やしお

ふつうの会社員の日記です。

マネジメントはバランス感覚の問題かもしれない

 職場のグループリーダー(GL)になるから準備する、という話を前に書いた↓ 年明けにGLを交代して1ヶ月が経って、思うところをメモする。
会社でグループリーダーになるから準備する - やしお



バランス感覚の問題

 GLって「メンバーの進捗管理をする」「マネジメントをする」というのが仕事だと思っていた。それは間違いではないけど、実際にやってみるとそこよりもバランス感覚の問題なんだなと思った。
 進捗管理だけならメソッドを習ってやればできるかもしれない。でもそうじゃなくて、情報・時間・人手・お金といった様々な制約がある中で、どこで折り合いを付けて現実のアクションに落とし込むのかというバランス感覚が優れているのが、いいGLってことなんじゃないかという気がしてきた。そこを自分の中で訓練して精度を上げていく必要があるなと思っている。


 GLになってから、入ってくる情報の量が格段に増えた。想像はしていたけど実際に体験してみると(あ、こんな感じなんだ)って新鮮さがあった。

  • 担当者として自分が対応する話
  • GLとして自分が対応する話
  • グループのメンバーに振る話
  • さしあたり状況の推移だけ把握しておく話
  • 課長や他の部署に上げる話
  • 振られているが跳ね返すべき話
  • ただのご参考


 そんな情報がメールや打合せや口頭でわーっと入ってくる。今までは「担当者としての自分の仕事」だけが主だった。把握と仕分けに少なくない時間を毎日費やしている。
 「情報の共有」という名目で打ち合わせに出てみたら、そこに課題が埋め込まれていて、その洗い出しや整理をしたら新しい課題が出てきたみたいな、仕事が仕事を生んでくみたいなところがある。内容によっては即応性が求められる(緊急度が高い)話もあって、情報収集と整理をしていたら一日がもう経っていたりする。


 情報の仕分けは結局、アクションを決定することと一体になっている。「攻撃・防御・アイテム・逃げる」みたいな感じで「自分でやる・メンバーに振る・押し返す・静観する」みたいな判断がある。

  • 全体として効率的か
  • 内容に妥当性があるか
  • コストが現実的か

と頭を使って考えても、解答は一意に決まらない。
 例えば製品に品質問題が見つかって、在庫品をどこまで確認するかという話(よくある)ひとつ取っても、ユーザーへの害の程度、発生頻度、1台あたり確認・修正するのにかかる時間、といった状況が毎回違うし、情報は不確定だったり推定だったりする。その上で「全数やる」とか「何もしない」とか選択していく。かなり(うーん……)と悩ましい場合もあるけど、これと決めて「こう考えるのでこうします」と関係者に伝えないといけない。


 判断に抜けや漏れがあると後で問題になるけど、その検証に時間を取られ過ぎると時機を逸する。「念のため」の確認作業を増やせば安心だけど、コストがかかる。どこまでで切り上げるか、というバランス感覚を上手に保ちながら、それを自分自身で偏っていないかチェックしながら、毎日判断を下していくゲームなんだなと思った。
 そういう判断をすることは一担当者の時ももちろんあったけれど、幅と量が一気に増えた。判断のケースや体験の量が増えて、自己チェックを重ねていくことで、だんだんこのバランス感覚の妥当性や正確性が改善されていったり、切り上げるポイントに到達するまでのスピードも速くなっていくのかなと思う。


 あと「判断を下すこと」にはある程度の慣れ(というか鈍感さ)が必要だった。やっぱり最初のうちは迷いや不安もあってストレスになる。「それで大丈夫だった」という経験を積んで、「ま、これでいっか」と思って一旦忘れられるようにならないと続けられない。これにもある程度、判断の体験の絶対量が必要だ。


メンバーとの関係性

 グループが50代3人、40代2人、30代2人の計6人で、自分は年齢順だと下から2番目という構成になっている。「上司が部下に指示する」というより「一緒に考えて『じゃあそれで行きましょう』と決める」みたいな感じになっている。さっき「判断する」と書いたけど、全部自分の手でやりきるわけじゃなくて、「この人に振れる」という大きさにまでパッケージングできたところで担当者に渡す。それで渡す時に「こうした方がいいでしょうか」「どう思いますか」と相談して決めている。
 自分が担当者だった時に、細かいアクションまで指示されて、ただ作業するだけだと意欲が減退するという経験があったから、こんな感じでいいんじゃないかと思っている。年上だから気を遣って相手の主体性を尊重するやり方になっていることが結果的に良いのだと思う。


 GLがしっかりしていて指示の粒度が小さいとメンバーの主体性は奪われて意欲が減退する。逆に粒度が大き過ぎると「担当者に仕事を丸投げ」になってGLの意味がなくなる。今まで担当者としてどちらのタイプのGLの下で働いたこともある。これもまた、バランス感覚の問題になっている。
 言われた作業だけこなしていたい人もいれば、自分でコントロールして進めたい人もいるし、本人の意思だけでなく実力の程度も関係する。相手との関係性やレベルを見て常時調整し続ける必要がある。唯一の年下のメンバーは「次にGLになれそうな人」だと思っているので、少し粒度を大きめにして渡すようにしている。


 メンバー(特に前リーダー)からはどう見えてるんだろう。「頑張ってるな」と思われてるのか、「空回りしてんな」と思われてるのか、「ムカつく」と思われてるのか、それは分からないけど、そこはあまり考えないようにして、こうするのがいいと考えたことをやっていくしかない。


立場が重層化した

 今までは「担当者」だけだったのが、「グループの運営責任者」と「課全体の業務のメンバー」と立場が重なっている。「GLをやれ」と言われた時は「グループのメンバーに対するリーダー」になるのはイメージできたけれど、それだけじゃなくて、「課長をリーダーとする課業務に対するメンバー」にもなるんだってことは、あんまり考えていなかった。予算の計画から5Sみたいな話まで、課として取り組む業務や課題を、課長から指示を受けてこなすメンバーという立場にもなっている。
 課内の課題やグループの運営は、今までは「こうした方がいいんじゃないですか」と提案する立場だったのが、自分の手で課題を解決していく立場(それが疎かになっていれば批判される立場)なんだなと思うと、プレッシャーもある反面で、楽しさもある。


 課員のヘイトを高めずに協力体制を築くには結局、課題や進捗をみんなに見えるように透明化していくしかないんじゃないかなと思って、週一のグループミーティングで洗いざらい知ってることをバラしている。新製品立ち上がりの状況とか、隣のグループの状況とか、課の課題への取組みの進捗とか、「関係ないことは伝えても意味がない」という考えもあるかもしれないけど、伝えている。情報から疎外されると帰属意識が薄れて反発意識が出てくる。


サイクルが出来て落ち着いてきた

 「判断を下すこと」の前提として「現状が把握できていること」が必要なので、メンバーからの情報収集が必要になるし、逆に決めた判断をメンバーに伝えることも必要になる。一方で課長に対するメンバーとして同様に双方向の伝達が必要になる。結局なにはともあれ、コミュニケーションが大前提になっている。
 1ヶ月やってみて、1週間のサイクル・1ヶ月のサイクルが大体形になって少し楽になってきた。

  • 【月曜の朝1h弱】グループミーティング:グループ内外の状況をメンバーに共有(出張でいない人にはメールで)
  • 【週の後半】メンバー個別に10~20分くらいヒアリングして、進捗確認や案件のアクションの決定。抜けや漏れがないように案件を簡単にリスト化してメンバーとGLの2人でチェック
  • 【その都度】新規で何かあればその都度メンバーと相談
  • 【金曜】グループ内の状況をまとめて週報を課長に出す→そのまま翌週の月曜朝のグループミーティングに使う


という1週間のサイクルが習慣化してきた。(今までグループミーティングも個別の進捗ヒアも無かった。)


 最初の頃は「ああしよう、こうしよう」とプライベートの時も考えたりしていて、寝つきが悪くなったりしていた。それはプレッシャーというより「遠足の前でテンションが上がってるから眠れない」に近い感じだった。良くないなと思って心配したけど、最近は慣れてきたせいか落ち着いてきた。


気持ちの話

 以前に比べて態度が(たぶん)丸くなった気がする。
 前は仕事していて「そうじゃないだろう!」と立場が上の人に苛立ったり態度に出たりしていたけれど、そうしたことがかなり減ってきた。苛立っていたのは甘えだったんだろうと最近考えている。責任の範疇が増すと人のせいに出来る範疇も減る。「お前がちゃんとやらないからだ!」といった苛立ちの余地も減る。
 学生の時はもっと人格がハチャメチャだったことを思うと、学生から会社員になって、それからGLになって、少しずつ自尊心の欠如と甘えが無くなってきていて、それで規律と精神的な余裕ができているのかもしれない。隣の課の先輩でGLをしている人がいて尊敬してるんだけど、その人はそういう目の前の相手を責めるみたいなところがなくて凄いなと思っていて、でも昔は怖かった気がするけどなんでだろう、と不思議に思っていたのはこれかもしれない。でも係長や課長でも「お前が悪いんだ!」と打合せで他部署を批判しまくる人もいるから、人による。


 あと自尊心という話で言うと、やっぱ33歳でGLになれたっていうのは、別に世間一般からすれば全然大したことないと分かっていても、この古い大企業だとそこそこ早いし、例えば同期とかに対する虚栄心が満たされる、みたいなところも正直ある……。そんなことで態度が尊大になるのは間違っているしダサいから絶対にダメだけど、やっぱ嬉しいって気持ちがあるのは事実だ。両親が生きてたら自慢はしてたと思う。そうやって表に出さない範囲で嬉しくなるくらいは(神様に?)大目に見てもらおう。


 結局、金と名誉と地位の余裕が、精神の余裕と自制を生んで人に優しくなれるのか、と思うとちょっと身も蓋もない話だけど、実際はそんなものかもしれない。


 「こいつをGLにしてもいいか」と思ってもらえたのは、「ちゃんとしよう」と思ってやってきたからだとしても、それは結局「怒られたくない」「馬鹿だと思われたくない」という気持ちがずっと動機になってたんだなと振り返ってみて気付く。怒られず馬鹿だと思われない方法を考えて実践してきたのが第一にあって、結果的にそれが「組織の中でちゃんと働く方法」に帰結していった、みたいなことを思う。最初から別に「仕事ができる人間になるぞ!」と思ってやってた訳じゃない、ってことを忘れないでおこうと思った。
 今の立場だとそれが、「グループのメンバーが自分の仕事に集中できる環境をきちんと整えること」や「グループとして抜けや漏れがなく効率的に業務が進められていること」の実現を目指すこと、とかに繋がっている。そしてその実現にはバランス感覚が必要で、そこは引き続き自分をトレーニングしていかないといけない。囲碁なんかも、地を欲張り過ぎると奪われて負けるし、欲張らなさ過ぎるとそれも負けるし、ちょうどぴったりの手を打たないといけないけど、そういうバランス感覚は勝ったり負けたりする中で要因を考えて反省していって、だんだん醸成されてくるものなんだろうなと思っている。

人間にもセーフモードがほしい

 人間はロボットじゃないから、判断力は簡単に低下する。
 病気、睡眠不足、貧困、暴力とかで、心が簡単に弱々しくなる。心が弱ってる時は、「都合の悪い可能性」を直視できなくなってしまう。だって、それを直視してしまったらもう、心が壊れてしまうから。


 「損して得取れ」って言葉があるけど、それは余裕がある時にしか取れっこない戦略だ。
 HPが10しかないのに「一旦ダメージを50食らう」なんて選択肢ない。HPが100ある人に「防御コマンド繰り返しててもジリ貧ですよ」「一旦ダメージを50食らって次のターンで攻撃しなきゃ勝てませんよ」とか言われたって、HP10の人は「そんなこと言われたって私には無理だよ……」と呟いて、防御コマンドを繰り返すしかない。
 誰だって「自分は損している」「自分は馬鹿だ」なんて思いたくない。「自分は最良の選択をしている」と自分で信じたい。だから、本当は追い込まれて選択しているだけの「防御コマンド」だとしても、「この選択が最良なんだ」って信じたい。だから、「一旦ダメージを50食らう」という選択肢はもう直視できない。
 そんな時にもし、一発逆転のコマンドが提示されたら? それがものすごくリスクが高い選択肢だとしても、ひょっとしたらリターンが0の選択肢だとしても、自分の心を守るための処置として、そこに賭けてしまうのは自然なことだ。
 そういう非合理はたぶん、人間のバグじゃない。人間の合理的な反応として、人間は非合理的な選択をしてしまう。


 癌の患者が、確立された医療を拒否して民間療法に走って死んでしまう。「科学的なリテラシーが足りないからだ」という。
 長時間労働の人が、上司の言いなりになって最後は過労死してしまう。「転職すればいいのに」という。
 お金がないのに、FXや仮想通貨に突っ込んで破産してしまう。「情弱なのは本人が悪い」という。
 DVの被害者が、その生活から逃れられない。「そんな人と結婚したのは自分だし離婚すればいいのに」という。


 「自己責任だからしょうがない。」
 その批判は、HPが100ある人が言えることだ。


 HPが10の人に、一発逆転のコマンドをちらつかせる人がいる。逆転の可能性がゼロの、にせものの「一発逆転のコマンド」を。
 それは善意の時もあれば、悪意の時もある。


 「ブログで稼ぐ時代」という煽りを信じた大学生が退学してプロブロガーになってしまうという話だって、「自己責任」と言ってしまえばそれまでだ。でも、大学生くらいって精神が安定していなかったりする。具体的で世間に正当に評価されるような何かを持っている大学生なんて少ない。自信がない中で「何者でもない自分」を受け入れれられずに、虚勢を張る学生なんて吐いて捨てるほどいる。これだって一種の、すごくありふれた「判断力がちょっと低下している状態」の一つじゃないか。
 そんな曖昧な心につけこんで「お前は何者かになれるよ」とささやく大人がいる。


 判断力の落ちている人がそうした情報にさらされることが、この世界にとっていいことだなんてとても思えない。でも現実にはそれを止める手立てがない。
 「成年後見制度」というものがある。知的障害、精神障害認知症などで判断能力が不十分な人の、法的な権利(財産にまつわる意思決定する権利など)を制約することで、その人を保護する制度だ。人間のセーフモードみたい。
 でも、ここで言うマイルドな判断能力の低下を保護するような制度はない。実際「どこからが判断力が低下してる」って線引き、できっこない。
 だけど、本当に、マイルドなセーフモードがあったらいいのになと思う。別に具体的な政策提言なんて出来ないけど、単に「マイルドなセーフモードがあってほしい」という願いを勝手に書いたっていいだろう。
 被害者を守れないなら、加害者を排除するしかない。善意からでも悪意からでも、無責任に「一発逆転のコマンド」を囁やけなくできればいい。だけどそれも、現実的には「何が害悪な囁きか」の線引きが難しい。


 今日は早く寝ようと思っていたのに、寝る間際にこんなことを書いているのは、さっき↓の記事を読んだからだった。
情報弱者の貧困層をバカにする人、搾取する人 | 文春オンライン

この原稿を書いている私自身も貧しい家庭で育ったのですが、母はいつもお金に困って精神的に追い込まれていました。母は96歳のオーナーが経営する理容室で17年勤めていますが、職場環境もかなり劣悪で、出勤しているにも関わらず給与をもらえない日がけっこうな頻度である状況です。週5でフルタイムで働いても月に数万円しか稼げませんし、誰がどう考えても転職した方がいい状態なので娘の私から何度も転職を薦めたのですが、「もう考えるのも疲れた。死にたい」「転職先を調べたり、新しい環境に慣れるまでが億劫だ」「転職するだけの気力がない」と言い続け、しまいには発言力のある人から「儲かるよ!」と勧誘され、マルチ商法に手を出した時期もありました。


 学生だった最後の数年、父と二人暮らしをしていた。父は以前の勤め先をリストラされてからしばらく色んな職に就いたりしたけど、最後は新聞配達とガソリンスタンドのバイトを掛け持ちしていた。僕もバイト代を家計に入れてはいた。今思うと父はかなり睡眠不足だったし、ぼーっとしていたし、酒量も増えていた。でも文句も言わずに働いてくれた。
 色々あって、最後の1年間は僕が家計管理していた。知らない間に父はカードとかから借りて多重債務者になっていた。家計のやりくりがきちんと出来ているとは言えない状態だった。きちんと管理して回るようにしたいと思って、当時の自分なりに必死でやり繰りした。それでも父が約束を破って買い物をしたりして苛立っていた。散在とは全然言えない、ささやかな買い物だった。今なら、今のHPが5000くらいある自分なら、そんなことで目くじら立てるなんて絶対にないようなことで苛立っていた。
 つらくて具体的には書けないけど、かなり父に怒ったりしてしまったことがある。本当に自分は馬鹿だった。


 後で別の人経由で知ったのは、父がスタンドのバイトで、若いバイトからつらく当たられていたらしいということだった。実際、睡眠不足の状態で、もともと要領がいいというタイプでもなかったから、仕事のできるバイトからすればそういう標的にされるのも、よくある話と言えばそれまでかもしれない。実はシフトを削られたりしていて、それを隠していつもの時間に外出していたらしいということも後で聞いた。そういうことを父は、当然だけど、僕には一言も言わなかった。仕事の愚痴を言うタイプの人ではなかったし、弱音を吐く人でもなかった。まして息子には言えない、というのは当然かもしれない。


 僕が就職して4年後、65歳で父は死んだ。一人暮らしのアパートですごく寒い冬の日に、たぶん体調不良の中で暖房代をケチって、薄い布団に眠ったまま死んでいた。僕が見たときにはもう警察に引き取られて空っぽの部屋だった。
 就職した後で、そのアパートの部屋で父に会った時、「あの頃はごめんね」と父に言われた。苦労させて悪かったという。その時はなんて返していいのか「いや、別に……」みたいなことしか言えなかった。本当に後悔している。「あの時のあなたは立派だった」「一人息子をあの状態できちんと卒業させたのは凄いことだった」「心の底からそのことに感謝しているし、それを詰るようなことを言った自分の方こそ完全に間違っていた」と、きちんと言わなかったのは、本当に、ひどいことだ。でも取返しがつかない。
 伝えるべきことは生きている今、きちんと伝えないといけないんだと、当たり前のことを父が死んでしまって心底理解したけれど、遅かった。


 上の文春の記事で筆者は、
「こうした焦りは、実際に貧しい生活を経験した人にしか分からないかもしれませんが」
と書いているが、本当にその通りだと思う。経験してみないとこの「おかしくなる」感じは分からないんじゃないかという気がする。たぶん、想像することはできるけれど、この「分かる」という感覚にまでは、経験してみないと難しいんじゃないかと思っている。
 しかもそれは、抜け出してみた時に初めて「あの時の自分はおかしかった」と気付くような種類の、真っ只中にいる時は本当にそれが「正しい」と信じてやってしまっているような、そんなおかしさだ。


 文春の記事は(記事の中では名指しされていないけれど文脈からすれば明らかに)イケダハヤトさんが、オンラインサロン等々で判断力が低下している人を煽ることで稼ぎを得ていることの正当な批判になっている。もし自分の身内がそういう目にさらされたら、「無責任に煽るんじゃない」と怒りを抱くのは当然だ。
 ただ、これは勝手な想像だけど、イケダハヤトさん自身もその「判断力が低下している」状態なんじゃないかと勝手に疑っている。全力で本人は否定するに決まっている。だけど、当時は完全に自分は合理的で頭がいいと信じてやってたことが、「抜け出してみて初めて『あの時の自分はおかしかった』と思う」という経験を実際にしてしまった自分にとって、その疑いは結構リアルなものだ。じりじりした焦りの中にいる人にとっては、ものすごく引いた客観視点で自分をきちんと見つめて、正当性や妥当性、合理性を判定することがすごく難しい。
 イケダハヤトさんのオンラインサロン等々が、外側から客観的に見て「搾取」そのものでしかないとしても、本人が悪意によって自覚的に仕掛けているか、というと案外そうじゃなかったりするのかもしれないと勝手に思ってる。それは民間療法を勧める医者とか、ブラック企業で部下を追い込む上司とかもそうかもしれない。しかも加害者の側も心が弱っているから、その悪事を自分で認められない。
 加害者と被害者の両方共がそういう渦の中にいる、しかもそれは、別に刑事事件でも何でもない、その両者ともをセーフモードに置かないといけないんだけど、そんな仕組みはない。そういう光景なんじゃないかと思っている。

映画のチケットを買い間違えることが増えた

 日付を間違えたり、館を間違えて映画のチケットを取って無駄にしてしまうことがちょくちょくある。ネットで事前購入できるようになってから便利になって嬉しい一方で時々失敗してしまう。月に7~10本くらい映画館で映画を見ているけれど、年に1、2回やってしまう。
 どうしてそんなことが起こってしまうのか、原因をきちんと書き出して間違えないようにしたいと真剣に思っている。

日付を間違える

 発券機でチケットを出そうとして画面に「発券できません」と表示される。驚いてスマホで購入確認メールを見ると前日のチケットだったと知る。この時はもう買い直す気力もなくて、そのまま家に帰った。
 あるいは席に座って上映開始を待っていると、他のお客さんが困惑した顔で「この席のはずですが」と言う。自分のチケットを見ると上映時間も席も正しいけど、日付が明日になっている。この時はほんとはダメだけど、どこか遠くの誰もいない席に移った。


 映画館のウェブサイトで、ページ上部に日付選択があって、最初は見る日をちゃんと選択しているんだけど、映画名をクリックして映画の情報を見てから元のページに戻ると、日付選択がクリアされて当日になっている。でも上映時間やスクリーン番号は同じだし、画面上には日付が出ていないので気付かない。日付はさっき選択したまま変わっていないと思っているから、そのまま購入を進めてしまう。その結果「見る日より前の日付のチケットを取ってしまう」という事故が起こる。


 それから3連休とかだと、この日にここでこれ見て、次の日はあっちでこれ見て……とかやってると、日付を間違えたりする。川崎で見ることが多いけど、川崎にはチネチッタ、TOHOシネマズ、109シネマズとシネコンが3つある。いっぱいタブを開きながら日付を変えつつ時間を見比べて「どうしよっかなー」とかやってて日付を間違える。


 ネットで買えるようになるまでは、いい席を取りたいなと思うとチケットカウンターに上映2時間くらい前に行っていた。当日にカウンターで買えば間違えようがない。ネット購入になってからいい席が早々に埋まっていくので前日や数日前に買うようになった。特に109シネマズの「プレミアムシート」という広くてリクライニングできるシートなんかは席数も少ないし、公開直後の人気の映画だったりするとどんどん埋まっていくので3、4日前にチケットを買ったりする。それで日付を間違えちゃう。

館を間違える

 錦糸町のTOHOシネマズはオリナス楽天地という歩いて10分くらいの2箇所に分かれている。楽天地シネマズがTOHOシネマズに買収されて去年リニューアルオープンしたからだけど、完全にオリナスだと思い込んでたら楽天地で、ダッシュで向かうという失敗をしたことがある。その日は自分の前にもダッシュしてる女性二人組がいたので、なんか仲間意識が芽生えた。
 普段行っている川崎でも、前に一度だけTOHOシネマズと思い込んでいたらチネチッタダッシュで向かったことがあった。
 あと岐阜で、TOHOシネマズ岐阜と、TOHOシネマズモレラ岐阜がある。この前のお正月に岐阜に帰って甥っ子と映画を見に行った時、モレラに到着した瞬間に(あっ、「モレラ岐阜」で買わなきゃ行けなかったんだ!)と気付いたけど、車で40分くらい離れているからもうリカバリーのしようがなかったから、2人分のチケットを無駄にしてしまった。
 これも当日にチケットカウンターで買っていた頃は起こりようのない失敗だった。


 そういうミスがあると結構ショックで、これが老化なのかなあみたいに思ったりするけど、しょうがない。一人の時はまだいいけど、誰かと一緒だと本当に申し訳なくてつらい。違和感を覚えたり自然に意識が向いたりするような瞬発力が失われて、思い込んだまま気付かない。ある種の省力化とも言える。「かもしれない運転」ができなくなって「だろう・はずだ運転」になってしまって事故を起こすのと似ている。経験則的な推定を適用して済ませてしまうことで、瞬発力の低下を本人の知らないうちに補ってしまうというのが、老人が自動車事故を起こすメカニズムだったりして、その軽い症状が起きてるんだろうか。映画のチケットくらいならいいけど、航空券とかだと大変なことになっちゃう……
 チケットカウンターで買えば日付の間違いも場所の間違いも防げるけど、みんながネットで買ってる今、自分だけ昔に戻すという選択は難しい(席埋まっちゃうし……)。だからこうやって、失敗するパターンを洗い出して類型化して、「こういう時は間違えやすい」と意識して、決済ページに移る前にもう一度「場所・日付・時刻」をチェックするのを習慣化するしかない。世の中の便利に適合するのに工夫や意識や努力を要するというのは、なんか老人の仲間入り感があってちょっと面白い。