やしお

ふつうの会社員の日記です。

インターネットの乱獲、滅びゆく魚たち

 インターネットの上で、プライベートとパブリックがひと続きになった。それはまるで逆さまの海みたいだ。奥底にいるときは圧力が低く、表面に近づくにつれ圧力が高まるような海。そうして海底からふいに海面へと引きずり出されるとき、圧力に耐え得るものとそうでないものとがある。高校生の飲酒自慢ツイートなどはパブリックの圧力に耐えられないし、見事な腕前のアマチュア歌手の歌などは耐えられるだろう。


プライベートの弱さが消える世界

 プライベートなものも突然、地引網で浜へと引き上げられてしまうこと。海面へ向かうには圧力に耐えねばならないこと。
 そうした現実が、インターネットの海の中でまだ周知されていない。それらが知れ渡った暁にはもう、私たちはあのはかなく脆いプライベートな魚を目にすることはなくなるだろう。例えば、浜へ引き上げても絶対に開かない安全な貝の中へと閉じこもってしまう。もしくは固い殻を帯びて繊細さの欠けた姿に変わってしまう。あるいは、全く姿を消してしまう。それは、極めてクローズドなSNSの中へと隠れることであり、ポリティカルコレクトネスで固めた毒にも薬にもならぬ退屈な言説を量産することであり、圧力に疲れ果てて表現をやめることである。


圧力の現実的様態

 水面付近でのパブリックな圧力が具体的にどういったものかは例えば、はてなブックマークのコメントなどを観察すれば実によく把握できる。
 まだブックマーク数が10や20の間は、みな面白い/興味深いと愛でている。それは、プライベートなものだという緩い視点で見ている。短所によって否定するのではなく、長所によって肯定する視線である。
 ところが数が100、200と増えてくると、あれが足りない、これが欠けていると、たった一点によって全てを否定するようなコメントや、あるいは理由もなくつまらないと否定するコメントを投げかける者が幅をきかせてゆく。長所によって肯定するのではなく、短所によって否定する視線である。静かな海の底で書かれた記事ではなく、海面近くの職業人によるニュース記事や何かと同列視する視線だ。


 パブリックな海面付近でそもそも作られた物は、鎧をまといつつその中も美しくあろうとする。これは非常に手数のかかるものだ。その手数は、金銭的な報酬によるモチベーションなり、鎧を提供するサポート体制などで支えられている。しかし一個人はそうした支えなどない中で作らざるを得ない。多少鎧に穴があいていようとどうしようと、ともかくも中身をさらしてみる。
 ところが、そうするとたまに海面へと引き上げられて咎められるのだ。圧力にさらされて、面食らった作り手はせっせと水漏れを防ぐ。あとから反論をいくつも書き付けていく。そうして疲弊していった先に彼が辿り着くのは、一切を無視するか、全く人目に触れないところへ逃げ込むか、一切をやめてしまうという、豊かさとはほど遠い態度しかない。
 こうして、圧力が実現されている。


 否定的な指摘と一口に言っても、正しいものもそうでないものもあり、反応の仕方にもバリエーションがあるだろう。そうした種類と構造については以前に以下の記事を書いており、それ以上に付け足す必要を特に認めない。
「「間違っている」という指摘の位置づけ」
http://d.hatena.ne.jp/Yashio/20130104/1357326573


パブリックの圧力をかける正しさ

 否定の圧力をかける彼らは、それが圧力であるなどという自意識を持たない。むしろ正当な振舞いであると考えているし、またそうでなければ繰り返すことなどできない。
 否定の身振りが正当であるという信念が帰結するものは、プライベートな場などインターネットの海にあって許されはしないというイデオロギーだ。海に深さなどない、あってはならないという原理主義である。そしてそれは、原理主義であるがゆえに、単純に正しい。プライベートとパブリックが曖昧に接続された海にあって、そこに境界面を設定するというのは畢竟、主観的な線引きでしかない。この主観的な線引きを放棄するのが原理主義だ。インターネットとは公開された場であり、そうである以上、インターネットに置かれる一切は公開に全く耐え得るものでなければならない。またそれに耐え得ない物は攻撃し、抑圧してしかるべきだという。
 原理主義は、プライベートなものが存在してしまうという現実を無視して構築できるため、容易に正しさを得られる。たとえ妥当性を欠いていても、無謬性を得られ、それによって安心して自身にその正しさを信じさせることができる。(この正しさの妥当性と無謬性の2つの側面については、「「間違っている」という指摘の位置づけ」で詳述している。)


 ここはお前たちの自尊心を満たす場ではないと圧力をかけることで自身の自尊心を満たすという、矛盾した蛮行を、原理主義を盾にして正しい顔でする。


クリーンなインターネットを目指す?

 抑圧こそがよりより社会、クリーンで快適な海を実現するのだという。気味の悪い見た目の深海魚など視界から一掃したいという幼児的な欲求を実現したいという。だから、インターネットの気に食わない物は海の底からさらって圧力を加えて潰す。黙って無視すれば良いのに、わざわざブックマークをつけて浅はかな筆誅を加える。あるいは自分にとって一切の利害関係のない不届き者を結託してつるし上げて私刑を加える。
 抑圧したところで目に見えなくなるだけだというのに。暴力団を潰しても反社会的な人間は消えはしない、橋の下に突起を設けてもホームレスが住居を得るわけではない、ふざけた大学生を一人追い詰めて人生を壊したところで、写真をアップロードしなくなるだけで飲食店で調味料の容器を鼻に突っ込み続けるだろう。


 乱獲をすることが、果たして本当に幸福なことなのだろうか。ただ目の前から消して安心するくらいなら、まだしも目に見えるようにしておく方が豊かなのではないか。
 海の底にひっそりと生きていた奇妙な生き物を釣り上げて殺すのではなく、こちらが潜水して静かに眺めていけばいいではないか。そんなダイバーの一人として私はkubomiを敬愛していた。彼は深海の豊かな観察結果を以下の記事で報告した。
「インターネットで読める怪文2012まとめ」
http://kubomi.hatenablog.jp/entry/2012/12/29/033630
 ここでkubomiは同時に釘を刺すことも忘れない。

下に紹介したサイトは、あくまでその表現の特異性から紹介をするのみであり、投稿者やサイト運営者の人格を非難・嘲笑することを目的にしている訳ではありません。リンク先へアクセスされる際は、決してサイトを荒らす、人格を攻撃する、またはその目的によりSNS等で拡散することのないようお願いをいたします。

 海を荒らすんじゃない、海面に引き上げて殺すんじゃない。kubomiのその警句を私は銘肝する。(しかしそのkubomiがもう、表現することをやめてしまっている!)


インターネット、その一瞬の豊かさ

 インターネットが一般人の目前に現れてから20年足らずで、初めは徐々に、次第に急速にその敷居を下げ続けていった。サーバーの知識もFTPの知識もHTMLの知識も不要になっていった。
 登場以前はパブリックなものか、自身の周囲のプライベートなものしか見えなかった。それが地理的な隔絶を超えて見えるようになった。突然目の前に広く深く豊かな海が出現した。しかし人々は乱獲によってバラエティに富んだ深海魚たちを滅ぼしつつある。


 オーストラリアに大型動物がいないのは、狩猟技術を十分に発達させた後で人間が乗り込んだためだという。人間が狩猟技術をゆっくり発達させるのに合わせて、人間に対抗するすべを発達させてきたアフリカの大型動物に比して、オーストラリアの動物はあまりに無防備だったために滅ぼされてしまった。
 インターネットの深海魚たちも同じだ。すでにパブリックな圧力のかけかたを実社会で十分に発達させてきた人々の前であまりに無防備な存在だ。良心的なダイバーがいくらかいても、地引き網で滅ぼされる。


 おそらくインターネットが現実社会とほとんど変わらなくなるまで、プライベートは抑圧されていく。これは不可避なのだ。ふいに出現した豊かさは、また急速に失われていく。この豊かな海は、移行期のほんの一瞬の輝きなのだ。
 私は絶対に忘れない。紛れもなく、豊かで汚濁した海が存在したのだ。今の赤ん坊がいつか中学生になったとき、この幻のような現実を語り継ごう。彼の顔にはきっと嫌悪の後に安堵が浮かぶだろう。今はきれいな海でよかったと言うかもしれない。だけど私は、この一瞬の汚れた海が好きだったんだよ。



 でもYahoo!知恵袋の中で生き残ってくれそうな気はする。