やしお

ふつうの会社員の日記です。

M・ナイト・シャマラン 『ヴィレッジ』

 ここで私は必要のために『ヴィレッジ』のあらすじを書く、とあらかじめ断るのは『ヴィレッジ』を未見の人からの苦情への予防線である。あらすじを読んで物語の展開を前もって知っていたとしても『ヴィレッジ』の魅力はいささかも揺らぎはしない。ただ、未知の場合と既知の場合とではおのずと見え方が変わってくるはずであるから、あらかじめ予防線を張っておくのである。

 1897年のアメリカの四方を森に囲まれたある村が舞台である。森には怪物が住んでおり、村人が森へ立ち入らなければ怪物は村人に対して危害を加えないという<協定>が村人と怪物との間で結ばれており、村は外界と隔絶されている。村には<年長者>と呼ばれる評議会のようなものが存在する。ときおり怪物の存在を意識させられ恐怖しながらも、おおむねつつがなく村人たちは生活していた。


 青年ルシアス・ハントと盲目の少女アイヴィー・ウォーカーとの婚約を知り、アイヴィーを慕っていたノア・パーシーはルシアスをナイフで刺してしまう。その怪我がもとでルシアスは感染症にかかり重篤となるが、森の向こう側の<町>にある薬を手に入れれば助かるかもしれないという。アイヴィーは婚約者を助けるべく<年長者>や<年長者>の一員である父のタビサ・ウォーカーに森を抜ける許しを請う。
 そんな娘アイヴィーにタビサは怪物の正体が<年長者>であることを明かす。<年長者>を構成する人々はその親族を犯罪などで亡くした経験から、犯罪もなく金もない<無垢な世界>を築こうと結束してこの村をおこし、外界とのかかわりを絶つため怪物という装置を導入したのだと明らかにした上で、アイヴィーに村を出ることを許可する。
 森を抜ける途中、アイヴィーの前に怪物が現れ、彼女を襲う。<年長者>がアイヴィーを襲うはずもないためこの怪物の正体はアイヴィーにとって不明である。アイヴィーは森の中を逃げ惑いながら、ついに、怪物を殺す。怪物の正体は村から持ち去った怪物の衣装を身に着けたノアであったが、アイヴィーにとって怪物はその後も正体不明のままである。
 アイヴィーは森を抜け薬を手に入れて村に帰還する。

 このあらすじを書き、また読むにつけて物語は映画の全部ではあり得ないという当たり前のことをうんざりしながら思い知らされる。もっとも、この私の書いたあらすじが全然魅力的でないのは、映画の細部その他を切り捨てるというあらすじのそもそも持つ性質にのみ由来するわけではないのかもしれない。
 とまれかくまれ、上述の私のまずいあらすじによっても、『ヴィレッジ』では映画そのものについて語られているのだとわかるはずである。


 『ヴィレッジ』を見た私はたちまち大西巨人の「作中人物に対する名誉毀損罪は成立しない」(『大西巨人文選1 新生』所収。初出『国土』1948年3月・4月合併号)という文章に思い至った。

 おしなべて小説は、もしも人がそういう(本質的にはほとんど無意味な)分類を強いて試みるならば、「事実」か「事実と作り事との混合」か「想像」かのいずれかに、かりそめながら分類せられ得るはずであろう。しかも、いずれにせよ、元来あらゆる小説(語の本義における「小説」)は、必ず常に「仮構」であらねばならぬのであり、さてそれとともに必ず常に「真実(現実的)」であらねばならぬのである。作家は、一方において、自己の作品全体を「仮構」と断言し得ることによって、まさしく作家の名に値し、他方において、自己の作品全体を「真実(現実的)」と主張し得ることによって、たしかに作家の名に値する。
 言い換えれば、「仮構」の小乾坤における新たな「現実(真実)」の造営作業こそが、作家の根本的当為なのである。

 これと『ヴィレッジ』で語られていることとはまさしく彼此照応している。
 <仮構>であった怪物がアイヴィーにとって<真実>となることがそれであり、そして親切にも(?)ノアの死を知った<年長者>の一人に<ノアが作り話を現実にしてくれたのだ>という台詞まで言わせているのだから、シャマランが自覚的に『ヴィレッジ』の中で映画について語っているのは明らかである。
 シャマランは、ルシアスの眠るベッドの周りに<年長者>が集う中、一人が<ノアは我々にこの地を存続させる機会を与えたのだ……我々が望むのならば……>と言うのに呼応して椅子に座っていた他の<年長者>らが立ち上がる最後のシーンによって、映画作家であることへの決意を改めて適切に表明するのだし、DVDのメイキング映像によって19世紀の風俗の再現を追及する姿が明らかにされシャマランが<「仮構」の小乾坤における新たな「現実(真実)」の造営作業>を実践しているとわかるのである。
 そして、そういったことに気づかずに見たとしても『ヴィレッジ』が魅力的であることに感動するのだった。


<付言、あるいは蛇足>
 アイヴィーが森を抜けた場面で明かされるように『ヴィレッジ』内の年代が実は1897年ではなく現代にあるのだから村の中で19世紀の風俗が再現される必要は無い、といった反論(?)がなされたとしても、それは全然誤りである。<「仮構」の小乾坤における新たな「現実(真実)」の造営作業こそが、作家の根本的当為なのである>ということが『ヴィレッジ』で語られるのだから、作中で村が仮構のものだと強調した上で仮構の村の風俗が<真実>でなければならないのだし、そこに手抜かり(嘘)があってはまずいのである。そのことに意識的であるからこそ、シャマランは19世紀の風俗の再現にこだわったのだ。