やしお

ふつうの会社員の日記です。

1月に劇場で見た映画

 ネタバレを気にせず書いています。

1/6 ガス・ヴァン・サント『永遠の僕たち』

 第二次世界大戦で死んだ特攻隊員の霊(加瀬亮)から主人公の男の子(アメリカ人)が日本式お辞儀の仕方を教わるシーンがあります。「違う違う、腰から曲げるんだ」とかいって。
「もう握手でいいじゃん」
「西洋人は何でも力任せにやり過ぎる」
「いいさいいさ、お前らはずっとおじぎしてればいいんだ」
といったような会話があるわけですが、どうしても青山真治の『東京公園』に対する言い訳というか開き直りに聞こえて仕方がありませんでした。
 何げなく存在する幽霊と主人公が一緒に生活していること。全編に渡ってやたら音楽を使いまくっていること。公開が1年弱しか隔たっていないこと。たかだかそれくらいの共通点だけで似ていると断言はしないまでも、つい思い出しただけ。
 それで思い出してみると『東京公園』では三浦春馬小西真奈美がキスに至るまでに心理的というより物理的な距離と、それに見合った時間が問題にされたわけで、あの途方もない(と思わせる)距離を崩壊させてキスに至るあのサスペンスフルな時間を体験していると、本作で男の子と女の子がすーぐちゅっちゅちゅっちゅしてー! お前らー! と思わずにはいられません。
 そういうわけで『東京公園』の方が『永遠の僕たち』より大変なことをしているように思える訳ですが、それで『永遠の僕たち』が嫌いかというと別にそんなことはありません。
 主人公の男の子と女の子の顔がかわいいです。二人とも変なタイミングで感情が溢れるのもいいとおもいます。あといじめっ子たちが結局最後まで出てこない(二人を小屋に導く役割しか物語上果たさない)という頑張らなさもいいと思います。
 そして何より加瀬亮はいったいどうなってるんでしょうか。あの顔! どう考えても本作では主人公(ティーンエイジャー)と同年代か、せいぜいちょっとお兄さんくらいの立ち位置で、そして実際に顔もそう見える訳ですが、あれで実年齢は40手前というのはどういうカラクリなんでしょうか。全く分かりません。
 加瀬亮の顔と動きと声を聞くだけでも見た甲斐があったと言ってしまいそうな映画でした。

1/9 王兵『無言歌』

 所長から「耕す」という言葉を聞いた瞬間に呆然とするこの砂漠。
 技術的に、え、どうやって撮ったの、と思うのではなしに、実際にガチで撮ってるのは百も承知で、え、どうやって撮ったのと思わずにはいられない。
 分析と言ったものが無意味に思えるくらいもう、砂漠がすごい、空がすごい、穴がすごい、人がすごいと、あれが良かったこれが良かったと言うことしかできない。あの外から穴の中へカメラが入っていくところ、外へ出ていくところ、外のとんでもない広さと中の狭さの対比に目眩がします。
 と、こう、自分の理解を越えた何かに接した時に面白いと感じるのだとすると、それを語るのがいかに難しいのかということがよく分かります。

1/20 クレイグ・ギレスピーフライトナイト

 観てるときにうわーつまんない! たえられない! とは思いませんでしたが、もっとこうすればいいのになとあれこれ考えていました。たぶん才能の問題ではなくて、ちゃんと考える根性、あるいは誠実さの問題だと思います。作法と言ってもいいかもしれません。


・主人公の暮らす町の、うそっぽい空撮、あの四角く限られた区域を冒頭で目にしたとき実はとてもわくわくしました。これは、この閉じられた区域という制約を受け入れますよ、この空間の中で撮りきりますよ、という表明だと思ったからです。町の偽物っぽさも映画が作り物であることを受け入れるという表明かなと信じたのに! うらぎられた!
 だってあっさり主人公の家が爆破されて、みんなで町を脱出するんだ。ちょっと待ってよ。町も家の中もまだきちんと撮ってすらいないじゃん。がっかり。ヴァンパイアの自宅も2階から地下まであるのに、なんでああ位置関係がさっぱりなのかと、ちょうどヒッチコックの『汚名』を見た後なので余計にそう思えてしまうのはちょっとかわいそうなのかもしんない。


・主人公のオタ友Aが映画の冒頭でヴァンパイアに殺されます。その死を主人公と一緒に調査していたオタ友Bもまた殺されてしまいます。
 友人二人の死後、主人公が、自分とオタ友A、Bとが中学生のときに撮った自主制作映画(?)を見てしんみりしているシーンがあります。コスプレした3人がじゃれ合うみたいに戦っている映像です。
 映画の後半でオタ友Bがヴァンパイア化して再登場、主人公と対決することになるわけですが、ここでオタ友Aは出さないという選択は端的に間違っていると、これはもう私、怒っています! 出さないなら3人の自主制作映画の映像を提示してはいけない。それはもうルール違反なはずだと私は信じています。


・途中、ヴァンパイアをそれで倒せば全員復活という「聖なる杭」みたいな小道具を出して、その瞬間から誰かがどうなっても「まあ助かる可能性があるんだしね」と思わせてサスペンス性を消滅させるという暴挙に出ていました。そんな説明なしに、ヴァンパイアを復讐心で倒してみたらあら不思議、全員復活しちゃった、で構わないんじゃないかしら。だって都合良さのレベルではたいして変わりないしね。


・最終決戦でのヴァンパイアの倒し方、あんなのないよ。ヴァンパイアに自分の体を固定して距離をゼロにしてしまうなんて、アクションは距離だけが命なのに。事実、その後はくっついた二人がはねたりころがり回ったりしてるだけだ。これでいいと思ったのかと聞いてみたい。もしかしたらリアルな戦いとはアクションとはかけ離れたものなのだというシニカルな哲学が潜んでいるのかもしれないけど、別にそれを見たいとは思わない。


・戦いの後、主人公はヒロインと性交し、その際に肉体をさらすことになるわけですがなんだこのマッチョぜんぜんナードじゃねえじゃねえかだまされた!
 病院でヒロインに「あなたは特別」と言わせて主人公の有徴性を明示した時に危惧していた事態がやはり実現してしまった。普通の男の子がかないそうもない敵を倒すという物語で来たのに、普通の男の子じゃなくて特別な男の子だから勝てたんですよ、と最後に言ってしまうのはあんまりだ。


・そういうわけで、至る所でもっとこうしたらいいのに! と思うところはありながら、実際に見ているときに退屈で死にそうとまでは思わないのはきっと、サスペンスが解消したらただちにアクション、アクションが完了したらサスペンス、というセオリーを割とまじめに守っていたのも一端かもしれません。

1/27 オリヴァー・パーカー『ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬』

 無意味に椅子で上下するところが非常に面白かったです。

1/29 モンテ・ヘルマン『果てなき路』

 映画を撮る話だと知って、メタフィクションや、フィクションについて語るフィクションには少しうんざりしているんだ、と思っていたらとんでもない! まだまだこんなことが可能なんだ!
 現実に起こった事件のレベル、それをモデルにした作中映画のレベル、さらにそれを撮っているこの映画。ここで完全な包含関係を措定して、その枠組み、その強固さを逆手にとって叙述トリックをやってしまうのが一つ目のパターン。内側のフィクションの側が外側を侵していくのが二つ目のパターン。前者に比べて包含関係の絶対性を崩しているという点でよりラディカルだとしても、まだ内側が強かったという力関係は残している。しかし本作ではそういったヒエラルキーはもはや存在しない。お互いが、抑圧も反逆もせず、ただ関係してゆく。
 エンドロールの終わりあたりで「これは真実です」と書いてある。これは例えば、大西巨人の<作家は、一方において、自己の作品全体を「仮構」と断言し得ることによって、まさしく作家の名に値し、他方において、自己の作品全体を「真実(現実的)」と主張し得ることによって、たしかに作家の名に値する。>に通底しているんだろう。ここまでやってようやく、「これは真実だ」と断言し得るということなんだ。