やしお

ふつうの会社員の日記です。

落合正幸 『シャッター』

 ホラー映画ということになっているこの映画は、作り手の意図に反して恐怖も緊張も刺激も欠いている――有り体に言えば、つまらない。それでも見てしまった以上、その理由を考えてみることで多少なりとも有益たり得るだろう、という貧乏根性。

物語の充足

 この映画は、幽霊に付きまとわれる夫婦が幽霊の正体や動機を探るというミステリーの構造を持つ。そして夫婦は(というより妻は)ごく月並みなその正体なり動機なりを突き止める。しかしこの月並みさがこの映画をつまらなくしている、と語るのはいくらなんでも浅薄だ。この月並みさは、物語の形のために不可避なものなのだ。
 どうしてそれがそうあるのかという問題は、その解答が絶対的なものとして与えられたとき、その他の可能性を捨て去り豊かさを失う。ここでは幽霊の正体や動機を正解として示してしまうことがそれであり、他には例えば横山秀夫の『半落ち』で梶がひた隠しに隠した、妻を殺害した後の2日間の行動と理由を示してしまうことがそれである。
 『シャッター』よりはずっと月並みではなく、問題の追求者=語り手を次々と変えてみたり、問題の答えを一般的にあまり知られていない制度の上に置いてみたりといった工夫を凝らした『半落ち』であっても、あの退屈さから免れ得てはいない。中身の知れない箱にずっと、そしてじっと視線を向け続け、ついには律儀に中身を見せて解説する、という身振りの狭さが退屈なのだ。フランツ・カフカの『変身』で自らが虫になってしまった理由にザムザが一向に無頓着であり、松浦理恵子の『親指Pの修行時代』で右足の親指がペニスになってしまった理由を一美が問い続けたりはせず、萩尾望都の『残酷な神が支配する』でグレッグがなぜ自分を追い詰めるのかではなく、いかにそこから逃れるかをジェルミがもっぱら問題にするのは、その退屈さを知っているからである。箱の中身を知ろうとする振る舞いにではなく、そこに箱があることによって変わってゆく物事へ向き合う素振りの方に、よりダイナミックさがあるということである。
 とは言え、これは解答を与えることそのものを否定しているわけでは全くない。先に限りを与えた通り、解答が「絶対的なものとして」でなく提出されれば、側方にも上方にもズレる余地が残されるために、豊かさを失わずに済む。科学であればそれは、仮定・公理の主観性に担保されるだろうし、物語であればそれは、作中人物たちがある種の解答を得るかどうか、というのとは別のレヴェルで、物語が充足してはならないことを意味するだろう。

退屈さの回避方法

 物語の充足を回避し得る、とまでは断言しかねるものの、箱の中身の退屈ではなさそうな取り扱い方法を、思いつくままこの際いくつか列挙してみる。
・宙吊りにする=中身は見せない
 例えば先ほどあげた『変身』、『親指Pの修行時代』、『残酷な神が支配する』。
・箱が視線に入ると同時に中身を見せ、すみやかに視線を別に向ける
 ごくまっとうで自然な退屈の回避方法。
・実は中身が違っていた
 町田康の『告白』で自分の妻を聖人と思い込んでいたのが実は違っていた、というような。
・最初から中身を見せておく
 例えば『刑事コロンボ』とか『古畑任三郎』のように犯人をあらかじめ明かすことがそうかもしれない。しかし、箱を何と見做すかの問題に過ぎない。


 こういったことを整理してゆけばすっきりとした記述の仕方が立ち現れて、さらにそこから何か見えてくるところもあるかもしれない。それは、弛緩した類型化よりはずっと楽しみのあることと思われるけれども、ここでは止しておいて、他に3つばかり注釈を書き加えることにする。

ズレがついに相対的な問題であること

 たとえば量子力学を知っている者にとって古典力学は刺激的ではないかもしれないが、古典力学を知らない者にとっては刺激的であり得る。そういう意味で、『シャッター』を面白く感じる者もいるはずである。それはそれとして有益なことである。というのも、どちらがよりラディカルにズレているかという問題は、どの位置にいても・誰にとっても常に問題となる以上、他人事ではあり得ない。誰かがズレに面白さを感ずることを、そのズレが自分にとって既にズレとして機能しないという理由から否定することは、所詮「目糞、鼻屎を笑う」の態でしかあり得まい。
 しかしそれと峻別されることとして、「そのズレが自分にとって既にズレとして機能しない」こと・既により高度なズレが存在することの指摘は可能である。

ズレ=面白さの淵源?

 なぜズレに面白さを感ずるのかという問いに対しては、脂ものを食べることに快楽を得るのと同じような意味で、それが生命にとって本源的に必要だから・情報のポテンシャルのない、絶対零度のような状態では生命が成り立たないから、と答えることになるのかもしれない。そしてなぜズレ続けなければならないのかという問いには、生物が絶対値ではなく相対値というか、コントラストしか認識できないから、と答えることになるのかもしれない。

ズレ⊇物語上のズレ

 ところで、ここでは専ら物語上のズレについてのみ語ってきたが、もちろん映画も小説も漫画も物語のみからできているわけではない以上、必ずしも物語の上でズレなければいけないというわけでもない。(ここまで物語についてしか語ってこなかったのは、映画の語り口とか映画に固有の技術とかに書き手がまだあまり意識的でないから、という理由による。)
 物語は紋切り型であっても構わない。とはいえその意識的なズレのなさがかえって批評性を帯びることもある。例えばフローベールの『ボヴァリー夫人』でボヴァリー夫人(一人目)が物語上かなりの都合の良さで突然死する際に、地の文でその死について「見るともう死んでいる! なんという驚き!」と意識的に語らせることが挙げられる。それを見ると、噴出しながら思わず、驚かされるのはこっちの方だ、都合よく殺しておいて! とツッコんでしまう。

アキユク

 と、これまで『シャッター』自体を置き去りにして語ったのはもちろん、何か語らせずにはおかない魅力を今の書き手がこの映画から感得し得ないためであって、最後にひとつ書き添えておくと、作中に使われた「おもちゃのチャチャチャ」の作詞者をエンドロールで"Akiyuk Nosaka"と書き間違えているのでさらにダメー。