やしお

ふつうの会社員の日記です。

手柄よこどり人の作法

 会社ではありがたいことに、自分より他人の功績を強調するタイプの人が多いが、真逆の人もたまにいる。
 テレビドラマなどに登場する「手柄を横取りするキャラ」は、「本人が意識してやっている」「上昇志向が強いので人を蹴落とそうとする」という描かれ方が多いかと思う。現実にそのタイプの人を見ると、もっとナチュラルに、たぶん本人は無意識に、本気で「自分のおかげで物事がよく進んだ」と信じてやっているようだと思った。
 「手柄の横取り」のベースに我の強さや、他者の自尊心の軽視などもあって、その辺をある程度類型化してみようと思った。


行動様式・特徴

  • 人の発言やアイデアを自分が気付いたかのように言う。
  • 話の流れと無関係なトピックを無理やり(人の話を遮ってでも)ねじ込む。自分のフィールドに持ち込もうとする。
  • 「この場で自分が一番わかっている」をアピールする。
  • 意見を否定されると攻撃と認定して、徹底的に反撃しようとする。
    • 無理筋でも「相手が悪い・自分は正しい」形に持って行こうとする。論破を試みる。
  • 相手の落度を探して攻撃する。周囲に人が多い場面(人数の多い会議やCCの多いメール等)で相手を貶めようとする。
  • 一方で「あいつめちゃくちゃ失礼じゃないですか?」と他人から受けた非礼には敏感に反応する。(自分も失礼だが相手の失礼も気にしない、という相互的な許容ではない)
  • 声が大きい。
  • 自分の発言直後に被せ気味に笑う。(余裕の演出かもしれない。)

 

手柄

 ここで言う「手柄」は、仕事上の大きな達成や貢献、大きなプロジェクトを成功させたといった華々しいものだけではなく、もっと日常的な小さなものも含んでいる。みんなが見落としていたことを拾ってあげたとか、事前にリスクを低減させたとか、目立ちはしないが必要な細かい働きなど。
 そんな貢献を周りが認めて評価してくれていると本人が信じられることで、腐らずに仕事を続けられる。そうした働きを無視されるどころか、他人に取られれば、意欲がだだ下がりになる。


認知の歪み

 外側からは「人の発言や着眼点を横取りしている」ように見える。しかし横取り人自身は、本来他者が考えていたことを、先に自分で披露していくので、本人は「自分が考えたこと」と認識している(認知が歪んでいる)のだと思われる。


 例えば「はじめてのおつかい」を企画する話があったとして、誰かが「ルート上の交通量は?」と質問する。みんなその人が「安全性の確保の話をしたいんだな」と分かる。
 そんな場面で、横取り人はいきなり「安全性は確保できてるんですか!?」と質問者-回答者の間に割り込んで来る。何なら「交通量だけじゃないですよね!? 危ない人とかもいる可能性ありますよね?」と突っ込んできたりする。さらに「何でまだ検討できてないんですか、対応遅いですよ!」と相手を責めるポイントがあれば非難する。
 みんな(いやいや、今まさにそれを議論しようとしてたじゃん……)とは思っても、社会人は「おめーに言われなくても分かってるよ」「うるせえ黙ってろ」とはあまり言わないし、その人とのコミュニケーションが面倒(コストがかかる)なので、質問者は特に割り込み直しはしないし、回答者も「そうですね」と答える。
 横取り人は訂正されないので、自分の発言を正当なものと認識する。


 こうして本人は「自分が気付いたおかげ」「周りは無能で動きが悪いのを、自分が尻を叩いて動かしたおかげで目標が達成できている」といった認識を持つ。


周囲の扱い方

 手柄を取られたり、自分を否定されれば腹が立つ。ギャフンと言わせたい、報いを受けさせてバランスを取りたいという気持ちになったりする。それで横取り人に対抗するとものすごく面倒なことになる。
 相手は絶対に自分から折れようとはしない。「いやいや、私も○○に思い至らなかったので」とか「なかなか気付かないですよね」とは言わない。「誰かが悪いわけではなく、単に課題がある」形にすれば、みんな感情に振り回されずに仕事に集中できても、「あなたが悪いからこうなってる」という。最初から自分が折れたり内省するタイプならそもそも仕掛けてはこない。


 そうした「無理筋でも構わず相手が根負けするだけの論理の出し方」を日常的にトレーニングしているせいで、相手を倒すことが目的ではなく課題解決を目的とした論理性を伸ばしてきた人には対抗するのが難しい。(ひろゆきと専門家のバトルに近いかもしれない。)


 対抗するコストがひたすらかかり、それは単に「メンツの勝負」でしかなく生産性がまるでないので、最初からバトルが発生しないように、周囲はその人を適度に褒めそやして気持ちよくしておこうとする。
 「褒めておかないと面倒くさい」特性で、周囲がバーチャルに称賛を続けていると、事情をそれほど知らない(が決定権のある)人から見ると、本当に称賛に価する人物のように見えて、過剰な評価を受けたりすることもあるかもしれない。


許され具合

 この種のキャラクターも、他の条件、例えば若さや優秀さによって許容される度合いが変わり得る。
 20代くらいなら、まだ「周りが自分を認めてくれている」という自信が持てずに、そうした態度を取っても「しょうがない」と思ってもらえるかもしれない。一方で年齢を重ねて、後輩や部下がいるような立場であれば、むしろあなたが手柄を他人に譲るべきだろうと周囲からは思われる。
 もしその人が圧倒的に優秀で、その奪った他人のアイデアや手柄をはるかに大きく発展させられる能力があれば、「最初のワンステップ目を奪った」罪を大目に見てもらえたり仕方なく許容されるのかもしれない。(スティーブ・ジョブズイーロン・マスクはそういう感じなのだろうか?)


周囲への悪影響

 手柄の横取りに限らず、「お前は馬鹿だ」と(直接はそう言わないとしても)周りに人がいる場で言えば、言われた人の精神衛生は毀損される。たとえ周囲の大多数が「手柄横取り人の方がおかしい」と思ったとしても、言われた当人はかなりのダメージを負う。
 攻撃を受けた人の上司などがその場に同席していたら、割って入る必要がある。相手が立場の上下でトーンダウンするタイプならそれでいいし、そうでないなら最悪代わりに攻撃を受けるしかない。そこで庇わないと「その立場にあったのに庇わなかった人」になってしまう。
※関係ないけど、はてなブックマークのコメントとかでも、「こいつは馬鹿」みたいなコメントがつくと大勢でなくても心的ダメージが大きい。誰か一人が「いやそういうあんたの方がおかしい」と言ってくれるだけで救われる。攻撃的な言説は非表示にして目に入らないようにした方が良い。それは「意見の多様性」とは無関係なことだ。


本人への悪影響

 このやり方でしか自尊心を確立できない人は不幸だろうと思う。その意味では周囲だけでなく当人にもこのスタイルは悪影響を及ぼす。
 周囲が褒めたり当たり障りなく接してくれるおかげで、本人は自分のやり方で正しいと学習する。しかし恨みを買ったり疎まれたりするのは避けがたく、そうした他人の負の感情に反発して攻撃すればますます負の感情を集めてしまう。


 あまり自己啓発本は読まないし好きじゃないけど、例外的にデール・カーネギーの『人を動かす』は好きで、そこで提示される「自分を幸福にしたいなら結局、自分の周囲を幸福にするほかない」という定立を思い出す。(この本は、主張の中身そのものを本書が実践して、内容と形式の高度な一致が手品みたいで読むとワクワクする。)


 あと、『ワタシってサバサバしてるから』という(一時期よくウェブ広告に出てきた)自称サバサバ女の社員が社内で軋轢を引き起こしてぶっ叩かれる様を描いて読者にカタルシスをもたらせる(と思われる)漫画作品の人物について、ダ・ヴィンチ・恐山氏が、「苦しみながら熱線を吐き出すゴジラ」と評していたのを思い出した。
 漫画を読んだライター3人のうちで唯一「客観視が苦手で傲慢な人はみんなに嫌われながら生きていくしかないのか?」という哀しみに言及していて、本当にいい感想だなと印象深かった。
  【ちょいネタバレ】「ワタシってサバサバしてるから」うざい網浜さんの感想 | オモコロブロス!


上司だった場合

 引き上げる側がきちんと見ていれば、このタイプを上司に据えるのは危険だと分かるはずでも、

  • 全方位に攻撃しているわけでもない
  • 横取りした手柄を本当にその人の手柄と見誤る
  • 周りが対応が面倒なのでヨイショしているのを本当の評価だと誤認する

などが重なって、ひょんなことから管理職に引き上げられることもあるかもしれない。「憎まれっ子世にはばかる」の一つの機序だ。
 このタイプが上司になって、攻撃対象に自分が選ばれてしまったら、どうすれば良いのだろうか……。正直、とにかく距離を取ることくらいしか思い浮かばない。


 「上司に手柄を献上して褒めそやすムーブ」が全く苦痛でない人であれば耐えられるのかもしれないが、何とか適応しようと無理やりそうしていると、ガンガン精神が摩耗してかなり危険だろうと思う。

  • 上司の上司に危険性を納得させる政治力を発揮する
  • ものすごく激しいケンカをして「なんかトラブルがある」と他の部署や上司の上司に認識させる
  • 異動願いを出しまくる

などの取り得る方法で、相手を排除するか自分が去るかするほかないのだろうか。


部下だった場合

 自分が上司で、部下の中にこのタイプがいたらどうするのがいいんだろう。上手に感情をヨシヨシして、目の前で攻撃してるのを見たら上手く話を逸らせたりフォローに入るくらいだろうか。


 あまりに目に余るようであれば、あなたがしていることはこういうことで許容できない、という話を二人きりで丁寧にするしかないかもしれないが、それで直接その人が変わるかは分からない。
 それでも「伝えた」既成事実と証拠を作っておく意味はあるのだろう。最悪その人を外した時に、「ステップを踏んだ上でのこと」という形にしておかないと「不当な扱いだ」と訴えられた時に危ない。


 攻撃の矛先が自分に向けられたらかなりしんどいだろうなと想像する。パワハラは上司→部下だけでなく、部下→上司でも成立する。
 「そういう部下をもコントロールできてこそ管理職だ」と、たとえ管理職失格と見なされたとしても、自分の精神を守ることが第一なので、窮状を正確に上長に話して、その人を外すか自分が外れるかするしかないのかもしれない。それで自分のキャリアが壊されるのも理不尽だけど、自分の体を最優先で考えないと危ない。


このタイプがマジョリティの世界

 このタイプの人は、周囲の人が衝突を回避するために、褒めそやすか距離を取るかするといった対応コストを支払うことで存在できる。
 仮にそういうコストを支払う人がまるでいない空間、このタイプがマジョリティの組織だったら、どうなるんだろうか。


 お互いに攻撃し合うことで、最終的にそれぞれの能力に応じた働きで均衡するのだろうか。
 それとも物事を進める・課題を解決するより、「自分が相手より上だと示したい」が価値判断として優先されるのは非生産的だと思うが、全員がそれを目指すことで膨大なコストが発生していくのだろうか。
 その能力が相対的に低い人が標的になって攻撃を一身に浴びるのだろうか。
 論破文化が流行ると、そんな空間の発生頻度が上がるのかも、とちょっと想像している。


個人的なこと

 直接的なきっかけとしては、会社でとある人と衝突が発生してしまったことだった。
 上で「若いか圧倒的に優秀なら許容する余地があるかも」と書いていた。その人は、そう若くはなく、圧倒的に優秀というわけでもない。(全く優秀でない、というわけでもなく普通だと思う。)
 その人とは5年くらい前に少し衝突したことがあった。「たまたまその時はそうなっただけかも」と思い、関係改善の余地があるか、雑談を振ってみたり話しかけたりしばらく試したがダメそうだったので、その後は直接的な接触を避けていた。


 しばらく距離を取れていたが、比較的最近、担当業務が被ってしまった。また衝突が発生してしまった。ある程度人の集まった場で、相手側から
「○○さん(私)はどう思いますか?」
と話を振られて、当たりさわりのない返答をしたら「それじゃ全然ダメ、お宅は何もできてない」といったことを散々言われたのだった。
 その前の場面で自分がその人と異なる意見を言ったのが気に障ったのかもしれないし(ただそれは相手に向かって直接は言っていない)、過去に「こいつはムカつく」と認定されたらそのまま継続されるのかもしれない。
 その場ではなるべく穏やかに話して、何とか「部署や個人の問題ではなく、単に解決すべき課題へのアクション」の話に落ち着かせて終わらせた。


 その時のやり取りや、他の打合せなどの場面でのその人の言動を改めて思い浮かべていたら、あ、実はこれって「手柄の横取り」をナチュラルに実現しているのかもしれない、とふと思い至った。
 数年前に(距離を取っていた期間中に)その人が社内の賞を受賞し、社内報にインタビューが掲載されたことがあった。その時は、その人が頑張ったんだなと思っていた。本人が頑張ったのも事実に違いないとは思うものの、周囲の協力分を吸収している側面や、周囲が対応コストを嫌ってヨイショしていった結果で到達している側面もあるのかもしれない、と少し思った。


 この人に限らず似たタイプの人は会社に稀にいて、一度、類型化して整理してみようと思ったのだった。


しんどい

 この攻撃を受けるのは、正直めちゃくちゃしんどい。
 現にその人と上手く関係を築いている(ように見える)人もたくさんいる。(一方でその人と同じ部署で、その人とは一切口を利かないようにしていると思われる人もいる。)自分が悪かったんじゃないか、という気持ちになる。


 自分の言い方が相手の神経を逆なでしたんだろうかとも考えた。自分がもっと相手の感情を上手によしよしできればこうならなかったのかもしれない、自分の技術の拙劣さが招いているのかもしれない、とも思った。


 それから、実は自分にもその人と似た面があるのかもしれないとも思った。
 他人に失礼な態度を取られたり腹の立つことを言われれば、相手にも同じ目にあってほしいと思ってしまう。(ある程度自然な・ありふれた反応だとは思うが。)それでつい嫌な応答をして、後で自己嫌悪に陥ったりする。
 そういう時はもう「私はあなたを映す鏡……」「あなたが私を尊重すれば、私もまたあなたを尊重するであろう……あなたが私に敬意を欠けば、私もまたあなたに敬意を欠いた態度を取るであろう……」などと思ってやり過ごしている。しかし「嫌な態度を取った自分」が消えるわけではなく、自分で自分が嫌になる。


 また過去には自分より立場や年次が上の人が、おかしなことを言ったと感じて、かなりキツく反論してしまったこともあった。就職前から、学校で先生に対してそういうことをしたりもしていた。「これぐらい言ったって相手はその立場にあるんだから」という甘えだったと思う。
 その後自分自身がむしろ人をまとめる側の立場に回って、上方/下方の両方に対してそうした態度は取らなくなった。
 この前、これとは別の人について後輩に「あの時はこういうことをされて、本当にハラワタが煮えくり返る思いをした」といった話をしたら、「○○さん(私)でもそんな風に思うことあるんですね」と言われてびっくりしたことがあった。自分では短気が短所だとずっと思ってきたから意外だった。外側から見るとそう見えないくらいにはカバーできてきているのかと思うと、少し嬉しかった。
 ただ、その昔の報いを今受けていると思えば仕方がないか、みたいな気持ちにもなった。「自分は相手を映す鏡」と同じで「相手は自分を映す鏡」で過去の自分に復讐されている。


 そうして、「この人の態度は私にも要因があるのかも」とも思ったりした。
 ただ上記のあれこれを考える中で、周囲がコストを払って成立してるのだとしたら、「そのコストをあまり負担しない人もいる」「鏡みたいに相手の態度を反映して振る舞う人がいる」のも、バランスとしてはいいんじゃないかという気もしてきた。それに無理して過剰に適用すれば、かえって苦しくなってしまう。やれるようにしかやれない。
 とはいえ接触すると精神が削られるので、なるべく同じ場に同席しないようにしたい。


 類型化して整理してみようとしたのは、少しは「感情」から「出来事」に移して楽になるかも、「自分の選択としてこうする」がはっきりすれば多少は気にしなくて済むかも、というメンタルケアのためだった。