やしお

ふつうの会社員の日記です。

日本橋ヨヲコ『G戦場ヘヴンズドア』:漫画読者への嘲弄

 久しぶりの漫画。生理的に面白い。一気に全3巻を読んだ。
 ここでの「漫画」は徹底的にブラックボックスだ。主人公はじめ大量の漫画家が登場する。しかし一作たりともその具体を見せない。「漫画」は狂喜させ絶望させ人生を救う「何か」として機能する抽象的な存在に終始する。ぽっかりあいた穴の周りで人物たちが喜怒哀楽を演じ続ける姿を私たちは眺めている。


 ブラックボックス化は二つの理由から要請される。第一に作中作を具体的に示した場合、説得力が失われるためだ。人物が漫画を読んで慟哭していたとして、その内容が陳腐であればそれを見る私たちは鼻白む。第二に作中作の具体は物語ることに必要がないからだ。父に反発し父の描いた漫画を憎んでいた主人公。しかしそれを読んで漫画の面白さを知る主人公。さらに再度読み直し、それは面白いだけでなく、自身に対するメッセージであったと知って感涙にむせぶ主人公。そんな父との和解譚の中で、「父の描いた漫画」という属性があれば十分であって、その中身自体は物語に必須ではない。
 必須ではないどころか、むしろ作中作の具体を呼び寄せればそれは物語を停滞させてしまう。作中作が現実にどのように作られているか、さらにそれを作中人物が受容する有り様を説得的に描出していく手数がかかる。同じような物語を語るとすればとても全3巻には収まりきらないだろうし、その3倍を見込んでも手にあまるかもしれない。


 ブラックボックス化を許さなかった作品として例えば、映画ならモンテ・ヘルマン「果てなき路」を、小説ならウィリアム・フォークナーアブサロム、アブサロム!」を挙げることができる。これらの作品では、物語を構築しようとする主人公が、その物語を語ってしまったばかりに、作中作と作中と作との境界が曖昧となって相互浸潤を進めて、物語を破綻させてしまう。


 ブラックボックスにしておけばそうした困難に直面することもなく安心して、面倒な手数も省ける上に、その箱がいったいどういう存在なのかほとんど制約なしにどのようにでも描ける。実のところ、このお話は「漫画」である必要すらない。何をそこに入れたとしても同じ話を描き得る。
 本作を漫画への賛歌か何かのように読んでいる感想文ばかりを見かける。確かに作中人物たちや物語はそう主張している。しかし作品の現実は全くの逆を指示している。具体的な形などなくても、物語としての形さえ整えば人など容易に感動させられるという、これは嘲笑なのだ。
 主人公やその仲間たちは確かに必死にペンを動かして漫画を描いている身ぶりを見せる。しかし彼らはいささかも漫画など描いてはいない。私たちは彼らの描いた漫画を目にしていないのだから。彼らは白紙のままの原稿を背後にかくして、私たちが何も見ずに感動する様をただ嘲笑している。


G戦場ヘヴンズドア 1集 (IKKI COMICS)

G戦場ヘヴンズドア 1集 (IKKI COMICS)