • 近畿以西で、虫送りの藁人形が「サネモリ様」「イナベットウ(稲別当)」と呼ばれるのもその実例。
    • 平家方の武将、斎藤別当実盛に由来する。70歳を過ぎて若武者姿で戦死した。異様な姿で死んだ実盛の霊を、村の疫病や虫害と結び付ける。
    • サネモリ様・イナベットウに限らず、虫送りや疫病送りの藁人形は馬上の武者姿が一般的になっている。
  • 災いの原因を依代に転移させて、境外にまつり捨てることで、共同体の秩序と安寧が維持される。

 

二人で語られる平家物語

  • 「来る神vs土地の霊」はシテ/ワキの掛け合いとして演じられる。
  • これは平家物語以前からある「二人舞」がこの形式で、農村の信仰習俗の型を持っている(と折口信夫が考えた)。
  • ※お笑いの漫才もルーツを辿るとここら辺に行き着く。
  • 平家物語もシテ/ワキの二人で演じられる場合があった。(ツレ平家と呼ぶ)
  • 「敦盛の最期」のシテとワキの語り分けは、所作を加えるとそのまま能の「敦盛」に近くなる。
  • 鎌倉・室町時代の絵巻類だと中世の琵琶法師は二人連れで遊行している。
  • 霊争いの構造を、平家物語は物語の構造として内包している。

 

水=死のイメージ

  • 平家の死・滅亡は水のイメージを伴うことが多い。
    • 重盛の三男清経:都落ち後に前途を悲観して入水する。
    • 北の方の小宰相:一の谷の合戦後に通盛の戦死を知り入水する。
    • 重盛の長男維盛:妻子への断ちがたい思いから戦線を離脱して入水する。
    • 最期は壇ノ浦で一門がことごとく入水する。
  • 壇ノ浦で滅亡する平家一門は、王朝末期社会の災厄の依代
  • 御経流し:安徳天皇を弔うため、毎年3月24日に法華経を流す行事。流れ灌頂の一形態。
    • 流れ灌頂:水死者などを弔う死者儀礼。お経を書いた布を水辺に張って、通行人に柄杓で水をかけてもらう。文字が消えると成仏できるとされる。
  • 建礼門院の後日談が「灌頂巻」と名付けられるのは、第一に灌頂が秘曲伝授を意味するためだが、流れ灌頂のイメージ(水による浄化のイメージ)も重ね合わされているのかもしれない。

 

恩愛=罪の反転:宗盛・維盛のケース

  • 恩愛や執心=罪というのが基本的な唱導の価値観だが、宗盛や維盛のエピソードでそれが反転する。
  • 宗盛や維盛の最期には「善知識の聖」が登場し、妻子への執心を断つように促す。
  • 宗盛は潔さとは程遠い死に方をする。途中は戯画的に描かれるが、最期はかなり同情的な語られ方になる。
    • 壇ノ浦で次々に入水する平家一門の光景を船上から呆然と眺めていると郎等に突き落とされ、息子の清宗が沈んだら自分も沈もうと思って泳いでいるうちに源氏に捕まる。
    • 京へ連れ戻され、次男 副将との再会を望む。対面が叶うと、早くに母を失った副将への格別の思いを告白する。
    • 副将が六条河原で斬首後(享年8)、嫡子 清宗と共に鎌倉へ送られ源頼朝と対面するが、不甲斐ない態度をさらして憐れみの目で見られる。
    • 宗盛・清宗父子は義経に連れられ京へ戻る途中、近江で処刑される。
    • ここでは善知識の聖として「大原の本性房・湛豪」が登場し、宗盛に恩愛を断つよう促す。
    • 宗盛は湛豪の説得に納得して念仏を唱えるが、首を落とされる瞬間に「清宗も既に(斬首された)か」と息子を気にかけて絶命する。
  • 維盛が妻子への執心を断ち切ろうとしてできない物語も同じ。
    • 妻子を残して都落ち後、妻子への思いがつのり病がちになる。
    • 一の谷合戦で離脱、屋島に留まるが、その後脱出。妻子に会おうと京への帰還を試みるが源氏支配下のため断念し、滝口入道を頼り高野山に入り、出家する。
    • ここでは滝口入道(かつて父 重盛につかえた)が善知識の聖。
    • 剃髪に際して維盛は「自分の変わらない姿を妻子に見せた後なら心残りもないのだが」と語り、平家物語はこれに「罪深い」という価値判断を下している。
    • 熊野詣に行き、那智沖で入水。滝口入道は恩愛の情を断つよう諭すが、維盛は念仏を唱えながらも妻子への思いに捉われる。
  • 恩愛=罪の価値観を平家物語は(というか唱導は)提示するが、実際の描かれ方は宗盛や維盛の心情に同化していく。
    • 善知識の聖も「自分まで心が弱くなってはいけないので、涙を押し留めて説法する」と宗盛・維盛に対して同情的。

 

一門の罪業を集約的に担う重衡

  • 重衡は南都攻めの総大将として東大寺興福寺を焼き滅ぼす大罪を背負う。(自ら進んで焼いたわけではないが、結果的に焼けてしまう。)
  • 一ノ谷合戦で生け捕りにされ京に連行され、法然と対面し「君に仕えること・世に従うことが結果として罪になる」認識を示す。
    • この認識は、全人類が罪を背負うという親鸞の思想(悪人正機説)にも通じる。
  • 重衡はその後、鎌倉から奈良へ送られ、南都の僧から武士に引き渡された後、木津川のほとりで斬首。
  • 重衡の最期には、維盛や宗盛と異なり、善知識の聖が登場しない。重衡が自らの善知識になり、本人の口から「悪人」の救済が語られる。
  • 善知識の聖vs物語の主人公、念仏聖vs憑坐(よりまし)の二項対立が重衡の物語に至って解消・同一化される。

 

建礼門院の物語

  • 平家滅亡後に恋人・夫・子に死に遅れた女性らが尼となる。
  • 平家物語で女性を主人公とする物語の多くは、かつて念仏の尼たちの懺悔語りとして語られていたもの。
  • その代表が建礼門院。(清盛の娘で高倉天皇の妻、安徳天皇の母。壇ノ浦で安徳天皇を追って入水するが助け出される)
  • 建礼門院平氏滅亡後に大原に出家・隠棲。そこへ後白河法皇がひそかに訪問するのが「大原御幸」というエピソード。
    • 平家物語(覚一本)では灌頂巻で描かれる。
  • 建礼門院(徳子)は法王に、仏教の六道になぞらえて自らの人生を語る。
    • 六道語りは、維盛・宗盛・重衡の懺悔語りと同じ構図。「恩愛の執心(罪業)をきっかけに弥陀の本願にたよる」形が共通する。
  • 建礼門院にとっては我が子 安徳天皇への思い。そこで同時に清盛の「悪」の物語も再度言及される。
  • 建礼門院の語りが、後白河法皇の語り(=国家的な怨霊鎮魂)と対置される。(他力本願と自力作善の対比に対応する)

 

叙事的な屋代本と人・場面中心の覚一本

  • 平家物語は読み本と語り本に大別され、語り本には正本系と非正本系があり、正本系として覚一本、非正本系として百二十句本や屋代本などがある。(先述)
  • 屋代本:非正本系の中で最も古い成立とみられる。物語の叙事的な展開に主眼
  • 覚一本:正本系。人物中心・場面中心の物語構成。その顕著な例が建礼門院の物語
    • 覚一本は建礼門院の物語を灌頂巻として独立して立てる点に特色がある。
  • 現実の覚一は必ずしも人物・場面中心の語り口ではなかった。同一の出し物で大別して2種の演唱法があった。その2つの側面を典型化したのが屋代本と覚一本。
  • 「三人称に、一人称的な語り口が組み入れられる」が平家物語の文体の基本的な特徴。
    • 最初に出来事の背景が叙事的・三人称的に語られる→物語の中心部分になると一人称的な語り口になる。

 

一部平家と非正本系のテクストのスタイル

  • 全巻の通し語りを「一部平家」という。中世には普通に行われていたが、近世にはほとんど行われなくなった。
  • 勧進として1ヶ月かけてやる。このときは叙事的な語り口が用いられる。
  • 一部平家は口伝を受けた有資格者(検校)ができる。その口伝を明文化したのが、百二十句に分割した百二十句本
  • 句立ての方法が定式化する前の、通し語りの叙事的な語り口を伝えるのが屋代本。

 

正本の成立と、当道の組織確立

  • 正本の作成と伝授は、当道(座)の確立・維持と不可分。
  • 覚一本は、覚一→定一→塩小路慶一→井口相一 と総検校に伝授され、当道の最上層部で独占的に管理・相伝される。
  • 「参照される」というより「秘匿される」ことで権威化し、内部支配を補完する。
  • 慶一によって足利義満に副本が献上される。当道の支配権が将軍家に委ねられたことを意味する。
  • 公家や寺社に隷属して分散的だった座が、将軍家を新たな権威として組織化され当道になる。
  • 「総検校」を名乗るのは慶一が最初。覚一・定一は遡って総検校のタイトルが適用されている。

 

灌頂巻‐建礼門院弁才天

  • 覚一本に灌頂巻が立てられたのも、当道の正本として作成されたことに関連する。
  • 灌頂巻は最高位者(検校)に特権的に伝授された秘曲。
  • その秘曲として建礼門院の物語が選ばれたのは、その物語内容による。
  • 灌頂巻は伝授の際に、弁才天をまつる儀式が行われる。

 

後から成立したテクストが初源に似る

  • 徒然草でも、平家物語が寺院社会で編集・成書化された点が記されている。
  • 平家物語を構成する物語群は、念仏の聖・尼・琵琶法師らによって寺院に運び込まれる。
  • 覚一本がテクストとして成立・定着していく過程が、寺院から語り手(琵琶法師)が離脱し、座として自立する過程と対応している。
    • ※「犬王」では正本が成立して、今まで語り得た物語が語り得なくなる点に、主人公は抵抗していた。
  • 読み本(延慶本)の方が「文字化されたタイミング」は古くても、実は語り本(覚一本)の方が構造的には平家語り発生の初源に近い(可能性もある)
  • 平家は語られる都度、語り手の中でシャーマニックな発生を繰り返す。そのたびに、語りが発生する初源への揺り戻しを受ける。
  • そのため、覚一本が定着に至るまでの過程は、自らのスタイルを自律的に回復してゆく過程でもあり得て、構造的に初源に似ていく。

手柄よこどり人の作法

 会社ではありがたいことに、自分より他人の功績を強調するタイプの人が多いが、真逆の人もたまにいる。
 テレビドラマなどに登場する「手柄を横取りするキャラ」は、「本人が意識してやっている」「上昇志向が強いので人を蹴落とそうとする」という描かれ方が多いかと思う。現実にそのタイプの人を見ると、もっとナチュラルに、たぶん本人は無意識に、本気で「自分のおかげで物事がよく進んだ」と信じてやっているようだと思った。
 「手柄の横取り」のベースに我の強さや、他者の自尊心の軽視などもあって、その辺をある程度類型化してみようと思った。


行動様式・特徴

  • 人の発言やアイデアを自分が気付いたかのように言う。
  • 話の流れと無関係なトピックを無理やり(人の話を遮ってでも)ねじ込む。自分のフィールドに持ち込もうとする。
  • 「この場で自分が一番わかっている」をアピールする。
  • 意見を否定されると攻撃と認定して、徹底的に反撃しようとする。
    • 無理筋でも「相手が悪い・自分は正しい」形に持って行こうとする。論破を試みる。
  • 相手の落度を探して攻撃する。周囲に人が多い場面(人数の多い会議やCCの多いメール等)で相手を貶めようとする。
  • 一方で「あいつめちゃくちゃ失礼じゃないですか?」と他人から受けた非礼には敏感に反応する。(自分も失礼だが相手の失礼も気にしない、という相互的な許容ではない)
  • 声が大きい。
  • 自分の発言直後に被せ気味に笑う。(余裕の演出かもしれない。)

 

手柄

 ここで言う「手柄」は、仕事上の大きな達成や貢献、大きなプロジェクトを成功させたといった華々しいものだけではなく、もっと日常的な小さなものも含んでいる。みんなが見落としていたことを拾ってあげたとか、事前にリスクを低減させたとか、目立ちはしないが必要な細かい働きなど。
 そんな貢献を周りが認めて評価してくれていると本人が信じられることで、腐らずに仕事を続けられる。そうした働きを無視されるどころか、他人に取られれば、意欲がだだ下がりになる。


認知の歪み

 外側からは「人の発言や着眼点を横取りしている」ように見える。しかし横取り人自身は、本来他者が考えていたことを、先に自分で披露していくので、本人は「自分が考えたこと」と認識している(認知が歪んでいる)のだと思われる。


 例えば「はじめてのおつかい」を企画する話があったとして、誰かが「ルート上の交通量は?」と質問する。みんなその人が「安全性の確保の話をしたいんだな」と分かる。
 そんな場面で、横取り人はいきなり「安全性は確保できてるんですか!?」と質問者-回答者の間に割り込んで来る。何なら「交通量だけじゃないですよね!? 危ない人とかもいる可能性ありますよね?」と突っ込んできたりする。さらに「何でまだ検討できてないんですか、対応遅いですよ!」と相手を責めるポイントがあれば非難する。
 みんな(いやいや、今まさにそれを議論しようとしてたじゃん……)とは思っても、社会人は「おめーに言われなくても分かってるよ」「うるせえ黙ってろ」とはあまり言わないし、その人とのコミュニケーションが面倒(コストがかかる)なので、質問者は特に割り込み直しはしないし、回答者も「そうですね」と答える。
 横取り人は訂正されないので、自分の発言を正当なものと認識する。


 こうして本人は「自分が気付いたおかげ」「周りは無能で動きが悪いのを、自分が尻を叩いて動かしたおかげで目標が達成できている」といった認識を持つ。


周囲の扱い方

 手柄を取られたり、自分を否定されれば腹が立つ。ギャフンと言わせたい、報いを受けさせてバランスを取りたいという気持ちになったりする。それで横取り人に対抗するとものすごく面倒なことになる。
 相手は絶対に自分から折れようとはしない。「いやいや、私も○○に思い至らなかったので」とか「なかなか気付かないですよね」とは言わない。「誰かが悪いわけではなく、単に課題がある」形にすれば、みんな感情に振り回されずに仕事に集中できても、「あなたが悪いからこうなってる」という。最初から自分が折れたり内省するタイプならそもそも仕掛けてはこない。


 そうした「無理筋でも構わず相手が根負けするだけの論理の出し方」を日常的にトレーニングしているせいで、相手を倒すことが目的ではなく課題解決を目的とした論理性を伸ばしてきた人には対抗するのが難しい。(ひろゆきと専門家のバトルに近いかもしれない。)


 対抗するコストがひたすらかかり、それは単に「メンツの勝負」でしかなく生産性がまるでないので、最初からバトルが発生しないように、周囲はその人を適度に褒めそやして気持ちよくしておこうとする。
 「褒めておかないと面倒くさい」特性で、周囲がバーチャルに称賛を続けていると、事情をそれほど知らない(が決定権のある)人から見ると、本当に称賛に価する人物のように見えて、過剰な評価を受けたりすることもあるかもしれない。


許され具合

 この種のキャラクターも、他の条件、例えば若さや優秀さによって許容される度合いが変わり得る。
 20代くらいなら、まだ「周りが自分を認めてくれている」という自信が持てずに、そうした態度を取っても「しょうがない」と思ってもらえるかもしれない。一方で年齢を重ねて、後輩や部下がいるような立場であれば、むしろあなたが手柄を他人に譲るべきだろうと周囲からは思われる。
 もしその人が圧倒的に優秀で、その奪った他人のアイデアや手柄をはるかに大きく発展させられる能力があれば、「最初のワンステップ目を奪った」罪を大目に見てもらえたり仕方なく許容されるのかもしれない。(スティーブ・ジョブズイーロン・マスクはそういう感じなのだろうか?)


周囲への悪影響

 手柄の横取りに限らず、「お前は馬鹿だ」と(直接はそう言わないとしても)周りに人がいる場で言えば、言われた人の精神衛生は毀損される。たとえ周囲の大多数が「手柄横取り人の方がおかしい」と思ったとしても、言われた当人はかなりのダメージを負う。
 攻撃を受けた人の上司などがその場に同席していたら、割って入る必要がある。相手が立場の上下でトーンダウンするタイプならそれでいいし、そうでないなら最悪代わりに攻撃を受けるしかない。そこで庇わないと「その立場にあったのに庇わなかった人」になってしまう。
※関係ないけど、はてなブックマークのコメントとかでも、「こいつは馬鹿」みたいなコメントがつくと大勢でなくても心的ダメージが大きい。誰か一人が「いやそういうあんたの方がおかしい」と言ってくれるだけで救われる。攻撃的な言説は非表示にして目に入らないようにした方が良い。それは「意見の多様性」とは無関係なことだ。


本人への悪影響

 このやり方でしか自尊心を確立できない人は不幸だろうと思う。その意味では周囲だけでなく当人にもこのスタイルは悪影響を及ぼす。
 周囲が褒めたり当たり障りなく接してくれるおかげで、本人は自分のやり方で正しいと学習する。しかし恨みを買ったり疎まれたりするのは避けがたく、そうした他人の負の感情に反発して攻撃すればますます負の感情を集めてしまう。


 あまり自己啓発本は読まないし好きじゃないけど、例外的にデール・カーネギーの『人を動かす』は好きで、そこで提示される「自分を幸福にしたいなら結局、自分の周囲を幸福にするほかない」という定立を思い出す。(この本は、主張の中身そのものを本書が実践して、内容と形式の高度な一致が手品みたいで読むとワクワクする。)


 あと、『ワタシってサバサバしてるから』という(一時期よくウェブ広告に出てきた)自称サバサバ女の社員が社内で軋轢を引き起こしてぶっ叩かれる様を描いて読者にカタルシスをもたらせる(と思われる)漫画作品の人物について、ダ・ヴィンチ・恐山氏が、「苦しみながら熱線を吐き出すゴジラ」と評していたのを思い出した。
 漫画を読んだライター3人のうちで唯一「客観視が苦手で傲慢な人はみんなに嫌われながら生きていくしかないのか?」という哀しみに言及していて、本当にいい感想だなと印象深かった。
  【ちょいネタバレ】「ワタシってサバサバしてるから」うざい網浜さんの感想 | オモコロブロス!


上司だった場合

 引き上げる側がきちんと見ていれば、このタイプを上司に据えるのは危険だと分かるはずでも、

  • 全方位に攻撃しているわけでもない
  • 横取りした手柄を本当にその人の手柄と見誤る
  • 周りが対応が面倒なのでヨイショしているのを本当の評価だと誤認する

などが重なって、ひょんなことから管理職に引き上げられることもあるかもしれない。「憎まれっ子世にはばかる」の一つの機序だ。
 このタイプが上司になって、攻撃対象に自分が選ばれてしまったら、どうすれば良いのだろうか……。正直、とにかく距離を取ることくらいしか思い浮かばない。


 「上司に手柄を献上して褒めそやすムーブ」が全く苦痛でない人であれば耐えられるのかもしれないが、何とか適応しようと無理やりそうしていると、ガンガン精神が摩耗してかなり危険だろうと思う。

  • 上司の上司に危険性を納得させる政治力を発揮する
  • ものすごく激しいケンカをして「なんかトラブルがある」と他の部署や上司の上司に認識させる
  • 異動願いを出しまくる

などの取り得る方法で、相手を排除するか自分が去るかするほかないのだろうか。


部下だった場合

 自分が上司で、部下の中にこのタイプがいたらどうするのがいいんだろう。上手に感情をヨシヨシして、目の前で攻撃してるのを見たら上手く話を逸らせたりフォローに入るくらいだろうか。


 あまりに目に余るようであれば、あなたがしていることはこういうことで許容できない、という話を二人きりで丁寧にするしかないかもしれないが、それで直接その人が変わるかは分からない。
 それでも「伝えた」既成事実と証拠を作っておく意味はあるのだろう。最悪その人を外した時に、「ステップを踏んだ上でのこと」という形にしておかないと「不当な扱いだ」と訴えられた時に危ない。


 攻撃の矛先が自分に向けられたらかなりしんどいだろうなと想像する。パワハラは上司→部下だけでなく、部下→上司でも成立する。
 「そういう部下をもコントロールできてこそ管理職だ」と、たとえ管理職失格と見なされたとしても、自分の精神を守ることが第一なので、窮状を正確に上長に話して、その人を外すか自分が外れるかするしかないのかもしれない。それで自分のキャリアが壊されるのも理不尽だけど、自分の体を最優先で考えないと危ない。


このタイプがマジョリティの世界

 このタイプの人は、周囲の人が衝突を回避するために、褒めそやすか距離を取るかするといった対応コストを支払うことで存在できる。
 仮にそういうコストを支払う人がまるでいない空間、このタイプがマジョリティの組織だったら、どうなるんだろうか。


 お互いに攻撃し合うことで、最終的にそれぞれの能力に応じた働きで均衡するのだろうか。
 それとも物事を進める・課題を解決するより、「自分が相手より上だと示したい」が価値判断として優先されるのは非生産的だと思うが、全員がそれを目指すことで膨大なコストが発生していくのだろうか。
 その能力が相対的に低い人が標的になって攻撃を一身に浴びるのだろうか。
 論破文化が流行ると、そんな空間の発生頻度が上がるのかも、とちょっと想像している。


個人的なこと

 直接的なきっかけとしては、会社でとある人と衝突が発生してしまったことだった。
 上で「若いか圧倒的に優秀なら許容する余地があるかも」と書いていた。その人は、そう若くはなく、圧倒的に優秀というわけでもない。(全く優秀でない、というわけでもなく普通だと思う。)
 その人とは5年くらい前に少し衝突したことがあった。「たまたまその時はそうなっただけかも」と思い、関係改善の余地があるか、雑談を振ってみたり話しかけたりしばらく試したがダメそうだったので、その後は直接的な接触を避けていた。


 しばらく距離を取れていたが、比較的最近、担当業務が被ってしまった。また衝突が発生してしまった。ある程度人の集まった場で、相手側から
「○○さん(私)はどう思いますか?」
と話を振られて、当たりさわりのない返答をしたら「それじゃ全然ダメ、お宅は何もできてない」といったことを散々言われたのだった。
 その前の場面で自分がその人と異なる意見を言ったのが気に障ったのかもしれないし(ただそれは相手に向かって直接は言っていない)、過去に「こいつはムカつく」と認定されたらそのまま継続されるのかもしれない。
 その場ではなるべく穏やかに話して、何とか「部署や個人の問題ではなく、単に解決すべき課題へのアクション」の話に落ち着かせて終わらせた。


 その時のやり取りや、他の打合せなどの場面でのその人の言動を改めて思い浮かべていたら、あ、実はこれって「手柄の横取り」をナチュラルに実現しているのかもしれない、とふと思い至った。
 数年前に(距離を取っていた期間中に)その人が社内の賞を受賞し、社内報にインタビューが掲載されたことがあった。その時は、その人が頑張ったんだなと思っていた。本人が頑張ったのも事実に違いないとは思うものの、周囲の協力分を吸収している側面や、周囲が対応コストを嫌ってヨイショしていった結果で到達している側面もあるのかもしれない、と少し思った。


 この人に限らず似たタイプの人は会社に稀にいて、一度、類型化して整理してみようと思ったのだった。


しんどい

 この攻撃を受けるのは、正直めちゃくちゃしんどい。
 現にその人と上手く関係を築いている(ように見える)人もたくさんいる。(一方でその人と同じ部署で、その人とは一切口を利かないようにしていると思われる人もいる。)自分が悪かったんじゃないか、という気持ちになる。


 自分の言い方が相手の神経を逆なでしたんだろうかとも考えた。自分がもっと相手の感情を上手によしよしできればこうならなかったのかもしれない、自分の技術の拙劣さが招いているのかもしれない、とも思った。


 それから、実は自分にもその人と似た面があるのかもしれないとも思った。
 他人に失礼な態度を取られたり腹の立つことを言われれば、相手にも同じ目にあってほしいと思ってしまう。(ある程度自然な・ありふれた反応だとは思うが。)それでつい嫌な応答をして、後で自己嫌悪に陥ったりする。
 そういう時はもう「私はあなたを映す鏡……」「あなたが私を尊重すれば、私もまたあなたを尊重するであろう……あなたが私に敬意を欠けば、私もまたあなたに敬意を欠いた態度を取るであろう……」などと思ってやり過ごしている。しかし「嫌な態度を取った自分」が消えるわけではなく、自分で自分が嫌になる。


 また過去には自分より立場や年次が上の人が、おかしなことを言ったと感じて、かなりキツく反論してしまったこともあった。就職前から、学校で先生に対してそういうことをしたりもしていた。「これぐらい言ったって相手はその立場にあるんだから」という甘えだったと思う。
 その後自分自身がむしろ人をまとめる側の立場に回って、上方/下方の両方に対してそうした態度は取らなくなった。
 この前、これとは別の人について後輩に「あの時はこういうことをされて、本当にハラワタが煮えくり返る思いをした」といった話をしたら、「○○さん(私)でもそんな風に思うことあるんですね」と言われてびっくりしたことがあった。自分では短気が短所だとずっと思ってきたから意外だった。外側から見るとそう見えないくらいにはカバーできてきているのかと思うと、少し嬉しかった。
 ただ、その昔の報いを今受けていると思えば仕方がないか、みたいな気持ちにもなった。「自分は相手を映す鏡」と同じで「相手は自分を映す鏡」で過去の自分に復讐されている。


 そうして、「この人の態度は私にも要因があるのかも」とも思ったりした。
 ただ上記のあれこれを考える中で、周囲がコストを払って成立してるのだとしたら、「そのコストをあまり負担しない人もいる」「鏡みたいに相手の態度を反映して振る舞う人がいる」のも、バランスとしてはいいんじゃないかという気もしてきた。それに無理して過剰に適用すれば、かえって苦しくなってしまう。やれるようにしかやれない。
 とはいえ接触すると精神が削られるので、なるべく同じ場に同席しないようにしたい。


 類型化して整理してみようとしたのは、少しは「感情」から「出来事」に移して楽になるかも、「自分の選択としてこうする」がはっきりすれば多少は気にしなくて済むかも、というメンタルケアのためだった。

羽根田治『山岳遭難の教訓』

https://bookmeter.com/reviews/110423187
自分自身は山登りを一切しないが、ネットで遭難の記事を見かけると何となく読んでしまう。8日間さまよって自力で下山した64歳の事例を見ると、角幡唯介『空白の五マイル』(チベットの未踏の峡谷を探検するルポ)を思い出す。これでよく死ななかったなと思うけど、細かく細かく「より安全性の高い行動」「生きる可能性の高い選択」を積み上げている。プロの料理人が細部の手順や工夫の積み上げで高い次元の美味を追求しているのと近い。逆に死ぬときは本当に短時間で死んでいて、背後には慢心や思い込み、リスクの過小評価などがある。


 この64歳の人について著者は、遭難したと自覚してすぐに、仕事への影響などは考えずに、ただ生き残ることだけにフォーカスしたのが大きい、といった指摘もしていて、確かに他の亡くなった事例だと割と世俗の損得や申し訳無さに引っ張られて判断を謝っているケースが結構多い。
 遭難の話に限らず、例えば逮捕されたとか、急病とかでも、「世俗的な未練をバッサリ切り捨てる、プライオリティの第1位にだけフォーカスする」態度は命運を分けるし、精神を保つ秘訣かと思った。