やしお

ふつうの会社員の日記です。

社会通念の年齢には粘り気がある

 このあいだクローズアップ現代の高齢者の恋愛・結婚の特集を見た。20歳以上年下の相手を探して結婚相談所に登録しているという60代の男性が何人か紹介されていた。実際に歳をとっても想像していたより精神的・肉体的に若いのだから、ちょうど自分にとって似つかわしい相手はそれくらい年下だという実感のようだった。また自分の子供を生ませたいという欲求も語られていた。
 私自身の実感(今29歳だけど32歳くらいのつもりで生きている)からは逆なので、一瞬意外に思ったけれど、しばらく考えて理解できるような気がした。これはちょうど、今の若者は昔より幼い、と言われることと地続きなのかもしれないと思った。


 平均寿命も延びて健康でいられる平均年齢も延びる。定年も55歳から60歳へ、さらに65歳へと延びる。そうなってこれば、若年層が「下っぱ」扱いされる年齢も引き上がる。学生から社会人へと移る年齢も上がった。30歳というとまだ「若者」という感覚になってきた。
 そうして従来の精神年齢に対して実年齢が社会全体で引き上がる。その現実的な変動に対して、社会通念側の変化速度が遅い(粘度をある程度持っている)ので、ここに実態と通念の齟齬が生じてくる。それが「最近の若者は年齢のわりに幼い」という非難であったり、「年甲斐もなく結婚願望なんてもって」という非難であったりする。または実際にはそれが現代での年齢相応なのに、「自分は年齢のわりにまだ若い」という自負をもって「だから若い相手がふさわしい」と社会通念に引っ張られる。
(全く余談だけど今、中上健次の「鳳仙花」を読んでいて、戦前の和歌山で15歳の少女が20歳ちょっとの夫をもって25歳までで5人の子供を生んで夫が死んで1人で育てているところなので、ますますギャップを感じる。)


 ところで番組には、経済的な安心のために結婚相手を探していると語っている女性も紹介されていた。(しかし番組全体で高齢女性側の扱いは少なかった。)ひょっとしたら女性の方が肉体的な変化がより厳然と存在する(生理が止まる、とか)といった条件があって、社会通念の年齢に引きずられにくい、言い換えればよりリアリスティックであり得るといったことがあるんだろうか。
 あるいはそもそも、社会構造として女性へのアンフェアが浸透していた環境から、よりシビアな認識を持たざるを得なかったというのもあるかもしれない。この女性へのアンフェア、この前上野千鶴子と小倉千賀子の対談を読んでいたときに、これ、男性でいるということが実感する機会を隠蔽するせいで、あたかも社会に女性に対する抑圧が存在しないように錯覚している、「そんなものはない」と本気で勘違いするか、「まあそういうこともあるかもね(自分は加担してないけど)」と無関心なまま生きている男が大多数なんだと思った。こうした「自分が加担する側だったのか」「自分ではフェアなつもりでまるでフェアじゃなかった」という驚きと恥ずかしさを目の当たりにして書いたのが↓
  インターネットの人を勝手に男だと思う制度 - やしお


 放送の冒頭で、エリザベス・テーラー斎藤茂吉の写真を出して20歳以上年下と恋愛/結婚した、今それが普通になりつつあるかもといった話をしていたがかなりの違和感を覚える。今20歳以上年下との恋愛/結婚願望が(男性を中心に)広がっているのが、実年齢−社会的役割のリンクがスライドしているのに対して社会通念が追い付かない齟齬から来ているという視点からすると、かつての「好きになってしまったのが20歳以上年下だった」とか「もともと年下好きだった」とかの個別具体的な事例と比較しても、せいぜい外形的に似ているだけで「同じ」ではまるであり得ないんじゃないかという感じ。


 自分自身のことで言うと、父親が64歳で死んだのだから自分もそれくらいで死んで当然だという(やや非合理的な)感覚がつきまとっているせいで、実年齢−社会的役割のスライドを許さないような頭打ちがあるのかもしれない。