やしお

ふつうの会社員の日記です。

蓮實重彦『随想』

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/7639121

スタイル(例えば日付の明示や一人称の選択)への自覚、ついにフィクションでしかあり得ないことへの自覚は当然されている訳だけど、何もそれを後書きで改めてバラす必要は無いんじゃないのかなとかすかに思う。いろいろ面白かったけれど、磯崎憲一郎の『終の住処』について触れられているのは、なんていうかラッキーだった。「説話行為と物語内容があからさまに齟齬を生産しているが故に歴史とかろうじて触れあっている『終の住処』」。そして「齟齬」を全然生産しないサイボーグ川口松太郎も掬ってあげる懐の深さ。

 ちなみに『終の住処』について語られているところで、一般的な話として下のようなことが書かれてあってなるほどねと思ったので引用。

「語ること」と「語られているもの」とが大きな齟齬をきたさぬかぎり、「レアリスム」の物語は時代を超えて広く受け入れられるのであり、そのとき物語は非歴史的な世界に漂い出し、観念的な消費の対象としていつでも要約を受け入れる。
 近代小説とは、この消費の構造を支える「レアリスム」にさからう言説としてみずからを支えるあやうげな言説でしかないのだが、そのあやうさの中にかろうじて歴史が露呈される。
(p.167-168)

 この「齟齬」について具体的に『終の住処』のどこに現れているかも(当然といえば当然だけど)きっちり語ってあるのでなんちゅうか、ありがたいねえ。

随想

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