やしお

ふつうの会社員の日記です。

蓮實重彦「フローベールの『ボヴァリー夫人』――フィクションのテクスト的現実について」

 群像9月号に収められていた蓮實重彦の講演録中での『ボヴァリー夫人』についての指摘があんまりびっくりしたので箇条書きでご紹介。

  • 作者フローベールは同語や同文の反復を徹底して避けている。(その旨を書簡中で何度も述べている。)
  • 実際、長編である『ボヴァリー夫人』でも同文の反復は避けられている。
  • ただしたった一組だけ例外がある。長編中でたった一度だけ、全く同じ形式の文章が繰り返される。
  • 第1部1章:シャルルが中学に入る場面「父親が自分で彼を連れて行った」、第1部6章:エンマが尼僧院の寄宿舎へ入る場面「父親が自分で彼女を連れて行った」
  • 実はよく読んでみると、それ以外でもエンマはまだ会ったこともないシャルルをひたすら反復している。
  • 例2:それぞれの父親は農場主でどちらも成功していない。
  • 例3:どちらも親の損得勘定で寡婦寡夫を配偶者に選ぶ(シャルルは寡婦エロイーズと結婚、その後エロイーズは突然死する。寡夫となったシャルルと結婚するのがエンマ)。
  • 例4:それぞれ結婚生活に失望を覚える(シャルルはエロイーズとの結婚生活、エンマはシャルルとの結婚生活への失望を口にする)。
  • (『ボヴァリー夫人』は「結婚に不満を覚える人妻の姦通物語」と言われるが、結婚への失望を口にして精神的な姦通に走るのはシャルルのほうが実は先。)
  • 例5:失望を覚えてそれぞれ農場主の娘(エンマ)/農場主(ロドルフ)に惹かれることになる。
  • 例6:二人とも借金をする。しかも二人とも返済額を曖昧に意識から遠ざける素振りを見せる。
  • 例7:全く同じ寒さをしのぐすべを心得ている(シャルル:貧乏学生時代に「部屋の壁を靴底で蹴って足を暖め」、エンマ:馬車の出発を待ちながら「編上靴の底を中庭の石畳に打ちつけて、爪先のかじかむのをふせいで」)
  • こうしてエンマはシャルルの振る舞いを、本人たちは意識しないまま(会ってもいないうちから)模倣・反復していく。
  • ではどうやってこの物語は終わりを迎えるのか。
  • 「終わり」をシャルルがつぶやくところから物語の終わりが始まる。
  • エンマがそうつぶやくのが自然な場面でシャルルが「いったい、いつになったらこんなことにけりがつくのだろう?」(第3部6章)とつぶやく。
  • これは実ははるか以前のエンマの「こんな情けない毎日がいつまでも続くのだろうか?」(第1部9章)というつぶやきの反復。
  • ここからシャルル→エンマの模倣が、エンマ→シャルルの模倣になって終わりが加速していく。
  • 例2:エンマの得意技「卒倒」がシャルルの身に起こる。
  • 例3:5フラン金貨を投げ与える。(エンマ:そのとき全財産だった金貨を乞食に、シャルル:エンマの葬儀当日の教会での喜捨で。5フラン金貨がただ登場したのではなく、二人ともそれを「投げ」与えている。まるでそれが「終わり」の儀式だというかのように。)
  • 例4:エンマの死に、シャルルもまた死ぬ。
  • ボヴァリー夫人』は、作中人物の「性格」の違いによる心理的な「悲劇」なのではない。
  • 「まるで兄妹のように似ている男女が、その類似のはてに生じる齟齬を生きるしかないという悲劇なのです。」


 言われてみるとそうか、と目からうろこ。もはやそうとしか読めなくなってしまう。
 ちなみにこの部分以外も面白くて、その前には、『ボヴァリー夫人』の全編でも下書きでも書簡中でもフローベールは一切「エンマ・ボヴァリー」(Emma Bovary)とは書いていない、という指摘もあってびっくりしてたら、さらにそこから、テクストの現実を無視して「エンマ・ボヴァリー」なんて書くフィクション論こそフィクションだぜ、と何人かの理論家を名指しでディスり始めてて笑ってしまった。
 他にも、散文の出自とそれが「生まれたばかりのもの」であること(昨日性)についての話、「テクスト的現実」を忘れて「みせかけの自明性」に安住すること(その実例)の話なんかがあって面白かったよ。
 まあこんな風に要約めいたものを書くことがまさしく「テクスト的現実」の忘却ってことなので、群像9月号を読んでみるといいとおもいます(もう店頭にはないかもしれないけど)。ちなみに蓮實重彦の『「ボヴァリー夫人」論』(1800枚程度)が来年の晩春〜麦秋に刊行予定とのことなので、ひょっとするとこの講演録も収録されるのかもしんない。